著者
三和 秀平 青山 拓実 解良 優基 山本 大貴
出版者
一般社団法人 日本教育工学会
雑誌
日本教育工学会論文誌 (ISSN:13498290)
巻号頁・発行日
pp.S46013, (Released:2022-12-14)
参考文献数
7

「どうして勉強しなきゃいけないの?」という勉強する理由についての哲学的な対話が学習動機づけに与える効果を検証した.研究1では大学生を対象に対話を行った結果,参加者の勉強に対する動機づけが向上する傾向がみられた.また,児童の動機づけを高めることができると思うか予想を求めたところ,概ね高めることができると考える傾向にあるものの,否定的な意見もみられた.そこで研究2では小学生を対象に対話を行った.その結果,日常生活における価値のみ向上がみられた.一方で,他の価値の側面や興味,努力の意図などの向上はみられなかった.
著者
柴田 高
出版者
一般社団法人 経営情報学会
雑誌
経営情報学会 全国研究発表大会要旨集 2009年秋季全国研究発表大会
巻号頁・発行日
pp.69, 2009 (Released:2009-12-21)

組織文化は,経営哲学や理念を長年にわたって根づかせ,土壌のようにつくりあげていくものであり,知らず知らずのうちに組織のメンバーの行動を規制していくため,組織活性化や事業変革の原動力とも,障害ともなり得る。本報告では、旭山動物園の組織活性化をもとに,「成長の物語」が組織文化の変革に対して大きな影響力を発揮することを分析する。旭山動物園の魅力は動物の生態を迫力ある姿で見せる方法をコンセプト化した「行動展示」の技術にあると言われる。しかし、同様の施策をとり技術移転を試みる観光地は多いものの、第2の旭山動物園と呼ぶべき成功例は未だみられない。その理由は、顧客が「成長の物語」に共感・共鳴し、その感情移入と疑似体験をするには、現地でなければならないからである。本研究では、越境→危機→成長→勝利という「成長の物語」が組織活性化を促し、さらに顧客を自己組織化することを事例の分析を通じて明らかにする。
著者
高橋 雅人 Masahito TAKAHASHI
雑誌
神戸女学院大学論集 = KOBE COLLEGE STUDIES
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.127-137, 2014-06-20

プラトンの『ポリティコス』と『国家』とはどのような関係にあるのだろうか。本論文はこの問いに答えるために、『ポリティコス』における理想的な政治家が『国家』における哲人王にではなくて、理想国の創設者に対応することを明らかにする。『ポリティコス』と『国家』の関係がいかなるものであるかについては、そもそも関係を論じないもの(加藤)、異質であることを強調するもの(スコフィールド、チェリー)、同質であることを主張するもの(カーン)、といった解釈がなされてきた。1で筆者はこういった解釈を簡単に紹介し、2でそれらに対する批判を述べる。筆者の見るところ、加藤の解釈はアリストテレスの最善のポリスの在り方についての考え方を楽観的にとらえすぎているように思える。スコフィールドの解釈は理想国の創設者がどのように誕生するかをプラトンがなぜ論じていないことを見落としている。チェリーの解釈はエレアからの客人とソクラテスとの違いを強調しすぎる。確かにエレアからの客人は、哲人王を主張するソクラテスとは違って、哲学者と政治家とを区別する。しかしたとえ哲学者と政治家が区別されるのだとしても、同一人物が哲学的知と政治的知の両方を持つことを妨げるものではない。かくして筆者は最後の解釈を取るカーンの議論に賛成する。しかし、カーンの解釈にも批判すべき点はある。3で筆者はそれを述べ、自己の見解を明らかにする。カーンは理想的な政治家と哲人王を同一視するが、筆者はその解釈をとらない。なぜならば、理想的な政治家が法を超えた存在であるのに対して、哲人王は確かに法をつくる働きは持つが、しかし国家の根幹をなす重要な法はこれを決して変えないことが期待されているからである。『ポリティコス』における理想の政治家はむしろ理想国の「創設者」と同一視されるべきなのである。
著者
金 承哲
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.48-60, 2014-03-31 (Released:2019-08-08)

