著者
山本 勝造
出版者
関東学院大学経済研究所
雑誌
経済系 : 関東学院大学経済学会研究論集 (ISSN:02870924)
巻号頁・発行日
vol.252, pp.50-59, 2012-07

本稿では、非民主政国家における所得再分配政策と武力革命発生の関連性について検討する。Acemoglu and Robinson(2006)は、統治者が提示した再分配政策が履行されるかどうかというコミットメント問題に注目し、統治者の政策履行に対する信頼性の喪失が武力革命の発生領域を拡大させることを示した。本稿のモデルはAcemoglu and Robinson(2006)のモデルを修正したものであり、政策履行に関する統治者の意思決定を内生化することで、統治者の政策履行のインセンティブと武力革命発生の可能性について分析した。本稿の結論として、統治者の政策履行および一般市民による武力発生の可能性は、社会の経済格差に依存することが示される。具体的には、経済格差の大きな社会で武力革命の発生確率が高まるため、特権階級は政策履行確率を引き上げて武力革命の抑止に努めるのに対し、社会の不平等度が縮まると武力革命の発生確率は下がるため、特権階級が当初提示した所得再分配政策は破棄されやすくなる。
著者
仁藤 敦史
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.194, pp.245-275, 2015-03

本稿では,百済三書に関係した研究史整理と基礎的考察をおこなった。論点は多岐に渉るが,当該史料が有した古い要素と新しい要素の併存については,『日本書紀』編纂史料として8世紀初頭段階に「百済本位の書き方」をした原史料を用いて,「日本に対する迎合的態度」により編纂した百済系氏族の立場とのせめぎ合いとして解釈した。『日本書紀』編者は「百済記」を用いて,干支年代の移動による改変をおこない起源伝承を構想したが,「貴国」(百済記)・「(大)倭」(百済新撰)・「日本」(百済本記)という国号表記の不統一に典型的であらわれているように,基本的に分注として引用された原文への潤色は少なかったと考えられる。その性格は,三書ともに基本的に王代と干支が記載された特殊史で,断絶した王系ごとに百済遺民の出自や奉仕の根源を語るもので,「百済記」は,「百済本記」が描く6世紀の聖明王代の理想を,過去の肖古王代に投影し,「北敵」たる高句麗を意識しつつ,日本に対して百済が主張する歴史的根拠を意識して撰述されたものであった。亡命百済王氏の祖王の時代を記述した「百済本記」がまず成立し,百済と倭国の通交および,「任那」支配の歴史的正統性を描く目的から「百済記」が,さらに「百済新撰」は,系譜的に問題のあった⑦毗有王~⑪武寧王の時代を語ることにより,傍系王族の後裔を称する多くの百済貴族たちの共通認識をまとめたものと位置付けられる。三書は順次編纂されたが,共通の目的により組織的に編纂されたのであり,表記上の相違も『日本書紀』との対応関係に立って,記載年代の外交関係を意識した用語により記載された。とりわけ「貴国」は,冊封関係でも,まったく対等な関係でもない「第三の傾斜的関係」として百済と倭国の関係を位置づける用語として用いられている。なお前稿では,「任那日本府」について,反百済的活動をしていた諸集団を一括した呼称であることを指摘し,『日本書紀』編者の意識とは異なる百済系史料の自己主張が含まれていることを論じたが,おそらく「百済本位の書き方」をした「百済本記」の原史料に由来する主張が「日本府」の認識に反映したものと考えられる。This article reviews and briefly examines the history of research on the three books of Baekje: Kudara Honki (Original Records of Baekje) , Kudara Ki (Records of Baekje) , and Kudara Shinsen (the New Selection of Baekje) . Taking various arguments into consideration, this article indicates that the three books consisted of old and new elements because they were born out of a dilemma; they were based on the original books written from the self-centered viewpoint of Baekje but edited by Baekje exiles as historical materials for the compilation of Nihon Shoki ( the Chronicles of Japan) in a favorable manner for Japan in the beginning of the eighth century. The editors of Nihon Shoki altered the times of events by modifying the Chinese zodiac calendar when using Kudara Ki to write a legend of the origin of Japan; however, as typically represented by inconsistency of the name of Japan, such as called "Kikoku" in Kudara Ki, " (Oh-) yamato" in Kudara Shinsen, and "Nihon" in Kudara Honki, it is considered that in principle, the quotations in the notes of Nihon Shoki from the three books were hardly embellished. All of the three books were history books dated with imperial era names and the Chinese zodiac calendar system and were aimed to delineate the background of the family and profession of each Baekje clan surviving after the fall of their dynasty. In Kudara Ki, the ideal of King Song Myong period, in the sixth century, described by Kudara Honki was mirrored in the King Chogo period, and historical legitimacy was explained to Japan from the viewpoint of Baekje with an eye on its northern enemy, Goguryeo. At first, Kudara Honki was written to describe the history of the dynastic ancestors of the Kudara-no-Konikishi clan exiled from Baekje. Then, Kudara Ki was created for the purpose of providing historical legitimacy to the domination of Mimana, as well as depicting exchanges between Baekje and Wakoku (Japan) . Last, Kudara Shinsen was compiled to summarize the common perspective of numerous Baekje clans who claimed the collateral descent of the Baekje Dynasty by detailing the eras from ⑦ King Biyu to ⑪ King Muryeong, whose lineage had not been clear. Though the three books were edited one by one, they were systematically compiled for the same purpose. Inconsistencies in expression among the three books were corrected from the viewpoint of compatibility with Nihon Shoki by using terms to describe the diplomatic relationships at the times of events more clearly. In particular, the word "Kikoku" was used to describe the relationship between Baekje and Wakoku not as a tributary or completely equal relationship but as the "third slantedrelationship."Our former article indicated that a variety of groups fighting against Baekje were collectively called as the "Japanese Mimana Government" and argued that Nihon Shoki had incorporated the perspective of Baekje that was inconsistent with that of the editors of the chronicle. This is considered because the perspective regarding the Japanese Mimana Government was affected by the insistence derived from the original materials of Kudara Honki, which was compiled from the self-centered viewpoint of Baekje.
著者
雪村 まゆみ
出版者
日仏社会学会
雑誌
日仏社会学会年報 (ISSN:13437313)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.65-84, 2011

