著者
中島 直子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.39, 2007

<BR> 英国の社会改良家オクタヴィア・ヒルはオープン・スペース運動の中心人物である.同運動は1880年代から1890年代にかけて全盛期となる.ヒルは同運動を発展させるために,関係者と協力し,コモンズ保存協会・カール協会・首都圏公共公園協会・コモンズ保存協会ケント・サリー委員会・ナショナルトラストなどオープン・スペース運動を行う複数の組織の充実や創設に関与する.ヒルは同運動を,労働者階級を対象とする住宅改良運動を行う仲間たちと共に始めるが,イングランド教会の牧師,博愛主義者,芸術家,高位聖職者,労働者層らも協力した.シティ,教区会,地域委員会区,首都圏建設局など地方自治体の議員,ならびに上下両院の国会議員ともヒルは交渉があった.オープン・スペースを都市内外に保護する活動を全英に周知させ,同運動を発展させるには,国会での同問題の発議・審議,さらに法案の制定など国会議員との連携が必要であったからである.<BR> 1850年代~1880年代にかけてヒルが友人に宛て書いた書簡を中心資料として,彼女と議員と社交の拡がりを示す.ヒルはシャフツベリー,ケイシャトルワース,ショールフェーブル,クロス,ホランド,ブライス,オコナーらの国会議員との交渉があった. 上記議員の所属は上下両院,与野党,自由・保守両党と様々であるが,彼らは各々の立場と得意とする諸分野とから社会改良を実現させようとするリベラルな議員であった.なかには福音主義者やアイルランド自治論者も含まれた.<BR> 今回の発表では,ヒルや議員の著した論文ならびに国会議事録を資料に加え,彼女と国会議員との交渉の内容と拡がりを検証する.19世紀後半の英国で,オープン・スペース運動が,どのような議員の関心と支持を得ていたのか.ヒルはどのように巧みに活動し,同運動を強化,発展させることに成功したのか明らかにする.
著者
鷹取 泰子 佐々木 リディア
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本報告では、ルーマニア・南トランシルバニア地方で活躍する「ADEPT Transylvania Foundation (アデプト・トランシルバニア財団)」というNGOの活動に注目した。ルーマニアでは1989年の革命以降、NGOの数が増えており、6万2千団体以上が登録されているが(2010年時点)、農村地域で活動する団体はその3割にも満たない。<br><br>事例として取り上げる本財団はEUの共通農業政策のもと、地元自治体や他のNGO・財団法人と協力し、農村の持続可能な発展や伝統的な農村景観の保全などを目指した活動を行っている。その活動は主に以下の3つのレベルで行われている。<br><br>まず、地域コミュニティーのレベルでは、具体的に様々な事業(環境調査・保全、持続可能な農業に関するコンサルティング、食品加工開発・マーケティングなど、農村経済の多様化に関する零細・中小企業・起業家へのサポート、地元学校での環境教育など)を実現させている。<br><br>また、地域レベルでは、共通農業政策の支援金やその他のスポンサー、財団の支援を取り付ける役割を果たしている。<br><br>さらに、国・EUレベルでは、共通農業政策の改善を目指して、地域コミュニティーのニーズに合わせた政策や支援金の実現を求め、ADEPTが実際に提案し、小規模農家を対象とした支援金制度が2014年より実施されるようになっている。<br><br>10年以上にわたって実績を積んだこのようなNGOの活躍と、農​村​の​持​続​可​能​な​発​展への貢献が今後も期待されている。<br>
著者
金 延景
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.89, no.4, pp.166-182, 2016
被引用文献数
2

<p>本研究は,東京都新宿区大久保地区における韓国系ビジネスの機能変容を,経営者のエスニック戦略の分析から明らかにした.大久保地区では,韓国人ニューカマーの増加に伴い韓国系ビジネスが集積し始め,その後一般市場へ進出していった.その背景には,韓流ブームによって開かれたホスト社会の機会構造の下,経営者が用いたエスニック戦略の役割があった.韓国系ビジネスでは,ホスト社会の需要を事前に把握した経営者が,豊富な人的資源を用いて韓国飲食店のほか,韓流グッズ店や韓国コスメ店など韓国文化の商品化を通じた娯楽性の高い新業種を展開する多角経営を行うと同時に,日本人顧客の確保に重点を置いた立地戦略をとっていた.その結果,大久保地区の韓国系ビジネスは,従来の同胞顧客に向けた財やサービスの提供機能に加え,広域なホスト社会の日本人顧客に向けてエスニック財やサービスを提供する娯楽機能を有するようになったといえる.</p>
著者
山下 博樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.280-295, 1991-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
21
被引用文献数
2

The cities of Hachioji and Machida, located in the western suburb of Tokyo, have developed with the expansion of the Tokyo metropolitan area. But the two cities have different histories. Hachioji city was a stage town (shuhubamachi) in the late feudal period, and developed into a central city in the Tama area after the Meiji Restoration. Machida does not have such a long history; it deve-loped as an urban area only after the opening of the national railways' Yokohama Line and the private Odakyu Line in the late. The author analyzed the processes of change in the central business district (CBD) structure of the two cities, using such indicators as the change in functional accu-mulation, location of multi-storied buildings, and change in floor use for each function, with the comparison being made between 1981 and 1987. The following are a few results in the differences of changes of CBDs in the two cities. 1) The differences in the function of CBDs in the two cities can be explained by differences in the process of accumulation. Hachioji has experienced a shift of the core of its CBD from Koshu-kaido highway to Hachioji station, and its CBD has been differentiated functionally. But in Machida, because the CBD developedd near the station of the Odakyu Line, various functions already existed there. The survey also shows a reductive tendency in the area which serves some functions of the CBD (Figs. 1-3, Tables 1-4). 2) The differences in shape between the two CBDs can also be observed from a survey of the locations of multi-storied buildings. In Hachioji, the density of those buildings which were located on the three main streets stretching away from the station in 1981 has increased since 1981, and there is now a cluster of them in front of the station. In Machida, the number of multi-storied buildings which could be seen in the core of the CBD has increased in area surrounding it. The difference in the process of forming the CBD in the two cities reflects the differences in building use in the two CBDs (Fig. 4, Table 5). 3) The cluster analysis for changes in floor use reveals the degree of the functional areal differ-entiation in each of the CBDs. In Hachioji, three kinds of clusters can be recognized separately: offices, personal services, and parking and vacant lots. In Machida, the cluster which changed to office use is dominant. The comparison between present and previous functions of each floor in the buildings of the two CBDs shows the difference in the CBD development processes (Fig. 5). Those differences can be explained by both the historical background and the CBD development processes. Hachioji experienced functional areal differentiation in the shift of its CBD core. But Machida developed into a satellite city after the railroads opened in the Meiji period. As a result, the functions in the CBD have accumulated differently.
