著者
横山 桂次
出版者
高岡法科大学
雑誌
高岡法学 (ISSN:09159339)
巻号頁・発行日
vol.10, no.1, pp.397-409, 1999-03
著者
岩田 和男
出版者
愛知学院大学
雑誌
愛知学院大学教養部紀要 (ISSN:09162631)
巻号頁・発行日
vol.40, no.1, pp.55-73, 1992-07-20

本論文は、平成2年度の文部省科学研究費 (奨励研究A) の援助による研究、「英語文学作品に現われる日本のイメジの変遷」(課題番号02710212) の具体的成果の発表である。目的は西洋人が抱く日本の典型的イメージの一つであるムスメを分析することで、明治以降そのイメージがどのように形成されていったか、どんな特徴があるのかを調べることにある。研究の基本的態度はいわば西洋中心主義的日本理解批判である。Ruth Benedict, The Chrysanthemum and the Sword (1946) に代表されるように、日本人の精神構造は二つの相反するイメージ、しとやかな上品さと激しい攻撃性 (daintiness and violence) の不可解な融合として理解されている。しかし、そういう西洋のイメージ分類法に従った理解は一種の偏向であり、「ムスメ=すみれ」というステレオタイプには、明治以降の西洋人の目を通した日本ムスメのイメージが固着している。それはまた日本人に決定的な影響をもたらしている。既に日常感覚とは程遠いジャポネスクに驚くほど依拠して、日本人は自らを語るのである。だからこそそれは東洋的視点から見直される必要がある。まず「ムスメ」という言葉が英語文学に登場する歴史的文脈を検討する。要点は、(1) 文化交流史の観点に立つと明治維新とは新しいジャポニズムの始まりであった、(2) 英語文学における「日本」は反西洋文明、すなわち地上楽園 (Paradiso Terrestre) の記号的特徴を帯びる、以上二点である。必然的に英語文学上のムスメは少なからず虚構化される。それは、当時出版された書物のうち多くのタイトルにムスメの固有名が使われたほどその存在がポピュラーだったという事実に符合する。虚構化の一例を辿る。ムスメの図像的類型は当初写実的要素が強かった。彼女らは大抵背が低く、実年齢よりも若く見え、狐目をしていて、体型は日本的であった。しかし、驚くほど外国人に親切であけっぴろげなムスメという別の定型が示すように、写実的な要素と明治ジャパノロジストの彼らなりの価値が混在してムスメ観は成立している。だから小説に描かれるムスメの絵も英国人的姿をとるようになる。それは恐らくほとんどの読物が西洋男性によって書かれたという事実に深い関係がある。ムスメ虚構化の裏には当時の西洋男性が抱えていた現実があり、西洋女性がある。ムスメとは西洋男性の現実逃避の文学的手段なのである。男性側の現実を要約する。Dawn Lander, "Eve among the Indians" によると、アメリカ開拓文学には男性中心主義 (masculinism) が明らかである。開拓部落の男たちは白人のまともな女性を荒原に必要としない。そこでは性差上の他者、すなわち黒人、インディアン、白人娼婦がいればいいのである。このアメリカ西部の話は明治期日本にあてはまる。まずは地理上、"Far West" と呼ばれた西海岸よりさらに西にある日本は、アメリカ人から次の西部と呼ばれる可能性を潜在的に常に持つ。それに James Francis Abbott が指摘するように the Spanish-American War (1898) がアメリカの積極的外交政策をヨーロッパ諸国に示した端緒だとすれば、日本=新たな開拓地という見方は成り立つ。また英国では英国固有の特殊事情、婦人参政権運動が英国男性を日本へと向かわせた。西洋男性が演じるべき役柄は文学的類型で言えばオデュッセウス、日本ムスメはキュルケーである。Ayame-san ; a Japanese romance of the 23rd Year of the Meiji 例にとる。それは二人の地球放浪者 (globe-trotters)、オラファティー (O'Rafferty) とギフォード (Gifford) が日本を舞台に活躍する冒険恋愛物語である。この小説で印象的なのは次の三点である。(1) ギフォードという画家はアヤメに会ってから美の規範が西洋から日本に移行する。しかもアヤメを描いた絵は小部屋でひとり見るべき「聖なるもの」であり、その一種の洞窟での夢想は東洋のキュルケーとの秘かな楽しみを連想させる。(2) 女を逸脱しないムスメという構図は男にとって実に都合がいい。アヤメは自立を夢見ているというのにギフォードに旅行に出るよう勧められると、それが男のものであることにこだわる。三人で旅行に出ることを暗示して物語は終わるから最終的にこの図式は壊れるのだが、規を越えない女という構図に変化はない。(3) この小説は西洋の男性とムスメの間にありそうな愛の形を示している。物語には二人の合法的な結婚を将来に暗示する言葉はない。それは、日本を舞台にした英語文学のうち、東洋と西洋の文化摩擦を主題にするもう一つのタイプとは著しい対照をなしている。そこから見えてくるものは西洋男性のマッチョ願望であり、その文学的実現の装置としてムスメは不可欠であった。キュルケーの島で西洋女性がどういう役割をするのか、The Twin Soul of O'Take San (1914) を例に考察する。物語はガールストン (Garleston) 夫妻の離婚話から始まる。妻のセオドラ (Theodora) は夫オーエン (Owen) にコントロールされることを嫌う。自らを「制御されない女」と呼ぶ彼女は、かたくなであるがゆえにかえって男性優位の価値観に縛られた姿を浮き彫りにする。そこに私たちはヴィクトリア朝女性観の抗い難い浸透ぶりを見る。セオドラが馬鹿な女として描かれるのは社会イデオロギー上当然なのである。道徳とは男性の立場から構築されており、女性の立場に固執することは男性側の道徳・女性観に必然的に対立する。この男性中心主義こそがジャパノロジストをして、婦人参政権運動を背景にした女性の権利主張に対するアンチテーゼという役割を、日本のムスメに与えせしむるのである。オーエンは日本を訪れ、オタケさんというムスメを愛するようになる。オーエンが二人を精神的な意味での双子 (twin-souls) なのだと訴える場面があるが、それは彼とムスメとの不可分の関係、ムスメが彼のいわば理想的な影であることを示している。オーエンは来日前に、世界で忘れられたような場所 ("some out-of-the-wey place in the Far East") へ行きたいと言った。それは英国という彼の故郷とは正反対の場所である。その正反対さは、オタケの単純、無垢、聡明という性格がセオドラの複雑、不可解と正反対なことと奇妙に一致する。結局このようなジャポニズムは幻想なのである。ひとはあるべき場所に戻らなければならない。物語の構造上セオドラの改俊は必須である。果して彼女は来日し自分の心境の変化、わがままの後悔、全き犠牲への覚悟を語る。彼女は男性中心の道徳の軍門に下ったわけだ。利益を受けるのはオーエンただ一人である。セオドラは臨終の床のオタケと会うが、そのときオタケからオーエンとの間にできた子供 (もう一つの彼の影) のことを頼まれる。オタケとセオドラが物語構造上の二項対立であったことは明らかで、オタケはセオドラの逆像にすぎない。臨終の時のオタケの視線はセオドラには「深い水底 (profound abysses)」を思わせた。この視線は、結局ムスメのイメージとは西洋人にとっては全体的には不可解であることを象徴的に示す。確かに部分的特徴は理解できるが、そのイメージの核を成す部分 (一種の超自然性) がサムライのイメージと同様理解不能のまま残る。たおやかなイメージのムスメの中に相容れない要素が神秘的に混在しているのを発見するのはショックである。だからこそ彼らは繰り返しムスメの中のサムライ的要素に注目する。ムスメは英語文学の中で異質な影、他者という役割のみが与えられている。それはおそらく絶対他者、あるいはサムライのイメージに収斂されるものと定義し直すことができるだろう。
著者
山内 隆司 山川 龍雄
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネス (ISSN:00290491)
巻号頁・発行日
no.1721, pp.98-101, 2013-12-23

