著者
森 哲彦
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-11, 2008-06

カントは、1760年代前半の独断的、論理的形而上学期において、伝統的なドイツ形而上学に依存しつつも、真に自立した形而上学者の立場を表明する。統いて1760年代半ば以降の経験的、懐疑的形而上学期では、ドイツの伝統的哲学と関わりながらも、研究に社交的文明精神を導入することにより、人間学的観察と道徳的原則の探究を行うものとなる。このようなカントの新しい思想的「変化」は「カントにおける一つの革命」と評される。本論で取り上げる著作『美と崇高の感情の観察』1764年においてカントは、当時ドイツで紹介されていたイギリス道徳哲学、とりわけハチスンの道徳感情論を取り上げ、伝統的な哲学者としてよりも観察者の眼をもって「美と崇高の感情」に現れる様々な諸相を、美学的、人間学的に分析する。だが文明化した社会の「多様性のただ中の統一性」を観察するイギリス道徳感情論にカントは満足せず、文明化した人間社会を批判するルソーの思想に出会い、新たな転向を迎えるものとなる。カントがルソーの思想を取り上げる著作は『美と崇高の感情の覚書』1765年である。この著作は、前著作『観察』の余白にカント自身によって書き込まれた種々の断片的な文章により構成されている。そこにおいてカントは、ルソーがいうように堕落した文明を批判し、単純で自足した自然にもどることを、提唱するのではなく、文明化した社会を人間、自然、自由、および意志の完全性により啓蒙し、新しい道徳的原則を、志向しようとするものである。
著者
益田 理広
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
pp.100234, 2015 (Released:2015-04-13)

1.研究の背景と目的 地理学という分野に冠された「地理」なる語が,五経の第一である「易経」,詳しく言えば,古代に記された「周易」本文に対する孔子の注釈である「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来することは,漢字文化圏において著されたいくつもの地理学史や事典にも明記された,周知の事実である.しかし,その「地理」はいかなる意味を持つのか,何故地理学の語源となり得たのか,といった概念上の問題については,余り深く注視されてはこなかった.確かに,「繋辭上傳」の本文には「仰以觀於天文,俯以察於地理」とあるのみで,そこからは「天文」と対置されていること,「俯」して「察」るという認識の対象となっていることが読み取られるばかりである.それ以上の分析は,「地」「理」の二字の意味を知るよりほかはないであろう.「土地ないしは台地のすじめであり,大地における様々な状態つまり「ありよう」を指したもの」(海野,2004:44)「地の理(地上の山川で生み出される大理石や瑪瑙の筋目のような形状)」(『人文地理学事典』,2013:66)といった定義はまさに字義に依っている.辻田(1971:52,55)も「易経でいう地理をただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としながらも,「古典ギリシャ時代の造語であるゲオーグラフィアに相当する地理という文字」とする.また,海野は後世における「地理」の使用例から,客観的な地誌的記述と卜占的な風水的記述をあわせ持った,曖昧模糊たる概念とも述べている. それでは,この「地理」なる語は古代より明確に定義されぬままであったのであろうか.実際には,「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられてきた.そしてその注釈によって「地理」を含む経典中の語が理解されていたのも明らかであり,漢字文化圏においてgeographyが「風土記」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められよう. 中国の研究においてはそれが強く意識されており,胡・江(1995)は「周易」の注釈者は三千を超えるとまで言い,「地理」についても孔頴達の「地有山川原隰,各有條理,故稱理也」という注に従いながら「大地とその上に存在する山河や動植物を支配する法則」を「地理」の語義としている.また,于(1990)や『中国古代地理学史』(1984)もやはり孔頴達に従っている.ただし,孔頴達の注は唐代に集成された古典的なものであり,「地理」に付された限定的な意味を示すものに過ぎない.仮にも現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば,その学史的な淵源に遡る必要があろう.そしてその淵源は少なくとも合理的な朱子学的教養を備えた江戸時代の儒学者に求められる(辻田,1971).「地理学」なる語も,西洋地理書の翻訳も,皆このような文化的基礎の上でなされたものなのである.従って,現代に受け継がれた「地理学」の元来の概念範囲は,この朱子学を代表とする思弁的儒学である宋学における「地理」の語義を把握しない限りは分明たりえないであろう.以上より,本研究では,宋学における「地理」概念の闡明を目的として,宋代までに撰された「周易」注釈書の分析を行う. 2.研究方法 主として『景印 文淵閣四庫全書』(1983) 經部易類に収録されたテキストを対象とし,それらの典籍に見出される「地理」に関わる定義を分析する.また,上述のように「地理」は「天文」と対をなす語であるため,この「天文」の定義に関しても同様に分析する.なお,テキストは宋代のものを中心とし,その背景となる漢唐の注釈も対象とする. 3.研究結果 「天文」および「地理」なる語に対する古い注釈としては王充の論衡・自紀篇の「天有日月星辰謂之文,地有山川陵谷謂之理」および班固の漢書・郊祀志の「三光,天文也…山川,地理也」がある.周易注釈書としては上述の孔頴達の疏が最も古く,これは明らかに上記二者や韓康伯の系譜にあり,「天文地理」は天上地上の物体間の秩序を表すに過ぎない.ところが,宋に入ると,蘇軾は『東坡易傳』において,天文地理を「此與形象變化一也」と注し,陰陽が一氣であることであるという唯物論的な解釈を行い,朱熹は「天文則有晝夜上下,地理則有南北高深」と一種の時空間として定義するなど,概念の抽象化が進んでいく. 【文献】 于希賢 1990.『中国古代地理学史略』.河北科学技術出社.海野一隆 2003.『東洋地理学史研究・大陸編』 .清文堂. 胡欣・江小羣 1995.『中國地理學史』. 文津出版. 人文地理学会編 2013.『人文地理学事典』.丸善書店. 中国科学院自然科学史研究所地学史組 主編 1984.『中国古代地理学史』. 科学出版社. 辻田右左男 1971.『日本近世の地理学』.柳原書店.
著者
山下 いづみ 倉元 綾子 黒川 衣代 正保 正惠
出版者
一般社団法人 日本家政学会
雑誌
一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集 69回大会(2017)
巻号頁・発行日
pp.275, 2017 (Released:2017-07-08)

