著者
小菅 充子
出版者
和洋女子大学
雑誌
和洋女子大学紀要 家政系編 (ISSN:09160035)
巻号頁・発行日
no.38, pp.43-55, 1998-03

紅茶の浸出液を冷却した際に見られるクリームダウンが,どの様な条件により出現し易いか実験を行った。また緑茶や烏龍茶においても同様の現象が見られるのか否かについても調べてみた。紅茶においては溶出タンニン量の多い茶葉のものはクリームダウンが起こり易く,また冷却前に砂糖を添加しておくと,クリームダウンは抑制されることが確認出来た。同じ茶葉を用いても硬度の高い浸出水で浸出した時は,浸出液の色調は暗赤化し,クリームダウンも激しかったが,溶出タンニン量はむしろ少なかった。冷却方法については,流水及び冷蔵庫による緩慢冷却も良い方法と思われる。緑茶,烏龍茶においては,紅茶と比較してクリームダウンの生成はかなり低かった。しかし浸出水の硬度が高くなると,紅茶と同様かなりのクリームダウンが出現し,タンニンは溶出しにくくなる傾向が見られた。各浸出水を加熱してみると,硬度の高かった浸出水において白濁が見られ,緑茶,烏龍茶,そして紅茶においてクリームダウンという形で我々の目に写っていたものは,タンニンとカフェインの結合物が冷却されて析出したものだけではなく,この浸出水による白濁も大きな部分を占めていたと推測された。
著者
町田 樹
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
日本体育学会大会予稿集
巻号頁・発行日
vol.68, pp.38_2, 2017

<p> フィギュアスケートは、氷上においてジャンプやスピン、ステップなどの卓越した「身体技術」に加え、思想や感情、物語を体現するための「表現技術」を競うスポーツである。基本的に「滑る」、「跳ぶ」、「回る」等の動作で構成されるフィギュアスケートだが、それらの動作を駆使して発揮される一連のパフォーマンスは、ときに「踊る」、「表現する」という動詞によって言い表される芸術的な動きの連続性として捉えられる。では、なぜ人はフィギュアスケーターの演技に美的な価値を見出すのであろうか。その理由の一つとしては、長い歴史の中で様式化されたフィギュアスケート特有の動作と音楽の間に、強力な相関関係が成立しているからであろう。本発表では、実際に発表者による自作振付の映像を用いながら、フィギュアスケーターの身体技術と音楽の密接な関係性を中心に、分析を試みていきたい。なお、発表者はフィギュアスケーターとしてのキャリアを23年間継続させており、現在プロフィギュアスケーターとしても活動を展開している。従って、本発表は研究者の観点と共に、フィギュアスケートの実演家および振付家の視点からも見解を提示するものである。</p>
著者
佐藤 知恵 村井 源 徃住 彰文
出版者
情報知識学会
雑誌
情報知識学会誌 (ISSN:09171436)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.132-137, 2009-05-16
被引用文献数
2 1

本研究では,特定の作家の小説を特徴づける語彙とそれが所属する概念カテゴリーの特徴を調べるため,星新一ショートショート作品の特徴的概念と,その構造を計量的に抽出した.データとしては,ショートショートの第一人者である星新一氏の初期(1968年〜1973年)における全720作品を電子化したテキストを対象とし,出現頻度の高い語彙の共起ネットワーク化を行うことで,星作品における概念構造を可視化した.また,各作品に特徴的な語彙を抽出し,そのカテゴリー分類を行うことで,ショートショートの特徴を計量的に抽出した.
著者
山口 恭平 田口 賢太郎 松本 郁恵
出版者
東京大学大学院教育学研究科
雑誌
東京大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13421050)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-39, 2011

In recent years, difficulties in living together with disparate others are discussed in the educational theory. Among such difficulties, we take up what originates in desire, especially sexuality. First of all, desire itself is examined refering to theory of A. Kojève and that of G.Bataille. Next, based on the analysis of desire, we examine three subjects. First, we take up 'queer pedagogy', whose purpose is to undo identities of subjects through reading. Second, we consider the possibility for sexual minorities themselves to undo others'identities through writing, taking up some works of O.Wilde. Third, unavoidable risk of sexuality in public sphere is examined through rethinking about thought of E.Fromm.
著者
三枝 文夫
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. EA, 応用音響 (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.105, no.202, pp.1-6, 2005-07-16
参考文献数
5