Le gouvernement de Vichy a financierement aide les producteurs des films d'animation. Afin de maintenir une autonomie menacee par la presence des Nazis, le gouvernement de Vichy a eu l'idee de promouvoir la collaboration plus poussee avec les colonies francaises. On voit bien, dans certains films d'animation comme "la Nuit enchantee", l'exemple de cette collaboration ; un petit francais essaie de chasser un monstre geant qui symbolise les Allies. C'est ainsi que par le recours au film d'animation, le regime de Vichy a essaye de montrer au grand public son ideal qui devrait masquer l'incertitude a laquelle il s'affrontait dans la mesure ou le film d'animation a ete considere comme un moyen d'expression pertinent pour decrire le changement provoque par la guerre ou l'invasion violente. Cet article a pour objectif de montrer pourquoi le gouvernement de Vichy a choisi le film d'animation par rapport a la position dans laquelle il se trouvait.
著者
綾城 初穂
出版者
日本質的心理学会
雑誌
質的心理学研究
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.62-81, 2014

先行研究では,日本人キリスト教徒が「宗教」を語る際に,複数のポジション(ディスコース上の立ち位置)から「宗教」について矛盾した語りを行っていたことが見出されている。本研究では,この矛盾した語りに伴う葛藤に彼らがどのように対処しているのかを,ポジショニング理論によって検討することを目的とした。分析の結果,語りの時間的性質によってポジション間の矛盾を無化していることが見出された。また,個人的ポジショニングという「個人」を強調する発話行為によって,語り手が日本社会の「宗教」ディスコースのモラルオーダー(ポジションに付随するルール)に対処していることも見出された。個人的ポジショニングの検討から,この発話行為が語り手の固有性を指示することでモラルオーダーの効力の及ばない「聖域」を作り出すことが指摘された。現代社会において個人は,多様な文脈と単一の固有性とを同時に課せられている。それゆえ,多様なポジションが生じる語りの中で固有性を指示する発話行為として「個人」を捉えることは,現代社会の「個」の在り方を検討する上で有益と言えるだろう。
著者
千田 有紀
出版者
日本家族社会学会
雑誌
家族社会学研究 (ISSN:0916328X)
巻号頁・発行日
vol.12, no.1, pp.94, 2000

