著者
魚住 孝至
出版者
宗教哲学会
雑誌
宗教哲学研究 (ISSN:02897105)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.29-42, 2016-03-31 (Released:2017-03-10)

In „Zen in der Kunst des Bogenschießens“ schildert Eugen Herrigel den von ihm durchlaufenen Lern- und Übungsprozess unter Anleitung eines Meisters, für den die Essenz des Bogenschießens im Zen liegt. Herrigel führt aus, wie er durch die Übung des Bogenschießens zur Erfahrung der „absichtslosen Ichlosigkeit“ gelangt.In dieser Arbeit wird auf der Grundlage von Herrigels Werk analysiert, wie die Transformation von Körper und Geist mittels des Übungsprozesses erfolgt. Hierzu wird auch der schriftliche Nachlass von Herrigels Meister Awa Kenzo in die Deutung einbezogen. Außerdem wird untersucht, wie Herrigel die Erfahrungswelt des Zen-Buddhismus in seinem Nachlass „Der Zen Weg“ interpretiert.
著者
猪木 正道
出版者
日本法哲学会
雑誌
法哲学四季報 (ISSN:24338583)
巻号頁・発行日
vol.1951, no.7-8, pp.265-290, 1951-02-05 (Released:2008-11-17)
参考文献数
57
著者
宮山 昌治
出版者
学習院大学
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.5, pp.57-79, 2006

大正期のベルクソン哲学の大流行(1912─1915)は唯心論の興隆の波に乗って、〈直観〉をしきりに喧伝した。だが〈直観〉を強調するあまり、〈知性〉と〈他者〉を排除する傾向が強くなり、それが大流行を終焉に導くことになった。以降、ベルクソン受容は低調に終始するが、1941 年のベルクソンの逝去を機にベルクソンに関する論文が多数発表されて、わずか半年ではあったが、小さな流行を引き起こした。 1941 年の小流行では、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉を区別したが、これらは実は相補関係にあるという指摘が多く見られた。また、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉の結合を図ったが、それは弁証法にまでは至らなかったという批判も見られた。だが、前者は〈直観〉の唯心論の枠組みを温存して、その上に〈知性〉を添加しただけである。むろん〈他者〉の問いも解決していない。また、後者はベルクソン哲学を弁証法によって批判しているが、なぜ弁証法なのであろうか。それは、1932 年の『二源泉』批判に端を発する。 1932 年の論壇は、全体主義の擡頭を受けて政治論が興隆していた。孤高を保ってきた哲学界もこの状況を無視することはできず、媒介者としての能動的な主体を強調する弁証法を打ち出して、マルキシズムとファシズムの攻勢に対して抵抗を始めた。これは、能動的な主体を強調するという点で、大正期の唯心論の系譜を引くものであった。 この1932 年に『二源泉』が刊行されたが、そこで取り上げられた「神秘家」の受動性は能動的な主体の弁証法とは相容れないものであった。それゆえに、ベルクソン哲学は最終的に弁証法には到達しなかったという批判が生じたのである。この批判は1941 年の受容でも繰り返されたが、『二源泉』を受け入れなかったことで、ベルクソン受容は大正期の唯心論の枠から外に出ることはできず、その継続にとどまった。唯心論の外にある〈他者〉についても、主体の弁証法はこれを従属させることしかできなかったのである。 しかし、大正期以降の思想史において唯心論を定着させるのに大きく寄与したのはベルクソン受容なのである。それは、たしかに〈他者〉の問いに対しては無力であり、社会論としては限界があったかもしれないが、ベルクソン受容が主体の能動性を強調して、全体主義に対する抵抗の一拠点を築いていたという事実は忘れてはならないであろう。
著者
高野 秀之
出版者
嘉悦大学
雑誌
嘉悦大学研究論集 (ISSN:02883376)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.77-99, 2009-10

本稿は、平成20 年度嘉悦大学特別研究『認知言語学を理論基盤とした文法教育の研究』の第1章として共同研究者に提供した、言語学史の概要部分を加筆・修正したものである。その中で、筆者は認知言語学を最新の言語観として位置づけ、言語学の歴史において、その要請はことばに関する哲学的な議論の当然の帰結であると主張している。近代以降の言語学史において、最新の言語理論というものは、直前の言語観をアンチテーゼとして成立したものであるという見方が、一応、共通の認識になっている。しかし、それでは言語研究の歴史の中で展開されてきた言語観の変遷は不問に付され、最新の言語観と直前のそれとの差異ばかりが過剰なまでに強調されているような印象を受ける。理論言語学の目的は、最新の言語理論がどれだけ言語一般の特性を表すものであるかを共時的に検証するとともに、そこに至るまでの言語観の変遷を通時的に実証することにある。ことばをどのように扱うのかという問題は、ある言語理論がどれだけ多くの言語に対応するものであるかを論じるだけではなく、それぞれの時代において言語学者がどのような視座に立ち、何を取捨選択してきたのかを振り返ることによって初めて明らかにされるものである。今回の取り組みが、哲学者や思想(史)家から浅薄なものであるという指摘を受けることになったとしても、それは次の言語理論を創出する過程においては、必要不可欠な作業であると考える。言語学者自身が言語観の変遷を振り返ることにより、言語学は更なる発展を遂げるのである。
著者
岡嶋 隆佑 OKAJIMA Ryusuke
出版者
筑波大学哲学研究会
雑誌
筑波哲学 = Journal for the philosophical moments in Tsukuba (ISSN:09162046)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.25-38, 2016-03