最初の電子楽器をケーヒルのテルハーモニウムとすると、電子楽器誕生から100年になります。またRCAのミュージック・シンセサイザーMKIIの出現からも、はや50年経ちました。その間無数の電気・電子楽器が生まれては消えてゆきました。市民権を得た楽器はほんの一握りで、ほとんどの楽器は忘れ去られました。今も電子楽器は他の電気製品と同じように淘汰のただなかにあります。本稿は電子楽器の特質をふまえ、特にリアルタイムの演奏を目的とした電子楽器は何をめざしどこへ行こうとしているのか考えてみたいと思います。
著者
植田 康孝 菊池 魁士
雑誌
江戸川大学紀要 = Bulletin of Edogawa University
巻号頁・発行日
vol.27, 2017-03-31

近年,目覚ましい技術成長を遂げている人工知能は,あらゆる産業を革新すると期待される。しかし,その影響の範囲は広過ぎるため,2030 年に到来すると予想される,人工知能が人間の能力を上回る「シンギュラリティ」以降の「人工知能社会」の具体的な将来像をイメージし難い,と指摘されることもしばしばある。イメージを助けてくれるのがSF(サイエンス・フィクション)作品である。現代の多くの人の中にある「人工知能」のイメージは,学問としての人工知能でも,技術としての人工知能でもなく,数多くのSF 映画やアニメ作品を通して形成されて来たイメージである。 スター・ウォーズ,ターミネーター,アイアンマンなど,SF 映画はいつの時代も人間そっくりの人造物(ロボット,アンドロイド)に憧れて来た。そして,その憧れは,「人工知能」に結びつく。人間のように動き,時に感情まで持つアンドロイド(ヒト型ロボット)は様々なSF作品に登場するため,欠かすことが出来ない存在になっている。SF 作品「スター・ウォーズ」が世界中に愛され続けているのは,ロボットが圧倒的な存在感を有しているからである。壮大な銀河の戦いの中で,安らぎとユーモアを与えてくれる。「スター・ウォーズ」シリーズには数多くのロボットが登場するが,1 作目(1977 年)で観客にとって最も印象に残ったのが「C-3PO」と「R2-D2」という2つのロボットである。「R2-D2」は宇宙船の操縦や機械の操縦をするロボットであり,登場人物たちの危機を何度も助ける。ただし言葉を話すことが出来ないため,「C-3PO」が代わりに話す役割を担う。「C-3PO」は通訳・式典用ロボットであり,機械語を人間に通訳したり,様々な種族の言葉や儀礼に精通し種族間の仲立ちをしたりする。映画ではこの2 体を主人公ルーク・スカイウォーカーが購入したことから,ロボットは帝国軍と反乱軍の戦いに巻き込まれて行く。「フォースの覚醒」から登場した「BB-8」は,大小2つの円から生まれたロボットであり,そっぽを向いたり,二度見したり,猛スピードでコロコロ疾走する。「R2-D2」の半分の大きさで,頭部と分離したボール型のボディが転がりながら移動する姿は,「かわいさ」を醸出する。結果,「BB-8」は,作品の中で一,二を争う人気キャラクターとなった。2016年12月16日に公開された「ローグ・ワン」では,ヒト型ロボット「K-2SO」が,反乱軍の将校キャシアン・アンドアの相棒として初登場した。何かと一言多いキャラクター設定である。「スター・ウォーズ」シリーズに登場する,これら人工知能「C-3PO」「R2-D2」「BB-8」「K-2SO」は,あくまでも人間がコントロールできる「道具知」と位置づけられる。映画「スター・ウォーズ」で描かれる人工知能は,「人間中心」のキリスト教観を基盤として,人工知能(ロボット)はあくまでも人間がコントロールできる存在であり,日本のSF 作品で描かれる「自律知」(汎用人工知能)のロボットと性格を異にする。「道具知」(特化型人工知能)とは,「自律知」(汎用人工知能)と対照する表現であり,人工知能の評価を「いかに便利な道具か」という視点でその知能の有無を評価する立場から捉えられ,「道具としての知的さを実現するために知的な情報処理モジュールを数多く組み込まれて構成されるロボット」である。
著者
日和 恭世
出版者
別府大学会
雑誌
別府大学紀要 (ISSN:02864983)
巻号頁・発行日
no.57, pp.57-66, 2016-02

