著者
中村 美香子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

【はじめに】「和美・西公園仮設団地自治会」での活動等を具体的に紹介する。児童公園敷地内の和美仮設団地(16世帯)と隣接する西公園仮設団地(20世帯)は、宮古市中心市街地に立地しており、買い物や通院等において他の仮設団地よりも利便性が極めて高い。入居者の平均年齢は約45歳で、他の仮設に比べて「若い世代」が多い。また、5名を除いて「市街地海寄りでの被災者」が入居しており、以前の自宅と仮設住宅との道のりは1㎞前後と短い。【入居からの出来事等】2011年7月19日から入居開始。当初、小規模仮設団地のためか支援があまり入らず、誰が入居しているのか分からない状態。2011年10月初旬、談話室に支援員配置。利用は常に2名のみ。支援員ごとに他仮設団地の談話室等と対応が異なる。この頃、団地内では挨拶がない。話し相手もいないので漠然と不安を感じた。入居者が依然分からず、救急車に傷病者宅を案内できず。2011年10月後半、この状況の改善のために、中村が仮設住宅全戸への物資配布時に世帯人数等を住民から聞き取り(任意)。2011年12月後半、宮古社会福祉協議会・宮古市役所生活課同席で住民集会。2つの仮設団地合同での自治会の設立を決定。2012年2月、「和見・西公園仮設住宅自治会」が正式に発足。住民間の交流を円滑にするために、①ボランティア訪問等のイベントに極力参加するだけでなく、近所に声掛けや、②平時にも挨拶と声掛けを積極的に行い、③集まる人が増えてきたらフルネームを覚えるように何度も名前を呼ぶ等を実施した。2012年3月、ひな祭り会(ふんばろう東日本主催)、雛人形作り・ひな祭り会(ボランティア団体・ほっとほっと主催)。2012年4月、お花見会(新和会(宮古市山口病院)主催)、懇親会(自治会主催 第1回、夕食会)。2012年5月、懇親会(自治会主催 第2回、夕食会)。2012年6月、バス遠足(新和会主催、遠野市ふるさと村、参加10名)、懇親会(住民有志主催、30~40代5世帯参加)。2012年7月、懇親会(住民有志主催、30~40代5世帯参加)、トリックマスターSoraショー&懇親会 (自治会主催、夕食会)。2012年8月、流しそうめん会(自治会主催、たこ焼き+かき氷+おでん、ハンドベル演奏、3.11教会ネットワーク協賛)、盆踊り(町内会主催、たこ焼き+ポップコーン)。2012年10月、敬老会(町内会主催、70歳以上無料招待)、栗拾い(新和会主催)&昼食会(自治会主催、住民手作り)。2012年12月、忘年会(自治会主催、新和会を招待、住民手作り)。2013 年1月、「修学」旅行(名古屋等からのボランティアに再会)。※2012年4月以降 週の半分は談話室で材料を持ち寄り昼食会(60~80代男女12人前後参加、300円~500円程会費を徴収)。【考察】36世帯の小規模仮設団地でボランティアやイベントが少ないことが逆に自分達で企画を立てるきっかけになる。自治会活動等の経験がない主婦が代表になり、慣例にとらわれない活動を展開した。仮設住宅の住民及び地域の既存自治会が積極的に協力。ボランティアや役所関係、地域の方々等の話を聞き、自分達のことを伝える。問題点として、①人間関係の悪化、②一部住民の駐車場の専有化、③居住実態がない入居者、④交流を円滑に促進する者ほど疲労が蓄積、⑤体力の低下、⑥住民の行動が常に分かる状況等が挙げられる。今後、①プライバシーの確保、②住民間で適度な距離感の確保、③高齢者の見守り、④離れて暮らす家族との連絡方法の確認、⑤連絡先交換、⑥談話室利用のルール作り、⑦警報時等のマニュアル作りと避難マップ作成等に取り組みたい。付記 本発表は、公益財団法人 トヨタ財団 「2012年度研究助成プログラム東日本大震災対応『特定課題』政策提言助成」の対象プロジェクト(D12-EA-1017, 代表岩船昌起)の助成で実施した。
著者
米地 文夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.71, 2008

宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」と「インドラの網」との二編の童話に天の野原に行った夢の場面を描いた。 前者はジョバンニが夢の中で銀河鉄道に乗って天の野原を旅し, 後者では「私」はツェラ高原から天の空間にまぎれ込む。 ツェラ高原についてはチベットやパミールの高原を基にした架空の地といわれてきたが, 演者はその地形や湖の描写がヘディンの『トランスヒマラヤ』の中のチベット北部, 現阿里地区北東の塩湖の記載と類似点が多いことを見いだした。 ただし植生は詩「早池峰山巓」とその先駆形の山頂の描写と共通したコケモモや灰色の苔や草穂の原などがあり,「インドラの網」の天の野原は早池峰山頂緩斜面の記憶にチベット北部の塩湖を銀河として重ねたのである。なお,チベットにはツェラ(頂きの峠~山道の意味)という地名が複数存在し,音に則拉や孜拉という漢字を当てている。 一方,「銀河鉄道の夜」の沿線の記述は一見,多様であるが,演者はこれを景観から二分することにより,そのモデルを絞り込んだ。すなわち, 岩手軽便鉄道(現JR釜石線)をモデルとする東西線と,東北本線(現JR在来線)のイメージを持つ南北線とである。 東西線は最も初期に書かれた第一次稿の前半部(演者の0次稿)に当たり,地形に大きな起伏がある。車窓のコロラド高原に擬した高原にはトウモロコシ畑があり,白い鳥の羽根を頭につけ弓を持つインディアンが登場する。当時,種山ヶ原に飼料用のトウモロコシ畑もあり(詩「軍馬補充部主事」),また詩「種山と種山ヶ原」に「じつにわたくしはけさコロラドの高原の/白羽を装ふ原始の射手のやうに/検土杖や図板をもって…」とあるので,インディアンは賢治自身の投影,高原は種山ヶ原である。高原から列車は激しく揺れつつ下るのも,同日付の詩「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」(異稿に銀河軽便鉄道の名あり)の猿ヶ石川の谷を下る際の描写と同じである。 南北線部分の地形はほとんど平坦で,三角標や十字架が星と星座を示している。これは,東西線では,インディアン,いるか,鶴など星座名にちなむ人や動物が登場しているのとは対照的である。南北線沿線にはススキやリンドウなど岩手の二次草原の植生がみられる。ジョバンニには,カムパネルラの捜索現場の河原で「川はゞ一ぱい銀河が巨きく写ってまるで水のないそのまゝのそらのやうに見え」たとある。この河原は花巻の北上川の旧瀬川合流点の州をモデルにしており,したがって南北線は北上川をモデルとした銀河に沿って走り,そらの野原は北上低地をモデルとしたことになる。「プリオシン海岸」の挿話は北上河畔のイギリス海岸がモデルであるから,本来は岩手軽便鉄道に近いが,北上川に沿うため南北線に移して組み込まれている。 このように宮沢賢治の描く銀河に沿う景観は,実際に観察している岩手の景観に,本や映画で知った海外のイメージを重ね,さらにそれを天上の景観の幻想を重ねるという,三重の幻想空間構造になっているのである。したがって宮沢賢治の銀河沿岸の│景観描写のモデルは表のようになる。
著者
池田 敦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.122, 2010 (Released:2010-06-10)

