1 0 0 0 IR 漢宣期の儒教

著者
町田 三郎
出版者
九州大学中国哲学研究会
雑誌
中国哲学論集 (ISSN:03856224)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.17-32, 1975-10-01
著者
加藤 進 前田 陽一郎
出版者
日本知能情報ファジィ学会
雑誌
日本知能情報ファジィ学会 ファジィ システム シンポジウム 講演論文集 (ISSN:18820212)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.127-127, 2008

近年における人間とのインタラクションを目的としたヒューマノイドロボットの研究は急速な発展を遂げており、工学的な分野だけでなく心理学、哲学、医学的分野からのアプローチが積極的に行われている。しかしロボットと人間とのコミュニケーションにとって最も重要な心についての研究は始まったばかりである。本研究室においても人工感情モデルについての研究が進められており、情動と神経修飾物質と強化学習システムにおけるメタパラメタの関連性に基づく情動行動学習システムを構築してきた。 本研究では本システムをより現実の生物の挙動に近づけるために、ストレス反応を有する情動行動学習システムを提案する。この情動行動学習システムを組み込んだ生物エージェントを仮定したシミュレーション実験を行いその有効性を検証した。また感性評価実験として被験者である人間がエージェントの動作から感じた情動とシステムの情動との比較を行った。
著者
笹澤豊著
出版者
藤原書店
巻号頁・発行日
2003
著者
相原 健志
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

本発表は、ブラジルの人類学者E. ヴィヴェイロス・デ・カストロの多自然主義に含まれる身体の存在論の含意と射程を析出することを試みる。その記述を辿ると、多自然主義の機制における存在者間の食人的関係は、スピノザ哲学に由来するコナトゥス概念において捉えられる。そしてコナトゥスは、食人のみならず、「翻訳」といった人類学者の実践をも、つまり他者と人類学者のあいだの差異を横断する力として思考されている。
著者
藤井 義博
出版者
藤女子大学
雑誌
藤女子大学紀要. 第II部 (ISSN:13461389)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.57-70, 2012-03-31

この論文は、新渡戸稲造(1862〜1933)の著作において日本人の生活法についての見解や意見を検討することにより、彼の頭を始終悩ましていた「広い意味のモーラル」を明らかにする試みであった。その見解と意見は、6つの概念で括ることができた。すなわち無作法、我儘の振舞、消極性、外的標準、黙思、物事を善用する心がけである。新渡戸稲造は、黙思および物事を善用する心がけを日本人の心に採り入れることによって、無作法、我儘の振舞、消極性、外的標準のような日本人の習慣を変えて、内的基準を持った人格、世界人としての日本人を創造しようとした。彼の理想は、西洋と東洋の長所を結合することでよりよい哲学を創設し、直観の精神を土台として科学を応用することであったが、それは、現在においても実現されることを待っている大いなる夢である。
著者
河合 祥一郎
出版者
東京大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1997

本研究は、すでに平成9年度の時点でエリザベス朝の膨大な数の戯曲のデータベース化の5割程度を完成し、平成10年度はその継続に当たった。しかし、昨年度の時点で、これまでエリザベス朝研究の土台となってきたE.K.ChambersのThe Elizabethan StageおよびG.E.BentleyのThe Jacobean and Caroline Stageを抜本的に見直す必要があることが判明し、その方策を模索していたところ、ちょうどChambersやBentleyを書き直すようなAndrew Gurrによる新しい研究The Shakespearian Playing Companiesが刊行され、このため本研究は大幅な見直しを迫られることとなった。本研究をいずれ『イギリス・ルネサンス演劇事典』として公表する当初の計画に変更はないが、その実現には更に数年を要すると予測される。これとは別に、現在未発表の英語論文「ルネサンスにおける変装」を日本語の図書の形で公表する予定でいるが、この論文についても、「主体」の問題が現在文化唯物論批評と伝統的人文主義批評の間で大きな理解の齟齬を産んでいるために、この問題を一般に受け入れられる形で分析するためには極めて慎重に進めてゆく必要がある。特に変装と主体のテーマは演劇のみならず哲学・思想にも深く関わる点が研究を進めてゆくうちに一層確認されてきているために、容易な姿勢はとれない。幸いにして1999年度のシェイクスピア学会で変装と主体のテーマでセミナーを開く責任者に任じられたので、学会活動なども通じて本研究を更に発展させ、できるだけ早いうちにその成果を公表したいと願っている。
著者
中畑 正志
出版者
The Philosophical Association of Japan
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.64, pp.78-102_L8, 2013

