著者
大森 信徳
出版者
早稲田大学法学会
雑誌
人文論集 (ISSN:04414225)
巻号頁・発行日
vol.59, pp.79-87, 2021-02-20
著者
河本 大地 吉田 寛 中谷 佳子 河原 和之
出版者
奈良教育大学次世代教員養成センター
雑誌
次世代教員養成センター研究紀要 = Bulletin of Teacher Education Center for the Future Generation (ISSN:21893039)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.177-188, 2021-03-31

本稿では、COVID-19 (新型コロナウイルス感染症) の世界的・全国的拡大による学校教育への影響をふまえた、地域学習 (郷土学習) の在り方を検討する。2020年7月19日に、「新型コロナウイルス感染症 (COVID-19) とESD地域学習―『Withコロナ』の経験を共有し『Postコロナ』に活かそう―」をテーマに、Zoomを用いたオンラインシンポジウムを企画実施した。本稿ではまず、このシンポジウムの開催経緯と内容、実践報告を示す。そのうえで、シンポジウム内でおこなわれた議論および開催後の参加者アンケートをもとに、COVID-19の流行の経験をふまえた今後の地域学習の在り方を検討する。結果は3つに大別できる。第一に、地域をめぐるフィールドワークは、地域のリアルな状況を把握するうえで重要であり、関係者の理解を得たうえで積極的に実施する必要がある。第二に、オンライン環境の活用可能性が増していることは地域学習にとって好機になる。第三に、学びの対象としてのコロナ禍が加わった。ローカルな地域の様々な要素とグローバルな要素がリンクしていること、社会構造や政治が私たちの行く末を大きく左右することが実感できる。以上を組み合わせることで、地域学習を通じて、学習者は持続可能な社会の構築を自分事にできる可能性がある。
著者
三好 準之助
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.21-50, 2014-03

1.「はい」とsí の辞書的なデータ 1.1.現代語のデータ:単一語辞書の場合 1.2.現代語のデータ:二言語辞書の場合 1.3.それらの語源的データ2.「はい」関連の研究について 2.1.相づちに関する研究 2.2.「はい」の用法 2.3.相づちの国際比較 2.4.日本語の否定疑問文への応答について3.sí の用法について 3.1.辞書的な情報 3.2.規範文法でのsí の使い方 3.3.語用論から見たsí の使い方4.対応と結論 4.1.「はい」の用法とsí との対応 4.2.sí の用法と「はい」との対応 4.3.結論注参考文献
著者
齊藤 正彰
出版者
北海道大学大学院法学研究科
雑誌
北大法学論集 (ISSN:03855953)
巻号頁・発行日
vol.71, no.6, pp.1-56, 2021-03-31
著者
若林 信夫
出版者
小樽商科大学
雑誌
商学討究 (ISSN:04748638)
巻号頁・発行日
vol.37, no.1/2/3, pp.507-536, 1987-01-25
著者
有川 治男
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.12, pp.7-23, 2014-03-01

ヤーコプ・ファン・ライスダール作《ヴェイク・ベイ・デュールステーデの風車》とメインデルト・ホッベマ作《ミッデルハルニスの並木道》は、17 世紀オランダ絵画の中でも、特定の場所の光景を描いたトポグラフィカルな風景画として良く知られ、また多くの研究がなされている。しかしながら、これまでの研究においては、画面に描かれた個々のモティーフ(風車、帆船、並木道、苗床など)の具体的な検証は充分には行なわれておらず、結果として、これらの作品の意味合い、とりわけ17 世紀後半のオランダの人々が現実の生活との関わりの中で、この作品をどのように眺め、受け止めたのかという問題はなおざりにされてきた。本論文では、美術史以外の諸領域(技術史、経済史、農業史、郷土史など)の研究成果を踏まえつつ、両作品に描かれた個々のモティーフの詳細な検討を行なうことを通して、両作品を17 世紀後半のオランダという歴史的コンテクストの中へ戻すことを試みる。合わせて、美術史学におけるモティーフ研究(Motivkunde)の重要性を確認することも、本論文の目的である。\ The Windmill at Wijk bij Duurstede by Jacob van Ruisdael and The Avenue at Middelharnis by Meindert Hobbema are two of the most famous seventeenth-century Dutch landscape paintings and are well known as representative examples of the topographical landscape. Although many art-historians have concerned themselves with these paintings, the meaning and signi cance of them for the Dutch people of that period, especially for those living in Wijk bij Duurstede and Middelharnis, has by no means been adequately studied. By closely examining motifs(windmill, sailboat, avenue, nursery, etc.)and by referring to the recent literature of related fi elds(technological history, economic history, agricultural history, etc.)the author of this essay tries to bring these paintings back to their original milieu, to the Netherlands in the second half of the seventeenth century. Th e author also hopes that this essay will make way for a renewed recognition of the importance of motif study (Motivkunde)in art history.
著者
竹本 太郎
出版者
東京大学大学院農学生命科学研究科附属演習林
雑誌
東京大学農学部演習林報告 (ISSN:03716007)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.23-99, 2006