著者
神谷 浩夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.6, pp.413-426, 1984-06-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
52

Consumer behavior research stimulated by the development of cognitive behavioral approach has accumulated many empirical studies, having close relation to such established fields as spatial interaction studies and the central place theory. Recent trends in this field suggest that spatial behavior is influenced by spatial and temporal constraints and that preference structure behind the behavior is not intrinsic to individuals. In the light of this argument, the focus of the study is placed on the constraints-oriented spatial choice process. The purpose of the paper is to propose a store choice model which includes the concept of constraints and to test its validity. First, through the descriptive analysis in Section III, consumers' patronage patterns for various facilities (including grocery store, pharmacy, post office and bank) are examined. The data are gathered through the self-reporting about these facilities by housewives living in Nagoya City. In Section IV the proposed model is operationalised and applied to the grocery store choice. In this model, the choice process is divided into two components. One expresses the process of constructing individual's choice set. The other indicates the process of choosing the best alternative among the choice set. And the standard ellipse is used as the choice set to delineate the activity space where consumers usually keep contact. The form of the choice function is multiplicative. When we introduce the activity space ellipse, we could explain the observed behavior better than without employing the ellipse. At the next step, we subdivid the population into subgroups according to their socio-economic status. This subdivision is repeated in terms of the ownership of private vehicle and the housewife's working status. After the population is divided, the activity ellipses are changed respectively and then applied to the grocery choice model. This time the explanable results were not obtained. The defficiency of the activity ellipse may be due to the discrepancy between the actual travel mode used and the household's ownership reported, and also due to the shape of ellipse.
著者
町田 尚久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに</b><br>関東甲信地方では,寛保2年(1742年)7月27,28,29日,8月1,2日(旧暦)に台風の通過に伴う大洪水が発生した。この災害については,丸山(1990)などが被害の状況を千曲川流域でまとめ,町田(2014)が台風の進路を復元した。町田(2013)は,寛保2年洪水時に荒川上流域の斜面で大量の土砂移動が発生したことを指摘し,これ以降,荒川扇状地で河床変動が生じたことを報告した。しかしながら,寛保2年洪水時の土砂移動の状況については明らかにされてこなかった。本発表では土砂移動の発生の可能性を明らかにすることを試みた。<br><br><b>2.対象地域・対象資料</b><br>対象地域は,土砂移動が発生した荒川流域,利根川流域,千曲川流域とする。資料は,古文書などの一次資料を基にまとめられている県史,市町村誌,郷土史,先行研究等とした(横瀬町,1989;青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。文献には現象,災害記録,景観の変化などの記載があり,当時の土砂移動の有無を知ることができる。<br><br><b>3.土砂移動発生の記録</b><br>千曲川流域の長野県北佐久郡や南佐久郡,松代周辺では山崩れなど,利根川流域の群馬県嬬恋村,赤城山北部,上武山地および荒川流域の埼玉県長瀞町や横瀬町では斜面崩壊などの記載がある(青木,2013;丸山,1990;河田,1977など)。また,多摩川流域の東京都青梅市では家屋が埋まった記録がある。以上のことから町田(2013)が経路を復元した台風による土砂移動は,浅間山周辺から丹沢山地までと,赤城山の一部で発生したことが認められる。資料の多い千曲川流域では数多くの崩壊や地すべりが発生したことから,資料の少ない荒川流域と利根川流域でも,同様の状況にあったと考えられる。<br><br><b>4.寛保2年頃の山林状況</b><br>江戸時代の山林については,青木(2013)は山林の状況と当時の御触に基づいて千曲川流域の状況を示し,開発の影響によるものと推定している。秩父山地では17世紀中期以降,現在の秩父市大滝では伐採がすすみ,幕府が集落から離れた地域で樹木の伐採を制限し,さらに秩父市大滝や上州山地南側にある上野国山中領(現 上野村周辺)の一部でも伐採の制限がかかった(三木,1996)。これは樹木の伐採が進み,木材の確保が難しくなることを懸念した江戸幕府が伐採地域を制限したと推定することができる。一方,伐採制限のかかっていない地域や伐採の制限が弱い地域については伐採が行われていたと解釈することができる。このことから伐採が利根川流域でも進み,荒川上流域や利根川流域の一部では山林が荒廃していた可能性がある。さらに新編武蔵国風土記稿(秩父郡)の挿絵(蘆田,1933)から寛保2年の約90年後の植生や土地利用を推定でき,当時の植生は,現在のように高木が主体ではなかったことが読みとれる。<br><br><b>5.土砂移動が人為的影響により引き起こされた可能性</b><br>千曲川流域では人為介入の影響を受けた土砂移動の発生が指摘され(青木,2013),群馬県上野村周辺では正徳3年(1713年)に一部で伐採の制限をかけたが,寛保2年洪水時には幕府の伐採制限がかかっていた流域と隣接する南牧川では数多くの土砂移動が発生した。荒川流域,利根川流域の一部では,木材自給の増大した1700年代と寛保2年(1742年)洪水時の大雨が一致することから,木材の伐採が進み荒廃した斜面で崩壊や地すべりなどの土砂移動が発生しやすい状況にあったと推定できる。さらに蘆田(1933)の挿絵から秩父山地で高木が少ない環境があったと推定でき,降雨量によっては土砂移動を誘発する可能性は高い。さらに町田(2013)が示した寛保2年から安政6年までの荒川扇状地での河床上昇は,17世紀後半から伐採が増加する時期と一致することから山林の荒廃が示唆される。このことは当時,土砂移動が頻発したことを強く支持するものと考えられる。<br><br><b>6.おわりに</b><br>過去の地すべり,崩壊および土石流といったマスムーブメントの発生には,自然環境だけではなく,発生当時の社会状況,生活状況,産業(林業),御触(法令)などが強く結びついている可能性がある。このことから土砂移動は自然環境を背景として,さらに人為的影響を受けて発生することがあることが示された。歴史災害についても自然の影響と人為の影響を確認する必要がある。一方,植生分布,土砂生産など自然環境で結びつく現象については,流域単位で自然環境の変化とその動態を明らかにする必要がある。<br><br>