本稿では岩石氷河の起源について,混乱しがちな議論を整理し,その形成モデルおよびその地形が示唆する環境について考察する. 現在の基本認識 岩石氷河は寒冷環境下の傾斜地に発達する角礫層に覆われた舌状地形であり,その長さは数十mから数km,厚さは数十mである.その舌状形態と,ときに表面に発達する皺状の微地形が,粘着性をもった流動による地形形成を暗示する.実際に多くの岩石氷河で年間数cm~数mの地表面流速が観測され,その流速は岩石氷河内の氷の変形によることが確実視されている. しかし岩石氷河の形成モデルを巡っては大きな見解の対立がある.一つは,氷河上ティルが非常に厚くなり消耗が極端に抑制された結果,涵養域/消耗域比がごく小さくとも質量収支が成り立つ氷河(もしくはその遺物)と岩石氷河を捉える氷河説であり,もう一つは,永久凍土環境下において崖錐や氷河堆積物内で凍った水と落石等に被覆された残雪に起源をもつ集塊氷の変形によって形成されるという永久凍土説である. 研究の進展の結果,完新世に氷河と隣接した形跡がない岩石氷河(図中D)については永久凍土説が広く適用されているが,上流側に氷河(あるいは完新世のモレーン)を有する岩石氷河については,いまだ研究者間でその成因についての認識が大きく異なっている. 議論が混乱している理由 岩石氷河内の氷体が氷河に由来することと,岩石氷河が氷河のシステム(涵養域と消耗域の収支を平衡させる流動システム)に則っているかどうかは,分けて考えるべきだが,氷河説の支持者は前者を(多くは断片的に)確認しただけで後者を念頭にモデルを提示している. また,岩石氷河とその上流側に存在する氷河との間には,地形的なギャップがない場合(図中A)とある場合(図中B,C)があるが,これまでのレビューや討論では,それらの違いを区別した議論がなされていなかった. 論争解決のための分類 (1)氷の主な起源,(2)流動システム,(3)上流側の氷河の有無をもとに,岩石氷河を4タイプに分類した.(1)氷河起源で(2)氷河システムの氷河型岩石氷河(A),(1)氷河起源で(2)非氷河システムの堆石型岩石氷河(B),(1)非氷河起源で(2)非氷河システムかつ(3)氷河が非干渉の崖錐型岩石氷河(D)ならびに(3)氷河が干渉(間欠的に被覆)する氷河被覆型岩石氷河(C)である. この分類に基づくと,Aは涵養量が少なく,涵養域での岩屑/氷比が相対的に大きく,さらに消耗量が極端に少ない寒冷氷河の存在を,Bは氷核モレーン中の氷が岩石氷河を発達させえるだけ長期間保存される環境(永久凍土環境)を,CとDは永久凍土環境を示すと考えられる.Cに関しては上流側の温暖氷河(涵養大・消耗大)の前進が岩屑供給と永久凍土の部分融解を引き起こしている. このうちAとBに関しては,内部構造や内部変形に関する実証的な研究がほとんどなく,その点で上の記述は推論の域を抜けていない.今後の研究の進展が望まれる.
著者
上杉 和央 浜井 和史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.74, 2005