目的 今日,日本の個人・家族・コミュニティにおいては,晩婚化・未婚化,DV等に対する取組が求められている。米国等では,家政学・家族研究を基礎とした生活課題の予防・支援が行われてきている。ここでは,米国の家族生活教育の主要文献である Family Life Education: Working with Family across the Life Span,Chapter10: Education for Relationships and Marriage を分析し,結婚前教育と結婚教育について明らかにする。  方法 Family Life Education: Working with Family across the Life Span (2nd Ed.), Lane H. Powell & Dawn Cassidy, 2007, Waveland Press, USA(邦訳『家族生活教育:人の一生と家族』倉元綾子・黒川衣代監訳,2013,南方新社)等の文献を研究した。結果 (1)第10章「結婚前教育と結婚教育」は,結婚教育の必要性,結婚教育の歴史,予防的方法対治療的方法,哲学・理論およびプロセス,結婚教育へのアプローチ,プログラム評価,要約の各節と,討論問題・復習問題から成る。 (2)結婚教育は,長く続く幸せな結婚を支える順調な人間関係を築くために準備する方法を見つけることである。 (3)結婚エンリッチメント・プログラムにおける必要最小限のスキルは,個人・関係・パートナーの成長への関与,理解につながるコミュニケーション方法,創造的変化を刺激するために葛藤を用いる能力,親密性を作り維持する能力である。 (4)結婚教育は,認識行動学,学習理論,宗教的指導,ロジャーズ学派,人間性心理学,システム理論,コミュニケーション・システム理論,社会的学習理路,認知行動理論などを理論的基礎としている。
著者
岡田 光弘
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.18, no.2, pp.59-65, 1987