著者
大城 直樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

街おこし・地域おこしといったイベント,名産品,民芸品などのモノ,また郷土愛といった精神的な表象にいたるまで,地域と文化の組み合わせは,ツーリズムの発達とも連関する形で,従来の地域的文脈から切り取られたり,違う文脈に接合されたりしながら,編成・再編成されてきた。この「地域」という特定の空間的範域が「文化」と結びつけられることで事実上何が充填/発現されるのか。本研究は,従来自明で所与のものと考えられがちな「地域文化」を,構築的なものと措定することでいったん分解し,各々の概念の問題ならびにこの二つの組み合わせ自体に孕む無意識的な接合の在り方を精査することで,ごく日常的に用いられる「地域文化」表象を本質論から一度解放し,そこで得られた概念的知見を具体的な事例を通して検討することで,地域主義やナショナリズムに結びつくその構造的な枠組みと問題点を析出することを目的とする。<br><br>言い換えると,「地域文化」あるいはそこで措定される「地域なるもの」をめぐって交錯する諸表象と諸実践に焦点を当てて,それがなぜ「分節化(曖昧な状況からはっきりと形をとるようになること)」される必然があったかを問うことがそのねらいである。<br><br>その範囲として19世紀から今日にまで至るモダニティと資本主義の連関の追求を前提とする。その連関の発現であるテクノロジーの発展は,国家形態とも連動しているが,その端的な例が博覧会である。帝国主義ならびに植民地主義と博覧会は切っても切れない関係にある。地理的領土の拡大,地理的知識の蓄積,テクノロジーの発展競争等,スペクタクルな光景を現出させることによって,観客に国家的威信とその野望とを刷り込んでいったのである。また各種メディア・イベントや博覧会,博物館,展示会などが,多様な空間的スケールを表象させるその装置となった。そしてまさにここに地理思想として地域とアイデンティティの関係(愛国心,愛郷心,お国意識など)を問う理由があるものと考える。<br><br>第二次大戦後になると,高度経済成長期を経て,ポストモダニズムとも言われる大衆消費時代を迎える。1970年の大阪万博開催とともに始まった旧国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンのように,出郷者がノスタルジーを感じるよう「漠然としたローカルな風景」をポスター化し,従来観光地と目されなかった「ローカルな風景」をツーリズムの目的地として行く場合もあったし,アンノン族の発生と連動する形で,ファッショナブルな服装をまとった都会的な女性が「田舎」を旅するシーンをテレビで流すなど,従来の旅行形態とは大幅に異なるツーリズム・コンテンツを開発していった。知られているように,これらと雑誌メディアの関係については既に多くの業績がある。しかし,こうした変容がどういう風にして存立するようになったのか,そしてそれが自明化していったのか,その契機や道具立てないしは仕掛けにまで目配せした研究は少ない。これもまた文化史的問題であると同時に地理思想の問題でもあり,精査の必要がある。<br><br>また近年では「民俗」,「民芸」,「伝統」といった語で表象される観念やモノ,さらには生活様式ですらも,現地の宿屋や土産物屋であれ都市のセレクトショップや展示会であれ,あらたにヴァナキュラーなものを「商品化」し,カタログ化し,デザイン化することで消費の場を構築していく仕組みに包括されている。本研究では,使用価値が交換価値に変換されるという契機の文脈を抑えながら,F.ジェイムソン(1991)がいうところの後期資本主義の文化論理を精査し考察していくこととする。
著者
安倉 良二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.3-20, 2016

本研究は,大店立地法に基づく大型店の出店調整について,奈良県と京都府にまたがる平城・相楽ニュータウンにある近鉄京都線高の原駅前を事例に,出店経緯と住民の対応に着目しながら考察した.大型店出店の背景として,空き地の有効活用を進めたい建物設置者と,大型店の出店規制緩和を契機に地域市場で優位に立とうとする小売業者の思惑が一致したことがあげられる.他方,生活環境の悪化を懸念する一部の住民は,運用主体である京都府に出店届出の内容に関する意見書を提出する形で出店調整に介入した.これに対して京都府は,大型店の建物設置者に対して出店届出の内容に関する改善を求める意見を出した.それをふまえて,建物設置者と小売業者は一部の住民との間で大型店の出店に向けた協議を重ねた.大店立地法に基づく大型店の出店調整は旧大店法とは異なり,出店自体を抑制するものではない.こうした制約下で運用主体から出店届出の内容に改善を求める意見が出されたことは,住宅地における大型店の出店に際して店舗に近接する住民の生活環境への慎重な配慮が不可欠であることを示す.
著者
桐越 仁美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.101, 2021 (Released:2021-03-29)

1990年代以降、アジア人によるガーナの商業分野への投資・参入がみられるようになった。なかでも中国人については、小売業への進出が急速に進んでいる。近年は、西アフリカのムスリム商人が中国製の商品を内陸乾燥地域に大量に輸送しており、以前に増して中国製品を目にする機会が多くなった。西アフリカのムスリム商人たちは、ガーナの中南部の都市クマシにて、中国製の商品を入手し、内陸乾燥地域へと輸送している。多くの場合、ムスリム商人たちは古くからの交易路を通じて商品を内陸乾燥地域へと輸送している。本発表は、西アフリカのムスリム商人が商業ネットワークを域内で構築・拡大させてきた軌跡を概観したのち、そのネットワークを中国商人にまで拡大させていく過程について、一考察を加えることを目的とする。 本発表では、コーラナッツ交易と関わりをもつ西アフリカのムスリム商人のキャリア形成に着目する。ガーナの都市や農村にみられる「ゾンゴ(zongo)」という地区には、多くのムスリム商人が滞在している。そこで取引における中核を担っているマイギダ(maigida)と呼ばれる人びとのなかには、中国商人との交渉を担っている人物がおり、ムスリム商人間では彼らを通じてでないと取引ができないと認識されている。キャリア形成に関する聞き取り調査からは、多くの若手商人が中国人との取引を将来的な目標としているものの、まずはマイギダに接触し、彼らに実力を認められる必要があると考えていることが明らかになった。
著者
野村 亮太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.8, pp.537-548, 1984-08-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
13

篠山川は,兵庫県東部に位置し,篠山盆地を貫流して,西方に流れ,加古川と合流する.その途次,盆地内で3段,盆地西方で1段の河岸段丘を形成する.盆地内の段丘を上位から,川代面,大山面,宮田面とし,盆地西方の段丘を阿草面とした.このうち,川代面と大山面の一部区間は,盆地中央に向かって高度を下げ,現在の篠山川の流下方向に対して逆傾斜している.また,盆地北部に広く分布するチャートが盆地西端の川代礫層に含まれず,さらに,川代礫層のインプリケーションは現在の篠山川と異なった方向を示し,大山礫層の礫径も東部に向かって小さくなる傾向がある.これらのことから,川代礫層,大山礫層を堆積したころ,篠山盆地の排水は現在の篠山川を通じては行なわれず,武庫川によって行なわれていたと考えられる.この排水路が河川争奪によって変更され,篠山川は加古川へ流出することとなった. 河川争奪の原因は,盆地南部の流紋岩よりなる山地の山麓部に広がる麓屑面堆積物の一部が盆地出口の河床に押し出した結果,河床が上昇したことによると推定される.このため,盆地内は湛水し,西方にあった分水界の低位置から浴流し,新しい排水路ができ,それが恒常化して,現在の篠山川が生れたと考えられる.河川争奪がおきたのは,大山礫層中にみられる姶良Tn火山灰および14C年代からみて,約2万年前以降と考えられる.
