著者
田口 康大
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2009

本研究の目的は、人間と社会との関係についての分析を経ながら、これまでの基礎教育理論を批判的に再構築することにある。その際の分析の中心となるのは、1.人間は欲望や情動といった自己の非理性的側面とどう関わっていけるか、2.人間は他者の感情とどう関われるか、3.道徳と感情との関係、これら三つの問題である。具体的には、公的生活と私的生活との関係、自己と他者との関係において人間がいかに振舞い、振舞ってきたかについての考察である。常に変遷する人間の振舞いと、自己や他者、社会の意味合いについての変化についての考察は、今日の人間観及びそこからよってくる教育観を批判的に相対化することを可能とするとともに、歴史の変化を踏まえたいかなる教育理論の構築に貢献することが可能であると考える。以上のような目的の元、本年度は「折衷主義哲学」の思想史的変遷についての研究を重点的に行った。日本に限らず、世界的にも折衷主義哲学は軽視されてきたが、今日の社会状況下で、プラグマティックな側面をもつ折衷主義哲学は評価しなおされ始めている。目の前にいる他者とのコミュニケーションから始まる思考の重要視、抽象的な概念に自分を適合させるのではなく、実際のコミュニケーションの経験から得られた自己の見解の暫定的な保持の重要視、そのような他者との実践と経験を重んじる理論は、過度の抽象的思考に囚われ、他者なきナルシズム的な人格の増加の一途をたどっている社会状況、およびそれを背景とした教育の営みを再考するうえで示唆を与えうると考えられる。
著者
伊東 裕司 高山 博 日比谷 潤子 渡辺 茂
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.98, pp.p123-139, 1995-01
被引用文献数
1

実験1 方法 材料 手続き 被験者 結果および考察実験2 方法 材料 手続 被験者 結果および考察実験3 方法 材料 手続 被験者 結果および考察総合考察In this study, we examined intersubject agreement of the judgment whether a face and a voice were of the same person or not. In Experiment 1, we presented subjects photographs of six male models and their voices, and asked to make six pairs of a face and a voice that they thought as the same person's. In Experiment 2, subjects judged whether each of the 36 pairs of a face and a voice was obtained from the same person or not on sevenpoint scales. These two experiments revealed that the subjects judgments agreed considerably although some idiosyncrasy was suggested. In Experiment 3, subjects judged 12, traits such as masculinity and soberness, of each of the six faces and the six voices. Results of Experiments 2 and 3 showed that differences in the trait judgment correlate with judgment of face-voice matching. Common mechanisms underlying both judgment, are suggested.
著者
福井 栄二郎
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.77, no.2, pp.203-229, 2012

個人名は、しばしば人類学的、あるいは哲学的な議論の対象とされてきた。名前は社会的分類指標であり、特殊性のあらわれであるとする議論が一方にあり、他方には、単独性、代替不可能性のあらわれであるとする議論がある。名前について、当該社会における意味や機能を考察する文化人類学では前者の議論に親和性が高い。だが、それでは単独性に到る回路を捨象してしまうことになる。また名前の議論は歴史と関連付けられながら論じられることが多いが、他方で人々の歴史認識が変化することが考慮されていない。こうした問題関心のもと、本稿ではメラネシア、ヴァヌアツ共和国アネイチュム島の事例を考察する。アネイチュムでは個人名が土地保有と密接にかかわっている。ゆえに人々は細心の注意を払い、そして有している知識を総動員して命名を行う。しかし、18世紀中頃からの社会変容に伴い、土地や名前に関する知識の多くが忘失された。現在でも、命名の際、多くの問題が生じているし、一度つけた名前にクレイムがつくことさえある。彼らの言を借りれば、伝統文化は「めちゃめくちゃ」になり、何が「正しい」のかわからないということになる。認められていないはずの名前の創作さえ、近年ではしばしばみられる。アネイチュムにおいて、たしかに名前は社会的な分類指標なのだが、他方で、他者の単独性を示すために名前を用いるという構えは日常の至るところに見出せる。つまり名前の示すものは決して一様ではなく、人々は名前に対する複数の「物語」をスイッチさせているのだといえる。
著者
Cardonnel Sylvain
出版者
龍谷大学国際文化学会
雑誌
国際文化研究 (ISSN:13431404)
巻号頁・発行日
no.13, pp.15-39, 2009

(1)人種不平等の原理について 哲学者西田幾多郎や覆面作家沼正三を結びつけることによって、特に西田哲学の評価や再評価は日本国内外で形成された日本についての言説(日本人論)を脱構築するために有益なアプローチになるだろう。日本の近代、特に「近代の超克」というテーマに対して西田幾多郎や沼正三の著作から読み取れる考察は近代に対する希望や絶望を物語って、第二次世界戦争や敗戦に意味をつける。日本では「近代」 (modernity)という観念は西洋と違う意味をもち、19世紀の西洋帝国主義の経験によって「西洋と近代」の意味は重なっている。西田幾多郎は西洋の思想に見えた矛盾や行詰りを超克する哲学を試みたが、風刺の形で40年間に渡って書き続けてきた『家畜人ヤプー』という大作で沼正三は日本の近代化の苦痛な歴史の清算を計ろうとしている。本論文の第一部では、「日本の近代」の歴史背景を紹介する。
著者
松浦 良充
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2015, no.66, pp.83-100, 2015-04-01 (Released:2017-06-10)
参考文献数
2

