著者
石上 文正
出版者
人間環境大学
雑誌
こころとことば (ISSN:13472895)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-14, 2007-03-31

この小論では、批判的談話分析の手法、とくにNorman Faircloughの手法を、科学哲学者Stephen C.Meyerのintelligent designに関するエッセーに応用し、分析を試みた。Faircloughは、ディスコースの中の「常識」や「前提」を「イデオロギー」と考えている。Meyerのエッセーには、"evidence"と"explain"という「科学性」を示す言葉が当然のごとく、しばしば用いられている。このことから、同エッセーは、科学イデオロギーの強い影響をうけた、科学的ディスコースであることが明らかになる。つまり、「科学」が「イデオロギー」として機能していると考えられる。さらに、同エッセーを科学的ディスコースに作り上げている手法について考察し、同ディスコースの議論構造、最先端の科学的知識の提示、著名な科学者の引用、科学的比喩の使用、"know"という叙実的動詞を用いた事実的前提の提示などを指摘した。
著者
神崎 繁 樋口 克己 丹治 信春 岡田 紀子 伊吹 雄 関口 浩喜
出版者
東京都立大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1994

平成7年度は、本研究課題に基づく研究の最終年度にあたるので、その研究成果を纏める意味でも、古代から現代までの道徳的価値をめぐる様々な立場の歴史的再検討と、現代的視角からの原理的研究の双方にわたって、研究分担者の各自の領域に関して研究を行い、その成果を発表してきた。古代に関して神崎は、特にアリストテレスにおける生命の原理としての「魂」概念の関係において、しばしばその生物学的・自然主義的価値理解が問題とされる点を整理し、価値認知がむしろ習慣的な「第二の自然」としての性格を持つ点を確認した。伊吹は、新約聖書における「アガペ-(愛)」の概念を分析して、その価値の志向的性格を明確にした。また樋口は、ニーチェにおける「テンペラメント(気質)」の概念に注目して、ヨーロッパの既成の価値概念の転倒を主張するニーチェの真意を明らかにする作業を行った。岡田は、ハイデガ-における価値哲学批判の意義を、以上の歴史的考察の背景において位置付ける考察を行った。そして丹治は、最近公刊された著書において、言語の共有ということの意義を検討することを通して、全体主義的言語観における価値の問題の位置付けに関する原理的考察の端緒を開いた。また、神崎は研究総括者として、そのような原理的研究において、所謂自然主義的立場の可能性に関して、丹治の立場を批判的に検討することによって、議論を深めることができた。また、以上の研究成果の一部を、報告書として公表すべく、その準備作業を行った。
著者
寺田 和憲 岩瀬 寛 伊藤 昭
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会論文誌. A, 基礎・境界 (ISSN:09135707)
巻号頁・発行日
vol.95, no.1, pp.117-127, 2012-01-01
被引用文献数
2

哲学者Dennettは人間が他者の振舞いを理解し予測するために意図,設計,物理の三つのスタンスを使い分けているとし,哲学的論考によってその妥当性を示した.しかし,人間が本当にそのようなスタンスを使い分けているかどうかは定かではなく心理学的研究によってその存在が証明されているわけではない.そこで,本研究では,スタンスを科学的に定義し,実際に振舞い理解において用いられているかどうかを検証するために三つの心理実験を行った.まず,Dennettのスタンスをアニメーション化し,アニメーションに対する被験者の印象記述を分析することで,振舞い理解のための四つの言語的概念カテゴリーを明らかにした.次に,60個の様々な対象の振舞いを参照基準として用いることで,四つのうち三つの言語的概念カテゴリーがDennettのスタンスと近いものであることが分かった.しかし,Dennettの主張のような原理帰属による理解がなされているという直接的証拠は得られなかった.議論から,実際の振舞い理解においては振舞いの性質が注目され,意図,決定,受動,複雑の四つの概念的カテゴリー化が行われていると結論づけた.
著者
圓谷 裕二
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2009-04-01