1.「墓標の島」 戦後,沖縄は「墓標の島」と例えられることがあった。「墓標」もさることながら,20万人とも推計される沖縄戦戦没者の慰霊碑が各地に建立された状況に由来するこの比喩は,戦後沖縄を象徴する1つの「モニュメント」である。2005年は戦後60年目にあたるが,この期間における沖縄の歴史地理を見る際,「墓標の島」への着目,言い換えるならば,遺骨の収集から納骨,納骨堂や慰霊碑の建立,慰霊祭の挙行といった「戦没者」(過去)に対する「生(存)者」(現在)の営みやその変容過程に対する着目は,ひとつの有益な立脚点となる。 しかし,この視角を支える沖縄戦戦没者の慰霊碑・慰霊祭に関する研究自体が,これまで決定的に欠けていた。基礎的研究すらないのが実情である。そこで,本発表では,戦後沖縄の慰霊碑・慰霊祭の多様性や変遷についての基礎的報告を行いたい。現地調査は2002年12月から2005年6月までに6回,沖縄本島で行っている。2.慰霊碑の建立時期と建立主体 沖縄県は1995年に慰霊碑一覧を掲載した書物を作成した(沖縄県生活福祉部援護課,1995)。そこには約350基の慰霊碑が計上されている(表1)。しかし,そこに記載されていない慰霊碑も数多く存在しているか,もしくは存在したことが,現地調査により明らかとなっている。また2002年建立の「慰霊之碑」(読谷村古堅区)など,95年以降に建立されたものもある。 建立主体は,国(日・米・韓),琉球政府,都道府県,市町村といった行政組織のほか,同窓会などの社会組織,退役軍人組織,遺族会などがある。なかでも,もっとも多くの慰霊碑を建立しているのは,市町村下の自治会組織であり,50年代を中心に建立が進んだ。また,「本土」の都道府県や遺族会が積極的に慰霊碑を建立したのは,60年代である。3.激戦地の慰霊空間 _-_慰霊碑・慰霊祭の地域差_-_ 沖縄本島のなかで,もっとも戦没者を出した地域は現糸満市周辺である。この地域では,「納骨堂」の機能を有した慰霊碑が作られ,戦没者の遺骨が納められた。その多くは無名戦没者であった。60年代以降,識名の中央納骨所(1957年),そして摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑(1979年)への転骨が進み,「納骨堂」としての役割を終え,撤去された。慰霊祭もその時点で終了した場所が多い。現在,沖縄県下でもっとも慰霊碑数の多い糸満市域において,各自治会組織による慰霊祭は,意外に行われていない。激戦地の慰霊(追悼)は,沖縄県によって国の要人を来賓に迎えて挙行されるのである(沖縄全戦没者追悼式)。 一方,沖縄戦において,主戦場とならなかった地域では,遺骨の存在といった物理的な意味ではなく,精神的理由で慰霊空間が形成されたため,慰霊碑の建立には地域の中の「適切」な場所が選定された。転骨を理由とした慰霊碑の撤去はなく,道路整備やより「適切」な場所への指向により,慰霊碑(慰霊空間)が移された。4.「慰霊」祭の変容 慰霊祭という名称は,政府機関では(周到に)用いられない。ただ,県内の市区町村,自治会組織といったレベル,また社会組織などにおいては,ごく自然に用いられている。ただし,「33年忌」を期に,沖縄本島北部地域のなかには,「慰霊」祭から「平和祈願祭」へと名称を変更させた例もある。 慰霊祭の内容で,大きな変化としては,90年代以降顕著となった「平和学習」との関わりが挙げられる。慰霊祭参加者の高齢化と少数化に伴い,いくつかの自治会組織では,小中学校や子供会活動と連携し,地域の歴史を後世に伝えることを目指している。このような動きは,一方で戦争を「歴史化」することにもつながっている。 また,慰霊碑が建立されている地域住民とのつながりが希薄で,組織構成員自体の高齢化に悩む同窓会や退役軍人会といった組織では,将来的な慰霊祭開催や慰霊碑管理についての不安が顕在化している。実際,60年を節目として,慰霊祭が終焉した慰霊碑もある。文献:沖縄県生活福祉部援護課(1995),『沖縄の慰霊塔・碑』沖縄県生活福祉部援護課
著者
近藤 祐磨
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

Ⅰ 問題の所在と研究目的<br> 昨今の環境保全運動の高まりとともに,環境保全運動を対象とした研究もさまざまな学問領域で蓄積されつつある.しかし,社会化された自然という観点からの研究は少ない.環境保全研究における地理学の独自性は,英語圏で展開されていて社会化された自然を主題とする「自然の地理学」研究から示唆を得ることができる.そこで,本研究は,福岡県糸島市における2つの海岸林保全運動を事例として,海岸林がいかにして「保全すべきもの」として見出されたのか,保全運動がいかなる主体間関係の構築によって展開されたのかを明らかにする.<br>Ⅱ 深江の浜における海岸林保全運動<br> 糸島市二丈深江地区では,「深江の浜」を保全対象とする「深江の自然と環境を守る会」が2011年4月に発足し,地域住民を主体とした保全運動が実践されている.<br> 保全運動は,行政が始めた地域活動への人的・財政的支援制度が契機で始まった.2012年5月には,市民・企業・行政が連携した大規模な環境美化活動の一環として,市との共催で活動が実施され,校区内の小中学校や事業所が活動に積極的に参加するようになったり,活動内容も増えたりと,運動が拡大した.校区内のさまざまな主体が次々と加わって,地域的な社会運動に発展しているといえる.<br> 同団体は海岸林を郷土の誇りであり,防風・防砂機能を果たすものだと意味づけており,校区住民の世代間交流を図りながら保全運動を行うことを目指している.<br>Ⅲ 幣の浜における海岸林保全運動<br> 糸島市志摩芥屋地区では,市を象徴する海岸林「幣の浜」を保全対象とする「里浜つなぎ隊」が2013年2月に結成され,移住者や外部者を主体とした保全運動が実践されている.<br> 保全運動は,福島第一原発事故で東京から移住した元新聞記者の女性が,2012年秋のマツ枯れ被害に衝撃を受けたことが契機で始まった.女性は,相談相手であった近隣の移住者(大学教員)の仲介と,公私にわたる交友関係を生かして,研究者や専門家,政治家・市職員との人的ネットワークを急速に拡大させ,大規模な運動を展開している.<br> 活動には,計画中も含めて,①市民参加型のイベントを主催して広く参加を募るものと,②既存の海岸林保全策とは異なる方法を提示するものがある.①は,マツ枯れの拡大を防ぐための枝拾い活動,②は,環境系NPO法人から影響を受けて,マツ枯れの主たる原因をめぐる論争(森林病害虫説と大気汚染説)のうち大気汚染説に立脚した,土壌の酸性化を中和させるための炭撒き活動である.<br> 同団体は,国によるマツ枯れ防止の薬剤散布を絶対視する地元住民の風潮と,薬剤の子どもに対する健康上の影響に疑念を抱いている.同団体は空間一帯を新しいコモンズのモデルを創出する場と意味づけており,薬剤散布によらない市民主導の海岸林保全と,マツ林にこだわらない新たな海岸の創成を目指している.しかし,市を象徴する白砂青松の復活を目指すメディアや民間企業から,マツ林復活に取り組む団体と誤解されている節がある.<br>Ⅳ 主体による認識と実践の多様性<br> 本研究から,海岸林保全運動において,対象となる環境への社会的な意味づけが,同じ環境を共有する地域内でも主体によって多様であることが判明した.また,保全運動が起きている複数の事例間でも内部の様相は異なるため,特定地域内部における意味づけの多様性と地域ごとの特殊性が,環境保全運動をめぐる状況をきわめて複雑なものにしている.海岸林保全運動の契機・主体・意味づけのいずれもが多様で複雑である.<br> しかし,本研究ですべての主体の意味づけが具体的に明らかになったわけではない.とくに保全運動の中核を担っていない一般住民による意味づけの量的な研究や,玄界灘地域全体での海岸林保全運動がリージョナルにどのような影響を与えているのかについての研究が今後の課題である.
著者
伊藤 智章
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