著者
植木 岳雪
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.257, 2020 (Released:2020-03-30)

茨城県南部の土浦低地は,霞ヶ浦最奥部に位置し,霞ヶ浦に注ぐ桜川のデルタからなる.土浦低地の地下には,深度10 m付近に礫層が広く分布する.それは,最終氷期の土浦礫層(池田ほか,1977),最終氷期極相の沖積層基底礫層(BG)(水谷,1982;新藤・前野,1982),土浦礫層と完新世初頭の完新世基底礫層(HBG)(遠藤ほか,1983;鈴木ほか,1993)という3つの考えがある.本研究では,土浦低地の地形発達史と沖積層の層序を明らかにするため,土浦市蓮河原町と川口の2地点において,それぞれ深度30 mと12 mのオールコアボーリング掘削調査を行った. ボーリングコアの層相と14C年代に基づくと,土浦市蓮河原町のコアは,深度0〜1.25 mが人工堆積物および水田土壌,深度1.25〜2.25 mが完新世後期の河川堆積物,深度2.25-6.9 mは完新世中期の内湾堆積物,深度6.9〜10.5 mは完新世前期の河川堆積物からなる.また,深度10.5〜19.6 mは最終氷期極相前後の氾濫原(?)堆積物,深度19.6〜30.0 mは最終氷期極相以前の河川堆積物からなる.土浦市川口のコアは,深度0〜1.0 mが人工堆積物および水田土壌,深度1.0〜3.85 mが河川堆積物,深度3.85〜6.3 mが内湾堆積物,深度6.3〜9.65 mが泥炭および河川堆積物,深度9.65〜12.0 mが基盤の中部更新統からなる.なお,14C年代については現在測定中である. 2本のコアの層相の変化から,土浦低地の地形は,最終氷期の低海水準期の河道,完新世前期の海水準上昇期の溺れ谷,完新世中期以降の海水準低下期のデルタの順に発達したと考えられる.その場合,土浦低地の地下10 m付近の礫層は沖積層基底礫層(BG)となる.
著者
岩船 昌起
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p><b>【はじめに】</b>本研究では,球磨郡球磨村を対象地域として,平成 24(2012)年熊本広域大水害を顧みた上で,令和2年7月豪雨災害時の緊急避難の逃げ道に注目し,予測し難い局地的大雨による水害時の住民避難行動を考察する。</p><p></p><p><b>【平成</b><b>24</b><b>年熊本広域大水害を顧みて】</b>2012年7月12日には,球磨村一勝地で日降水量238㎜,時間降水量11〜12時 39.5㎜,20〜21時 46.5㎜が記録された(気象庁)。7月12日7時〜13日7時の積算降水量は240.5㎜に及ぶ。この時,球磨川水系中園川沿いの高沢地区では,数軒が床下浸水し,内1軒では在宅住民が「床上浸水になったら庇をつたって山側に逃げる」つもりで2階に避難していた(岩船,2015)。</p><p></p><p>熊本県では,平成24年熊本広域大水害を顧みて,平成 25 年度から住民避難モデル実証事業等にて「予防的避難」の導入に取り組んだ。これは,「避難準備・高齢者等避難開始」発令以前で一般住民にも「日没前の明るいうちに」事前に避難を促すものである。台風のように数日前から豪雨を明確に予測できる場合には有効な対策であり,全国的にも広がりをみせた。しかし集中豪雨や局地的大雨の強度・頻度が増している昨今,現在の観測技術では突発的な局地的大雨を高い精度で予測し難しく,予防的避難が実現し難い場合での避難計画も事前に準備しておく必要がある。</p><p></p><p>筆者は,国土交通省九州地方整備局「九州地方の大規模土砂災害における警戒避難対策検討委員会(平成 25〜26 年度)」を通じて,モデル地区の球磨村高沢地区で高齢者中心の住民の体力や熊本広域大水害時の避難行動を調べ,予防的避難がなされなかった場合での浸水段階に応じた緊急避難計画を考案した(岩船,2015)。中園川が溢流すると左岸と右岸で行き来できなくなり,両岸それぞれでも地形的行動障害があることから,集落を5区分して,浸水段階と微地形に応じて,避難経路が浸水する前に斜面上方の親類・知人宅等へ移動し,大規模土砂災害が想定される最も危機的な状況下でもヘリコプター救助場所への"逃げ道"が絶たれないようにした。これは,ヘリコプター救助段階を除いて,昭和40年7月豪雨災害時の避難行動の空間的展開に類似しており,「雨が降れば自宅に戻る」日常行動に端を発した緊急避難計画である。</p><p></p><p><b>【令和</b><b>2</b><b>年</b><b>7</b><b>月</b><b>3</b><b>〜</b><b>4</b><b>日球磨村高沢地区での避難行動】</b>一勝地での降水量は,2020年7月3日日降水量 119 ㎜,4日日降水量357㎜が記録され,時間降水量が4日4〜5 時に76 ㎜の最大値であった。3日10時〜4日10時の24時間積算降水量455.5㎜であった。また,気象庁等は,球磨村に,3日21時39分大雨警報(土砂災害),22時20分土砂災害警戒情報,22時52分洪水警報,4日1時34分に大雨警報(浸水害・土砂災害),4時50分大雨特別警報を発表した。</p><p></p><p>7月31日時点で高沢地区を現地調査できていないが,被災後の現地撮影資料(例えば,ピースワンコ・ジャパン,7月11日救助活動動画)から,中園川に直面する家屋では床上・床下浸水程度の被害と認識できた。一方,令和2年7月豪雨による熊本県での死者・行方不明者67名中25名が球磨村住民であり,全てが球磨川本流地区住民{渡(自宅)2名,渡(千寿園)14名,一勝地6名,神瀬3名}であり(熊本県資料),高沢地区を含む山間地域の球磨川支流地区住民の報告はない。</p><p></p><p>従って,床上・床下浸水の被害が及んだ中園川沿いの高沢地区住民は,7月3日から在宅し,大雨による増水で自宅等の浸水の恐れが高まった4日未明から早朝に緊急避難したと思われる。