著者
横山 秀司 中村 直史
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.98, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 本研究は,福岡県の御笠川流域を例として,高度経済成長期以前の都市から山地までの景観構造を景観生態学的に明らかにし,現在との比較を試みたものである。まず,大正期に測図された1:25,000旧判地形図の土地利用をデジタル化し,それにデジタル化されたゲオトープ図(地形と地質)上に重ね合わせて,大正期の景観生態学図を作製した。そこで出現したポリゴンをエコトープとして判断した。それを,同様に平成10年測図の地形図から作製したエコトープと比較・検討する。<BR><BR>2.景観変遷<BR>2-1 大正時代の景観生態学図<BR> まず,前回作製した「福岡圏域の景観生態学図」から御笠川流域の地形・地質分類図を抜き出した。これをベースにして,大正時代の土地利用図をオーバーレイした。ただし,地形・地質分類図は平成時代のものであるので,人工改変地はすべて周囲の地形に合わせて,山地・丘陵,ないしは台地・段丘に修正した。「大正時代の景観生態学図」とも称すべきこの図では,11のエコトープに分類することができる。<BR> エコトープ1:流域の花崗岩からなる山地・丘陵部であり,森林で被われている。御笠川最上流部の宝満山周辺,牛頸川上流部の牛頸山地などに分布する。<BR> エコトープ2:花崗岩からなる山地・丘陵部であり,草地(茅場)として利用されていた。四王寺山地,三郡山地,高尾丘陵などでかなり広い面積を占めていた。<BR> エコトープ3:Aso-4火砕流堆積物に被われ山地・丘陵で,森林であるもの。二日市市街地から石崎付近までの西鉄大牟田線東側の丘陵部分に典型的に現れている。<BR> エコトープ4:Aso-4火砕流堆積物や段丘堆積物で形成された台地・丘陵上に立地した集落がのる。御笠川上流部の北谷集落,太宰府天満宮とその周辺,中流部の白木原,筒井,雑餉隈,井相田,上麦野・下麦野,諸岡,板付などの集落がこれに該当する。<BR> エコトープ5:Aso-4火砕流堆積物や段丘堆積物で形成された台地・丘陵上を森林が被う。御笠川上流部の北谷,水城の近くに位置する国分集落南に広がる緩斜面,二日市市街地の西などに見られていた。<BR> エコトープ6:台地・丘陵上の畑・桑畑である。エコトープ4の周辺や混在して島状に分布する。<BR> エコトープ7:台地・丘陵上の森林。春日原から雑餉隈付近,諸岡・牟田付近に島状に分布していた。<BR> エコトープ8:沖積平野上の集落域であり,御笠川の下流域に点在していた。特に,現在は福岡空港の敷地になっている地域に見られた。<BR> エコトープ9: 沖積平野の水田。御笠川とその支流の沖積低地および谷底平野に広く分布していた。<BR> エコトープ10:沖積平野の畑・桑畑。下流部の野入付近などに若干分布していた。<BR> エコトープ11:海浜・砂丘上の集落・市街地であり,博多の旧市街地はここに形成されていた。<BR> 2-2 現在の景観生態学図<BR> 大正時代のエコトープは現在どのように変化したであろうか。平成10年の景観生態学図からエコトープ毎に見てみたい。<BR> エコトープ1:御笠川最上流部の宝満山周辺,牛頸川上流部の牛頸山地などに残存する。<BR> エコトープ2,3,4,6,7,10:消滅ないしはほとんど消滅した。<BR> エコトープ5:御笠川上流部の北谷,水城の近くに位置する国分集落南に広がる緩斜面,二日市市街地の西などにわずかに残存。<BR> エコトープ8:大規模に拡大。<BR> エコトープ9: わずかに点在するのみとなった。<BR> エコトープ11:ほとんど変化なし。<BR> 以上のように,農業的土地利用はわずかに残存するのみとなり,森林も半減した。減少した部分は市街地に変化した。また,大正期にはなかったエコトープとして次のエコトープが新たに生じた。<BR> エコトープ12:火成岩地の人工改変地の市街地。春日市や大野城市の牛頸川上流山地・丘陵地のうち標高約150mまでの地域,および太宰府南の高尾山付近はほとんどが人工改変され市街地となった。<BR> エコトープ13火成岩地の人工改変地のゴルフ場・その他。12とほぼ同じ山地・丘陵域が人工改変され,ゴルフ場や霊園として造成されたエコトープである。<BR> その他,山地地域にはダム湖が造られ,河口には埋立地に市街地・工場等ができた。<BR><BR> 今後は,この景観生態学図の精度を高めることと,現地での景観生態学的調査を実施して,景観の構造と機能を詳細に明らかにしていきたい。
著者
山本 健兒
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.14, 2011

1.はじめに本報告の目的は,1990年代初め以降,長期的衰退傾向にあるわが国陶磁器地場産業の中で,有数の産地である有田においてどのような取り組みがなされてきたかを描き,その取り組みが結果としてより小規模な産地の自己主張を,したがって有田焼産地の分解傾向を明らかにすることにある.そのための主たる研究方法は,産地にある各種組合の理事長または専務理事,有力企業の経営者またはマネージャ,公的機関の陶磁器産業支援担当者への詳細インタビューである.これは2008年9月以降,特に2009年8月から2010年7月にかけて行った.その数は,12企業,8つの産地組合(卸団地,工業,商工,直売,波佐見,大川内,三川内,大有田),2つの公設試,1つの教育機関,佐賀県庁を含む4つの自治体である.2.有田産地の地理的構成有田焼産地は佐賀県有田町よりも広い範囲の分業関係から構成されている.これは例えば下平尾(1973)を初めとする成長時代の有田焼産地に関する諸研究から明らかである.これら先行研究に基づいてその概要を描けば次のようになる.豊臣秀吉の朝鮮侵略を契機として,九州北西部の諸大名は陶工たちを朝鮮半島から連れてきて,陶磁器業を各領内に移植した.その結果,日本の産業近代化以前に,佐賀県有田町に相当する範囲だけでなく,長崎県波佐見町,佐世保市三川内地区にも陶磁器産地が形成された.佐賀県内でも伊万里市大川内地区、武雄市山内町や嬉野市吉田地区に小産地が形成されていた.これらの産地はもともと独自の産地名をもつ製品を生産していたが,第二次世界大戦以降の有田焼の隆盛に伴って,その製造販売に関わる分業関係に組み込まれるようになった.特に生地成形は波佐見町の零細企業が担当し,これを各産地の窯元が焼成するという分業が発達したし,絵付けに特化する零細企業も有田町や波佐見町に多数立地した.旅館や割烹に有田焼を販売する商社は有田町に多数存在するようになったが,デパートなどに卸す比較的大規模な商社は波佐見町で発達した.また近代化以降,すべての小産地で製造される陶磁器の原料は天草陶石となったが,これを陶土に加工するのは主として塩田町(現嬉野市)の業者である.したがって,有田焼産地は実態として佐賀県と長崎県にまたがって形成されるようになった.3.衰退時代のイノベーション形成の試み有田焼生産が1990年代初め以降衰退しつつある理由は,陶磁器への需要低下にある.これをもたらした原因として外国からの安価な陶磁器の輸入もあるが,それ以上に日本人の生活スタイルの変化と旅館や割烹などの低迷による業務用和食器需要の減退が影響している.しかし,日本国内の他の陶磁器産地に比べて有田焼産地には,衰退傾向に対して相対的に踏みとどまる側面もある.それにはイノベーションが寄与している.そのイノベーションには,個別窯元企業あるいは産地問屋をプロモータとする新製品開発もあるが,新製品考案の知的交流の仕組みとこれに関連する流通経路の革新も,産地の維持に貢献している.産地の各種組合の弱体化の一方で,有田焼産地の中にあるより小規模な産地単位でツーリズムと結合しようとする動きもまた,従来の流通経路を破壊し革新するという意味でイノベーションの一つに数えられる.有田町では陶磁器産業で「肥前は一つ」という運動が成長時代末期に展開した.また衰退時代には有田町だけでの産地ブランド運動が起こるというように紆余曲折があったが,現在は有田焼という名称とは別に,伊万里市大川内地区の鍋島焼,長崎県波佐見町の波佐見焼,佐世保市三川内地区の三川内焼を前面に出す動きが顕著になりつつある.大川内では1960年代の洪水被災の後、1980年前後から開始された長期にわたる景観整備と結びついて,ツーリズムと結合させる産地振興が進んだ.波佐見町では,産地ブランドというよりもむしろ,独自の企業ブランドを確立した窯元による東京の消費者との直接的結びつきや,東京に本拠を置くプレミアム商品等開発企業との提携で従来の有田焼や波佐見焼のイメージとは全く異なる新商品開発生産に従事する企業などが,いずれも波佐見町中尾地区の景観と結びついてツーリズムの振興につながっている.三川内でも,産地組合が従来の機能を停止してツーリズムへと走りつつある.4.おわりに上に見た有田焼産地でのイノベーションのための試みは,各小産地の商品を小産地名で再生・復権あるいは普及させようとする動きへとつながっている.したがってかつての有田焼産地は,幕藩時代に形成された小産地へと分解する傾向にあるといえる.今後,有田焼産地は縮小を余儀なくされるであろうが,各小産地でのイノベーションへの努力によって,小産地は,あるいは企業単独でのブランドを確立した企業は存続する可能性が高い.
著者
山本 晴彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