タブレット型携帯情報端末で動作するアプリケーションソフトを利用して、地図を共有するシステムを考案した。現在、導入が検討されている「デジタル教科書」の多くが、授業者主導の教材作成ができない状態になっている中で、タブレット端末を使った「デジタル地図帳」は、GISを援用して、誰でも自由に教材を作成、共有できるのが特徴である。 今回は、Apple社の「iPad2」を用いた。利用したソフトは、「GoogleEarth」と、地図アプリ「ちずぶらり」である。教室での利用と、野外調査での利用を想定して、実証実験を行った。 「Google Earth」は、パソコン用の各種GISソフトとの親和性が高いので、授業者が作った主題図や、インターネット上で調達した各種データを生徒の手元で簡単に提示することが可能である。ただし、回線速度や動作の安定性に課題があるため、野外巡検での利用には課題が残る。 「ちずぶらり」は、地図を画像データとしてとして扱い、位置情報の付与や写真の埋込みはパソコンからクラウド経由で行う。地形図はもとより、位置情報を持たない古地図や観光案内図、ハザードマップなどをタブレットで持ち運ぶことができる。また、インターネットに繋がらなくても閲覧や現在地表示が可能なので、野外調査実習の教材としての実用性が高い。ただ、位置情報を持っているGISデータも、画像として取り込んで位置合わせをし直さなければならないこと、アプリ更新の承認等の手続きが必要なため、地図の登録から閲覧開始までのタイムラグが長いこと、地域および更新者を限定しているので一般の教員が手軽に利用する環境にないこと等である。 地理教育は、「セルフメイドの地図帳」を手に入れようとしている。明らかになった課題を基に改善を行い、現場主導のデジタル教材開発を充実させていきたい。
著者
石毛 一郎 後藤 泰彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2021, 2021

著者らは要旨集を提出したものの大会を欠席したため,本要旨を撤回いたします.
著者
目黒 潮
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.61, 2005

1.はじめに茨城県東茨城郡大洗町(以下,大洗町)は水産加工業が多く立地する地域であるが,近年の小売価格の変遷に伴う賃金の低下によって労働力不足がすすんでいる.このため労働者の確保が困難になった各水産加工会社は,雇用対策として外国人労働者を雇うようになった.その結果,経営難のため倒産する企業が増える一方,大洗町の水産加工業の従業員数は増加傾向にある.2.大洗町の外国人労働者とその国籍および就業職種大洗町の外国人登録者数は1980年以降,急激な増加を示している.2004年1月現在の外国人登録者数は,大洗町の日本人数19,623人に対し,904人であり,国籍別に外国人登録者数を見ると,インドネシア人(444人),中国人(133人),フィリピン人(132人),タイ人(57人),ブラジル人(33人)の順に多い.特にインドネシア人は,北スラウェシ州の出身者であるミナハサ族がほとんどを占めるという点で特徴的である.彼らの流入期は,大きく三つに分けることができる. 第1期: 不法就労者の流入(1980年 ? )1980年代後期,大洗町の水産加工業に就労していた在留外国人はイラン人が中心であったが,1990年代半ばになると,タイ人,フィリピン人の不法滞在者が増加した.しかし1996年になると,各水産加工会社が不法就労助長罪で送検されるようになり,それ以降,不法就労者は減少した. また,1980年代頃から,ある日本人船員と結婚していた北スラウェシ州ビトゥンの女性が,インドネシア人の家族を大洗町の各水産加工会社に紹介していたため,インドネシア人の不法就労者の流入も始まっていた.インドネシア人はその後徐々に増加し,同郷会や教会などのコミュニティを形成するようになった.これらの名簿から延べ人数を推計すると,最多時の2001年当事にはインドネシア人だけで1000人以上が大洗町に居住していたと推定される. 第2期: 日系人の流入(1991年 ? ) 1991年以降,一部の水産加工会社は改正施行された入管法の影響を受け,当事急増していた南米日系人の雇用も行っていた.しかし,南米日系人は業務請負会社を経由して就労するため、高額のマージンが取られるという結果をもたらした.その後,ある水産加工会社の関係者が,インドネシアの北スラウェシ州に日系人が多く居住するという情報を得て,各企業の要請に応じて彼ら紹介することで,雇用の合法化を試みた.1998年から2005年までに,北スラウェシ出身の日系人約180人が,大洗町の企業約20社に就労している.彼らの多くは,周辺の他産業に従事するようになった不法滞在者とも交流を持っている場合が多い. 第3期: 中国人研修生の流入(2003 年? ) 1991年に改正施行された外国人労働者の研修・技能実習制度は,海外への技術移転と同時に,二本の中小企業の雇用対策という,二つの側面を持つ.大洗町では同制度の拡大に応じて,2003年から本格的に中国人研修生を導入するようになった.研修生は二つの団体を経由して受け入れられ,18社に入っている.今後,大洗町では他地域の製造業と同様,徐々に研修生・技能実習生を増加させていく可能性が示唆される.ただしインドネシア人については,不法就労者雇用の経歴を持つ大洗町の水産加工会社に対して研修期間の許可が下りず,難航している.3.大洗町におけるインドネシア人の就業とコミュニティ 不法就労者,日系人,研修生・技能実習生という3つのタイプの外国人労働者の中で最大数を示すインドネシア人は,以下のようなエスニック・コミュニティを形成した. 教会:宗教行事や生活支援,指導などを行う. ● インドネシア福音超教派教会(G_(企)_J) ● 日本福音キリスト教会(GMIM) ● インドネシア・フルゴスペル教団(GISI) ● カソリック 同郷会:仲間同士の相談を行い,葬祭時の費用を出す. ● Langoan● Kawangkoan ● Kiawa● Karegesan ● Tomohon● Sonder ● Sumonder● Tondono ● Tumpa Lembean 大洗町の行政当局は不法就労者の増加を恐れ,外国人に対する支援策が十分ではない。そのためこれらのコミュニティが彼らの生活に関して指導的な役割を担っているだけでなく,大洗町の水産加工会社と提携してインドネシア人労働者の指導に関わるようになってきている. 本研究でとりあげた事例に見られるシステムは,移民政策や移民産業によって移住労働者の職種や居住を自由自在にコントロールするというトップダウン式のものではない.むしろ,移住労働者のコミュニティと地域産業が自発的に提携し展開していく,ボトムアップ型の事例である.特に,そのコミュニティに対して,民族意識や宗教組織が重要な役割を果たしているという点で特徴的である.このような就労基盤は,今後の移住労働者研究における重要な素材であるといえよう。
著者
寺本 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.276, 2011