1. 研究の目的 学校林をめぐる共同関係は「財産」を基底にした「財産共同関係」として明治後期から大正初期にかけて誕生し,その後,昭和戦前期における「愛郷」の普及によって種々の「愛郷共同関係」に拡張したので,すでに入会集団とは異なるものに変容していると考えられる。これを前提として,昭和戦後期・現代における研究の目的を次のように設定し,かつ,森林利用形態論における学校林の位置づけを,目的2)に関連させて論じた。目的1) 天皇制支配の手段として戦前に全国的な展開を見せた愛林日や学校林造成が,戦後に植樹祭や学校植林となって継続した経緯および理由を明らかにする。目的2) そうして戦後に引き継がれた学校林およびそれをめぐる共同関係の地域社会における存在価値を,昭和の町村合併に伴う林野所有の移動から説明する。目的3) 合併を経て地方自治体制が整備されるなかで学校林が消滅,衰退する経緯と,里山保全や環境教育の場として展開し始めた現在の状況を明らかにする。2. 考察1) GHQ/SCAP の立場から考えると,急激な民主化と分権化によって引き起こされる社会不安への対応として愛林日や学校林を位置づけていたと思われる。まず1 点目は絶対的な存在としての天皇を失うことにより国民のあいだに生じる不安であり,そして2点目は農地改革に引き続く山林解放を恐れることにより山林地主のあいだに生じる不安であった。それゆえ,愛林日の復活は天皇を国土復興に担ぎ上げることによる1 点目の不安の払拭であり,学校植林運動の開始は一連の「挙国造林に関する決議」などと同様の造林奨励による2 点目の不安の払拭であった。 しかし,その払拭を実際に思いついたのはGHQ/SCAPではなく山林局(1947年4月より林野局,1949年5月より林野庁)官僚や森林愛護連盟であった。戦前の組織やシステムを維持することに対してGHQ/SCAP は少なからず抵抗するはずで,林野官僚や関係団体は愛林日や学校林を提案する際に次の2点を工夫する必要があった。1点目は愛林日や学校林がそもそもは米国の行事に由来することを主張することであり,2点目は天皇制支配の手段として用いられた過去を「緑化」というイメージにより刷新することであった。 一方で,急激な民主化と分権化により財源の確保も不十分なままに森林管理や校舎建築といった公共事業を一手に引き受けることになった地域社会の立場から考えると,心理的な基盤としては天皇参加の愛林日による国土復興に向けた一致団結が必要とされ,物理的な基盤としては学校林造成による校舎建築財源の確保が必要とされた。その結果,敗戦により「愛国」の箍を外された「愛郷共同関係」が紐帯を自生的に強めることになった。 このようにGHQ/SCAP,林野官僚および関係団体,地域社会のそれぞれの思惑が絡み合いつつ,愛林日が復活し,第1次学校植林5ヵ年計画が開始した,といえる。2. 考察2)町村合併に伴う学校林の所有移動は,無条件もしくは条件付で(すなわち学校林として維持することを条件に)新市町村に統一されるか,さもなくば前町村が財産区を設置して財産区有林の一部として学校林を管理経営するものが多かったのであろう。しかし,学校と地域社会との関係は一様ではなく非常に複雑なものがあらわれる。松尾財産区の学校林は,まず財産区有林のすべてが学校林であるという点,次に松尾を含む複数の前村組合を単位にする旧財産区有林のなかに学校林があるという点,において特殊である。