</p><p></p><p><b>【考察】</b>熊本県では「予防的避難」の延長として「熊本県版タイムライン」を2015年4月に策定し,事前予測が可能な大雨への対応策を予め準備してきた(熊本県HP)。しかし,気象庁が予測できない想定外の大雨の発生を否定できないことから,緊急避難的な対応を保険的に準備しておくべきであった。死者・行方不明者が生じた球磨川本流沿いの地区は,元々浸水しやすい地形上にあり,かさ上げで居住地の比高を増したものの,浸水を想定しての緊急避難での逃げ道を確保していない場合が多かった。一方,死者・行方不明者が生じなかった山間地域の球磨川支流地区では,浸水が小規模であったことと,緩斜面上に集落が立地しており,津波立ち退き避難で山麓緩斜面が逃げやすい地形であったことと同様に(岩船,2018),緊急避難しやすかった。</p><p></p><p><b><文献></b></p><p>・岩船昌起2015.水害・土砂災害における高齢者の体力と避難行動−2012年熊本広域大水害時の球磨村での検証.『第14回都市水害に関するシンポジウム講演論文集』,11-18.</p><p>・岩船昌起2018.個人の「避難行動」を記録する意義−パーソナル・スケールでの時空間情報の収集と整理.地理,63(4),22-31.</p>
著者
石水 照雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.35, no.8, pp.362-373, 1962
被引用文献数
2

本稿は本邦においてとくに近年多くの関心が注がれている都市化の問題に関してなされた諸研究の成果を整理し,体系化を試みることによつて,この分野における地理学的研究の現段階(水準)を認識し,今後の研究の方向について若干の考察を行なうことを目的とする. (1) 本邦地理学界の都市化に対する関心がとくに高まつたのは戦後であるが,これは戦後における激しい都市化現象の進展に対応している. (2) 都市化概念については,いくつかの見解が披渥されたが,景観に重点をおく狭義の見解と機能に重点をおく広義の見解とに分れている. (3) 都市化のメカニズムに関する理論化に多くの努力が払われてきているが,現段階では都市化現象のecological processの分析を通じて都市化の空間的・地域的機構を求める方向に進んでいる. (4) 本邦における都市化の特質を明らかにするため,京浜・阪神・中京・東北の各地方ならびに本邦全体に関して,都市化の諸段階・近郊地域相互の比較・地域としての特色などについての研究がなされてきている. (5) 今後の都市化研究のあり方については,空間的・地域的観点が強調されecological approachに対する支持が大きく,また社会的貢献のためにも都市化地域理論が要請されている. (6) これらの文献研究を通じて結論されることは,現在の方向に沿うより多くの事例研究の必要性である.
著者
谷治 正孝 渡辺 浩平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.227, 2009

古地図を調査して日本海名称の変遷・定着過程を明らかにした。西洋人によってもたらされた日本海名称は最初、日本の太平洋側に使われることが多かった。<BR> 「日本海」に日本海名称を与えた最古の現存地図はマテオ・リッチの『坤輿萬国全圖』(1602)であるが、当時は日本海の形状が明らかでなかったため、この日本海がそのまま定着したわけではない。<BR> 日本海と外海を結ぶ5つの海峡を明示した最初の地図は日本海を北上探検したラペルーズの地図で、1797年に出版された。それをイギリスはじめ多くの地図編集者が取り入れて、19世紀初頭から「日本海」名称が定着に向かう。「朝鮮海」より、日本海の方が名称としてふさわしいとはっきり指摘したのは、日本との交易を求め長崎に来日したクル―ゼンシュテルンである。<BR> さらに、シーボルトが日本から地図を収集して帰国し、それらの地図を出版するようになり、欧米では19世紀前半に「日本海」名称は完全に定着した。しかし、日本では「北海」という日本海名称があったためもあり、「日本海」の定着は半世紀以上遅れ、19世紀末であった。
著者
小池 俊雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.鬼怒川水害<br><br>2015年9月のの関東・東北豪雨で発生した鬼怒川水害では、24時間最大雨量記録が311mmから410mmへと大きく塗り替えられた。<br><br>河川管理者から自治体責任者へは、氾濫危険情報や水位の上昇に関する情報や、避難情報の発令や浸水想定区域図の活用についての示唆も提供されていたが、広い地域にわたって破堤前に避難指示は出されなかった。また鬼怒川が洪水流で満杯となった映像が実況中継されてはいたが、避難することなく屋内に留まった住民は多く、結果として、氾濫流に取り残された住民1300人余りがヘリコプターで、また3000人ほどが地上部隊によって救出される事態となった。<br><br>&nbsp;<br><br>2.リスクの変化<br><br>2014年にまとめられたIPCCの第5次評価報告では、大雨の頻度、強度、降水量の変化の将来推定に関して「中緯度の大陸のほとんどと湿潤な熱帯域で可能性が非常に高い」と記述されており、2007年の第4次評価報告に用いられた「可能性が非常に高い」をより詳しく表現している。これらは気候の変化に伴い豪雨の増加に関する科学的知見が確かなものになってきている証左と言える。<br><br>明治期、鉄道網の普及により舟運の必要性が低下し、我が国の川づくりは洪水対策のための連続堤防の築堤が主流となり、国が一義的責任を有する河川管理体制が構築され、地先を守るという市民の当事者意識が低下して、社会サービスの受け手になり易い状況が作り出されている。その結果、危機感や責任感が低下し、施設整備による人的被害の減少とも相俟って、知識や経験だけでなく関心や動機も薄れて行動意図が低下するという事態の進行が心配されてきた。