小学校からの地図、地球儀学習の必要性を提案する。とりわけ地球儀学習は重要である。地球儀には、多くの印字も見られ、アームやリングにも目盛が付けられている。これらの数字にいきなり入るのは、児童にとって難しい印象を与えるので避けたいが、見慣れている世界全図と地球儀を比べさせることから始めたい。そうすれば、描かれている大陸や海洋の形や大きさが違う、縦と横にいろいろな線が引いてあるが地球儀の線は曲がっている、地球儀だと回転できるので面白いなどと言った意見が出てくる。これらを丁寧に注視させたり、経線や緯線を指でなぞらせたりしながら、地球儀に親しんでもらうことが先決である。特に緯線は、「日本と同じ緯度にある国々はどんな国ですか?」「地球儀で眺めると暖かい土地や寒い土地、中ぐらいの気温の土地などがよくわかります。」「わたしたちの住む日本は、どの州に属していますか?自然の条件で呼ぶ『大陸』ごと、で分けるやり方と違って人間が住む土地の様子で呼び分ける『州』という呼び方で世界を分ける方法もあります。」などと解説して指導したい。州で世界を区分する内容は、教科書には載っていないが、現行の『地図帳』には掲載されている。世界の大陸名が記入してある地図と合わせて、アジアを中心にした西半球図とアメリカを中心にした東半球図という平面の地球図も用いながら、大陸や海洋の広がり、5つの州の名前、経線や緯線を扱うと良い。北回帰線や南回帰線という見慣れない用語も『地図帳』で目にするが、深入りは避けたい。もし児童が質問をしてきたら、「回帰線という線の真上に太陽が見える日があり、その日には真上から光が差すので立っている人の陰ができないのです。夏至の日には北回帰線に、冬至には南回帰線の真上から太陽の光が注ぐのです。」と説明する。地図や地球儀を扱える技能を明確に学力として位置づけるべきであろう。
著者
野上 道男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

魏志倭人伝は日本の地誌に関する最初の文書である.方位や里程の定義が示されていないので、記事の地名がどこに相当するかについて、様々な説がある.日本では倭(ヰ)国をワ国と読み、元祖ヤマト近畿説の日本書記がある.中国では随書の倭国伝・旧唐書の倭国伝・新唐書の日本伝に混乱した記述がある、江戸時代には新井白石/本居宣長(18世紀初頭/紀末)の研究があり、明治時代を経て皇国史観の呪縛を離れたはずの現在に至るまで、いわゆる邪馬台国論争として決着がついていない.そして現在では所在地論は大きく近畿説と九州説に分けられ、観光(町おこし)と結びついて、ご当地争いが激化し、学術的な論争の域を越える状況にある. 年代の明らかでない出来事の記述は歴史にならない.同様に場所を特定しない事物の記述は地理情報ではない.つまり、魏志倭人伝の読み方は全て場所の特定(方位と里程)から始まる.倭人伝は記紀と重なる時代についてのほぼ同時代文書である.そこに記述された歴史がどこで展開されたのか、これは古代史にとって基本的な問題であろう.&nbsp;主な要点は以下の通りである<br>1)記事に南とあるのはN150Eである.(夏至の日出方向)<br>2)倭及び韓伝で用いられた1里は67mである.(井田法の面積に起源があると推定)<br>3)古代測量は「真来通る」「真来向く」方向線の認定が基本である.<br>4)里程は全て地標間の距離である.<br>5)来倭魏使の行程記述には往路帰路の混同がある.<br>6)子午線方向の位置(距離)を天文測量で得る方法を知っていた.<br>7)邪馬台国は卑弥呼が「都せし国」である.<br>8)倭国の首都は北九州の伊都(イツ)国である.<br>
著者
角田 史雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.3, 2006