Ian Wilmut’s Dolly the Cloned Sheep (1977) and Peter Sloterdijk’s Regeln für den Menschenpark (1999) have combined to raise new questions about the essence of the life. The cloning technique that made the birth of Dolly possible has not yet, as far as we know, to be attempted on human beings. It does not seem that the Menschenpark (human park), a society in which our lives are controlled totally by gene technology, lies in our near future, either. Still, the progress made to date the imagination of possible future consequences give us important clues for understanding the meaning of life itself. In the same way that Sloterdijk relates the history of the rise of Anthropotechnik to the decline of the humanistic tradition of the West, we may need to look on gene technology not only as a new kit of scientific-technological tools, but also as symbols of the impending arrival of a new conception of what a human being is and to what end humans are to be educated. This essay examines some of the main points of Sloterdijk’s work with an eye to suggest what adjustments to his discourse about the Menschenpark might be required for the way philosophy and theology have traditionally understood what it is to be human.
著者
古賀 純子
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2005

申請者の研究はベルクソン哲学を音楽との関わりについて考察するものである。これまでに(1)20世紀の作曲理論をベルクソン哲学の観点から解釈すること、(2)ベルクソンの哲学理論を演奏という具体的な芸術活動の場に置き直す、という二つの方向で研究を行ってきた。平成18年度は、上記二つの方向性をふまえながら、20世紀音楽とそれ以前の古典音楽の時間構造をより詳細に分析する研究を行った。音楽作品は通常、拍節構造とメロディという二重の時間構造を持つ。ある種の現代音楽は規則的な反復に基づく古典音楽の拍節構造を「音楽的時間を不当に束縛している」と考える。しかしベルクソンの時間概念に照らすと、古典的拍節は「自由」で「創造的」な持続(dur□e)の時間構造と矛盾しない。音楽家は規則的な拍子に従いつつも、厳密に均等な時間配分で演奏するわけではなく・現実的にはそれらを伸縮させつつ独自の旋律形体を創造する。ベルクソン哲学から導き出される創造的時間の本質は、数的計測と不規則に合致しつつ、創造的主体が自らの選択によって旋律形体を形作るプロセスに存在すると考えられる。このようなベルクソン的時間論から見た場合、規則的拍節を持たない20世紀音楽、および伝統的な東洋音楽の時間構造はどのように解釈されるだろうか。申請者は以上のような問題意識のもと、これまで行ってきたオリヴィエ・メシアン、ジョン・ケージの研究に引き続き・ピエール・ブーレーズ、ヤニス・クセナキスの音楽作品の分析に着手している。この研究のため、18年9月、ひと月間パリに滞在し、ジョルジュ・ポンピドゥーセンター付属の公共情報図書館および国立近代美術館資料室で文献・資料の調査を行い、執筆中の博士論文に有用な情報を収集した。
著者
出口 弘
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.101-114, 1990-04-01 (Released:2009-03-31)
参考文献数
10

南方熊楠は,偉大な博物学者であり粘菌学の大家であると同時に日本民俗学の生みの親の一人として広く知られている.しかし,彼の学際的な学の背後にあった方法論としての自然哲学そのものについては,殆ど関心は払われてはこなかった.本論では,我々は,南方熊楠の自然哲学に着目し,それを思想史的な観点からではなく,今日の諸学の錯綜し方法論の混乱する学の状況に於ける生きた思想として再把握することを試みる.彼の社会科学に関する科学方法論と数理的学についての卓見は,時代の中で抜き出ていたが故に日の目を見ることはなかった.主体を含む複雑なシステムとして社会システムを捉えその構造変動を含むモデル作成の為の確固たる方法論的基盤を築く必要がある今日の社会科学にとって,南方の思想と方法論は,時代を越えて有益な示唆を与えてくれるのではないかと期待する.
著者
茶谷 丹午 CHATANI Tango
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.34, pp.1-11, 2017-09-29

本稿ではラフカデイオ・ハー ンにおける二つの文学的表象, 青空と霊を取り上げる。 これらは彼の紀行文や幽霊物語だけでなく, 思弁的な内容のエッセイにも現れるものである。 彼はこの二つの表象を用いて, 人間における個人性を否定する議論を展開する。 ハー ンは言う。 人間のうちには無数の死者すなわち霊が存在しており, 人間とはいわば集合体である。 また人間にとって,青空をみて憧れ, 自分が青空に融け入り. いまある個人的な自己を失うことを願うのは, 賢明であり合理的である、と。しかしその一方で彼は、他者との倫理的関係を結ぽうとする主体としての「私」を認めているようでもある。 ハー ンのエッセイは夢想的であり晦渋でもあるけれども,その目指すところはおそらく人間存在の二面性の把握にあるのであり その点で彼は和辻哲郎の立場に近いように思われる。 そこで試みに和辻倫理学を補助線として用いて, 幽霊の登場する作品の一つである『人形の墓』を分析し、そこからハーンの哲学的議論における霊と、文芸作品における霊との連続性を考察する。
著者
田中 凌
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2021-04-28