軍用気象学への認識の高まりを受け、軍用気象会が昭和5年に設立されたが、陸軍の砲工・航空の両学校では必要に応じて(陸士卒)を中央気象台に短期派遣し、気象に関する講習を受講させていた。昭和6年からは、陸軍航空本部に教室を整備し、近接する中央気象台に依嘱して気象勤務要員の養成が行われた。第1・2回(昭和7・8年)各8名(大尉・中尉)が修学し、戦中期の陸軍気象部の中核を担う人材が養成された。<br> 昭和10年8月、陸軍砲工学校内に附設の気象部が設立され、軍用気象学をはじめ、軍用気象勤務、気象観測、気象部隊の編成・装備・運用等の研究、軍用気象器材の研究・検定、兵要気象の調査、気象統計、兵要誌の編纂、気象要員の養成が主な業務であった。武官の職員には、武や古林などの気象勤務要員の教育を受けた将校も携わった。外部から気象学、物理学、数学関係の権威者を専任教官として講師に任命した。第1期生(昭和11年)は、荻洲博之、田村高、夕部恒雄、泉清水、中川勇の5名が入学し、修了後は気象隊、関東軍司令部、陸軍気象部、南方軍気象部等に派遣された。第2期生(昭和12年)も久徳通夫高他5名、第3期(昭和13年)は蕃建弘他4名の大尉や中尉が連隊等から派遣されている。<br> 昭和13年4月、陸軍気象部令が公布され、陸軍砲工学校気象部が廃止されて陸軍気象部が創設された。「兵要気象に関する研究、調査、統計其の他の気象勤務を掌り且気象器材の研究及試験並に航空兵器に関する気象器材の審査を行ふ」と定められ、「各兵科(憲兵科を除く)将校以下の学生に気象勤務に必要なる学術を教育を行ふ」とされ、「必要に応じ陸軍気象部の出張所を配置する」とされた。組織は、部長以下、総務課(研究班、統計班、検定班を含む)、第一課(観測班、予報班、通信班)、第二課(学生班、技術員班、教材班)で構成され、気象観測所、飛行班も設けられた。ここでも、陸軍砲工学校気象部の出身者が班長を務め、嘱託として中央気象台長の岡田武松をはじめ、気象技師、著名な気象学者などの名前も見られ、中央気象台の技師が技術将校として勤務した。戦時下で企画院は気象協議会を設立し、陸軍・海軍と中央気象台・外地気象台の緊密な連繋、さらには合同勤務が図られた。昭和16年7月には、陸軍中央気象部が臨時編成され、陸軍気象部長が陸軍中央気象部を兼務することになり、昭和19年5月には第三課(気象器材の検定等)が設けられた。さらに、気象教育を行う部署を分離して陸軍気象部の下に陸軍気象教育部を独立させ、福生飛行場に配置した。終戦時には、総務課200名、第一課150名、第二課1,800名、第三課200名が勤務していた。<br> 陸軍気象部では、例えば昭和15年には甲種学生20名、乙種学生80名、甲種幹部候補生92名、乙種幹部候補生67名に対して11カ月から5か月の期間で延べ259名の気象将校の養成が計画・実施されていた。また、中等学校4年終了以上の学力を有する者を採用し、昭和14年からの2年間だけでも675名もの気象技術要員を4か月で養成する計画を立て、外地の気象隊や関東軍気象部に派遣していた。戦地拡大に伴う気象部隊の兵員補充、陸軍中央気象部での気象教育、本土気象業務の維持のため、鈴鹿に第一気象連隊が創設された。昭和19年に入るとさらに気象部隊の増強が急務となり、第二課を改編して前述した陸軍気象教育部を新設し、新たに航空学生、船舶学生、少年飛行兵の教育を開始し、気象技術要員の教育も継続された。養成された気象将校や気象技術要員は、支那に展開した気象部(後に野戦気象隊、さらに気象隊に改称)をはじめ、外地に展開した気象部隊に派遣された。<br> 第一課では、兵要気象、気象器材の研究・考案・設計、試作・試験が行われ、気象観測所の開設や気象部隊の移動にも十分に耐え得る改良が求められた。第二課では、高層気流・ラジオゾンデ観測と改良、ガス気象観測、台湾での熱地気象観測などが実施され、中央気象台や海軍の水路部などの測器との温度器差も測定された。さらに、気象勤務教程や気象部隊戦闘規範を作成して気象勤務が詳細に定められ、現地で実施されていた。陸軍気象部では作戦用の膨大な現地気象資料、陸軍気象部月報、現地の気象部隊でも各種の気象資料や気象月報が作成されていた。<br> 終戦により膨大な陸軍気象部や気象部隊の書類・資料は機密保持の目的で大部分が焼却された。連合軍司令部は陸軍気象部残務整理委員会を立ち上げ、陸軍気象機関の指揮系統・編成、気象部隊の分担業務、気象器材の製作会社、陸軍気象部の研究調査内容、陸軍と海軍における気象勤務の協力状況、中央気象台との関係、さらには予報の種類、観測・予報技術など120頁にわたる報告書を作成させた。なお、終戦時に内地・外地に展開していた気象要員の総数は2万7千名にも達していた。
著者
高橋 日出男 大和 広明 紺野 祥平 井手永 孝文 瀬戸 芳一 清水 昭吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.127, 2011

<B><U>◆はじめに</U></B>:東京など沿岸部の大都市では,海風吹走時に都市域風下側で海風前線が停滞しやすく,そこでの上昇流が強化されること,海風前線前方の地上付近には弱風域・下降流域が存在することなどが数値モデル(Yoshikado 1992, Kusaka et al. 2000, Ohashi and Kida 2002など)やパイバル観測結果の解析(Yoshikado and Kondo 1992)から指摘されている.しかし午後以降の海風前線通過後における都市域の風系鉛直構造については明確に示されていない.東京都心風下にあたる都区部北側には降水エコーや強雨の高頻度域が認められ,これを考察するためにも鉛直流に関する理解が不可欠である.本観測では,東京都心の海風風下側でドップラーソーダを用いて三次元風速成分の鉛直分布を測定し,海風前線の通過時とそれ以降における鉛直流の構造の把握を目的とした.<BR><B><U>◆観測概要と解析資料</U></B>:観測は2010年8月24, 25日の日中に戸田市戸田公園付近の荒川左岸河川敷で実施した.両日とも午後に関東平野北部や関東山地で発雷があったものの,観測場所では概ね晴天で経過した.観測項目は,ドップラーソーダ(Scintec社製MFAS)による700mまでの三次元風速成分(平均時間30分),パイバル(30分~1時間ごと),総合気象測器(Luft社製WS600)による地上1.5mの風・気温・水蒸気量・気圧(1分平均),および長短波放射(英弘精機社製MR-50,1分間隔)である.また,当日の気象条件の解析にあたり,東京都と埼玉県の大気汚染常時監視測定局(常監局)の観測値およびMTSAT可視画像を参照した.<BR><B><U>◆観測結果と考察</U></B>:観測両日とも太平洋高気圧のリッジが日本のすぐ南(30N付近)に位置しており,700hPa付近までは一般風として南~南西風が期待された.常監局の風データによると,都区部東部において,両日とも10時頃より東京湾岸から南東~南南東風が北側へ拡大し,その後に都区部西部で南~南南西風が強まった.12時には埼玉県南部(都県境付近)まで,15時には埼玉県中北部まで南風が達しており,これに対応した積雲列の北上も認められた.また,観測点では水蒸気混合比(地上)の増大が24日は12時半頃,25日は12時頃にあり,これ以降は地上から1300m程度上空(パイバル観測による)まで安定して南風が卓越していた.つまり,この頃に観測点を通過した海風前線がその後さらに内陸へ進入したと考えられる.<BR> 図は24日のドップラーソーダによる風速の南北(V)および鉛直(W)成分の時間変化(南風層の下側半分に相当)であり,海風前線の通過に対応して,上空には大きな上昇流(1m/s以上)が認められる.海風前線が埼玉県中北部まで移動したと判断される15時においても,200mより下層には弱い下降流がある一方で,上空には1m/s近い上昇流が持続的に存在している(25日も同様).海風前線が都市域を通過した後に認められた都市(都区部)風下の大きな上昇流は,風系や対流雲発生に対する都市の影響を考えるうえで興味深い現象と考えられる.今後,都心風上側あるいはより内陸側を含めた複数個所で同時観測を実施する予定である.<BR><BR>図 ドップラーソーダによる風速の南北(V)および鉛直(W)成分(24日)<BR>図のベクトルは鉛直成分を10倍に拡大している.等値線は鉛直成分の大きさを示す.
著者
石川 菜央
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.10, 2006