本稿は、ドゥルーズ科研・脱構築研究会共同ワークショップ「ドゥルーズとデリダ」(2015年12月)での口頭発表の原稿を下に作成したものであり、また科学研究費補助金(特別研究員奨励費)による研究成果の一部である。
著者
満江 亮
出版者
山口大学大学院東アジア研究科
雑誌
東アジア研究 (ISSN:13479415)
巻号頁・発行日
no.10, pp.67-88, 2012-03

若者たちの悩みの多くは、自らの杜会的役割に関するものである。しかし、「私とは誰か」という形而上学的・存在論的問いに悩まされる若者も少なくない。この悩みは人学が学び成長することとも関わっているが、はたしてこのような形而上学的・存在論的な悩みすらも社会的役割の問題として理解されてよいのだろうか。それは、まるで全ての人間の生活が社会という舞台の上で与えられた役柄を演じることのみになりはしまいか。だが、人問は学び続けるとか選択しなおすという活動を通して、獲得した役柄を捨て去り、はっきりとは意識しないまでも、存在の根源的レベルで「私とは誰か」と問い続けながら生活しているはずである。こうした問題を巡って、本稿初盤では、まず人間の存在の根源性に関する廣松渉とジャン-ポール・サルトルそれぞれの哲学的主張をとりあげ、その異同を考察する。これは〈私〉の意識の存在の根源性を巡るものである。筆者は、人格概念に近い社会性を持った人間のあり方が根源的であるとする廣松の主張と、意識の深層に自分をも否定しうる働きをもつ人間の在り方が根源的であるとするサルトルの主張の対立の整理を試み、意識の根源に触れようとする存在論的議論を教育学で行うことの意義を確認する。また、中盤では、サルトルによりながら、現代のある大学生が旅の途中で経験した、人間の意識の深層に関わる自己欺騰の事例を扱う。さらに終盤では、サルトルによる世界の根源的選択に依りながら自分探しの旅の記録を読み取ることによって、ある大学生の世界選択の変遷を辿る。これらの考察によって、人間の意識の根源に半透明的に確認できる根源的否定を見出し、その重要性を明らかにする。こうした議論を踏まえたうえで、最終的に筆者は、人間の存在論的次元、すなわち意識の深層における根源的否定に着目することで、現代の自己形成の問題について新生面が見出せるとする。
著者
水本 正晴
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.63-77, 2006
被引用文献数
2

David Chalmers presented a zombie argument, from which the falsity of physicalism allegedly follows. Although many authors who criticize this argument attack the derivation of the metaphysical possibility of zombies from the logical possibility of zombies, in this paper I will argue against the very first premise of the argument: the logical possibility of zombies. I will show the a priori impossibility of zombies, through what I call the Blinking Qualia argument.
著者
佐藤 典子
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.112, pp.1-31, 2004-03

序I. フランスの家族に関する法と歴史的背景 1. 家族の現状 (1) フランスの婚姻事情 (2) 内縁=事実婚の傾向 (1) 内縁の実態 (2) 従来の内縁関係の問題 ア) 異性愛内縁カップル イ) 同性愛内縁カップル ウ) 内縁に対する法解釈と判例 (3) 親子関係の変化 2. 家族法の歴史 (1) 近代家族の誕生 (2) 家族の権威原則の消失 : 失墜した家父長制 (3) 複合家族の出現II. Pacsとは 1. パクス制定 (1) パクス前史 (2) パクス制定までの経過 2. パクス法とは (1) 法的な定義 (2) 法的なあいまいさ (3) 「内縁」の規定 (4) パクスの定着 3. パクスの法的な評価 (1) 内縁関係を立法化する必要があるのか (2) カップルが子を持つことの可能性 4. 社会的な意義の検証 (1) 同性愛カップルについて (1) 同性愛者個人に対する差別 (2) 同性愛カップルに対するまなざし (3) 同性愛カップルは家族か (2)異性愛カップルとパクス (3) 偽装パクス (4) 「友情以上結婚未満」カップルのケースIII. 象徴闘争としてのパクス 1. 親密関係の再政治化 (1) 「個人的なことは政治的なこと」であるか (2) 家族制度と「連帯(Solidarité)」 (3) 同性愛カップルにとってのパクス (4) 対幻想としてのパクス 2. パクスの象徴闘争としての側面 (1) パクスは脱構築されているか (2) 自己決定という名の陥穽 (3) 象徴的支配としてのパクス特集家族とその社会的生活世界の探求論文