うちの会社を含め、ゼネコン各社は国内に仕事がないことを理由に、一斉に海外進出した時期がありました。それで大やけどをして帰ってきた。うちも2009年のドバイショックで大変痛い目に遭いました。ようやくその後遺症が癒えてきたところです。
著者
草場 律 鵜澤 寛之 川村 智明 川合 健治 有川 勇輝 重松 智志
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. EST, エレクトロニクスシミュレーション (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.113, no.143, pp.39-44, 2013-07-11

本稿では通信処理SoCの消費電力推定手法を提案する.提案手法は次の3つのステップから構成される.第1は消費電力に影響するビットレート,フレームレートおよび機能モードのようなパワーパラメータの抽出である.第2はいくつかの点でシミュレーションで求めた消費電力からパワーパラメータと1フレームあたりのエネルギーの関係の近似式(電力モデル)を作成することである.第3は近似式を用いて1フレームごとにエネルギーを加算することで消費電力を計算する.抽出した各パワーパラメータが消費電力にどの程度影響するかを実測で確認した.本手法とフル論理シミュレーションによる従来手法と比較を行い誤差±5%以内で計算速度は26,000倍になることを確認した.
出版者
日経BP社
雑誌
日経コンストラクション (ISSN:09153470)
巻号頁・発行日
no.541, pp.38-39, 2012-04-09