_I_ 本研究の目的と着眼点牛同士を闘わせ,先に逃げた方を負けとする日本の闘牛は,現在,岩手県山形村,新潟県中越地方,島根県隠岐,愛媛県宇和島地方,鹿児島徳之島,沖縄県の6地域で行われている.従来の意義を失った多くの伝統行事が,消滅あるいは縮小する中,闘牛はいかに維持され,地域に対してどのような意義を持つのであろうか.本研究では,徳之島の闘牛を取り上げ,担い手に着目して,その存続の形態を解明する.話者は,宇和島地方や隠岐を事例とした研究で,存続に最も重要なのは,闘牛の飼育者である「牛(うし)主(ぬし)」,牛をけしかける「勢子(せこ)」を中心とする担い手であることを指摘した.また,家族や近所の住民が彼らを支え,様々な形で闘牛に関わることで,闘牛が地域の行事として成り立つことを示した.両地域では,担い手の高齢化や後継者不足などの課題を,観光化や行政の支援で補ってきた.これに対し徳之島は,闘牛開催地の中で唯一,後継者不足がない地域であると言われる.本研究では,徳之島の闘牛において,次世代の担い手が続々と誕生している仕組みと,それを可能にしている独自の闘牛の特徴を全国の中で位置づけることを目的とする.具体的な手順として,闘牛の始まりなどの歴史的経緯,行政や学校など闘牛を取り巻く諸機関の対応を踏まえる.次に闘牛の「闘」の部分に注目し,牛が勝つことの徳之島での意義を提示し,そして,次に闘牛の「牛」の部分に注目し,担い手の日常生活の多くを占める牛の飼育の場や売買を中心に,次の担い手が育つ仕組みを提示する.徳之島を中心に闘牛を通した交流の全国化についても言及する._II_ 闘牛大会と担い手牛を飼うことは,経済的には赤字であり,仕事以外の時間の大半を費やさねばならない. その負担を超えるものとして,牛主たちは,勝った時に湧き上がる「ワイド,ワイド」という徳之島独特の掛け声で踊る時,最もやりがいを感じるという.勝利は,お金では買えないからこそ,価値があり,仕事の成功などの社会生活とは異なる尺度として意味を持つ.闘牛大会で牛が勝つということは,牛だけではなく,牛主自身の評価にもつながるのである.それは,徳之島でしか通用しない価値観とも言えるが,担い手にとっての喜びは何よりも実感を伴った,代替不可能なものである.就職や進学で島を出た若者が,闘牛のために島へ戻ってきたり,本土で事業を行い成功した島出者が牛のオーナーとして闘牛に関わり続けたりするように,いったん身に付けた闘牛に関する価値観は島を出ても保たれる._III_ 牛の飼育の次世代の担い手牛主の1年の大半を占める活動は飼育である.その現場となる牛舎に集う人々を分析した結果,成人男性だけではなく,小中高生や女性も,飼育の主戦力として活躍していることが分かった.また,牛舎は牛の世話だけではなく,人々が立ち寄って,牛の話をしながら飲食を共にするような場所となっている.これが,様々な人が闘牛に関わるきっかけを作り,新たな担い手が生まれる基盤となる.牛主同士の交流に関して重要なのが牛の売買である.徳之島における特徴は,強い牛を求める担い手達の執着が,闘牛の全国化を推し進めていることである.各地から集まってきた闘牛が徳之島を経由して,別の開催地へ売られていく.徳之島を中心として担い手間の交流はますます盛んになり,闘牛を力強く支えていくであろう.
著者
安倉 良二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1990年代から2000年代半ばに至る大型店の出店規制緩和は,売場面積の大型化と複合化を伴いながら大型店の出店をめぐる都市間競争を加速させた。他方,都市内部の小売活動をみると大型店の隆盛とは対照的に,中心商店街の衰退が不可逆的に進んでいる。こうした中,全国の中心商店街では,観光やイベントの開催ならびにコミュニティ活動の拠点づくりなどを通じて,多くの人々に商店街の存在をアピールする試みが行われている。しかし,その効果が十分であるとは言い難い。<BR> 大型店の立地変化が都市の小売活動に与えた影響に関する研究の多くはモータリゼーションが進み,公共交通機関が未整備な地方都市を対象に,郊外地域の成長と中心市街地の衰退を結びつける形で進められた。しかし,大型店の隆盛と中心商店街の衰退は公共交通機関の便が良い大都市圏近郊都市においても確認できる。とりわけ,中心商店街に近い工場跡地における大型店の立地は,中心市街地の内部というミクロなスケールで大型店の隆盛と中心商店街の衰退という小売活動の二極化を促していると思われる。その実態を明らかにしながら,小売活動の衰退が進む中心商店街におけるまちづくりの動向を論じることは,商業からみた都市空間のあり方を考える上でも見逃せない。<BR> そこで,本報告では,大都市圏近郊都市の中心市街地における小売活動の変化について,大阪市の東隣に位置する八尾市を事例に選び,大型店の立地動向と衰退する中心商店街におけるまちづくりの取り組みの2点から検討することを目的とする。<BR> 八尾市の中心市街地は,江戸時代に建立された大信寺(八尾御坊)の寺内町として形成された。1924年の大阪電気軌道(現在の近鉄大阪線)開通後,八尾市は大阪市の近郊都市としての性格を強めた。中心商店街は1960年代前半まで周辺市町から多くの買い物客を集めていた。<BR> 中心市街地の小売活動が大きく変化する契機となったのは,1960年代後半以降の大型店の相次ぐ立地である。それは以下の2つの時期に分かれる。ひとつは,1960年代後半~1970年代であり,当時の近鉄八尾駅北側にある住宅地に総合スーパーによる単独店舗が相次いで出店した。もうひとつは,1980年代以降である。1981年西武百貨店(現在はそごう・西武)が,「八尾西武」の名称で区画整理事業の完成(1978年)に伴って移転した近鉄八尾新駅前に出店した。区画整理事業区域には,2006年コクヨ八尾工場の跡地を利用して,イトーヨーカ堂の大型ショッピングセンター「Ario」の関西第1号店も開業した。八尾新駅における一大商業集積の形成は,中心商店街における空き店舗の発生ならびに旧駅北側にあった既存大型店の閉店を導いた。<BR> 中心商店街におけるまちづくりの取り組みとして,商業振興面では,毎月11日と27日に大信寺前で開催される露店市「お逮夜市」にちなんだ販促活動が継続的に行われている。また,商業振興以外では2000年代以降,近隣住民に対するファミリーコンサートや歴史散策のイベント開催ならびに空き店舗における子育て支援活動が行われた。しかし,これらの取り組みは市役所からの補助金に依存しており,単発的なものになっている。<BR> 小売活動において大型店との格差が極めて明瞭な八尾市の中心商店街がまちづくりを進めるに際しては,商店街関係者以外の人的資源を活用しながら,寺内町という歴史資源を活用した観光面でのPRに力を入れるなど,いかにして大型店との差別化を図ることができるのかが大きく問われるであろう。<BR>
著者
竹本 弘幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<b>はじめに</b> 昨今の論文に見られるオリジナルデータと新発見史料の無断使用は,多くの不利益を発生させている.本発表では,演者が体験中の被害事例(科学者の行動規範に抵触)を紹介し,この積み重ねがジオパーク運営においても大きな支障となるこの問題にどう向き合うべきか考えたい.<br><br><b>新発見史料の被害実態と再発防止の警告文例</b><br><br>■下記機関・関係者は,演者が2002年日本火山学会で発表,公開講座限定で協力した「新発見の画像と内容」を無断で転載したものを今も頒布・販売を継続中.提供目的外で流用解析して論文を公表するなど不正行為を続けています.今後の発表を含め,この関係者には2次使用も一切お断り致します.会員各位には,不正排除と再発防止に御協力をお願い致します<br><br>① 内閣府中央防災会議(2005)1888磐梯山噴火報告書184p.<b>N</b><b>氏</b>執筆 p12-15.<br><br>②<b> S氏・Ch氏・N氏</b>(2005)磐梯山に強くなる本(福島県火山学習会)28p.磐梯山噴火記念館.【うつくしま基金助成 有償】p12に無断掲載<br><br>③ 福島県立博物館(2008)会津磐梯山 p48-49,T氏(2009)同紀要23号p13-34.<br><br><b>繰り返される3つの不正行為の実態とまとめ</b><br>2008年地元研究者の通報により被害を知り内閣府へ通報➡内閣府は<b>N</b><b>氏</b>を厳重注意➡<b>N</b><b>氏</b>は,事実を認め2度と無断使用や私の研究に支障を来すことをしないと確約する謝罪書面を提出することで決着.しかし,この報告書はネット閲覧可能となり拡散されていた.2016年<b>N</b><b>氏</b>査読で学会誌「火山」に画像を無断掲載した論文が公表されたことで被害が拡大.1年以上内閣府・学会に被害報告をし,画像と関係文書が削除された.<b>N</b><b>氏</b>は学会の聞き取りに,竹本(2013)の発表と警告文の存在を2017年まで知らなかったと証言したが,2013年大会実行委員長・発表プログラム編集委員に加え,有力2紙に3日間報道されていたことから主張は退けられ,公開講座資料・学会誌・J-Stage上からも掲載画像は全て削除された.①同様,<b>N</b><b>氏</b>が流用した画像を掲載,他の個人や機関も同様の被害.奥付に氏名・機関名まで無断掲載され,著作権まで主張.この行為を止めるよう<b>3学会要旨集に警告文を掲載(~2015).</b>2016年時点でも販売していたことから訴訟通告.その後,和解の申入れがあり,合意文書の作成とHP上でお詫び掲載, 配布先へ合意文の添付を確約したので和解.しかし,履行確認のため県立図書館等で検証すると,全文掲載が基本である文書は改ざんされ,一部の隠蔽が判明.2008年会津磐梯山展で噴火画像を展示・解説したいと<b>T</b><b>氏</b>より依頼を受け,画像と解説文を提供.図録は届くが掲載なし, 翌年刊行の紀要にも謝辞・引用もなく全て<b>T</b><b>氏</b>の研究成果となっていた.2016年,画像を無断使用した「火山」論文執筆者が自説裏付に当該紀要を引用しており,再発防止のため博物館へ厳重抗議と引用不要を火山学会に申し入れることを和解条件とした<b>(音声データ有)</b>.その際,提供条件すら守っていなかったことが判明.一方,和解条件である図録と紀要の一部制限は,館側に拒否され被害は拡大中であり,<b>T</b><b>氏からの謝罪はただ一度もない.</b>また,<b>S</b><b>氏</b>は<b>磐梯山噴火写真帳の寄託者A氏</b>に無断で複製を作成所持するなど「科学者の行動規範」に抵触する人物であり,彼らが関与する限り当該ジオパークはリセットすべきものと考える.
著者
大矢 雅彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.52, no.8, pp.407-425, 1979
被引用文献数
2 2