これは洪水に対する社会の脆弱性の悪化を意味している。<br><br>&nbsp;<br><br>3.リスクコミュニケーションの強化<br><br>このように鬼怒川水害は、災害外力と脆弱性の変化を明確に認識し、施設では防ぎきれない大洪水に対して、洪水リスク軽減のための社会的取り組みが必要であることを学ぶ機会となった。<br><br>これらの変化に対して、まずは災害外力の変化の理解を深め、災害に対する社会の脆弱性の特徴を理解し、健やかな生活を阻害する災害リスクを特定して、評価・モニタリング・予測する能力を高め、得られる情報が市民や行政に分かり易く伝えられ、地域の洪水リスクに関する知識、経験、危機感を共有が肝要である。<br><br>また、意思決定・合意形成の体制とマネジメント技術を積極的に導入して、立場や分野を超えて幅広い主体が参画して相互に情報を交換できる場を構築し、市民や行政の関心や動機を高める必要がある。その上で、地域全体を襲う災害による危機に対して、地域ぐるみで災害リスクの軽減と災害からの速やかに回復できる計画作りを進め、発災後も健やかな生活と健全な社会活動を行える地域全体としての事業継続能力の向上を目指して、スムーズな情報交換のためのガイドラインや指針、標準的な情報伝達手順を準備しなければならない。さらに地域の実情に合った訓練を重ねることも不可欠である。<br><br><br>参考資料:社会資本整備審議会大規模氾濫に対する減災のための治水対策検討小委員会資料, 2015.10.30
著者
大貫 靖浩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

演者は現在まで、さまざまな地形・地質・気候条件下における森林土壌を観察する機会を得てきた。森林土壌が斜面のどの位置でどのくらいの厚さを有し、どのような物理的性質(例えば容積重、孔隙率、レキ量)を持つかについては、森林土壌学の分野では系統だった研究は行われてきていないが、微地形分類を切り口にすると明瞭な区分が可能であることがわかってきた。本発表では微地形分類に基づく森林土壌の物理特性に関する研究成果について、北関東と沖縄で行った実例を紹介したい。<br> 調査地は茨城県城里町の桂試験地、および沖縄県名護市の南明治山試験地である。両試験地ともにいわゆる「低山帯」に位置する小流域で、桂試験地は中古生層の頁岩・チャート等の上に関東ローム層が堆積し、乾性~湿性の褐色森林土が分布している。これに対し南明治山試験地は、第三紀層の砂岩・泥岩等が基盤となり、一部でレスが堆積し、赤色土・黄色土・表層グライ系赤黄色土が分布している。<br> 桂試験地(2.3ha)では、682地点を測点とした地形測量によって精密地形図を作成した後、571地点で土研式簡易貫入試験を実施し、10地点で土壌断面調査を行った。桂試験地においては斜面中腹を限る形で明瞭な遷急線が確認でき、遷急線の上側には頂部斜面・痩せ尾根頂部斜面・上部谷壁斜面・上部谷壁凸斜面・上部谷壁凹斜面が、下側には谷頭斜面・谷頭急斜面・谷頭凹地・下部谷壁斜面・下部谷壁凹斜面・麓部斜面・小段丘面・谷底面が分布する。土層厚は痩せ尾根頂部斜面・上部谷壁凸斜面を除く遷急線上側の各ユニットと、谷頭斜面・谷頭凹地で厚いことがわかった。 <br> 土壌の物理特性は遷急線を境に明瞭に異なり、遷急線より上方の斜面では上部谷壁凸斜面を除き容積重が小さく、全孔隙率が高く、レキ量が非常に少ないのに対し、遷急線下方の斜面では容積重が大きく、全孔隙率が低く、レキ量が比較的多いことが明らかになった。保水機能に寄与する有効孔隙率は、遷急線より上方の頂部斜面で特に高い値を示すのに対し、遷急線下方の斜面では低い値を示し、レキ量の多寡が有効孔隙率に影響を及ぼしていると考えられた。<br> 南明治山試験地(1.0ha)では、130地点を測点とした地形測量によって精密地形図を作成した後、99地点で土研式簡易貫入試験を実施し、9地点で土壌断面調査を行った。南明治山試験地においては、明瞭な遷急線は上部谷壁斜面および谷頭凹地と下部谷壁斜面の境界に確認でき、遷急線の上側には頂部平坦面・頂部斜面・上部谷壁斜面・谷頭凹地が、下側には下部谷壁斜面および谷底面が分布する。土層厚は頂部平坦面および谷頭凹地で厚い。 土壌の物理特性は微地形および土壌型によって明瞭に異なり、頂部平坦面に分布する赤色土は容積重が大きく、全孔隙率が小さいが、飽和透水係数は比較的大きい。頂部平坦面・頂部斜面に分布する表層グライ系赤黄色土は、容積重がA層でも1.0Mgm<sup>-3</sup>を超え、全孔隙率・飽和透水係数ともに小さい。上部谷壁斜面・谷頭凹地に主に分布する黄色土は、赤色土・表層グライ系赤黄色土と比較して特にB層の容積重が小さく、全孔隙率・飽和透水係数が大きかった。土壌侵食危険度の指標となる粘土比と分散率は、赤色土・表層グライ系赤黄色土で高く、黄色土で低かった。
著者
松岡 由佳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.88, no.5, pp.498-513, 2015

<p>地域の精神科病院を核に,多様な主体が精神障がい者支援に関わる愛媛県南宇和郡愛南町を事例として,活動の地域社会への拡大と精神障がい者の受容過程を,主体間関係と「負のまなざし」の変容に着目して検討した.1962年の精神科病院開院後,病院職員と親交を深めていった地区住民は,社会復帰施設が開設された1970年代中頃から,地域の生業や伝統行事の闘牛を介して精神障がい者と関わり始めた.1980年代末には,専門職や企業経営者らの先導を背景として,ボランティア主体の精神障がい者支援組織が発足し,イベントの開催や就労支援の活動を精神障がい者と共に進めてきた.当初それぞれの主体が有していた精神障がい者への「負のまなざし」は,特定の精神障がい者と相互に顔の見える関係を築いていく中で,精神障がい者を受容する方向へと徐々に変容していった.しかしながら,近年は支援者間の意識のずれや,人口減少や高齢化に伴う活動の担い手不足も顕在化する.</p>
著者