夜間の工事現場を照らす移動式投光機の製造で、国内トップのシェアを誇るのが東京都稲城市のライトボーイだ。路面標示工事の会社として1978年に設立したが、今では「ライトボーイシリーズ」と名付けた投光機の部門が全社売上高15億円の8割を占めるまでに成長した。 同社が投光機事業に乗り出したのは、創業から7年たった85年のことだ。
著者
松浦 弘幸 根本 哲也 野田 信雄 中野 正博
出版者
バイオメディカル・ファジィ・システム学会
雑誌
バイオメディカル・ファジィ・システム学会誌 (ISSN:13451537)
巻号頁・発行日
vol.7, no.1, pp.131-136, 2005-10-20
被引用文献数
2

現代日本社会で見られる人口減少の真の理由を明らかにするには、種としての人間が生物学的にどのような未来をたどるかという設計医療工学の視座にたって人口減少社会を観察する必要がある.このことは,人口減少社会の別の側面を見せてくれるばかりか,"生物集団としての人間"を知るためにも極めて重要な視点といえる.本論では、データからモデルを組み立てる帰納的方法と,仮説を立て検証を行う演繹的方法を併用し,数理モデルを形成する.しかる後,現実の社会システムに応用してモデルの完成度高める,予測推計・分析および政策立案に応用する方法を提案する。
著者
土井 美和子
出版者
日経BP社
雑誌
日経バイト (ISSN:02896508)
巻号頁・発行日
no.261, pp.69-75, 2005-02

ヒューマン・インタフェースの研究/開発者が目指す,ユーザーをわくわくさせるインタフェース。どうしたらそこに到達できるのでしょうか。魔法の杖の一振りのような秘伝があればよいのですが,残念ながらそんなものはありません。地道な現状分析を重ねていくしかないのです。
著者
棚次 亘弘 成尾 芳博 長友 信人 岩間 彬 秋葉 鐐二郎 倉谷 健治
出版者
宇宙航空研究開発機構
雑誌
東京大学宇宙航空研究所報告 (ISSN:05638100)
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.859-891, 1980-05

推力7トン級液水/液酸ロケットエンジン用ターボポンプを駆動するガスジェネレーターの設計および試験を昭和52年から実施し,その開発を完了した.このガスジェネレーターはリバースフロー型のものであり,撹拌リング付の球形燃焼室と12個の均一混合比型の同軸インジェクターおよびスタートバルブから構成されている.8回のガスジェネレーター単体での試験および10回のターボポンプとの組合せ試験によって,性能および機能の確認を行った.インジェクター,燃焼室およびタービン部に焼損は認められず,燃焼および混合が良好に行われているものと思われる.現在までの総燃焼時間は204秒である.ここでは,東大宇宙研において開発したガスジェネレーターの設計諸元,試験設備および試験結果を報告する.
著者
小林 保治
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.49-58, 1971-02-01

A number of No dramas fall into the category of Shuramono, No of fighting scene, and most of them, if not all, are based on some stories from Heikemonogatari. All the major Shuramono pieces are now recognized as the works of No dramatist Zeami's authorship. Among them is one called Tsunemasa with Tairano Tsunemasa as its Shite or a hero, to which special attention must be paid as it is a one-act (single-type) No, while other Shuramono usually consists of two acts (double-type). Normal two-act type Shuramono shows in its second act a scene adapted from Heikemonogaiari, in which a hero dies on the battlefield. This death scene is necessitated by the author's dramaturgical intention to present an tormenting scene of a hero just about to depart this world by way of a symbolical spectacle of fight fought eternally between a hero soldier who is driven mad by wrath and therefore doomed to be defeated and Taishakuten, a guardian diety of Buddhism, in Shurado (one of Hades in Buddhism) where every soldier who has bleached his bones on the bettleground must go after his death. In the description of a hero's last momet in the later act of double-type Shuramono, the author usually goes into minute detail. However, it is not the same with one-act Tsunemasa with only a few lines depicting his end. It is that Zeami wrote it in quite a different way from two-act plays - Zeami, making effective use of those phrases in the Sutras which describe the agony of everlasting toward the end of that drama, makes armed Tsunemasa suffer from the same agony as expressed in the Sutras with the result that there are double images overlapping each other on the stage : one image of Tsunemasa on the brink of death on this side of Heaven and the other of agony-ridden Tsunemasa in the nether regions, who can never escape from eternal fighting. One night, a Buddhist mass is held for the repose of Tsunemasa at Nimnaji Temple where he once served as a page. Tsunemasa's spirit is lead to the mass attracted by the melody of the biwa as he himself was very good at playing the instrument. Tsunemasa's ghost joins the players and enjoys himself for a while. In the course of merriment, his excitement goes beyond his control until at last he comes to betray the violent anger from which no one fallen into Shurado is free. Carried away by wrath, the ghost starts a fierce battle. During the battle he suffers from scorching hell are, which overlaps the burning light at the memorial service. In this scene, the burning light is of much importance as it is supposed to illuminate Tusnemasa's face twisted with agony. When Tsunemasa finally becomes aware that his unsightly figure as a ghost from the hell of Shurado is watched by all the people present at the service, he hurries back to Shurado blowing out the light. It is also to be noticed that there are scattered all over the text of Tsunemasa many verses cited from Wakanroeishu.
著者
Fukue Jun Matsumoto Katsura
出版者
Astronomical Society of Japan
雑誌
PASJ : publications of the Astronomical Society of Japan (ISSN:00046264)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.111-117, 2001-02-25