ソーシャルワークの国際定義において「ソーシャルワークは専門職である」と謳われているものの,わが国のソーシャルワーカーは自分自身の職業を専門職であると捉えることにあまり自信をもっていないという現状がある.そこで,本稿では,専門職の概念に関する先行研究をレビューすることによって,改めて「専門職とは何か」を問い直し,専門職としてのソーシャルワークの捉え方について若干の考察を試みた.
著者
中島 和歌子
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 (ISSN:03873447)
巻号頁・発行日
no.28, pp.1-40, 2002-02

『枕草子』には陰陽道に関する記事が少なく、仏教関係のそれの多さ、多様さと対照的である。一方『栄花物語』正篇は、『枕草子』と重なる時代・人物を描く部分を含めて、陰陽道に関する記述が多く、禁忌を重視し陰陽師を信頼する様子が描かれている。『枕草子』には、官人の陰陽師は固有名詞が見えないだけでなく、ほとんど描かれていない。その理由としては、視野の問題もあるが、出産を含む定子の危機そのものを一切記していない為に登場の機会がなかった、実際に道隆が兼家や道長・頼通ほどに禁忌を遵守し陰陽師を重用していなかった、験者や法師ほどには身近でなかった、といったことが考えられる。但し、記事は少ないものの、陰陽師に従う小童部や法師陰陽師、更には式神まで、陰陽師の周辺にいるものは取り上げられていた。これらは院政期の説話などには散見するが、陰陽道関係の記事が多様である『字津保物語』を含め、仮名にはあまり見られない。何かの理由で文学作品に取り上げられなかった風俗や言葉が、『枕草子』によって垣間見える一例である。また、『呪詛』の明記も珍しいが、伊周や高階氏による道長方呪詛の史実を考慮すると、記したことに挑発的意味あいが感じられる。物忌・方違については風俗としてそのまま受け入れる様子が見え、口実として利用することもない。しかし、呪誼、凶会日、物忌札や物忌の描き方においては、禁忌意識は薄い。また、これらの記事は連続して出てくることが多い。特定の物忌は、一条天皇四例、村上天皇・伊周・繁子・清少納言各一例で、定子の物忌は無い。伊周や清少納言の物忌は、定子との心の繋がりの確認の契機となっている。『蜻蛉日記』や『和泉式部日記』と愛情の種類は異なるが、表現方法は同じだと言える。 Not a lot of articles regarding Onmyodo in "Makura-no-soshi"(枕草子) exist. It is in contrast to the varieties of Buddhism ones. On the other hand, in the main part of "Eiga-monogatari"(栄花物語), there were many descriptions about Onmyodo that taboo was taken very seriously and Onmyoji was trusted, included the part which overlaps with the era and the characters of "Makura-no-soshi". Onmyoji who worked for government official were not only seen but also rarely written in "Makura-no-soshi". Possible reasons for it were, the crisis of Teishi including her delivery were not written down at all, therefore there was no opportunity of the appearance, actually compared to Kaneie, Michinaga and Yorimichi, Michitaka had not complied with taboo and had not given Onmyoji to the important position, it was not closer than trained Buddhist Priests and Hoshi. However there were few articles about Kowarawabe who served Onmyoji, Hoshi-onmyoji, furthermore, also Shiki-gami around them were taken up. These occasionally appeared in Setsuwa in Insei period, it was uncommon in kana including "Utsuhomonogatari(うつほ物語)" which had various Onmyodo-related articles in it. This is one example to catch a glimpse of the customs and words which were not referred in some reason by "Makurano-soshi". And specifying imprecation of 'Juso' is also rare and when the historical evidence of cursing Michinaga by Korechika or Takashina-uji were considered, it is possible to feel the provocative implications from there. In regards to Monoimi, Katagae, they were accepted as customs as they were, no use for excuse. However, regarding the way of describe Juso, Kuenichi, Monoimi-fuda, or Monoimi, there was less conscious of the taboos. Also these articles were often written repeatedly. As special Monoimi, four examples for Ichijo-tenno, one for Murakami-tenno, Korechika, Shigeko, Sei-shonagon each of them and none of Teishi's. Monoimi for Krechika or Sei-shonagon became the opportunity to connect with the heart of Teishi. Although the kind of love varied from "Kagero Nikki", (蜻蛉日記)"Izumishikibu Nikki"(和泉式部日記), this might be the same way of expression.