ジェンダーの意味にまつわる現代のフェミニズムの議論は、たいていの場合、何らかのトラブルの感覚に行きついてしまうと、著者はいう。しかしジェンダーの意味をひとつに決定できないことは、フェミニズムの失敗ではない。トラブルは、「女」という謎めいた事柄に関連させられたことであり、大切なのはトラブルを避けることではなく、トラブルに隠された秘密を暴き、うまくトラブルを起こすことである。このような意味が、本の題名には込められている。副題は、「フェミニズムとアイデンティティの撹乱」。セックス、ジェンダー、性的欲望と実践からなる一貫したアイデンティティや「女」という主体の存在に疑問を投げかけ、これらがいかに権力の法システムによって生産されるかを解き明かした、フーコー流社会構成主義の本である。<BR>構成は、第一章が「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」である。この章は『思想』にかつて翻訳された章で、本書の章のなかでもっとも有名な部分であり、基本的な分析の枠組みが述べられている。ここでは、生物学的なセックス、文化的に構築されるジェンダー、セックスとジェンダーとの双方の「表出」、つまり「結果」として表出される性的欲望のあいだに、因果関係を打ちたてようとする法システムに疑問が投げかけられる。その結果、法システムこそが、ジェンダー、そしてセクシュアリティ、さらにはセックスを生みだすのであって、セックスが、ジェンダーやセクシュアリティを生みだすのではないことがあきらかにされる。本書の主張は、この章に還元されるものではないが、やはりこの本の白眉であることは間違いない。<BR>第二章は、「禁止、精神分析、異性愛のマトリクスの生産」である。レヴィ=ストロースの構造主義にはじまって、フロイト、ラカンの主張が分析の俎上にのせられる。近親姦のタブーは、禁止することによって欲望を生み出す装置である。精神分析に関する分析がなされているぶん、家族社会学者には興味深い章だろう。<BR>最後に第三章、「攪乱的な身体行為」では、クリステヴァ、フーコー、ウィティッグまでもが、批判的に検討される。とくに男と女の対立を止揚するものとして「レズビアン」というカテゴリーをもちだすウィティッグに対する批判は、システムのなかで解放を語る難しさについて考えさせられる。
著者
戸田 康明
出版者
一般社団法人日本機械学会
雑誌
日本機械学會誌 (ISSN:00214728)
巻号頁・発行日
vol.61, no.468, pp.93-98, 1958-01
著者
抜山 四郎
出版者
一般社団法人日本機械学会
雑誌
機械學會誌
巻号頁・発行日
vol.37, no.206, pp.367-374, 1934-06-01
被引用文献数
4

金屬固體面より沸騰水に傳る熱量Qはそれ等の間の温度差ΔTが増加するに従つて漸次増加するが、或點に達するとΔTをこれ以上増せばQはかへつて減少する様になる。此點が表題に示すに云ふ傳達熱や極大値であつて本文に於ては實驗的に此の如き點の存在を證明し、1気圧のもとでは此點に相當するΔTは水温100℃に於て20℃乃至40℃に過ぎず、また此場合のQは30乃至50cal/cm^2 sec即ち1,080,000乃至1,800,000kcal/m^2 hrに達し之を100℃に於ける等値蒸發率で表はせば2,000乃至3,000kg/m^2 hrであつて從來考へられて居つたQの最大値より桁違ひに大なる事を示した。又極大値に對應して必ず存在するQの極小値(最小値に非ず)も求め且つ此等ΔTとQとの高温部に於ける關係曲線が金屬の燒入れ効果に關係ある事を述べた。
著者
鈴木 亘
出版者
一般社団法人日本建築学会
雑誌
日本建築学会論文報告集 (ISSN:03871185)
巻号頁・発行日
no.257, pp.119-129, 1977-07-30
被引用文献数
1