バングラディシュ政府は,日本政府に対しブラマプトラ-ジャムナ川での架橋援助を要請してきた.しかし,この川は河道変遷・河岸変遷が著しく,巨大であるため,河道固定は不可能である.そこで,筆者はあらかじめ選ばれたバハドラバッド,ガバルガオン,シラジガンジおよびナガルバリ(アリチャ)の4地点のうち,いずれの地点が最も安定していて架橋に適するかを応用地形学的立場から調査することを要請された.<br> 筆者は, (1) 河岸線および流心の変化を調査するとともに, (2) ブラマプトラ-ジャムナ川沿岸地形分類図(1/5万), (3) ブラマプトラ-ジャムナ川,ガンジス平野地形分類図(1/100万)を作成した. (1) の結果,ナガルバリはガンジス川の背水の影響を受けて河岸,州および流心の位置の変化が最大であること,また,バハドラバッドも変化が大きいこと,これに比べてガバルガオン,シラジガンジの変化が少ないことがわかった. (2) の結果,バハドラバッド,ガバルガオンは形成開始以来180年しか経過していない扇状地上に位置し,将来河道変遷がおこりうること,シラジガンジ以南は自然堤防地帯河川の特色をもつこと,シラジガンジには地盤の隆起運動によって形成されたと見られる180年以上経過した古い沖積平野による狭さく部があって,河道が一定しており,この狭さく部は今後も存続しうると考えられることなどがわかった. (3) の結果,バハドラバッド,ガバルガオン付近には断層線,線状構造があるが,シラジガンジにはないことがわかった。上記の諸点にもとづいて,筆者はシラジガンジを4架橋候補地点中では最適であると判断した.
著者
田中 雅大
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2019年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.139, 2019 (Released:2019-09-24)

いまやデジタルなものはあらゆる場所に行き渡り,社会を構成する重要な存在となっている.そこで人文社会科学の分野ではデジタルなものに関する存在論的・認識論的・方法論的な議論が活発化している.本発表では英語圏を中心に展開されている「デジタル地理学」という取組みを概観し,特にソフトウェアの役割に着目しつつ,デジタルなものに関する地理学的議論の動向を紹介する. 重要なのは,デジタル地理学はその名の通り「デジタル」なもの(ソフトウェア等)に注目するということである.技術的にいえば「デジタル」とは数値によって離散的に情報を表すことを意味する.あらゆるデジタルなものは「数値」という点で同質・等価であり,すべて分け隔てなくコンピューティングの対象となる.また離散的であるためソーティング(整列)のような操作を施せる.突き詰めればデジタルなものは物理的実体のない数値という抽象的存在である.人々は様々なモノをインタフェースにすることでデジタルなものと物質的に関わっている. コンピュータの処理速度が飛躍的に向上し,様々なインタフェースが日常空間のあらゆる場所で登場するようになったことで,デジタルなものが有する上記のような性質が社会-空間的問題を引き起こしている.ここでは都市空間におけるソフトウェア(コード)の役割を論じたThrift and French(2002)を筆者なりに解釈しつつ,デジタルなものと地理学の関係を整理したい.彼らによればソフトウェアの根幹は「書くこと」であり,それには3つの地理学的含意がある.すなわち,①ソフトウェアを書くことの地理,②ソフトウェアが書く地理,③書き込みの場としてのソフトウェアの地理,である. ①については,どこの・誰が・どのようにソフトウェアを書くのか,またそれに参加できるのか,という経済・文化・政治に関わる問題がある.また,人間はソフトウェアを書く行為を通じてデジタルな空間的知識(デジタルなまなざし・世界観)を身に着ける,という認識論的問題もある. ②は空間の監視や管理の問題と関係している.デジタルな存在であるソフトウェアの働きを人間は直接知覚できない.ソフトウェアは常に「背景」や「影」として存在し,人間の無意識の領野にある.その意味でソフトウェアは人間を超えた存在more-than-humanである.それは様々なアクターとの布置連関の中で行為主体性agencyを発揮し,都市のような空間を自動的に生産している.都市に存在するあらゆるものが様々なデバイスを通じてデジタル化され,数値として一緒くたに扱われ,ソーティング等の操作を施される.それはすぐさまインタフェースを介して物理空間に反映され,新しいかたちの社会的不平等・排除を引き起こしている.2000年代以降,こうしたポスト人間中心主義的な「空間の自動生産」論が展開されている. ③は人間と空間の関係に関わる問題である.ソフトウェアは創造性を発揮できる実験的な場でもある.たとえばThrift and French(2002)は,創造的なソフトウェアプロジェクトの多くが人間の身体に関心を寄せていることに注目している.ソフトウェアは五感の拡張(拡張現実,仮想現実等)や記憶の保存(過去把持)に関わっており,「人間」や「文化」なるものはどこに存在するのか,という問題を喚起する.Thrift, N. and French, S. 2002. The automatic production of space. Transactions of the Institute of British Geographers 27: 309-335
著者
矢部 直人 埴淵 知哉 永田 彰平 中谷 友樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2020, 2020

