- 著者
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藤尾 慎一郎
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.183, pp.113-143, 2014-03-31
本稿は,「弥生時代の実年代」(雄山閣)[藤尾2009b]の発表後に行った,いわゆる2400年問題の時期に相当する弥生前期中頃~後半(板付Ⅱa式~板付Ⅱb式)期の炭素14年代測定の結果と,過去に行った当該期の測定値をあわせて,西日本各地における灌漑式水田稲作(以下,弥生稲作)の開始年代と派生する問題について考察したものである。対象とした遺跡は,新たに測定した福岡県大保横枕遺跡,徳島県庄・蔵本遺跡,鳥取県本高弓ノ木遺跡と,過去に行った福岡県福重稲木遺跡,同雀居遺跡,熊本県山王遺跡,大分県玉沢条里跡遺跡,愛媛県阿方遺跡,広島県黄幡1号遺跡である。測定・解析の結果,板付Ⅰ式新段階の年代が前8世紀末葉の20年間ほどであることを初めて確認するとともに,板付Ⅱa式は前700~前550年頃,板付Ⅱb式は前550年~前380年頃,という2009年段階の結論を追認した。さらに鳥取平野の弥生稲作が,近畿よりも早い前7世紀前葉には始まっていた可能性のあること,徳島平野では奈良盆地や伊勢湾沿岸地域と同じ前6世紀中頃になって弥生稲作が始まっていたことを再確認した。九州北部を出発点とする,山陰ルート,瀬戸内ルート,高知ルートという3つの弥生稲作の東進ルートのうち,山陰ルートも他の2ルートとほぼ同時に拡散したことを意味する。伊勢湾沿岸地域で弥生稲作が始まるまでの約400年のうちの約250年間,九州北部玄界灘沿岸地域にとどまっていた弥生稲作は,玄界灘沿岸地域を出ると,一気に鳥取平野~岡山平野~香川平野~高知平野を結ぶ線まで広がり,その後も5~60年で神戸,さらに70年で徳島,奈良盆地,伊勢湾沿岸まで急速に広がっていった。このことは,玄界灘沿岸地域と西日本では,縄文人の弥生稲作の受け入れ方になんらかの違いがあった可能性を示唆している。