- 著者
-
日比野 光敏
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.162, pp.271-295, 2011-01-31
ドジョウは人間にとってたいへん身近な存在である。ドジョウというと子どもたちは,丸い頭と口のまわりのヒゲ,そして丸い尻尾を描くことであろう。大人にとっても,ドジョウすくいなどで親しみ深く扱われてきた。ドジョウ鍋やドジョウ汁,あるいは蒲焼きなどとしてドジョウを食べることも,全国各地で見られた。また,めずらしいと思われるかもしれないが,ドジョウをすしにすることもあった。そのいくつかは,まだ健在である。ところが,その多くは,じゅうぶんな記録もされぬままに,消えてなくなろうとしている。本稿はドジョウずしを取り上げ,これらの正確なレシピを書きとどめることを第一目標とする。筆者はこれまでに,ドジョウ(マドジョウ)のすしを長野県佐久市,愛知県豊山町,滋賀県栗東市,大阪府豊中市,兵庫県篠山市で調査した。また,シマドジョウやホトケドジョウのすしを栃木県宇都宮市で,アジメドジョウのすしを福井県大野市,岐阜県下呂市で調査した。その結果言えることは,ひと口に「ドジョウのすし」といっても,その作り方は一様ではない。それはすしの種類からみても,実に多くの形態に及んでいることがわかった。その上で,ドジョウずしが消えてゆく理由,さらにはドジョウが語るものを考えてみる。ドジョウはほかの淡水魚に比べ,特殊な存在である。体型は,われわれが食べ慣れているフナやモロコとは違って細長い。多くの大人たちが「魚は食べるもの」という情報は知っていても,その姿かたちはフナやモロコのように「魚の形」をしているものであって,ドジョウのように細長いものではない。それゆえ,食べることには,よくも悪くも,抵抗感がある。加えて,子どもたちはドジョウを可愛らしく描く。保育園や学校では,日記をつけて観察させることもある。そんな「可愛い動物」を,なぜ食べなければならないか。ドジョウを食べることは,罪悪感まで生み出してしまう。かつては,自然に存在するものすべてが,われわれの「餌」であった。ドジョウだって同じである。ゆえに,自然に対して感謝したり恐れおののいたりする崇拝まで生まれた。だが,現在はどうか。自然に対する畏敬の念が,子どものみならず大人でさえも,なくなってしまった。結果,ドジョウは「可愛いもの」,もしくは逆に「普通の魚とは違う,異様な魚」となり,少なくとも「食べる存在」ではなくなってしまったのではあるまいか。ドジョウずしが消えてしまった原因は,あくまでも人間が作り出したものである。ドジョウは,静かにこのことを物語っているのではないだろうか。