In supersoft X-ray sources the mass accretion rate is roughly equal to the Eddington rate, and traditional standard###disks cannot be adequate. We thus propose a supercritical accretion disk (superdisk) for supersoft X-ray sources.We have found that superdisks exhibit various distinct features, compared with standard thin disks. The continuous spectra of superdisks generally become flat (vS_v ~ v^0), which are greatly different from those of disk-blackbody spectra, as expected in the usual accretion disk systems. This flat nature is not so prominent in supersoft X-ray sources, compared with that in the superdisk around a black hole, since the radial extension of the disk is much smaller. Moreover, irradiation becomes important for a smaller accretion rate system. The superdisk picture was applied to RX J0019.8+2156, and reproduced its spectra and optical light curves well.
著者
宮川 洋光 本田 克美 宗像 健
出版者
The Society of Chemical Engineers, Japan
雑誌
化学工学論文集 (ISSN:0386216X)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.134-138, 1989
被引用文献数
2

精留効果の組成による変化の原因を究明する目的で, <I>N<SUB>OG</SUB></I>の著しい変化を報告しているLiangらの実験とできるだけ同一の条件のもとに実験を行った.その結果<I>N<SUB>OG</SUB></I>は組成とともに大きく変化することが認められた.<BR>また, 表面張力特性による検討を行うため, この系の沸点液の表面張力を測定したところ, ある組成で極大値をもち, この組成を境としてネガティブ系からポジティブ系に変化することがわかった.また, Moensの提案したstabilising-indexを用いれば<I>N<SUB>OG</SUB></I>との関係がかなりよくまとめられることがわかった.
著者
三上 英司
出版者
山形大学
雑誌
山形大学高等教育研究年報 : 山形大学高等教育研究企画センター紀要
巻号頁・発行日
vol.3, pp.8-12, 2009-03-31

はじめに 高等教育機関における教養教育に対して,入学生をインターフェースとして社会全体から求められている役割は,多様である。そもそも,現代日本においては「教養」という語の意味自体が,社会の多様化に連動して拡散し続けているように思われる。このような状況の中で,教養教育は,習得すべき明確な到達目標を示すことが一層困難になってきている。要請される事柄の全てに対応しようとするとき,その実現は一地方大学の許容能力を遥かに超えてしまう。それゆえに,多くの高等教育機関における教養教育は往々にして,社会的な要請から乖離した画一的なカリキュラムの殻に閉じこもったり,反対に現状へ近視眼的に反応して即戦力的スキルの習得を第一義とする講習会へと変容してしまったりする。さらに,本質的な問題はこれらの教養教育が,非常勤スタッフの手を借りなければ運営できない状態に陥っていることである。この現状は,学問の本来的な在り方を鑑みるとき,危機的と呼んで差し支えない。本来の「Liberal Arts」が培ってきた「普遍性」に対する社会全体の意識低下が,この状況を生み出した主因だといえる。一方,教養教育の場で学ぶこととなる新入生は,学力・モチベーションがともに,必ずしも高いとはいえない。この責を単に初等・中等教育の現場や学生自身の意識の低さに求めることは,問題解決のために何ら貢献しない。なぜならば,少なくとも入学生たちは選抜試験に合格し,本学に入学を許可された者たちであり,これらの学生に対しての教育が困難であることを訴えても,社会的な承認は,けして得られないからである。さて,昨今の学生の特徴で教員にとって最も重要な点は,学生個々の基礎的学力と彼らの求める事柄が,やはり多様化しているということである。現在の入学者選抜方法は,社会的な要請に応える形で実に多様化している。そのことによって学生の資質も,複雑化しているのである。このような現状に対応するために,大学の教養教育の現場では,まず授業を成立させなければならない。そのために学問の本質とは基本的に無関係な多くの授業実践方法に関するスキルが要求されている。FD活動に代表される教育方法改善活動が,平成以降,全国で活発になったという事実は,煎じ詰めれば様々な学生の状態を許容することになった現代日本の高等教育機関の現状の反映だと考える。