小泉 武栄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.68, 2010

1 はじめに<br> 上関という町がある。山口県東部の瀬戸内海に浮かぶ長島の東端にできた漁業の町で、名前はいうまでもなく下関に対置されるものである。長島は、すぐ西にある祝島などとともに、周防灘と伊予灘を分ける防予諸島を構成しており、付近の海は魚の宝庫として知られている。一帯は瀬戸内海国立公園に含まれ、風光明媚なところでもある。<br><br>2 原発の建設計画が<br> 20年あまり前、長島の西のはずれの田の浦という入り江付近に原子力発電所を建設するという計画が持ち上がった。建設主体は中国電力である。過疎に悩む町当局は、莫大な交付金を目当てに建設に賛成したが、漁業への悪影響、原発事故の恐れ、優れた自然と景観の破壊、などを危惧した住民たちが、激しい反対運動を展開している。現時点で中電は反対を押し切って工事を始めたが、日本生態学会などが再三にわたって建設反対を表明している。<br> 演者は現地の住民に依頼されて、田の浦付近の地質・地形と自然の調査に赴いたのだが、天然記念物クラスのすばらしい自然がよく残っていることに驚かされた。<br><br>3 みごとな地質の接点と貫入したアプライト<br> 田の浦付近の地質は、領家帯の結晶片岩という、銀色をした層状のきれいな岩石からなる。これは2億年ほど前に堆積した砂岩・泥岩の互層が、地下深くに押し込められて変成岩になったものである。その後、この岩は花崗岩の貫入などによって押し上げられ、地表に現れたが、田の浦付近の海岸では、結晶片岩とそれを押し上げた花崗岩の接触部が至るところでみられる。両者の接点が観察できるところはきわめて珍しく、地質学の巡検地として最適である。<br> また田の浦の南にあるダイノコシと呼ばれる半島付近には、切り立った海食崖が発達している。この崖では、基盤岩の中に白や黄土色の筋が縦横に走って、特異な地質景観を示す。この筋は、岩が地下深くにあった頃、割れ目にマグマが貫入してきて固まったもので、アプライトと呼ばれている。筋は幅数cmから数10cm、とくに大きいものでは1m余りに達し、実にみごとなものである。岩場にはビャクシンがしがみつくように生えている。これも珍しい海岸植物で、学術的な価値が高い。<br><br>4 山と海のつながり<br> 田の浦付近では、手つかずの自然がよく残っていることも魅力的である。田の浦の背後は海抜100m前後の山になっているが、ここでは多少の雨では沢に水が流れないという。基盤の結晶片岩に割れ目が多く入り、風化が進んで表層に厚い土層ができているため、雨水はほとんどが浸透し、地下水になってしまうのである。この地下水は、海岸の岩場の下部などで染み出しているのが観察できるが、一部の地下水は浅海底の砂地や礫地を通って、田の浦の砂浜海岸から数10m離れた海底に湧き出している。<br> おもしろいことにこの湧水のある浅海底では、日本海にのみ分布する珍しい海藻が発見されている。地下水を通じての山と海のつながりが、このようなきわめて珍しい海藻の分布を生み出したわけである。<br> 瀬戸内海の島々には、かつてこうした豊かな自然が至るところにあったに違いない。開発によってその多くは消滅してしまったとみられるが、田の浦では原発の計画が持ち上がったために、自然の調査が進み、思わぬ発見につながった。怪我の功名といえよう。<br><br>5 危険な原発予定地<br> 風化物質はいつか崩れる。海岸では、背後の山から崩れてきた土砂の堆積が各地でみられる。1954年には豪雨に耐え切れず、沢という沢が崩壊し、海岸に大量の土砂をもたらした。その様子は1974年撮影の空中写真によく写っており、崩壊や堆積の痕跡は現在でも認めることができる。<br> このように原発予定地は、上からは崩壊の危険があり、下からは豪雨時に浸透した地下水が施設を持ち上げて破壊する恐れがある。さらに基盤の結晶片岩は、固い岩ではあるが、無数の割れ目が入り、脆弱なものに変化している。田の浦の入り江は、岩盤が相対的に弱いために、侵食されて入り江になったわけで、地盤は決していいとはいえない。<br>またここは地震の観測強化地区にも含まれており、まさにマイナス面のオンパレートである。仮の話だが、ここでチェルノブイリクラスの大事故が起きたとすれば、瀬戸内海全域が人の住めない場所になってしまう。原発事故に関しては、日本列島はこれまで余りにも悪運が強く、ぎりぎりのところで壊滅的な被害を免れてきた。しかしいつまでもそうはいかないということを考えるべきである。<br><br>6 まとめ<br>田の浦での原発の建設は断念し、天然記念物クラスのすばらしい自然を生かした自然観察の場として生かすのが、賢明というものであろう。
著者
猪股 泰広
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<b>1.はじめに<br></b> 近年,富士山の世界文化遺産登録や国民の祝日としての「山の日」制定など,山岳地域への関心が高まっている.観光対象としての山岳地域は,自然・文化の多様性や非日常性といった多くの魅力を有する一方で,人間活動の影響に対して実に脆弱である(Nepal and Chipeniuk 2005).人間による利用が進むこと,およびそれに伴い必要となる保全施策が進むことで,本来的に山岳地域が有する魅力を享受できなくなる,すなわち利用体験の破壊が生じるため(八巻 2008),利用目的や環境に応じた地域づくりが必要とされている.これについて,レクリエーション機会多様性(ROS)概念を用いた検討は多数なされているが,あくまで現況の指標に基づくものであり,地域的文脈はあまり考慮されていない.そこで本研究では,近代登山発祥以降の観光利用の進展が顕著な北アルプス槍ヶ岳周辺地域を対象に,山小屋の機能や周辺環境の変化に着目することで,登山観光地域の変容過程を明らかにし,今後の地域づくりの指針を得ることを目的とする.<br><b>2.