1.荒川地震帯 寄居以南の荒川下流域では、流路ぞいに1649年」(慶安)、1855年(江戸)、1931年(西埼玉)、1968年(東松山)の被害地震(M;マグニチュード=7_から_6)が、ほぼ直線的に配列し、これを荒川地震帯と呼称する。この地震帯の南東延長には、東京湾北部断層と中部千葉の6つの被害地震の震央が分布する。 2.首都圏東部と同西部における被害地震の交互発生 上に述べた被害地震(浅発_から_中深発地震群)の発生深度は50_から_90kmであるが、首都圏西部の富士火山帯ぞいの被害地震(極浅発地震群)の発生深度は30km以浅である。過去400年間では、これら2つの群の被害地震が、交互に発生するケースがめだつ。 3.富士火山帯でのマグマ活動と被害地震の活動との関係 一般に、現在における地変エネルギーの主な放出様式を噴火と地震とすれば、1回あたりの地震の最大Meは、噴火のMv=5_から_6ていどにあたるエネルギーを放出するといわれる。これに基づいて、過去100年間における富士火山帯_から_首都圏での噴火・鳴動・被害地震などの時系列でまとめると、伊豆諸島で噴火の北上(最長20年で、おおよその周期が15_から_6年)→三宅島または大島での噴火の1_から_2ねんごの東関東における極浅発地震の発生→その1_から_2んえごの東関東における浅発_から_中深発地震の発生、という規則性が認められる。 4.震害には、地盤破壊をともなわない強震動震害と、ともなう液状化震害とがある。このうち前者は、被害地震の震央域と、平野の基盤面の断層・段差構造の直上に現れやすい。埼玉県では、過去に、荒川地震帯ぞいの区域、東部の中川流域(とくに清水・堀口(1981)による素荒川構造帯の活断層ゾーン)、関東山地北縁の活断層分布域などに発現した。 5.埼玉県の液状化震害 液状化は、地盤の構成物、地下水の水位レベル、揺れによる地下水圧の急上昇などの条件にしたがって発現する。過去の液状化事例は、利根川中流低地_から_中川流域でよく知られる。 6.震害予測 強震動震害は4.で述べた事例の再発を予測しておく必要がある。液状化震害は、じょうじゅつしたもの以外、神戸の震災例などから、台地区域において地下水面下にある人口地盤の液状化、河川近傍の傾斜した地下水面をもつ区域にpける、地盤の側方移動などを考慮した予測を確立する必要がある。
著者
阿部 亮吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.15, 2006

1.はじめに<BR> 東京都区部の山手台地では、戦後の住宅地の急増により都市型水害が発生するようになった。加えて、最近30年間において50mm/hを超えるような豪雨が増加傾向にあり、予想をはるかに超えるような水害が発生している。山手台地を流れる神田川流域や石神井川流域では、1960年代から都市型水害に対する研究が行われ、様々な水害対策も行われてきた。しかし、いずれの流域でも、流域全体を対象とした都市型水害の研究が1980年代以降は行われていない。また、水害対策の効果については、個々の水害対策箇所において研究が行われているが、流域全体を対象とした長期的な検討がおこなわれていない。そこで本研究では、流域が隣接し、浸水域の発生箇所、発生年代、水害対策の進展の過程に大きな違いのある神田川・石神井川両流域を対象とした。両流域を対象として1974年から2002年の期間において、浸水発生域の変化と水害対策の進展過程との関係を検討した。なお細密数値情報(10mメッシュ土地利用)の首都圏版1974から1994によると、この期間には両流域において著しい土地利用変化が見られないため、その影響を考慮することなく分析が行えた。<BR>2.調査方法<BR> 神田川・石神井川両流域における浸水地域は、東京都建設局発行の『水害記録』を、水害対策のうち下水道幹線の整備の進展については東京都下水道局発行『下水道事業概要』を、下水道支線の整備の進展については『東京23区の下水道』を、河川改修と地下貯留施設の整備の進展については東京都第三建設事務所発行『事業概要』を使用した。それらをGIS(MicroImages社製.TNTmips)を用いて数値地図化した。得られたデータを谷底低地と台地に分けたが、得られた浸水域と水害対策のデータの精度が粗く、『1/25000土地条件図』の精度と合わなかった。そのため文献をもとにして谷底低地を河道から両幅200mの範囲としてGISで作成した。<BR>3.結果と考察<BR> (1)両流域における浸水域の変化1974年から1993年までは、谷底低地内に面積規模の大きな浸水域が多数発生し、台地上に小面積の浸水が点在していた。しかし1994年以降、谷底低地の浸水域は著しく減少し、台地上の小面積の浸水は依然として点在していた。このことは、両流域の水害対策が大規模な浸水が発生していた谷底低地から進み、小規模に浸水が発生していた台地上では遅れたことと対応している。また、1999から2002年に発生した浸水域は、1973年以前に整備された排水機能の小さい下水道幹線の周辺に多く発生していた。(2)神田川流域と石神井川流域の比較神田川流域の浸水対策は1974年以前から進んでいたが、1974年以降の進展が遅く浸水域の減少は多くなかった。逆に1974年以前の石神井川流域の浸水対策は神田川流域に比べて遅れていたが、1974年以降の進展が著しく浸水域の減少も急速に進んだ。そのため、1984年以降は石神井川の浸水域は大幅に減少したが、神田川流域の浸水域は石神井川流域と比べると多く発生していた。1979年から1993年には、本来は浸水発生を現象させるはずの河川改修によって、神田川と善福寺川の合流付近に新たな浸水域が発生していた。これは、河川改修が下流より先に上流で整備されたことが原因である。両流域の浸水対策の違いと河川改修の実施順序の逆転による浸水は、長期展望を持った計画的な浸水対策の重要性を示唆する。
著者
谷岡 武雄 山田 安彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.27, no.7, pp.275-286, 1954

