著者
白楽 ロックビル 福田 沙織 堀田 のぞみ
出版者
国立研究開発法人 科学技術振興機構
雑誌
情報管理 (ISSN:00217298)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.11-29, 2008 (Released:2008-04-01)
参考文献数
15

科学研究者の不祥事を実証的に研究する基盤として,日本の最近21年間(1987年~2007年)の「研究者事件データベース」を構築中である。そのデータベースに基づく分析を試み,改善策を提言する。まず,「研究者の不祥事」は「行為」→「漏えい」→「報道」→「確立」の4段階を経ることを明確にした。その過程で,マスメディアは重要な役割を果たしている。また,不祥事をなくすための政府,学協会の対策はおざなりに思えるが,根本的には,日本の科学者の閉鎖的価値観,形式に終始する行政,権力にすり寄る御用学者,などの旧弊な構造と文化風土を改善しなくてはならない。突破口の例として,各大学の理工系学部に科学技術文化学研究室を設置する提言にまとめた。科学研究者の現場の声を政策に生かす仕組みが必要である。
著者
加藤 陽子
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.94, no.11, pp.1743-1775,1853-, 1985-11-20 (Released:2017-11-29)

In the past the Hiranuma Cabinet has been often referred to in connection with the Japan-Germany-Italy mutual Defense Pact of 1937. This paper puts a new perspective on the well-known 'Complex and bizarre communique' and criticizes the previous trend in treating the Hiranuma Cabinet as incompetent. This paper, through a close examination of both American and British diplomatic data, throws light on Hiranuma's manoeuverings with respect to the U.S. and clarifies the following three statements. First, Hiranuma wished to conclude the Chino-Japanese War immediately and pursue possible ways for peace negotiations with the Chiang Chieh-shih Government. The idea of a peace treaty suggested by American and Britain had been thoroughly discussed by the Hiranuma Cabinet as to whether Japan and China should accept it or not. This discussion led to the disolution of the first Konoe-Communique and inevitably forced Japan to change its attitude. Since their failure in the Trautmann Peace Move they had repeatedly refused peace negotiations conducted through a third party. Secondly, Hiranuma, having predicted that both America enforce economic sanctions against Japan, tried to approach the U.S. positively. At the end of May, 1939, Hiranuma sent a message to President Roosevelt through Ambassador Grew, and held a meeting with Secretary Dooman of the American embassy concerning the possibility of holding an international meeting to discuss methods of resolving the crisis in Europe. There was, however, one condition, that America would call Britain to the meeting and Japan would call Germany and Italy. Hiranuma wished to add to the topics at the meeting truce conditions for the Chino-Japanese War. Thirdly, on the night prior to the start of the European War only Japan and America held the key to the solution of the Far East Problem. Hiranuma's successfully improved relations with America confused Britain, who thereby did not have a chance to impose economic sanctions on Japan. Hiranuma's diplomacy had been supported by his right hand men and he had never hesitated in approaching the American and the British embassies. His approach was decisive and straight to the point. Hiranuma made himself a reputation by suppressing the Communist Movement at the beginning of the Showa Era and by such manoeuvrings as the Anti-Minobe strategy in the Kokutai-meicho-Movement. The times, however, changed drastically during the following decade. Hiranuma was to be stultified by political moderates, but never the less was able form a cabinet which was in line with them. He continued to make his best effort to fulfill their expectations. Considering only the results of his diplomatic manoeuvres, one can observe that there were fewer reactions from America than were expected, although much effect was exercised on Britain and China. However, results are not wholly indicative of history. While the people and the media were thinking only of the alliance with Germany and Italy, Japanese diplomatic policies were moving calmly towards the Pacific.
著者
吉川 徹 金田 昌子
出版者
日本児童青年精神医学会
雑誌
児童青年精神医学とその近接領域 (ISSN:02890968)
巻号頁・発行日
vol.52, no.2, pp.178-185, 2011-04-01
参考文献数
21
被引用文献数
1

5 0 0 0 OA 埴輪の鳥

著者
賀来 孝代
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.14, pp.37-52, 2002-11-01 (Released:2009-02-16)
参考文献数
107

埴輪の鳥の種類には鶏・水鳥・鵜・鷹・鶴か鷺があり,それらを実際の鳥の姿や生態と照らして検討した。鳥の埴輪は,種類によって出現時期や配列場所が異なっていることから,すべての種類の鳥が同じ役目を担っていたのではなく,種類ごとに,それぞれ違う役割をもっていたに違いない。鳥の埴輪としてひとくくりにせず,別の種類の埴輪と考えるべきである。埴輪の鳥の種類を見分けるために,元となる鳥の特徴を,埴輪にどう表現したかを観察した。鳥類という共通性があるために,種類を越えた同じ表現もあるが,種類ごとに違う表現もあり,埴輪の鳥の種類を見分ける手がかりを得ることができた。体の各部分の表現を細かく見ていくと,初めはモデルとなる鳥を実際に見て作るが,早い段階で表現がきまってしまい,大多数が実際の鳥ではなく,鳥の埴輪を見て作っていることがわかる。鳥の種類も限られており,自由に鳥を埴輪に写したり,表現したりはできなかったことを示している。鳥の埴輪から鳥の埴輪をつくることによって起きる,表現の混在や簡略化の移り変わりを検討したが,そこには古墳時代の人々の観察眼と,観察の結果を埴輪に反映する独自性を読みとることができた。
著者
張替 直美 原田 秀子 岡 裕美 若松 真紀 金子 五和
出版者
山口県立大学
雑誌
山口県立大学看護学部紀要 (ISSN:13430904)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-33, 2007-03