近現代哲学においては二つの潮流がある。一方は、超越論的哲学としての究極的基礎づけ主義であり、他方は、経験主義における相対主義あるいは懐疑主義である。本研究の目的は、近代哲学のこれら二つの立場を同時に克服することである。そのためにメルロ=ポンティの哲学に着目した。彼の哲学の特徴は、主知主義と経験主義を彼の独自のパースペクティヴ主義の立場から乗り越えようとすることである。本研究は、この目的達成のために、彼の言語論と歴史哲学に定位するものである。
著者
吉次 通泰
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
no.18, pp.55-69, 2011-03

The subject of ageing and lifespan was studied in ancient Indian medical texts, such as Carakasaṃhitā (CS), Suśrutasaṃhitā (SS), Aṣṭāṅgasaṃgraha (AS) and Aṣṭāṅgahṛdayasaṃhitā (AHS). According to the 4 texts, age was defined as the state of body dependent on the length of time lived, and was broadly divided into three periods—childhood (–16 years), adulthood (16–60 or 70 years) and senescence (60 or 70 years and over). Further SS and AS subdivided the age into smaller stages as follows: childhood —kṣīrapa, kṣīrānnāda, and annāda; adulthood — vṛddhi, yauvana, sampūrṇatā, and parihāni. While taking up the management of the patient, the physician should examine the lifespan as a starting point in diagnosis. To determine the lifespan of the patient, his body was first measured as a whole and then each of the body parts were measured in terms of aṅgula (finger's breadth measurement) of his hand, and also his sāras were considered, depending upon the state (excellence, purity, and predominance) of each one of the dhātu and manas. The lifespan of the person depends on the interaction between the forces of daiva (deeds done in the previous life) and puruṣakāra (deeds done in the present life). There is considerable variation in the strength of both forces, with them possibly being mild, medium or intense. When both daiva and puruṣakāra are strong, the lifespan is long, happy and predetermined. while both are weak, the lifespan is short, unhappy and changeable. So the average human lifespan is clearly determined by both genetics and the environment in this view. A weak daiva can be subdued by a stronger puruṣakāra. Therefore a wholesome lifestyle is the basis of longevity and an unwholesome lifestyle will result in a short lifespan.We must understand that if we want to live longer, it is necessary to live properly.
著者
眞方 忠道
出版者
神戸大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

パルメニテスの「存在」概念を明かにする為に挟み撃ち作戦をとった。一つはパルメニデス以前のイオニア派中ピュタゴラス派の根底にある,アルケーやプシューケーの概念を明かにすることにより,パルメニデスが不生不滅,不変不動,不可分であり,完全球によそえられるとした「存在」概念を解明する試みである。他の一つはパルメニデス以後の哲学者達による批判的継承過程を通じて「存在」概念を明かにする試みである。前者については,哲学以前のギリシア人の心情,宗教的感情の中でその核となる,生き生きと同一性を保ち働きつづける何かへの信仰の要素まで溯ることによって,アルケーやプシューケー概念が理解可能となるとの知見を得た。具体的には,人間が生存する為には犠牲となり葬られ,しかも複活再生してくるディオニュソス神に象徴される力への信仰及びアキレウスの怒りに見られる他とは置き換えられぬ自己という考え方が,ギリシア人の根底にあるということである。後者についてはエンペドクレス,アナクサゴラス,デモクリトス達の所謂自然哲学,更にプラトンのイデア論ばかりではなく,ソクラテスか死を賭して示した生き生きとした同一性,特に人格の同一性の問題とつなげることによって,パルメニデス理解が可能になるとの見通しを得た。以上の成果をふまえてパルメニデスの残存断片の整理,編集 一行一行についてに翻訳,註釈の作業を試みた。特にパルメニデスは「真理の道」で恩惟によってとらえられるとした「存在」が「ドクサの道」で感覚世界に如実に働きかけている,その働きかけの様相を明かにすべく努めてること,「序歌」はその「存在」のもつ生き生きとした同一性を保ち働きつづける力を詩を通じて感得させると共に,「存在」理解の連続性と段階性を示すものであり,二つの道をつなぐ要となっていることを示すことに努めた。
著者
岡本 賢吾
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.7-19, 2001