論理記号の意味を論理記号導入規則と呼ばれる推論規則に基づいて与えて論理的意味論を展開する研究が論理学者達によっていろいろな観点からなされてきた。例えばGentzen ([4] II.§5) による説明はその最初のものであろう。Dummett, PrawitzおよびMartin-Löf等による最近の一連の論理的意味論の運動もこのような流れの上にある。また, LorenzenおよびLorenzの学派によるoperational logicおよびdialogical logicもこのような意味論の変形と考えられる。Gentzenはまた, そのような意味論を彼の与えた数論の整合性証明の哲学的意義の説明に際して展開した。Dummettの意図はそのような意味論に基づいて直観主義推論の哲学的基礎付けを行うことにあった 。これらの哲学的立場の共通する特徴はFrege-Russellのパラドックスの出現以来生じてきた論理学, 数学基礎論における哲学論争を哲学的意味論の論争として捉え直すという前提に立っている点にある。伝統的な捉え方に従うと, QuineやPutnamらが指摘するように, 数学基礎論における論理主義, 直観主義, 形式主義の論争は中世の存在論哲学の普遍論争における実念論, 概念論, 唯名論の間の論争に対応すると考えられてきた。ここで普遍論争とは普遍観念 (または一般観念) の存在論的位置付けに関する論争のことであり, 実念論, 概念論, 唯名論は各々一般観念がプラトンのイデアのような形で実在するという立場, 我々の精神において構成されるという立場, 単に記号として使用しているだけでありその存在を前提する必要がないとする立場, に対応している。数学や論理学で使用される観念についての論争もこのような存在論的なレベルの論争と解釈されてきたわけである。これに対して先に挙げた人々の共通した前提の一つはこの論争を存在論的枠組の中でではなく, 意味論の問題として, つまり言語哲学的レベルの枠組みで捉えようとする傾向があることである。つまり, 論理主義, 直観主義, 形式主義等の立場の違いを同じ数学言語, 論理言語に対して採用される意味論の違いによって説明しようとするわけである。例えば古典論理の立場では正しいとされる「<I>A</I>または非<I>A</I>」という形の排中律は直観主義論理の立場では一般には正しいと見なされないが, この立場の違いもそれぞれが別な意味論体系を採用していて, この別な意味論体系に従って, 「または」という論理結合詞に対して違った意味解釈を与える, ということによるとみなされる。<BR>以下において我々はこのような枠組みの中で「論理記号導入規則による意味論」と呼ばれる意味論の採用がいかに我々の論理的数学的言語行為に合ったものであるかをPrawitz-Dummettの議論を踏まえながら述べ (§1), 次にこの意味論の中核部分を最も基本的な形で展開する (§2) 。最後にこの意味論による直観主義論理推論の基礎付けの可能性およびそこに含まれる問題点について検討する (§3) 。
著者
柴田 隆行
出版者
国学院大学出版部
雑誌
国学院雑誌 (ISSN:02882051)
巻号頁・発行日
vol.92, no.11, pp.p117-134, 1991-11
著者
多田 圭介
出版者
北海道大学大学院文学研究科
雑誌
北海道大学大学院文学研究科研究論集 (ISSN:13470132)
巻号頁・発行日
no.12, pp.1-29, 2012

本稿は,M.ハイデガー(1889-1976)の主著『存在と時間』(1927)の思想を,「ロゴス」という観点から捉えなおした全6章からなる論文の第1章である。全6章を貫く主題は,『存在と時間』の体系構想を,アリストテレスの『ニコマコス倫理学』第6巻における「魂のロゴスを持つ5つの部分」の解釈として読むことにある。この問題意識から『存在と時間』を解釈した先行研究としては,ヴォルピやキシールなど,複数が挙げられる。それらと本稿の立場を分かつポイントは以下である。まず第一には,『存在と時間』という書物の主導的目的を明らかにすること,第二には,その目的に鑑みて,1944年夏学期講義における「ロゴス論」までを,その目的を完遂するために『存在と時間』の立場を維持しようとしたものとして再検討することにある。それでは,『存在と時間』の主導的目的とは何か。一言で述べるなら,哲学的根本諸概念としての「ウーシア」の根底に「恒常的現前性」という時間様態を見出すこと,さらに,それを非本来的時熟に基づくものとして「解体」し,それを統べる本来的時間の動性を語ろうとしたこと。このように言えるだろう。以上が全6章の概要である。本稿では,その内の第1章として,上記の議論の遂行に礎石を据えるために,『存在と時間』の「方法論」を提示する。ことに,「方法節」とも呼ばれる『存在と時間』序論第7節を検討する。第7節では,「現象学」という概念が,「現象」と「学(ロゴス)」とに分けられ,その方法的役割から個別に定義される。本稿の主題が「ロゴス」であるがゆえに,「学(ロゴス)」が定義される第7節Bが中心となる。そこでハイデガーは,言表の「真」とそれに先行するアイステーシス・ノエーシスの「真」について語る。そしてその両者を現象学の「予備概念」にすぎないとし,その「真」と区別された現象学の「理念」を示唆している。第1章は,これらの事象連関を解きほぐし,第2章以下で,アリストテレスの『形而上学』第9巻第10章,および『ニコマコス倫理学』第6巻を視野に入れるための導入をする。
著者
滝浦 静雄
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
no.19, pp.22-47, 1969