We have investigated the distribution of the &ldquo;Jori&rdquo;-type pattern in the paddy fields, with an intention of examining historically exploitation and reclamation in the eastern Harima Plain, southern part of Hyogo Prefecture. And also this treatise is aimed at the reconstruction of the &ldquo;Jori&rdquo;-system as a system of agricultural village planning in ancient times. In this region, a vast area is occupied by the hills of Miocene Series and the uplands of the Plio-Pleistocene Series, the alluvial plain is relatively narrow. Consequently, the development of the exploitation in the plain is not very old and the process was rather slow. In this plain, the &ldquo;Jori&rdquo;-type system is not universal and is discontinuous, as seen in Fig. 1-3.<br> The &ldquo;Jori&rdquo;-system was a system established in 652 to divide the cultivated land in a mesh of 6-cho squares, (a 6-cho square is equal to about 650 metres square in area.) These squares were called &ldquo;Sato&rdquo;. A &ldquo;Sato&rdquo;, in turn, was divide dinto 36 equal parts, a part being 1-cho square, this was called a &ldquo;Tsu.bo&rdquo;. The allotments of the paddy fields based on the &ldquo;Jori&rdquo;-system in Kato -gun (county) have a direction of N 43&deg;E (Fig. 3) along the lengthwise lines. But, in many other areas, the lengthwise lines of the allotments of the paddy fields run about N 18&deg;E or N 22&deg;E, and resemble those in the Shikama-gun (Himeji district), In Taka-gun which is situated along the upper stream of the Kakogawa, the lengthwise lines of the &ldquo;Jori&rdquo; pattern run nearly N-S, or approximately N 6&deg;W; the latter is similar to those of the &ldquo;Jori&rdquo; pattern in Tajima and Tamba areas (northern part of Hyogo Prefecture).<br> In the eastern Harima plain, the distribution of the &ldquo;Jori&rdquo;-type pattern is limited to the valleys which have had no recent inundation or to the older deltas. In the valley plains, the older settlements have been located at the foot of the uplands. But, the &ldquo;Jori&rdquo; pattern is not found in mountainous districts, hilly lands, uplands flood plains and the newer deltas.<br> On the delta of the Kakogawa, the &ldquo;Jori&rdquo; -system exists in the areas more than 2 kilometers inland from the coast line. But, on the delta of the Akashigawa, it is found also in the areas near the coast line.<br> We have tried to reconstruct the site of the &ldquo;Joel&rdquo;-system, the ancient administrative system, in Kako-gun (Fig. 2.) and Akashi-gun (Fig. 3.), basing the reconstruction on the lots, place names, cadastral maps and ancient documents. In these two counties, the east-west line of &ldquo;Sato&rdquo; of the &ldquo;Jori&rdquo; pattern which divided the cultivated lands into 6-cho squares was called the &ldquo;Bo&rdquo;, and the north-south line was called the &ldquo;Jo&rdquo;, the former counting from the southern border line to the northern, the latter counting from the western border line to the eastern. This system, in this province, was called the &ldquo;Jobo&rdquo;, but in other provinces, was called the &ldquo;Jori&rdquo;.<br> In these areas, the cadastral number in the &ldquo;Jori&rdquo;-system makes a continuous series, that is, from the south-eastern corner to the south-western corner, next, from the west to the east and so on, thus to arrive at the north-eastern corner.
著者
谷岡 武雄 平野 健二 芦田 忠司 田中 欣治 井上 淳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.31, no.4, pp.191-205, 1958

One of the oldest cadastral maps (drawn in 751 A. D.) kept by Shosoin, is that of the Minuma manor in Omi province of the Todai-ji temple. It shows the &ldquo;Joni&rdquo;-system which was the land system of ancient Japan. As result of our research on the &ldquo;Jori&rdquo;-system of Inukami county in Omi, it was proved that the area in the map corresponds to the domain of the modern village, Binmanji, in the east of Hikone City. We made a general and intensive survey by means of reading air photographs, land measurements, soil analysis, studying old documents and archeological excavation of the domain of the manor. The results are as follows:<br> 1) The Minuma manor belonging to the Todai-ji temple occupied the Inukami river's fan in the middle of the lake Biwa plain about the middle of the 8 th century. Inspite of fierce overflows at heavy rains, it was neccessary first of all to built a reservior and an irrigation canal for the management of paddy fields, because the ordinary quantity of water supplied by the river was insufficient and the soils of this fan was osmotic.<br> 2) Below the soils now under cultivation, there spreads the stratum of the anciently cultivated soils and it is probably the same stratum as the one containing the remains which are supposed to be belong to 8th century.<br> 3) Judging from the roads the reservoir, some parts of land division and the black coloured soils found by excavation, we think that the &ldquo;Jori&rdquo;-system was put in operation over this area to the same direction as the other parts of Inukami county.<br> 4) The land division in most parts of lands now under cultivation is very much different from the &ldquo;Jori&rdquo;-system in Inukami county, and it is adapted to the land form.<br> 5) It is better to consider that the Todai-ji manor has occupied this area based on the &ldquo;Jori&rdquo;-system. But there are some differences between the old lands of the manor and the present ones. The reasons would probably be due to the overflows or changes of various human geographical conditions.<br> 6) The history of the settlements of this area began in Nara era, at the establishment of this manor.<br> 7) The houses which occupied the hilly land consisting of the old aluvial strata, remained for considerably long period. And the houses which were situated on the flood plain of the river seem to have been lost by overflows and lateral erosion of the Inukami.<br> 8) The site of the present village seems to correspond to Shibahara (brush fields) on the map, and the village has the character of a &ldquo;Monzen-Machi&rdquo; of the Binman-ji temple which was built up in Heian era. Probably the movements of the residents from hilly land to the present site were done gradually over the long period before Meiji revolution.<br> 9) Considering the land from, the land system and the result of the archeological excavation, we conclude that contents of the map was not so different from facts.<br> 10) And so we can say that the Todai-ji manor in this area was established not through the acquirement of already cultivated lands, but through the clearing of lands which were hard to cultivate. In this, we recognize the peculiar character of the Todai-ji manor in Nara era, and this character was common the other manors of this temple.
著者
杉浦 芳夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.79, no.11, pp.566-587, 2006-10-01
参考文献数
84
被引用文献数
1 3

本稿では,オランダのアイセル湖ポルダ-における集落配置計画と中心地理論との関係を,文献研究を通して考察した.四つの干拓地のうち,当初の集落配置プランに中心地理論がヒントを与えた可能性があるのは北東ポルダーであり,その場合,形態論的側面にだけ限定すれば, Howard(1898)の田園都市論を媒介にしている可能性がある.東フレーフォラントと南フレーフォラントについては,上位ランクの集落配置は,考え方の点で,明らかに中心地理論の影響を受けているTakes(1948)の研究『本土と干拓地の人ロ中心』に基づいてなされた.東フレーフォラントの下位ランクの集落配置については,都市的生活を指向し,車社会に移行しつつあった当時のオランダ農村事情に通じていた社会地理学者らめ意見に基づき,中心地理論が厳密に応用されることなく行われた.ポルダー関連事業で活躍したこれらオランダの社会地耀学者の調査研究成果は,中心地理論研究史の中でも評価されて然るべき内容のものである.
著者
中村 和正 若松 伸司 菅田 誠治 木村 富士男
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.175, 2003