<p>新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の日本における広まりを受けて,日本政府や新型コロナウイルス感染症対策専門家会議,自治体は2月中旬頃より,さまざまな要請を行った。2月下旬から3月上旬にかけて,密閉された空間,人が高密度に集まる空間,人と密接に接触する機会といった,3密を避けることが要請された。3月下旬には,東京都知事が自宅での就業や,不要不急の外出を控えるように要請。さらに4月7日に日本政府は7都府県を対象として緊急事態宣言を行い,人と人との接触を最低で7割から8割減らすことを目標として外出自粛を要請した。4月16日には,緊急事態宣言の対象が全国に拡大された。ただし,西ヨーロッパや北米と比較すると,日本における外出自粛要請は罰則がないことなど,ゆるやかな外出制限にとどまっている。</p><p></p><p>外出自粛に当たっては,オンライン会議システムを用いた在宅勤務など,インターネットの利用により外出行動を代替することが注目を集めた。インターネットの利用による外出の代替については,Andreev et al. (2010)が既存研究をレビューしており,在宅勤務は外出を代替する効果が明らかなこと,オンラインショッピングでは代替よりも補完の効果が優勢なこと,ネットの余暇・娯楽利用については研究が少なく効果が定かではないことが示されている。</p><p></p><p>本研究では,5月に外出行動の把握を目的としたインターネット調査を行い,外出行動やネットの利用などについてのデータを収集した。回答数は1,200名である。</p><p></p><p>最初に,ネット利用と行くことを控えている外出先の関係をみるため,コレスポンデンス分析を行った。その結果,仕事でのネット利用と職場への外出を控えることとの関係,余暇・娯楽でのネット利用と飲食店やショッピングモールへの外出を控えることとの関係,などの対応が明らかになった。</p><p></p><p>次に,2月中旬から5月中旬にかけての外出時間の推移とネット利用の関係について,マルチレベルモデルを使って分析した。その結果,ネット利用に関しては日常の買い物,社交,運動,余暇・娯楽といった利用が有意な変数となり,いずれも外出時間の減少率を大きくする方向に影響していた。一方,職場がネットを使った勤務に対応していないことは,外出時間の減少がゆるやかになる方向に影響していた。特に従来の研究が少ない,ネットの社交,運動,余暇・娯楽利用について外出を代替する関係が目立つ。一方,日常の買い物でのネット利用は,上記の社交などでのネット利用に比べると,外出を代替する関係は弱いことが分かった。</p><p></p><p>Andreev, P., Salomon, I. and Pliskin, N. 2010. Review: State of teleactivities. <i>Transportation Research Part C: Emerging Technologies</i> 18: 3-20.</p><p></p><p>本研究はJSPS科研費(17H00947)の助成を受けたものです。</p>
著者
深見 聡
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2019, 2019

<p>1.はじめに</p><p> 地域にとってプラスにもマイナスにも作用する可能性のある観光は、もはや21世紀における主要産業として欠かすことのできない存在となっている。そのため、「持続可能」という言葉が意味する、「本物」を保全・利用しながら次世代へと承継していく視点は、より高まっていくと考えられる。そこで登場してきたのが、エコツーリズムや世界遺産観光といった、地域への経済的効果ばかりではなく、保全意識の高まりや地域への共感といった、社会的効果が期待される「持続可能な観光」という考え方である。</p><p> そこで、本報告は、2020年に世界自然遺産への登録審査を控える「奄美・沖縄」の事例に焦点をあて、持続可能な観光につながる世界遺産登録の役割について考察を加えていくことを目的とする。</p><p></p><p>2.「奄美・沖縄」の世界自然遺産登録再推薦までの動向</p><p> 2018年の第42回ユネスコ世界遺産委員会が終了した時点で、日本には22件(自然4、文化18)の世界遺産が存在する。ここで取り上げる南西諸島では、屋久島(1993年登録)のほか、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(2000年登録)がある。首里城跡や斎場御嶽、今帰仁城跡など、観光客の増加は、地域経済に恩恵をもたらすと同時に、「観光公害」や「オーバーユース」といった、いわゆる観光客のマナーが原因となるさまざまな課題も生じている。</p><p> 登録件数の増加にともない、世界遺産の登録審査もより狭き門となりつつある。原則として年1回開催の世界遺産委員会における本審査に臨める候補は、従来の1か国につき「自然遺産・文化遺産で各1件まで」から、2020年より「自然遺産・文化遺産のいずれか1件」へと変更される。すなわち、国内での推薦を獲得するハードルが高くなることは確実と指摘されている。2019年1月、「奄美・沖縄」は、ふたたび世界遺産の審査に臨むことが決定した。当該地域の持つ自然や独特の文化の魅力は言わずもがなのものがある。そこに附言するならば、アマミノクロウサギやヤンバルクイナ、イリオモテヤマネコなどの希少生物に代表される、豊かな自然環境とそれらに育まれる文化を承継してきた当事者(主体者)に位置する島民にとって、今回の再推薦の決定に至る合意形成のプロセスが、どの程度ていねいに踏まれたのか、我われ研究者は十分に注視する必要がある。専門家が認める学術的価値や、それらを説明するストーリーは、専門家のなかで完結してしまうものではない。それらの価値が、地域で浸透していく過程が尊重されねばならない。このことを疎かにし、地域が置き去りにされるという感覚に陥った瞬間、保全とその背後にある観光との均衡は、余りにも脆弱なものになってしまうおそれがある。</p><p> 2018年5月、世界自然遺産の現地調査を担うIUCN(国際自然保護連合)は、「登録延期」という中間報告を発表し、政府はいったん申請を取り下げた。そのわずか半年後に、政府が再推薦の方針を示したことになる。この短期間に、学術的価値に限れば、ストーリーの再構築は可能だったかもしれない。しかし、保全の当事者である地域住民に対して、再推薦に向けた意識醸成や一体感といった動向は想定以上に伝わってこない。筆者が対象地の非居住者であり接する情報が少なくなってしまうことだけとは言えないと考えられる。</p><p></p><p>3.考 察</p><p> たとえば、それぞれの道に秀でた専門家の理解と、その理解を求め深めていく対象としての地域住民が価値の共有に至るまでの道のりには、どうしてもタイムラグが生じる。したがって、この時間差を半年の間で埋められたのか大いに疑問が残る。</p><p> 2018年に沖縄県が「奄美・沖縄」に含まれる西表島の島民を対象に実施したアンケート調査結果によれば、世界遺産登録を望まない割合が高く、その理由が「自然遺産に登録されると観光客が増えることで保全への不安が高まる」という、世界遺産制度のジレンマを地域住民が抱えていることがわかった。また、著名な観光サイト「トリップアドバイザー」でも、「奄美・沖縄」を、「世界遺産に登録される前に行っておきたい」と紹介しており、世界遺産観光の本来の役割はどこにあるのかを逆説的ではあるが観光者や研究者への問題提起ととらえられる。</p><p></p><p>4.おわりに</p><p> 世界遺産は、その根拠条約において保全を目的に掲げる一方、観光振興との両立には触れられていない。しかし実際には、魅力ある地域の宝が登録の対象となり、その価値共有の側面からも世界遺産観光が二次的現象として活発化し現在に至る。しかし、これまで繰り返されてきたように、登録決定時の首長コメント等に多い、観光振興(とくに経済的効果)への期待が声高に表明され、本来の保全への決意がかすんでしまうかのような「世界遺産への挑戦」は、再考すべき時機にあると考えられる。</p>
著者
安原 正也 丸井 敦尚 布施谷 正人 石井 武政
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A
巻号頁・発行日
vol.64, no.10, pp.719-727, 1991
被引用文献数
6