対象地域<br></b> 槍ヶ岳(標高3180 m)は,長野県,岐阜県の境界に位置する北アルプス南部・槍穂高連峰の主要ピークである.東側に連なる常念山脈の存在や梓川沿いの地形の急峻さにより,近代登山発祥(1900年頃)以前は信仰登山目的などで僅かな人が立入るのみであった.1916年に営林署による島々~徳本峠,明神~槍ヶ岳の登山道が整備されて以降,要衝における山小屋開業とともに,槍ヶ岳周辺地域は登山観光地としての性格を表し始めた.槍穂高連峰や常念山脈は一帯が国有林であり,また中部山岳国立公園に指定されている.<br><b>3.登山の大衆化と地域の変容<br></b> 1920年前後,槍ヶ岳をめぐる登山道整備の進展に伴い山小屋の開業が相次いだ.当時は登山者の宿泊・休憩だけでなく,より高所にある山小屋への物資補給のための歩(ぼっ)荷(か)の中継施設としての機能を担う山小屋が多かった.1927年の釜トンネル開通,1929年のバス運行開始により,登山の起点が上高地に移ると,小屋の収容能力を超えるほどの登山者が訪れるようになった.高度経済成長を迎える頃には,収容人数増を目的とした小屋の増築が進んだことと,物資運搬手段としてのヘリコプター導入により,歩荷では不可能であった重い建材や新鮮な食料の供給が可能になったことが,設備充実や美味しい食事の提供をもたらし,登山者の利用体験の向上につながり,登山の大衆化を推し進めた. <br> 1970年代になると環境問題が顕在化し,1975年には国立公園で初となる上高地マイカー規制が実施された.こうしたことによる登山停滞期を経て,1990年頃から中高年,とくにレートビギナー層による登山が卓越するようになった.これを受けて,定員数百人の大規模な山小屋では,調理用コンベクションオーブンやビールサーバーを導入するなど,更なるサービスの向上を図っていた.一方で,増加する登山者の環境影響やそれに伴う利用体験の悪化を最小限に抑えるため,無放流水洗トイレの導入や官民連携での登山道整備の取り組みなどが行われている.今後の登山者の質的変化により,地域に求められるものも変化するであろう.
著者
大津 拓也 澤田 康徳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p><b>目的:</b>降水認識に関しては,これまで降水量に関する調査が主体で,防災上重要な降水量の空間的広がりに対する理解程度は明らかにされていない.降水量の空間的理解の深化には,降水量分布情報の活用が有効であり(島貫 1997),本研究では初等~中等教育段階における降水量分布情報の読図特性を明らかにする.</p><p><b>方法:</b>2017年6~7月に東京都内の小学校第5学年(97名),中学校第2学年(155名),高等学校第2学年(322名)を対象にアンケート調査を実施した.内容は,日本全国の降水量分布(8月)情報(段彩図および等値線図)について読図初見時に最初に着目した領域(着目域)と着目理由,さらに降水や気候に関する認識(天気に対する関心(5段階評価),最も印象に残っている雨に関する事柄(自由記述)などである.降水量分布情報の着目域は全400格子の着目域成分(有(1)無(0))に分け,それらに対してクラスター分析(Ward法)を施した.</p><p><b>結果:</b>着目理由の特徴は形式的なものと内容的なものに大きく分類できた.すなわち,形式-位置として居住地であること,図の中心であることや,形式-色として図内の着色が青(多い)/黄(少ない)であることなどがあげられた.また,内容-多寡として降水量の多さ/少なさ,内容-数値として降水量の値なども示された.着目域は8つに類型化され,関東挟域(Ⅰ),関東(Ⅱ),九州(Ⅲ),四国(Ⅳ),中部(Ⅴ),東日本,紀伊半島(Ⅵ),瀬戸内・関東(Ⅶ),瀬戸内(Ⅷ)である(図1).関東(Ⅱ)は着目理由が形式-位置(居住地)の割合が大きく(73.0%),天気に対する関心の上位得点(5・4点)割合が小さい(30.2%).一方,関東狭域(Ⅰ)の着目理由は内容-多寡(少なさ)の割合が大きく(55.6%),関心の上位得点割合も大きい(46.7%).また,四国(Ⅳ)は着目理由が内容-多寡(多さ)の割合が大きく(44.4%),関心の上位得点割合は小さい(25.9%).九州(Ⅲ)や中部(Ⅴ)は,着目理由が内容-数値の割合で大きく(15.6%や11.9%),関心の上位得点割合も大きい(40.3%や38.8%).瀬戸内・関東(Ⅶ)や瀬戸内(Ⅷ)は,着目理由が形式-色(少なさ)で上位得点割合が大きく(62.7%や51.5%),関心の上位得点割合も大きい(39.0%や39.5%).このように着目理由が形式-色および内容-多寡で割合が大きい場合,少なさに着目するタイプで関心の上位得点割合が大きい.また,内容-数値を理由とした割合が大きい九州(Ⅲ),中部(Ⅴ),瀬戸内・関東(Ⅶ)は自由記述において降水現象の仕組みに関する記述割合が大きく(10%以上),関心の上位得点割合も比較的大きい.なお,東日本,紀伊半島(Ⅵ)の下位クラスターで着目域が北海道の場合(12名),小学生の割合(58.3%)や形式的理由の割合(83.3%)が大きく,系列位置効果の関与が示唆される.一方,紀伊半島の場合(13名),着目理由は内容-数値の割合が大きく(23.1%),関心の上位得点割合も大きい(46.2%).さらに,着目域の分布箇所が重複しているⅠ・ⅡおよびⅦ・Ⅷの着目域の面積(S)は関東挟域(Ⅰ),瀬戸内・関東(Ⅶ)で小さい.この場合,内容-多寡(少なさ)の割合が大きいタイプⅠ,Ⅶで,着目域が限定的であった.等値線図では,中部(形式-位置)および四国(等値線の過密域:形式-線密度)に着目した頻度が高く,形式的理由が増大する.しかし,着目理由が内容-多寡(Ⅰ)や内容-数値(ⅢやⅤ)で割合が大きいタイプでは,等値線図においても内容的理由を記述した割合が大きい.すなわち,形式的・内容的な読図特性は図表現が異なっても維持される.対象者の読み取り方やその段階,属性に適応させた分布図情報や説明といった提供が極めて重要である.</p>