近年、光化学大気汚染の広域化が進行している。主要発生源から遠く離れた郊外地域に当たる福島県でもOx濃度の増加が90年代に入ってから著しく(図1)、2000年には22年ぶりとなる光化学スモッグ注意報が3回発令され、被害者数も104名に及んだ。本研究は関東地方及び福島県、山梨県におけるOxの空間的・時間的変動を明らかにすることを目的としている。解析方法は解析期間は1982_から_2001年で、福島県・茨城県・栃木県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・山梨県の大気環境常時監視測定局の時間値測定データ及びアメダス時間値観測データを用いた。解析結果。解析領域内におけるOx日最高値の上位5地点がすべて120ppbを超えた高濃度日に関東地方及び福島・山梨県内のどこでOx日最高値上位5地点が出現したのか、その頻度の経年解析を行ったところ、光化学大気汚染の広域化がさらに進行していることが分かった。特に90年代に入ってから、北関東でOx日最高値上位5位の出現頻度が増している。(図2)この要因の1つとして近年のNMHC/NOx比の低下が考えられる。NMHC/NOx比の低下は光化学反応を遅らせ、関東地方では夏季には海風の侵入に伴い、高濃度出現地域が内陸に移動することが多いため、最高濃度出現時刻が遅れることはより内陸に高濃度域が移ることを意味しており(Wakamatsu et al,1999)、高濃度日の日最高値上位5位の出現時刻も経年的に遅くなってきていることも確かめられた。(図3)また2000年には福島県でも日最高値上位5位が出現するようになった。
著者
上遠野 輝義 福岡 義隆
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 = Proceedings of the General Meeting of the Association of Japanese Geographers
巻号頁・発行日
no.64, 2003-10-11

1.はじめに これまでにも南関東地方から長野県東北部に至る大気汚染の長距離輸送に関する研究(栗田・植田、1986)や、南関東地方の小地域におけるオキシダント濃度と局地風についての研究(菊池、1983)などがあるが、関東地方全域のオキシダント濃度と局地風の関係についての研究例は、とくに最近10年間極めて少ない。温暖化にともなって最近、各地の光化学スモッグが高濃度化している。 そこで、本研究では、関東地方において特に注意報発令の多発した2000年夏半年について、全国的にみても高濃度日の多かった埼玉県に注目し、光化学オキシダント濃度分布と天気図型及び局地風(風向風速)の分布との関係について解析し考察を試みた。2.研究方法_丸1_使用した資料:2000年5月_から_9月夏半年における関東地方1都6県全域の大気汚染常時監視測定局の毎時データを用いた。オキシダント測定局数は約300局、風向風速は約350局であるが、栃木県の風データは欠測値が多かったのでアメダスデータを使用した。埼玉県における光化学スモッグに関しては1990_から_2000年についての傾向を調べてみた。_丸2_解析方法:光化学オキシダント濃度の分布図と風系図はArc View(GISソフト)を用いて1時間毎に描いた。全事例の中から、天気図型別に注意報発令日(120ppb以上)と非発令日(120ppb以下)の比較考察を行った。3.研究結果 今回は、全体的な傾向と事例研究として最も頻度の多かった天気図型(南高北低型)について、注意報発令日(7月23日)と非発令日(9月2日)とについて考察した結果を報告する。(1) 関東地方の月別光化学スモッグ注意報発令回数が最多県は埼玉(40件)で最少の神奈川の4倍である。(2) 過去5年間における埼玉県において注意報発令日の天気図型は、最も多かったのは南高北低型(33%強)で、移動性高気圧型と東高西低型(各12%前後)が次いでいる。(3) 注意報発令日7/23も非発令日9/2も南高北低型天気であり、後者では熊谷で39.8℃もの高温という残暑であったが、光化学オキシダント濃度分布と風系は異なる。前者では、海風の進入と気温上昇とともに埼玉県中部から群馬県にかけて120ppb以上の高濃度地域が発現している。一方、非発令日には海風などの風系は類似しているが陸風も強くオキシダント濃度は80ppb以下と低い。
著者
豊田 哲也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.163, 2020 (Released:2020-03-30)

日本社会で進行する少子化の主因は未婚率の上昇にある。また,東京大都市圏では地方圏より出生率が低く,人口の一極集中が少子化を加速させている。若い世代は女性の社会進出の結果「結婚を選択しなくなった」のか,男性の経済力低下のため「結婚できなくなった」のか。本研究の目的は,地域格差と世代格差の視点から,都道府県別に推定した所得と未婚率の地域分析により,この二つの仮説を検証することにある。対象とするコーホートは就職氷河期(1993〜2004年)に大学卒業期を迎えた1970年代生まれの世代である。彼らが35〜39歳時点(2010年と2015年)における未婚率を目的変数とし,所得水準と就業環境を説明変数とする二通りのモデルで重回帰分析(MLS)をおこなった。使用するデータは国勢調査の人口と就業構造基本調査の年収である。地域による性比の偏りや都市化の程度をコントロールした上で,男の所得が低いまたは女の所得が高いほど両者の未婚率が高い傾向があり,二つの仮説はいずれも支持される。特に,就職氷河期における非正規雇用の拡大は男の所得水準低下をもたらし未婚率の上昇に寄与したと考えられるが,女の就業継続可能性に関する変数が未婚率に及ぼす影響は十分確認できなかった。
著者
宮城 豊彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

地すべり地形の実形を写真判読から明らかする作業がほぼ完了している。日本では、このスケールよりも一段小規模な微地形スケールで見た地すべり地形の特徴を、地すべりの再活動可能性の指標として再評価することで、地すべり地形の再活動可能性を評価し始めている。この発想の土台には、田村先生の地形観が反映されている。