Frege's well-known thesis that arithmetic is reducible to logic leaves unexplained what is the gain of the reduction and what he means by logic in principle. First, the author contends that the real interest of the reduction consists in a form of conceptual reduction: it frees us from the ordinary naive conception of numbers as forming extremely peculiar genus and replaces it with a very general and basic conception of them. Second, it is pointed out that Frege's concept of logic involves two elements. One is based on the iteratability of the operation of abstraction and naturally leads him to accept a sort of denumerably higher order logical language. The other is based on the so-called comprehension principle. Each of the two elements could be said to be logical in some sense but they are inconsistent with each other. Still, we can learn much from his attempt to search for as extensive and global a conception of logic as possible.
著者
渡邊 一弘
出版者
京都大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2007

本年度の主要研究業績である論文「応用哲学の現状と課題」および学会発表「経済学におけるモデルと実在」は、一方で過年度の古典的・理論哲学的研究の成果を基礎としつつ、他方で本研究がその目的のひとつとする応用的・学際的研究の積極的展開を企図して進められた。「経済学におけるモデルと実在」では、経済学方法論でいまや古典の位置を占めているミルトン・フリードマンの科学観を取り上げた。議論の出発点は、「経済学を含む実証科学の目的は予測の成功であり、理論における諸前提は非現実的なものであってもかまわない」という主張と解釈されてきたフリードマンの「実証的科学の方法論」が、現象に大きな変化が起こった場合の理論選択ないし理論構築の問題にそのままではまったく対処し得ないという問題である。ここからさらに次の点を論じた。(1)科学の現場において理論選択や新しい理論構築にあたって実際に指針とされるのは「科学的モデル」である。(2)そのような科学的モデルには、力学モデルからグラフィック・モデルに至るまで、多種多様なものが含まれる。(3)ただし経済学において通常扱われるモデルはほとんど「数式モデル」だと考えられている。(4)しかし、経済学にも多様なモデルの使用が理論の改良・構築に貢献してきたことは、いくつかの理論史的事例から確認できる。(5)このような科学的モデルと理論構築との関係を視野に入れることで、フリードマン流の科学方法論をより実際の科学の営みに即したものに作り替えることができる。また、「応用哲学の現状と課題」では、「経済学の哲学」と「哲学カウンセリング」という我が国においては未発達な哲学の応用的分野の欧米における先行研究をサーベイし、今後の展開への示唆を与えた。
著者
横田 理博
出版者
電気通信大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

マックス・ウェーバーの宗教論を、同時代の様々な立場からの宗教論(ジェイムズ・ニーチェ・ジンメル・西田幾多郎・ヤスパースなど)と比較することを通じて、宗教哲学・宗教心理学・宗教社会学といった諸アプローチが分化していく状況を把握し、宗教についての多角的理解を追求した。その一環として、ミュンヘンのバイエルン学術協会に保管されているウェーバーの旧蔵書を閲覧し、蔵書へのウェーバーの書き込みについて調査した。
著者
田端 健人
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.199-206, 2010

ハイデガー(Heidegger, M.)の思索に、教育哲学あるいは教育論はあるのだろうか。本稿は、ハイデガーが教育を語った重要な箇所、プラトン『国家』「洞窟の比喩」解釈に着目し、パイデイア(παιδεια =教育)に関するハイデガーの思索を再構成する。プラトン『国家』における「パイデイア」というギリシア語は、一般的に、「Bildung(陶冶、教養、人間形成)」とか、「Erziehung(教育)」とドイツ語訳されるが、ハイデガーは、こうした翻訳を、19世紀の「心理学主義」の産物として厳しく批判する。19世紀前半に活躍したヘルバルト(Herbart, J. F.)も、ハイデガーによれば、心理学主義を創始推進した人物である。本稿ではまず、ハイデガーのこうした心理学主義批判とその克服を考察する。そして、プラトンのいうパイデイアは、ハイデガーにとって、「現存在(Dasein)」や「世界内存在(In-der-Welt-sein)」といった概念と同様、人間存在の新たな規定様式だったことを指摘する。次に本稿では、プラトンのパイデイアに関するハイデガー独自の翻訳に着目し、この翻訳に凝縮されたハイデガーのパイデイア論を、1928/29年冬学期の「哲学入門」講義をもとに解釈する。こうした解釈を通して、ハイデガーのパイデイア論は、私たちが慣れ親しんでいる教育活動を改めて捉え直すための、一つの「教育哲学」になりうることを示したい。