The concept of “KYOYO Education” (which means liberal and general education in Japanese) is controversial. Colleges and Universities in Japan have experienced large-scale reforms since the 1990s up to now, and the renovation of liberal or general education in undergraduate colleges has been one of the most important issues. After World War II, the idea and system of general education were introduced to Japanese Colleges and Universities, but they did not accommodate themselves to the Japanese higher education system. The system of general education in Japanese undergraduate colleges was formally and legally abolished in 1991 and the “KYOYO Education” instead of general education made a dashing appearance on the higher education scene in its place. KYOYO is a unique Japanese concept - though one which has been influenced by Western educational ideas, for example, paideia (in Greek), humanitas or artes liberales (in Latin), Bildung (in German), or in English culture, liberal arts, liberal education and general education. Recently “KYOYO Education” is sometimes used as an interchangeable term for general education, though it is simultaneously believed that the concept means liberal education. This paper examines the concept of “KYOYO Education” in relation to the historical development of the two concepts of general education and liberal education in the United States.
著者
井上達夫編
出版者
ナカニシヤ出版
巻号頁・発行日
2014
著者
村田 昇
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1970, no.21, pp.60-66, 1970

今まで学んできたドイツ教育理論を、一度、その理論を生み出した基盤の上に立って見なおしてみたい、特にその際、それを理論と実践との関連において把えてみたい、そのためには、単に伝統に生きているところよりも、むしろ伝統をうちにはらみながら近代化のなかに揺れ動いているところの方がいいのではないか。これが、私が留学の地にハンブルグを選んだ一つの理由でした。この点ハンブルグは、自由ハンザ同盟以来の古い歴史的伝統と、アルスター湖およびエルベ河に象徴される自然の美とを誇り、それらを保護し、生かしながら、そのなかに若々しく活動する近代商業都市として形成されており、私の念願にかなっていたことになります。そこで、大学に出席するかたわら、できるだけ多くこの地の教育の現実に膚でふれてみたいと、つとめて各種の学校や教育施設を視察しています。<BR>しかし、ハンブルグを選んだより大きな理由は、この大学に、かのSpranger, Litt, Nohlなきあとの西独教育学界の重鎮Wilhelm Flitner (1889.8.20生) 教授と、Spranger高弟であるHans Wenke (1903.4.22生) がおられることでした。しかしここに来てみると私の期待は裏切られ、Flitner教授は老令のためにすでに退官、チュービンゲンの息子さん (Andreas Flitner) のところにいってられるのか、ここしばらく音信不通で、とても面会はできないだろうとのことです。Wenke教授に関しては、この大学でも前ゼメスターには相当にはげしい学生の動きがあり、先ずねらわれたのがWenke教授。なんでも戦時中にヒットラー体制に迎合する行動があったことを、急進学生によって糾弾され、それにいやけがさしたのか、本ゼメスターから退官された様子。今は、Spranger全集の編集と大学に付設されたハンス・ブレドウ放送研究所の所長として多忙のようで、出張がちで、彼を助けてSpranger全集の第五巻Kulturphilosophie und Kulturethikの編集にたずさわったKlaus Schleicher助手が、なんとかして私に会わせる機会を作ろうと努力し、また、Wenke教授からも日本のSprnger研究の動向などを知りたいから是非にという返事を受けてはいても、いまだにその機会に恵まれません。さらにKleine p&auml;dagogishe TextやZeitschrift f&uuml;t P&auml;dagikの編集者として知られていたGeorg Geissler (1902.11.22生) 教授もすでに退官。Doktorande-kolloquiumだけはすることになっていますが、殆んど大学には顔を見せず、面会も難しいようです。そのようなことで、ここに来た当初は、いささか失望したことは否定できません。<BR>しかしその後、あとで述べるHansmann, Scheuerl両教授と、ベルリン大学でSpranger教えを受け、現在、演習でその著作を読むLotte Lipp-holscher講師、前述のSchleicher助手、それにSpanger初期の思想を学位論文としてまとめつつあるMichael Loffelholz助手らとの出会いによって、この大学に学べることに喜んでおります。<BR>こちらに来ましてから、まだ四ヵ月。知りえたことはごく僅かでしかありませんが、この大学の教育学科の特色や学風について、いくらかなりとも御紹介したいと思います。
著者
植村 和秀
出版者
京都産業大学法学会
雑誌
産大法学 (ISSN:02863782)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.1-18, 2009-06

はじめに第一章 高坂正顕の「民族の哲学」第二章 「民族の哲学」の特徴と限界おわりに