本研究は、「言葉の使用には責任を取らなければならない」という規範の内実とその実装を明らかにすることを目指す。着目するのは、言葉の使用には「この使用の仕方が正しいものである」という暗黙裡の判断が常に伴い、話者はその判断に責任を負うという考えである。後期ウィトゲンシュタイン、また一部の解釈によればカントにもこうした考えが見出されるとされるが、本研究は現代の言語哲学・認識論・倫理学の枠組みを用いてそれを明晰化する。その上で、この種の責任の存在は「自分の言葉の意味を明示化する」能力を個々の話者に要請することを示し、当該の要請が経験的言語科学の視点から見てどの程度現実的なものであるかを明らかにする。
著者
松本 直樹
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.43-59, 2022 (Released:2022-06-05)

In diesem Aufsatz versuche ich, die Bedeutung der Analyse der Angst in Sein und Zeit, Heideggers früherem Hauptwerk, deutlich zu machen. In Sein und Zeit bezeichnet Heidegger die Angst als eine „Grundbefindlichkeit [= Grundstimmung]“, in der das Dasein in seinem Sein eigentlich erschlossen wird. Sofern das Seinsverständnis als eine Seinsbestimmung zum Sein des Daseins gehört, besagt dies zugleich, dass das Sein selbst in der Angst erst ursprünglich erschlossen und verstanden wird. In Sein und Zeit, das die Frage nach dem Sinn von Sein überhaupt stellt, vollzieht sich die Analyse der Angst nicht aus einem psychologischen oder anthropologischen Interesse, sondern einzig als Vorbereitung auf die Seinsfrage selbst. Bisher schien für die bisherigen Interpretationen von Sein und Zeit die Behauptung Heideggers, dass in der Angst alle bedeutsame intentionale Beziehung zu Gegenständen unmöglich wird, oft ein Rätsel zu sein. Denn diese Behauptung scheint die Ansicht zu implizieren, dass es nicht möglich ist, dass sich das Dasein mit einem ursprünglichen Seinsverständnis eigentlich zu den Gegenständen verhält. Eine solche Interpretation beruht aber auf einem einfachen Missverständnis. Nach Heideggers Ansicht sind die Angsterfahrung und die Bezüge auf die Gegenstände nicht einfach widersprüchlich und unvereinbar, sondern das Dasein kann auch inmitten der Bezüge auf die Gegenstände in einer eigentlichen Weise vom in der latenten, verborgenen Angst Erschlossenen geleitet werden. Doch hier entsteht ein weiteres Problem. Wenn die Angst immer latent und verborgen ist, sogar in einer eigentlichen Existenz, dann ist nicht klar, wo und wie die Seinsfrage selbst gestellt werden kann. Ich möchte darauf hinweisen, dass gerade hier die Sprache im eigentümlichen Sinne eine wichtige Rolle spielt. Es liegt nämlich im Grunde der verborgenen Angst als Grundstimmung, dass der Bezug des Daseins auf das Sein selbst das sprachliche, d. h. ein fragendes Denken ist.
著者
今井 康雄
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.117-129, 2008-09-12 (Released:2017-08-10)

教育の起源を、教わる側の必要にではなく教える側の贈与に見る矢野の議論は、人間本質論・人間存在論から導出される必然的な事実として自明化されがちな教へ育をふたたび「謎」として現出させ、そのことによって教育への教育哲学的な接近を可能にする。しかし他方、そこでは、贈与という出来事が教師=贈与者に名寄せされたことの結果として、交換関係からの贈与の出現という、本来めざされていた出来事が分析困難になっているように思われる。本稿は、矢野も依拠しているデリダの贈与論、とりわけ『時間を与える-I.贋金』に即して、贈与者ではなく贈与されるものが、交換の精神からの贈与の出現を可能にしていることを示す。そして、教育においても同様の構造が見られることを示唆する。