Cet essai a pour but de chercher un ressource pour réfuter une forme du solipsisme dont on pourrait trouver le type dans la philosophie de J.-P. Sartre. Selon lui, toute conscience d'objet est en même temps << conscience non-thétique d'elle-même >> et, par conséquent, l'expérience du << Nous >> n'est qu'un fait psychologique de chaque individu qu'il est un d' << eux >> pour un tiers. Nous essayons donc dans cet essai de démontrer que sa conception de la << conscience (de) soi >> n'a pas raison, en tenant compte du fait que la prise de conscience de soi est en règle générale très difficile pour l'enfant. Car, ce fait ne serait pas indifférent au problème de la conscience (de) soi. Et nous pensons que, pour saisir correctement l'existence d'autrui, il faut avoir la notion juste du corps humain, et nous la trouvons dans la philosophie de M. Merleau-Ponty. Il constate par l' examen de la << sensation double >> le système de coexistence de mon corps avec le corps d'autrui, c'est-à-dire l' << intercorporéité >> où l'on pourrait restituer le bon droit de l'expérience du << Nous >> sujet.
著者
榊 和良
出版者
Japanese Association of Indian and Buddhist Studies
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.58, no.3, pp.1139-1143, 2010-03-25 (Released:2017-09-01)

『アムリタクンダ』は,既に明らかにしたように,カーマルーパの女神をめぐるマントラを伴う祈願法と,『シヴァスヴァローダヤ』に代表されるナータ派文献にも含まれる呼吸を観察することによる占術を含むタントラ・ヨーガ文献である.13世紀末から14世紀中頃にアラビア語・ペルシア語に訳され,16世紀中頃にはインドのシャッターリー教団のスーフィーの手でイスラーム色を濃くした形でペルシア語で重訳され,中央アジアからトルコ,西アジアからマグリブ世界まで広く伝搬した理由は,寓意文学やその解釈学を発展させたイスラームの伝統を受け継いだ枠物語にある.それは,『トマス行伝』に含まれる「真珠の歌」やイフワーヌッサファー(純粋なる心をもった兄弟)と呼ばれる学者集団による『百科全書』に示された小宇宙観などの影響のもとに,中世イランの哲学者イブン・スィーナーの系譜を継いだスフラワルディーによる『愛の真実に関する論攷』に含まれる「愛」の語る物語を模している.異邦の地への旅を経ての故郷への帰還と「生命の水」による新たな生まれ変わりを核とした寓意的物語を枠として,大宇宙と小宇宙の相即性から説き起こし,「息の学」を媒介として,浄化法やチャクラへの瞑想法をとりこみつつ,本来の自己の認識による救済をめざすありかたが示される.人間の肉体をひとつの町として描き出す枠物語の示す象徴世界は『ゴーラク語録』にも共通性が見出されるが,『ゴーラクシャシャタカ』大本のペルシア語訳にも示されるように,ナータ派文献に示されるヨーガは,霊智による救済を獲得する手段としてスーフィー道と共通性をもつものと理解され,『アムリタクンダ』の翻訳者は,グノーシス的枠物語によって有資格者のためのイニシエーションとして視覚化して見せてくれたのである.
著者
三村 太郎
出版者
広島大学
雑誌
研究活動スタート支援
巻号頁・発行日
2016-08-26

アッバース朝宮廷占星術師マーシャーアッラーフに帰せられた『天球について』アラビア語テクストの校訂とその英訳を完成させた。さらに、本作品の内容を分析することで、真の著者ドゥーナシュ・イブン・タミームの宮廷科学者としての役割が見えてきた。ドゥーナシュは『天球について』において天体運動を含めた自然現象の発生過程をギリシャ哲学や天文学の知識を使って合理的に説明し、このような合理的で素晴らしい世界を創造できるのは、全知全能の唯一神しか不可能である、という議論を展開することで、神の一性を証明しようとしたことが分かった。
著者
橋本 哲 HASHIMOTO Satoshi
出版者
名古屋大学文学部
雑誌
名古屋大学文学部研究論集. 哲学 (ISSN:04694716)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.1-33, 2016-03-31

Certainty is one of the themes which Wittgenstein was interested in. His thoughts are left in the form of notes named On Certainty. He has put down in it a series of remarks on the usage of such words as ʻknowledgeʼ, ʻdoubtʼ, ʻbeliefʼ, ʻcertaintyʼ, etc. and the foundation of language-games related to them. I try in this paper to illuminate how the ordinary language-games about knowledge, doubt, belief, etc. relate with ʻunshakeable things (Moore-type propositions (Marie McGinn), hinges (Danièle Moyal-Sharrock))ʼ. Certainty belongs to ʻunshakeable thingsʼ that underlie all our ordinary language-games. Knowledge and certainty belong to different layers of our epistemic capacities (different categories). McGinn showed that Moore-type propositions can not be used in epistemic context. Moyal-Sharrock showed that hinges are rules of grammar and that they can manifest themselves only in what we say and do. But they could not definitely distinguish the certainty of the ʻunshakeable thingsʼ from their causes.