The Tsukuba Upland, about 390 km<sup>2</sup> in area, is one of the diluvial uplands commonly found in the Kanto Plain (Fig. 1). The upland is composed of the Younger Kanto Loam (about 3m thick at most), the Joso Formation, and the Kioroshi Formation in descending order. In the upper part of the Joso Formation is a less-permeable clay/silt layer called the Joso Clay (Fig. 2). The present study aims at clarifying the physical properties of the Joso Clay, which are important from the hydrological point of view.<br> The Joso Clay was sampled at 19 points on the Tsukuba Upland for determination of its physical properties (_??_ in Fig. 1). The Younger Kanto Loam and the sands, situated above and below the Joso Clay, respectively, were also sampled for a comparison of physical properties. In addition, some data on physical properties of the Joso Clay were obtained from the literature (0 in Fig. 1).<br> Saturated hydraulic conductivities of the Joso Clay proved to be extremely low, ranging from 8.29&times;10<sup>-6</sup> to 5.30&times;10<sup>-9</sup>cm/sec with an average value of 1.39&times;10<sup>-6</sup>cm/sec (Table 1). The Joso Clay presented a remarkable contrast in saturated hydraulic conductivity to both the overlying Younger Kanto Loam and the underlying sands, showing differences of two to three and three to five orders of magnitude, respectively (Fig. 3).<br> The porosity of the Joso Clay was between 54% and 77%. The Joso Clay showed a high degree of variability in thickness, from 15 to 400cm (Fig. 4). No macropores or non-capillary pores with the pore diameters larger than 3.8&times;10<sup>-2</sup>mm were found in the Joso Clay (Fig. 5), indicating that almost all the water in the Joso Clay moves very sluggishly.<br> Based on the results of this study, vertical subsurface water movement in surface parts of the Tsukuba Upland is assumed to be substantially restricted due to the presence of the Joso Clay.
著者
木戸 泉
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.74-100, 2020
被引用文献数
3

<p>バルカン半島西部に位置するクロアチアは,1990年代のクロアチア紛争を経て,多民族国家ユーゴスラヴィアから独立を果たした.紛争終結から20年以上が経過した現在,クロアチア国内では紛争の記憶を強固にし,さらに次世代へ継承しようとする動きが見られる.特に激戦地となった都市ヴコヴァルでは,クロアチア系住民の紛争の記憶を強化し継承する行事の開催やモニュメントの設立が積極的に行われている.本研究では,それらの表象内容や設置主体を分析し,地域レベルと国家レベル,またナショナル・マジョリティとナショナル・マイノリティの間で,紛争に対する受け止め方に差異が生じていることを明らかにした.そしてこれを踏まえて,EU加盟を果たしたクロアチアという国家のナショナル・アイデンティティをめぐるダブルスタンダードについて検討を加えることができた.</p>
著者
和田 崇
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100011, 2017 (Released:2017-05-03)

本研究は,「映画のまち」と呼ばれる広島県尾道市と映画とのかかわりについての全国的な認知状況,さらに尾道市における映画を活用したまちづくりに対する認識を把握,整理したものである。 旅行先を決定する際に参考とするメディアについて尋ねたところ(MA),「旅行雑誌」が最も多く(38.3%),「テレビ旅番組」(33.2%),「知人・友人からのクチコミ」(24.3%),「旅行代理店パンフレット」(21.9%)が続いた。テレビ旅番組以外の映像メディアは「テレビCM」が10.1%,「映画」が9.1%,「テレビドラマ」が6.6%となり,一定の情報源となっている状況が確認できた。 これに対して,実際に映画やテレビドラマで映し出された場所や作品の舞台となった場所を観光で訪れたことのある者(フィルム・ツーリスト,以下「FTs」)の割合は回答者全体の38.3%に達した。年齢や性別による違いは確認できないが,近畿と関東以北の居住者,および映画鑑賞本数の多い者ほど,その割合が大きくなる傾向が認められた。FTsのうち直近5年以内にそうした観光を行った者は72.1%で,そのうち90.5%が個人で,14.8%が団体で旅行している。 個人旅行の訪問先をみると,国内では北海道が最多で(25件),長野(9件),東京(8件),京都(6件)などが続いた。北海道は映画「北の国から」「幸せの黄色いハンカチ」のロケ地を訪ねた者が,長野はNHK大河ドラマ「真田丸」やNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台を訪ねた者が多い。外国のロケ地等を個人で旅行した者も18件と多く,国別にみると,「千と千尋の神隠し」の舞台といわれる台湾,「ローマの休日」ロケ地のあるイタリアを旅行した者が比較的多い。団体旅行でも,個人旅行と同様に,外国(11件)と北海道(6件)を訪ねた者が多かった。 尾道市が「映画のまち」と呼ばれていることの認知状況を尋ねたところ,「知っている」と回答した者は26.6%であった。年齢性別では40~50歳代の女性が,居住地では中国・四国と関東の居住者が,また映画鑑賞本数が多いほど,「知っている」と回答した者の割合が大きかった。 尾道でロケが行われた映画等(以下「尾道ロケ映画」)を鑑賞したことがある者の割合は59.2%であり,作品別にみると,「時をかける少女(1983年)」が37.3%,「てっぱん(NHK連続テレビ小説,2010年)」が19.0%,「転校生(1982年)」が18.4%,「男たちの大和/YAMATO」が17.3%,「東京物語(1953年)」が10.5%と1割を超えた。年齢別にみると,60歳以上は「東京物語」を,40~50歳代は「時をかける少女」「転校生」などの大林宣彦監督作品を鑑賞した者の割合が大きく,「てっぱん」は年齢の高い女性ほど鑑賞率が高まる傾向がみてとれた。なお,男女とも20~30歳代において尾道ロケ映画を鑑賞したことのない者の割合が他世代と比べて20%以上高い結果となった。また,それらが尾道でロケが行われたことを知っている者は35.9%にとどまった。 次に,尾道市で行われている映画関連活動の認知状況を尋ねると,いずれかの活動を知っている者は回答者全体の14.4%にとどまった。活動内容別にみると,「大林宣彦監督作品ロケマップ」が最多で(6.8%),その他は「おのみちフィルム・コミッション」3.5%,「シネマ尾道(NPO運営映画館)」2.9%,「おのみち映画資料館」2.5%と低率にとどまった。また,「大林宣彦監督作品ロケマップ」を知っている者は40歳代,「おのみち映画資料館」を知っている者は50歳代以上が中心で,20~30歳代はいずれの活動も知らない者が多かった。 尾道に観光目的で訪れたことのある者は19.2%で,そのうち「映画のまち」と知ったうえで訪れたことがある者は5.4%,「映画のまち」と知らずに訪れたが訪問後にそのことを知った者が3.9%,「映画のまち」と知らずに訪れ訪問後もわからなかった者が9.5%であった。 また,尾道市で開催されれば参加したいと考える映像関連イベントを尋ねたところ,「映画より他の観光施設等を楽しみたい」と回答した者が21.6%と最多であったが,「ロケ地訪問ツアー(マップ配布・個人)」が19.2%,「ロケ地訪問ツアー(ガイド付・団体)」が13.8%,「尾道ロケ映画愛好者による交流会」が10.1%など,映画鑑賞本数の多い者や20~30歳代の女性を中心に,映画関連イベントに対するニーズの存在も一定程度確認できた。
著者
戸田 真夏 長谷川 直子 大八木 英夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