学校林は,実際に植林,管理経営し,その収益を享受した体験をもつ住民や児童生徒にとって,旧財産区とは別に新財産区を設置してでも管理経営するべき存在であったと考えられる。高瀬生産森林組合有の森林は,部落有林野を統一し官行造林を実施した経緯をもつ高瀬村の村有林から成り立っている。まだ新財産区制度が導入される前の町村合併において全戸住民を権利者にして設立した任意団体,高瀬植林組合の性格が高瀬生産森林組合にそのまま受け継がれている。学校林は同生産森林組合にとって部落有林野統一と官行造林の契機となった象徴的存在である。相原保善会は,財産区,生産森林組合を設立するものの最終的に財団法人という法人格によって「地区民の公共の福祉」のための財産保全を可能にする。学校林は「地区民の公共の福祉」のため最初に設置された財産であった。町村合併に伴って財産の移動が検討されるとき一般的にみれば部落有に分解するベクトルと新市町村有に統一するベクトルが同時に働く。これに対して,「愛郷共同関係」は学校林が児童生徒や地区全戸によって管理経営されてきたことを訴える。すなわち「地区民の公共の福祉」というベクトルを掲げる。そして財産区,生産森林組合,財団法人などの制度的な外形を与えることによって「財産共同関係」を固定化し,自然村から自由を奪うと同時に新市町村への統一を防御したのである。3. 考察3)日本はGHQ/SCAPからの独立を果たし,朝鮮戦争をきっかけにして高度経済成長を開始する。この時期に第2次学校植林5ヶ年計画がはじまるが,もはや財産としての学校林を国策として奨励する必要はなくなっていた。合併により前町村が学校設置主体としての権限を失っていくだけでなく,義務教育費国庫負担金などの補助金制度によって中央から地方への統制が復活したである。新市町村にとって学校整備に必要なものは補助金であって地域社会の力ではなかった。そのため,残像としての「緑化」が以降の学校植林運動を牽引せざるを得ない。全国各地に出現する「基金条例」にみられるように財産としての学校林は1960年代から1970年代にかけてフェードアウトしていった。 そして,1970年代以降,世界的に自然環境の悪化が危惧されるなか,国内においても里山保全や環境教育の場としての学校林に対する関心が高まり始める。そして1990年代後半より2000年代前半にかけて市町村,都道府県,国レベルで学校林に関する施策が開始されるようになる。飯田市における「学友林整備事業」はその典型例であった 4. 森林利用形態論における学校林の位置づけ 直轄利用形態の変容という観点から町村合併における学校林の移動について若干の考察を加えるならば,これまで川島武宜らによる森林利用形態論において直轄利用形態は,道路,橋梁,消防,学校などの公共事業への支出により,林野を管理経営する自然村が地区内における権力を維持する手段としてみなされていた。しかし学校林は不自由な直轄利用形態,あえて名づけるならば「公共利用形態」とでもいうべきものに姿を変えた。現在も地域社会によって管理経営される学校林とは,直轄利用形態に孕まれる公共利用形態としての性格が,児童生徒や地区全戸の管理経営によって強められ,かつ,合併に伴う制度的な外形の導入によって固定化された,かなり特殊なものといえるだろう
著者
Ruxton Ian
出版者
九州工業大学
巻号頁・発行日
2007-04