1)康和2年(1100)および保元2年(1157)に再建された平安宮仁寿殿は, ともに母屋(桁行七間・梁行四間)の四面に庇を付けた東西九間, 南北六間の平面規模をもつ建物と推察される。このうち南・北両庇は孫庇の形式であり, 架構上, 仁寿殿は七間四面(桁行九間・梁行四間)の主屋に南・北両面孫庇を付けた形と考えられる。屋根は桧皮葺入母屋造りで, 特に四隅の庇は角庇の形式とし一段低い屋根をかけていたらしい。『大内裏図考証』に考定されている平安宮仁寿殿の規模, 形態は康和・保元両度の仁寿殿に大略認めることができるが, 母屋(桁行七間・梁行四間)部分の平面構成は後者と大分異なる。『大内裏図考証』には仁寿殿の母屋中央一間に南北行の馬道を考定している。しかし, 管見ではそれを裏付ける史料は認められなかった。むしろ平安後期の記録によると, 康和・保元両度の仁寿殿は母屋中央に桁行三間・梁行四間の広さをもつ大室がとられ, それを中心に母屋部分は東西に大きく三つの隔が構成されていたと考えられる。中央の大室は南面南庇との境に妻戸三戸, 東西両面に妻戸および連子窓(壁上連子), 北面に妻戸および壁をたてていた。また大室東側の母屋桁行二間・梁行四間部分は妻戸などをたて一室を構成していたと思われる。大室西側の母屋桁行二間・梁行四間部分は中央に方二間の室を設けていた。この室は南面に格子をたて, 北面を壁とする。方二間の室の南側二ケ間は観音供の本尊を安置した念誦堂と推定される。なお, 康和・保元両度の仁寿殿は母屋に天井を張っていた。また母屋の内部一間毎に柱をたてていた可能性がある。2)康和・保元両度の仁寿殿にみられる平面規模および形態は, 基本的に, 応和1年(961)再建の平安宮仁寿殿にも認めることができる。応和以後の平安中期に再建された平安宮仁寿殿の建築については資料を欠いている。ただし, 天徳以後の度重なる平安宮内裏の造営において殿舎の数または殿舎寸法の高大を減ずべきこと, あるいは造営の過差を制すべきことが議せられたのは長保3年(1001)罹災後の内裏造営の時である。平安宮内裏の建物には, その後の再建造営において規模の変更が伝えられるものがある。けれども, 仁寿殿については応和および康和・保元の各期の建物にほぼ同一の平面規模と形態が認められるので, 平安中期の仁寿殿は前期の規模, 形態をほぼ踏襲して再建されたと推測される。なお, 平安中期までの平安宮仁寿殿は母屋に天井が張られなかったらしい。
著者
川上 和人 鈴木 創 千葉 勇人 堀越 和夫
出版者
首都大学東京
雑誌
小笠原研究 (ISSN:03868176)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.111-127, 2008-03

南硫黄島の鳥類相の現状を明らかにするため、2007年6月17日〜27日の期間に現地で調査を行った。海鳥としては、海岸部でオナガミズナギドリ、アナドリ、アカオネッタイチョウ、カツオドリが、標高400m以上の山上ではシロハラミズナギドリ、クロウミツバメの繁殖が確認された。この他、巣は確認されなかったが、標高800m以上でセグロミズナギドリが繁殖しているものと考えられた。シロハラミズナギドリは、1982年の調査では山頂周辺では確認されていなかったが、今回は多数が確認されたことから、島内分布が変化している可能性がある。陸鳥としては、カラスバト、ヒヨドリ、イソヒヨドリ、ウグイス、メジロ、カワラヒワの生息が確認された。シロハラミズナギドリ、セグロミズナギドリ、クロウミツバメ、カワラヒワの分布は小笠原諸島内でも限定的であり、人為的攪乱が最小限に抑えられた南硫黄島の繁殖地の存続は、これらの種の保全上極めて重要である。しかし、南硫黄島の環境は安定的でなく、自然災害や病気の流行などにより、南硫黄島の繁殖集団が縮小する可能性は否定できない。このことから、今後これらの鳥類の個体群推移についてモニタリングを続ける必要がある。