筆者らは、地誌学的な視点の一般への普及の手段として、地域を総合的に理解できる地誌的旅行ガイドブックを作成、出版することを目標に活動している。その基礎情報を得るため、大学生を対象として国内旅行に関するアンケート調査を行い、その大まかな結果については2014年春に報告した。それに引き続き今回は、旅行動向の男女による違いについて報告する。アンケートの有効回収数は965である。男女毎の回答数は男子が542、女子が409である。以下、主に男女差の見られた項目について示す。「鉄道」、「車」、「バイク」、「体を動かすことが好き」などアウトドア派や「アニメ好き」は男子学生が多い。一方、「写真を撮ることが好き(デジカメ所持)」、「テーマパーク好き」は女子学生が多い。「旅行好き」、「食べることが好き」は男女差なく1,2位を占める。このことから女子はイベント、思い出を求め、男子は趣味や体験重視と考えられる。日帰り旅行や国内宿泊旅行の頻度は「年1回」や「ほとんどしない」のは男子学生が多いが、「週1程度」で高頻度なのも男子学生が多い。男子学生は好きな人は沢山行くが興味のない人は行かない、と極端な違いがあると思われる。なお、「旅行好き」は宿泊も日帰りも行っている。日帰り旅行や 宿泊旅行の同行者については、「一人」は圧倒的に男子学生が多く、また「友人」も男子学生が多い。「家族」は日帰り旅行では女子学生のほうがやや多いが、宿泊旅行では男子がやや多い。女子のほうが旅行に対して受動的なのかもしれない。.旅行先を決める理由に関して、「行ったことがない」は男子が多いことから、男子はフットワークが軽いと考えられ、「日数で決める」ことが多い女子は、現実的なのではないだろうか。国内宿泊旅行の目的について、「自然の景色を求める」のは男子学生が多い傾向が見られた。旅行先を決めるきっかけは、「書籍」、「知人の話」、「趣味」、「授業」に影響されるのは男子学生が多く、「旅行ガイドブック」や「旅行会社」は女子学生が多い。旅行へ行く際の情報収集の手段については「HP」や「ネット口コミ」は男子学生が多く、「旅行ガイドブック」は女子学生が多い。ガイドブック利用冊数関しては、女子の方が利用する割合が高く、男子はまったく利用しない割合が高い。購入の有無では女子の方が購入し、男子は購入しない人が多い。また、女子学生のほうが購入費用をかけている。知っているガイドブックについては、女性ターゲットの「ことりっぷ」や「タビリエ」はやはり女子学生のほうが認知度が高い。ガイドブック購入時に重視する点では、一位の「情報が豊富」では男女差は見られないが、「かわいい」、「持ち運びやすさ」はやや女子学生が重視する傾向がある。ガイドブックの記事で重視する情報については、男子は「自然」と「宿泊」なのに対して、女子は「お土産の買える場所」と「飲食店」といった具合で違いが目立った。「ガイドブックのモデルコースを参考にするか」との問いに対しては、女子学生のほうが「参考にする」傾向がみられるものの、「かなり参考にする」人は男子学生のほうが多い結果が得られた。ガイドブックに載っていない現地での発見については男子学生のほうが重要視している傾向が高かった。筆者らが目指している地誌的説明が詳しいガイドブックに対しては、男女とも魅力は感じてくれている。 様々な質問項目で男女の違いが見られた。全体を通して、男子学生の方が能動的、女子学生の方が受動的な印象を受ける。言い方を変えると、男子学生の方が個性的な旅行を好み、女子学生の方が周囲に影響されやすいようにも思える。一方で女子学生の方がガイドブックを使う人が多いことから計画的にも思える。これらのアンケート結果の指向性に基づくと、地誌的な旅行は男子学生の方が興味を示しそうな気もするが、最後の質問で直接「地誌に特化したガイドブック」と聞くと、女子学生も興味を持っている回答結果を示している。
著者
根田 克彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

イギリスは1990年代以降センターと呼称される小売商業地を核とする地区を設定して,それらを保護し,それ以外の場所,すなわちセンター外における大型店の立地を規制してきた.しかし,小都市のシティセンター,中規模以上の都市でもインナーシティの中小センターの衰退は止まることはなかった.本発表で対象とするノッティンガム市のハイソングリーン・タウンセンターは,ノッティンガム市のインナーシティに位置する小規模な周辺商業地のひとつである.ハイソングリーン・タウンセンターは,近年周辺に居住するエスニックマイノリティを対象とする商品とサービスを提供する商店街として注目された.このようなセンターは近隣の住民ばかりではなく,観光客を集めることもできる.本研究では,ハイソングリーン・タウンセンターのエスニック的な特徴と,それを支える周辺環境との関係を分析したい. ノッティンガム市の人口は266.988人(2001年)である.白人が84.9%,アジア人7.1%,黒人4.3%であり,白人人口がイングランドの平均(90.9%)に比べると低い.アジア人のなかで多いのはパキスタン人(全人口の3.6%.以下同様),次いでインド人(2.3%),中国人(0.6%),バングラディッシュ人(0.2%)である.パキスタン・バングラディッシュ人口が多いことからノッティンガム市ではムスリムが4.6%を占める(イングランド平均3.1%).さらに,市全体のムスリムの49.3%がシティセンターとそれに隣接する北部のインナーシティの4地区に集中する(図1).ハイソングリーン・タウンセンターは,それらムスリムが集中する地区の中心に位置する.これらの地区の一部は,1998年にNew Deal for Communities (NDC)政策が対象とする最も貧困な17地区の一つとして選定された. ハイソングリーン・タウンセンターには,バス停と路面電車(NET)の駅がある.核店舗であるAsdaスーパーストアは,1990年に市営住宅の再開発により立地し,広大な無料駐車場を有する.ハイソングリーン・ディストリクトセンター内にはハラル料理販売の食料品店やレストラン,サリーなどの民族衣装販売店,ポーランド・スペインレストランが立地する.
著者
松岡 恵悟
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.174, 2005

仙台市の都心部では、1990年代末に大規模な賃貸オフィスビルが相次いで開発された。それらを含め1996年から2000年の間に竣工した賃貸オフィスビルの合計床面積は約35万m<SUP>2</SUP>のぼり、1995年までの都心部全体のストック(約151万m<SUP>2</SUP>)の4分の1に近い床面積が短期間に新たに供給された。そして、それらの新たなビル立地は、都心業務地域の核心的な地区よりもむしろ、仙台駅北部の戦後区画整理が行われず再開発の必要性が高い地区や、東部の1980年代に基盤整備が進められた地区に多く見られた(図1)。この研究では、これらの新規ビル立地がテナント・オフィスの入居を通じて都心空間の構造にどのような影響を与えたのかを明らかにすることを目的とした。<BR> 近年、仙台市の都心部においても、他の多くの主要都市と同様に賃貸オフィスビルの空室率が高く、とくに1999年以降は10%を超える水準にある。仙台市は東北地方の地方中枢都市であり「支店経済」を基盤として発展してきたが、長引く不況のなかで支店の新規立地は少なく、既設支店の縮小・統合・撤退もみられるなど、オフィス空間の需要増が見込める状況にはない。しかしながら、その一方で設備の整った新しく大規模なビルは相対的に人気が高く、おおむね95%以上の入居率を維持している。<BR> オフィスビルは一般に竣工後時間を経るにしたがって陳腐化が進み、魅力を減じてゆく。とくにここ数年はオフィスのIT対応が強く求められたため、これに設備面で対応できない古いオフィスビルは市場での競争力を弱め、新しいビルの優位性が際立つようになった。そのため、新しく大規模なビルや設備のより優れたビルは、周辺の既存支店の借り換え需要に支えられ、テナントを集めることが相対的に容易であると言える。<BR> 上述の新しい大規模ビルのうち1998年と99年に竣工した7棟について、入居オフィスの企業概要や以前の立地場所を調査したところ、各ビルとも大企業オフィスが多数含まれ70%前後が借り換えによるものであることが判った。なお、この調査は企業のホームページや会社年鑑、電話帳や住宅地図を資料として行った。また、移転前の入居ビルにおける空室の充てん状況についても調査を行った。その結果、相対的に新しいビルや規模の大きいビルでは、より古く小規模なビルなどからの借り換えにより、充てんが進みやすい傾向を見てとることができた。そして一方で古いビルのなかにはテナント転出後の充てんが進まず、空室率が60%を超えるものも見られた。<BR> 以上のようなテナント・オフィスの移動を通じて、新たに大規模ビルが立地した仙台駅北部や東部地区は業務空間としての性格を強め、一方で古いビルの比率が高い核心的な地区ではオフィス立地数や従業者数が減少し空室率が上昇するという、都心空間の再編成が起こっていることを確認できた。
著者
北 仁美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