炭酸泉入浴剤を用いた足浴(バブ浴)が生体に与える影響と効果について調べるために、健康な女子学生11名を対象に、足浴前後の足背の末梢皮膚血流量と末梢皮膚温度の測定を実施し、さら湯浴と人工炭酸泉浴との比較検討を行った。その結果、バブ浴と人工炭酸泉浴ともに足浴による下肢の浸責部位である足背の末梢皮膚血流量は、足浴直前に比べ足浴10分後に有意に増加した。しかし、さら湯浴ではこれらの両足浴よりも有意に血流量の増加率は低かった。また、足背の末梢皮膚温度は、人工炭酸泉浴とバブ浴では、足浴直前に比べ足浴後15分に有意な上昇が認められたが、さら湯浴のみ有意な皮膚温度の上昇は認められなかった。これらのことから、バブ浴は人工炭酸泉浴に準じる足浴中の皮膚血流量増加作用と足浴終了後の皮膚温度保持効果、ひいては、循環促進効果が示唆された。
著者
大谷 正人
出版者
三重大学教育学部
雑誌
三重大学教育学部研究紀要 人文・社会科学 (ISSN:03899233)
巻号頁・発行日
vol.55, pp.1-10, 2004

ベートーヴェン、スメタナ、フォーレという3人の大作曲家(3人とも名演奏家でもあった)における聴覚障害の創造への影響を検討した。ベートーヴェンの場合、聴覚障害は名ピアニストとして社交界での寵児でもあった青年期に発症したこともあり、遺書を書くほどの衝撃をもたらしたが、その不屈の精神により、主題の徹底的展開によるソナタ形式の完成をもたらした。スメタナの場合、オペラの指揮者としても活躍していた最盛期に急激に発症し、わずか4ヶ月で完全に聴力を失ったこと、その後には器質性精神障害を伴ったことから、最も悲劇的な様相を呈したが、同時に「わが祖国」や「わが生涯より」のような自伝的な不滅の傑作をもたらした。フォーレの場合、初老期における発症で進行も徐々であったため、その影響は表面的にはまだ穏やかで、声部の中音域化やポリフォニー化などをもたらした。3人に共通しているのは、音楽の深化、凝集化、内省化であった。
著者
山本 忠行 Tadayuki Yamamoto
出版者
創価大学通信教育部学会
雑誌
通信教育部論集 (ISSN:13442511)
巻号頁・発行日
no.16, pp.69-89, 2013-08

「直接法」をめぐる議論は、単に媒介語を使用するかどうかという点に矮小化されがちである。しかし、19世紀末に始まった言語改革運動、すなわち文法訳読法からグアン法やオーラル・メソッドへの転換は、説明と翻訳による理解を重視する「事柄教育」から、インタラクションを通じて、学習者自らが意味を察し、類推によって表現法をつかみ取る「表現教育」への転換であり、言語教育観そのものの革命であった。それは現代の外国語教授法と共通する考え方に根ざしており、創価教育の目指す知識伝授型教育からの脱却を意味するものでもある。

5 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1904年08月13日, 1904-08-13
著者
大野 哲也
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.268-285, 2007-12-31 (Released:2010-04-01)
参考文献数
27
被引用文献数
1 1

現代日本社会において,「私は誰なのか」という問いを抱えて苦悩している人たちの存在が顕在化している.現代における最も尊重されるべき社会的価値の一つが「個人の自律性」であるからこそ,皮肉なことに,個々人は自己のアイデンティティを常に確認しなければならないという状況を生じさせているのである.たとえば現在,社会で流通している「自分探し」という言葉は,自己のアイデンティティをめぐって人々が葛藤している事態をよく表している.このような「自分らしさ」への渇望状況において,人々から着目されたのがバックパッキングだった.アイデンティティが他者と差異化することでもたらされるのならば,多様な文化を長期間にわたって経験する「放浪」は,アイデンティティの構築実践そのものだといえるだろう.そして実際,観光社会学のバックパッキング研究においては,旅におけるアイデンティティ刷新の可能性を肯定的に捉える主張が繰り返しなされてきた.しかしながらバックパッキングを取り巻く環境は大きく変化してきている.旅のマニュアル本の存在が証明しているように,旅がマス・ツーリズムと同様に,商品化されていく過程が確認できるのだ.そこで本稿ではアジアを旅する日本人バックパッカーを事例として,冒険的な旅だと表象されてきたバックパッキングが,どのように現代社会の中で再定位され,それがいかなる文化・社会的意義を有しているのかについて考察する.