- 著者
-
森栗 茂一
- 出版者
- 国立歴史民俗博物館
- 雑誌
- 国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
- 巻号頁・発行日
- vol.57, pp.95-127, 1994-03-31
仏教には,水子を祀るという教義はないし,水子を各家で祀るという祖先祭祀も,前近代の日本にはまったくなかった。にもかかわらず,今日,「水子の霊が崇るので水子供養をしなければならない」と,人々に噂されるのはなにゆえであろうか。いわゆる1970年代におこり,80年代にブームを迎えた水子供養が,すでに20年を経過した今日,これを一つの民俗として研究してみる必要があろう。前近代の日本では生存可能数以上の子供が生まれた場合,これをどのように処理してきたか。一つには,予め拾われることを予期して,捨て子にする風があった。捨て子は,強く育つと信じられ,わざわざ捨吉などの名前をつけたこともあった。しかし,社会が育ててくれる余裕がないと思えるとき,間引きや堕胎がおこなわれた。暮らしていけないがゆえの間引きや堕胎を,人々は「モドス」「カエル」と言って,合理化してきた。実際,当時の新生児の生存率は低く,自然死・人為死に関わらず,その魂が直ちに再生すると信じて,特別簡略な葬法をした。それでも,姙娠した女が子供を亡くすということは,女の心身にとっては痛みであり,悩みがないわけではない。しかも,明治時代以降の近代家族が誕生するにあたって,女は「良妻賢母」「産めよ増やせよ」「子なきは去れ」と,仕事を持たない「産の性」に限定された。そのため,女は身体の痛みの上に,社会的育徳という痛みを積み上げられた。そんな悲痛な叫びが,水子供養の習俗に表れている。ところが,この女の叫びは,宗教活動の方向と経営を見失った寺院のマーケットにされてしまう。寺院や新宗教の販売戦略,心霊学と称するライターによって演出され,読み捨て週刊誌に取り上げられてひろまった。明治時代以降の近代家族は,男の論理による産業システムのためのものであった。その最高潮である60年代の高度経済成長が終わった70年代に入って,水子供養が出てきていることは興味深い。産業社会の幻影が,女を水子供養に走らせた。その女を,寺院は顧客として受け入れた。こうして,女は金に囲いこまれて,水子という不安に追い込まれ,水子供養という安心に追い込まれていったのである。そこで,彼女らの残した絵馬を分析することで,女の追い詰められた心理の一端を,分析してみたいと思う。