<B>Ⅰ.はじめに</B><BR> 日本の大手食品製造業の事業所の海外展開が進行している。その背景には、日本国内の市場の成熟化や消費の縮小、農産物の自由化などがある。食品関連産業は生産・調達された農産物を処理・加工する。そのため、農産物の生産から消費までの輸送距離と時間がより一層拡大した。日本の大手食品関連産業が積極的に関与してきた農産物の国際的な流動が、加工・調理された食品を含む食料の国際的な流動へと拡大した。<BR> 本研究は、日本の大手食肉加工企業である日本ハム株式会社(以降、日本ハムと略記)を事例に、企業戦略によってグローバルスケールでの食料の国際的な流動がどのように変化してきたのかについて検討する。その際、海外におけるグループ企業の配置と日本国内向け製品の原料の原産国に着目する。<BR> 本研究の意義は、「食料の地理学」において食肉とそれに関連する加工品を事例に、日本企業の多国籍化のインパクトを示し、大企業を対象とすることの重要性を強調することにある。<BR><B>Ⅱ.分析方法</B><BR> 分析にあたってまず、日本の食品製造業における海外進出の動向を把握する。続いて、一定の期間ごとに日本ハムの海外における事業所の配置と各事業所の機能を明らかにする。さらに企業のホームページ等から日本国内に流通している製品の原料の原産国の情報を加える。以上により畜産物の生産・調達から販売にいたる国際的な供給システムを把握することを試みた。本研究において流動とは、A国から日本への輸出のみならず、A国とB国の現地法人間の輸出入も含む。<BR><B>Ⅲ.結果および考察</B><BR> 日本ハムは、グループ企業以外の企業からの食肉の輸入、海外の事業所間での企業内貿易、特に三国間貿易によって国際的な食料の流動に関与してきた。1980年代以降、日本ハムは相次いで海外の大企業を買収し、グループ企業間で行う三国間貿易の海外拠点の構築に向けて現地法人を設立した。その目的は、日本国内への食肉の供給のみならず、世界各国への食肉供給にある。三国間貿易とは、豚肉の場合、商社に類似した機能をもつイギリスの英国日本ハムが、欧州各国(主にデンマーク)で生産された豚肉を日本や韓国、中国へ輸出することを指す。その他のケースとして牛肉の場合には、オーストラリア産の牛肉をオーストラリアの現地法人から英国日本ハムを経由して、イギリスを含む欧州各国に販売している。<BR> 以上のように、日本ハムは事業所の多国籍化を推進してきた。しかし、日本ハムによる食料の国際的な流動の焦点になっているのは、依然として食料を大量に輸入する日本である。また、日本ハムの海外事業における売上高は依然として1割強しかない。<BR> 上記で述べた日本ハムによる食料の国際的な流動は、世界全体からみればごく一部に過ぎない。しかし、食料の国際的な流動を解明することにより、大企業による食料の生産から販売に至る系列的なシステムの形成が加速していることが明らかになった。企業買収等による資本蓄積の拡大や多国籍化は、食料供給においてさらなる優位性を発揮する。一部の大企業が中心となった食料の供給体制が今後も進展していくことが予想される。
著者
新名 阿津子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.235, 2005

1.研究の背景と目的21世紀,日本は急速に進みつつある知識社会への移行に直面している(鴨志田2004)。経済学の分野においても,知識経済化の進展が指摘されているが,地理学の分野においては知識経済化に伴う知識産業の立地およびその変容に関する研究は萌芽的研究領域であるため,研究の蓄積が少ないのが現状である。一方で,本研究の対象である経営コンサルタント企業の立地をみると,東京都一極集中型の様相を呈しており,東京都23区内においても,都心地域への集積が顕著にみられる。そこには都市という地域的基盤の上での,知識産業の輩出・成長プロセスがあるのではないかと考えられる。そこで,本報告では知識集約型事業所サービス業の好例(Muller and Zenker, 200)とも言われている経営コンサルタント業を取り上げ,日本において最も多くの当該企業が立地している東京都港区を事例に,事業所の立地およびその設立過程に着目し,都心における当該産業の輩出・成長プロセスを明らかにすることを目的とする。2.資料と研究の方法 本報告が対象とする企業はNTT発行のタウンページの「東京都港区」に記載されている712社 のうち,自社ホームページを開設しているなどして合法的な企業活動の実態が確認できた252社である。それらの立地を把握した上で,研究対象企業の設立年次や資本金などに関するデータを,対象企業のホームページや出版物,企業案内などから収集した。それを元に,事業所の設立過程と事業所の立地展開に関するアンケート調査・聞き取り調査を実施し,経営コンサルタント企業の立地過程について実態の把握を行った。3.事業所の立地(1)外資系企業 港区は各国大使館が立地する地域であり,かつその周辺では大規模な再開発事業による最新のオフィスビルが供給されていることから,グローバルな事業展開を行う多国籍企業にとって好条件な地区となっており,外資系企業の赤坂及びその周辺における集積が顕著である。(2)国内系企業 国内系企業はその事業所の設立過程によって,個人独立開業による事業所と,出資企業からの分社化によって設立された事業所では立地およびその要因が異なる。 個人独立開業型の事業所の立地過程では,金融・サービス業を中心とした産業集積がみられる都心から輩出された知識労働者による起業と,その事業所の都心立地および都心内部での企業成長が確認された。 分社化型事業所の立地は2つのパターンに分類される。_丸1_分散化型:母企業と分社化された事業所の集中立地による企業成長から,立地の分散化による母企業からの独立。_丸2_近接型:出資企業と事業所の近接立地による関係性強化。 今回の発表では,上記の国内系企業の立地展開と事業所設立過程について,詳細な報告をしたい。
著者
畠山 輝雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに</b><br>&nbsp;近年,多くの地方自治体において,公共施設等の名称を売却して資金を獲得するネーミングライツ(以下,NR)の導入が増加している.わが国の公共施設では,2003年の東京スタジアムにおいて導入されて以降,増加の一途をたどり,2017年1月現在で約150自治体,約330施設に導入(が決定)されている.最近では,自治体名称を売却しようとした泉佐野市や,国立競技場への導入が報道されるなど,NRの認知度が上昇してはいるものの,一般的にはまだ認知度が低いのが現状である.<br>&nbsp;その一方で,NRにおいては,法制度的に確立したものがなく,これまで自治体の裁量によってNRの導入や施設の愛称決定がされてきた.畠山(2014)によると,NRに関して議会承認をした事例は7.5%,アンケートや住民説明会などの住民への合意形成を図った事例も13.0%にとどまっており,多くは行政内の選定委員会が最終決定機関となっている.しかしながら,前述したNRの認知度の低さも影響してか,NRの導入や愛称決定に際して住民や施設利用者等から反対運動などが起きた事例は渋谷区宮下公園などわずかである.<br>&nbsp;このような中で,2016年7月頃からNRの導入が検討され,同年10月に京セラ(株)への売却が決定した京都市美術館においては,議会,出展者団体,周辺住民団体が反対運動を起こし,さらに別の出展者団体がNRの導入への賛同を示すなど,NR導入に際する合意形成に苦慮している現状がある.<br>&nbsp;そこで本報告では,関係者へのヒアリングから,京都市美術館へのNR導入における関係者間の対立構造を明らかにし,NR導入における合意形成のあり方を提示したい.<br><b>2.京都市美術館へのNR導入に関わる動向</b><br>&nbsp;京都市では,2009年の西京極総合運動公園野球場への導入以降,11件の公共施設へNRを導入する実績を持っていたこともあり,老朽化に伴う美術館の再整備の資金を獲得することを目的としてNR導入を検討した.市当局によって募集要項が作成され,50年間50億円の契約を目安に2016年9月に公募が行われた.また,契約には施設名称売却以外にも,施設の優先利用権,展覧会の特別観覧権などの付帯権利も含まれた.<br>&nbsp;募集期間中には,市議会において公共の美術館への企業名称の付与がなじまないことや,NRの案件に関して議会が関与する権限がないことに対して異論が出され,その後10月には美術館の再整備に関する費用やNRも含めた捻出方法について市議会と議論を行うよう,「京都市美術館の再整備に関する決議」を全会一致で提出した.<br>&nbsp;また,美術館が立地する岡崎地域の住民による「岡崎公園と疎水を考える会」も,多くの芸術家が愛着を持ち,世界の美術館からの信頼を得る京都市美術館の名称を企業に売却することは恥として,9月にNR売却を撤回する請願書を683名の署名とともに,市議会に提出した.この行動は,美術館に隣接する京都会館にもNRが導入されたことにより,岡崎公園周辺の景観が変化したことも要因となっていた.また,京都市内で活動する芸術家36人によって発足された「京都市美術館問題を考える会」も,作品寄贈者への冒涜として,住民団体と協力して署名や市役所への抗議をした.さらに住民団体らは,NRを購入することとなった京セラへも撤回を要請する動きを見せている.<br>&nbsp;その一方で,12月には京都府内を拠点とする芸術家12人が市長と面談し,作品を発表する場が必要としてNR導入に賛同する激励文を渡す動きもあり,住民や芸術から関係者間での賛否両論がみられる.<br><b>3.おわりに</b><br>&nbsp;京都市美術館へのNR導入に関する対立構造は,美術館ないしは岡崎公園という「場所」への認識の違いが生じさせたといえ,その場所に表象される名称の変更がその対立の起因となったといえる.<br>&nbsp;現状では,NRに関しては法制度的に確立したものがない.このため,各自治体においてNRに関して議会承認を要する条例制定や,愛称ではなく正式名称として公共施設の条例を変更する議会承認を経ることで,合意形成を図る必要があろう.<br>