The phenomenon described as "perceiving that one sees" or "perception of one's own perception" has attracted the attention of many philosophers. In this article, I articulate the differences between Aristotle's and Descartes' understanding of this phenomenon, with brief comments on the discussion of the same phenomenon in the Cyrenaics, Stoics and Plotinus.<br>In several passages Aristotle explores this phenomenon, i. e. "perceiving that one sees." We should pay special attention to the fact that in <i>De somno</i>, Aristotle assumes that trans-modal discrimination (such as discrimination of sweet from white) implies this sort of higher order perception. We can explain this implication as follows: when we discriminate, for example, sweet from white, we also discriminate the respective modes of perception, namely, <i>tasting</i> in the perception of sweet on the one hand and <i>seeing</i> in the perception of white on the other. This means that Aristotle understands perceiving that one sees as an integral part of the first order perception of the external thing. This is why this second order recognition is a kind of sense-perception <i>par excellence</i> for Aristotle.<br>Descartes elucidates the phenomenon of perceiving that one sees in an opposite way from Aristotle. He <i>separates</i> this phenomenon from the external object that one perceives. Descartes restricts the sense-perception within one's subjective experience and counts it as a mode of thought. This is sense-perception in its proper (<i>praecise</i>) sense for Descartes and what he calls <i>conscientia</i> (consciousness). Descartes broke the Aristotelian unity between our inner activity and its external objects, and the Cartesian concept of consciousness is a historical product of this break. By examining the explanations of the same phenomenon expounded by the Cyrenaics, Stoics and Plotinus, we can confirm its historicity.
著者
河野 真佐子
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.79, pp.p167-187, 1984-12

問題の所在I. 内的法則に従う生体としての人間II. 人間と環境との相互性III. 図表とワークシートに関する基本的枠組結語
著者
奥谷 浩一
出版者
北海道哲学会
雑誌
哲学年報 (ISSN:1344929X)
巻号頁・発行日
no.51, pp.49-61, 2004-07-16
被引用文献数
1
著者
斉藤 了文
出版者
関西大学社会学部
雑誌
関西大学社会学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Sociology, Kansai University (ISSN:02876817)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.61-118, 2016-03

'Safety' is a charming concept. First, we conduct some useful thought experiments concerning safety. Second, scientific method is considered as a measure for securing safety. And we test the limit of scientific method. Finally, we grasp the meaning of the experiments and the limitation. The points are artifacts and agent.安全というのは、割と奇妙な概念である。この感覚を明らかにするために、まず安全を個人の命や生活を守ることだと、大くくりしたうえで違和感を取り出していきたい。第1節で安全に関わる思考実験をしてみる。そこでは、座敷牢、万里の長城、斜め横断、抜け道、アポロ13、高速道路、太陽という例を取り上げる。これらの例を使って、違和感を具体的に取り出し、さらに考察するべきポイントを探っていく。第2節では、安全確保のための方策の基本として、科学の方法と工学の方法というやり方を取り上げる。リスク削減のための、監視とコントロールというのが基本的な方法である。ただ、面白いことにこのような方法を使っても、リスクが完全になくなると考える人はまずいない。第3節では、第1節で例示した安全のパラドックスが生じてきたその根拠を掘り下げて、哲学的な論点を取り出すことにする。まず、私が背景として持っているリスクの歴史についての理解を提示(3.1)し、行為者と被害者の非対称性について(3.2)考察し、法人は自然人のようには統合された人格ではありえないということに関わる問題を考えていく(3.3)。その上で、人工物というものが、安全についての理解に、さらには現代の社会に与えている意義を提示しようとした(3.4)。
著者
斉藤 了文
出版者
関西大学社会学部
雑誌
関西大学社会学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Sociology, Kansai University (ISSN:02876817)
巻号頁・発行日
vol.47, no.2, pp.61-118, 2016-03

安全というのは、割と奇妙な概念である。この感覚を明らかにするために、まず安全を個人の命や生活を守ることだと、大くくりしたうえで違和感を取り出していきたい。第1節で安全に関わる思考実験をしてみる。そこでは、座敷牢、万里の長城、斜め横断、抜け道、アポロ13、高速道路、太陽という例を取り上げる。これらの例を使って、違和感を具体的に取り出し、さらに考察するべきポイントを探っていく。第2節では、安全確保のための方策の基本として、科学の方法と工学の方法というやり方を取り上げる。リスク削減のための、監視とコントロールというのが基本的な方法である。ただ、面白いことにこのような方法を使っても、リスクが完全になくなると考える人はまずいない。第3節では、第1節で例示した安全のパラドックスが生じてきたその根拠を掘り下げて、哲学的な論点を取り出すことにする。まず、私が背景として持っているリスクの歴史についての理解を提示(3.1)し、行為者と被害者の非対称性について(3.2)考察し、法人は自然人のようには統合された人格ではありえないということに関わる問題を考えていく(3.3)。その上で、人工物というものが、安全についての理解に、さらには現代の社会に与えている意義を提示しようとした(3.4)。