平成17年度-平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書:3分冊
著者
奥田 晴樹
出版者
金沢大学地域連携推進センター
雑誌
金沢大学サテライトプラザミニ講演記録
巻号頁・発行日
vol.9, no.6, 2008-10-04

幕末政治が抱える「内憂外患」のジレンマの打開策を模索する中から立憲政体導入構想が登場してくる。この構想は、大政奉還後、「公議政体」論として政治的に具体化され、王政復古後、政体書の制定によって国制化の端緒をつかむ。さらに、廃藩置県後は、その導入への動きが、度重なる政変によって翻弄されながらも、一歩一歩、国家意思となる道を進んでいく。これが帝国憲法制定へと展開する過程を展望し、明治維新とは何かを考える。
著者
田村 力
出版者
Hokkaido University(北海道大学)
巻号頁・発行日
1998-03-25

本研究は、北西北太平洋および南極海におけるミンククジラの食性と摂餌量を明らかにするために、採集された胃内容物を解析した。1994年-1996年の夏季、北西北太平洋において採集されたミンククジラ184個体の胃内容物から、カイアシ類1種、オキアミ類4種、頭足類1種および魚類10種の合計16種類が出現した。夏季のミンククジラの主要餌生物は、太平洋側ではオキアミ類、サンマおよびカタクチイワシ、オホーツク海ではツノナシオキアミであった。ミンククジラは索餅海域で資源量の多い生物を利用しており、環境の変化によってその餌生物を柔軟に変化させる広食性を有することが示唆された。摂餌されていたサンマなどの体長組成の経年および地理的な差異は、索餌海域における組成を反映した結果であると考えられた。1989/90年-1995/96年の夏季、南極海IV区において採集されたミンククジラ398個体の胃内容物から、端脚類1種、オキアミ類4種の合計5種類が出現した。夏季のミンククジラの主要餌生物は、プリッツ湾以外の海域ではナンキョクオキアミ、プリッツ湾ではナンキョクオキアミおよびE. crystallorophiasが主要餌生物であり、ミンククジラは索餌海域において資源量の多いオキアミ類を摂餌しているとみなされた。また、摂餌されていたナンキョクオキアミの体長や成熟度組成の経年および地理的な差異は、その海域でのナンキョクオキアミの体長や成熟度を反映した結果であると考えられた。ミンククジラの摂餌活動の日周期性の有無を検討した。北西北太平洋におけるミンククジラの摂餌活動は、主として昼間に表層で行われるが、利用している餌生物の分布状態によって摂餌回数や摂餌量が不規則であることが示唆された。一方、南極海におけるミンククジラの摂餌活動は、主として朝方に多量の餌生物(主としてナンキョクオキアミ)を摂餌するが、要求量が満たされない状況の時はそれ以降に数回の摂餌を行うことが示唆された。胃内容物重量の経時変化から求める直接的方法と、エネルギー要求量から求める間接的方法を用いて、ミンククジラの日間摂餌量を算出した結果、両海域とも体重の4%程度を摂餌していると試算された。最大摂餌量は、北西北太平洋のミンククジラで96.4kg、体重比で2.3%であったのに対し、南極海のミンククジラでは289.0kg、体重比で3.1%を示し、南極海のミンククジラは北西北太平洋のミンククジラに比べて重量で3.0倍、体重比で1.3倍の量を摂餌していた。北西北太平洋およびオホーツク海におけるミンククジラ個体群の年間摂餌量を算出した。北西北太平洋で12.5-19.2万トン(95%信頼区間: 6.1-39.3万トン)、オホーツク海で41.3-59.1万トン(同: 21.5-119.9万トン)と試算され、摂餌量の多さから、ミンククジラが夏季の北西北太平洋およびオホーツク海の生態系において鍵種として機能しているとみなされた。さらに摂餌されていた餌生物はサンマやイワシ類などの有用魚類で、その組成も漁業の対象となっている組成と同じであることから、人間の漁業活動にも影響している可能性が示唆された。南極海におけるミンククジラ個体群の年間摂餌量を算出した。IV区で174-193万トン(同: 105-316万トン)と試算され、IV区周辺のナンキョクオキアミ資源量の15.7-47.4%に相当した。また、南極海全体のミンククジラ個体群の年間摂餌量は1,771-1,965万トン(同: 1,069-3,217万トン)で、南極海に分布する全鳥類のそれに匹敵し、さらに、他のヒゲクジラ類の年間摂餌量の6.8-20.4倍に達すると試算された。この結果は、北西北太平洋やオホーツク海と同様、ミンククジラが夏季の南極海生態系において重要な鍵種として機能しているとみなされた。そのため、ミンククジラと索餌海域や餌生物が重複しているシロナガスクジラ、鰭脚類、海鳥類および魚類などは、餌資源を巡る種間競争において多くの影響を受けていると考えられた。