著者
鄒 青穎 田口 一汰 佐藤 龍之世 石川 幸男 檜垣 大助 蔡 美芳 五十嵐 光 山邉 康晴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.142-156, 2023 (Released:2023-06-01)
参考文献数
31
被引用文献数
1

津軽十二湖地すべり地は,白神山地の最西部,青森県津軽国定公園にある約300年前の地震によってできた地すべりである.そこには,流れ山や舌状小尾根地形や巨礫や湖沼群など,十二湖を形成した地すべりの運動やその範囲を示す痕跡が各所に見られる.ここへの来訪者の多くは,推奨散策ルート沿いに1~4時間滞在し,池とブナ自然林の自然風景を鑑賞するために訪れている.来訪者は,地すべりに関連する池の成因や地形と植生との関係への興味が高いが,地学や地生態学的要素に関する情報は来訪者には伝わっていない.そうしたギャップを解消するため,十二湖の地形のできかたとその上に成り立った地すべり地形と植生の対応関係について調査を行い,それらへの理解が深まる散策ポイントを巡る散策マップを作成した.
著者
坂口 豪
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.131-141, 2023 (Released:2023-06-01)
参考文献数
8
被引用文献数
1

浅間山北麓地域では,ジオパーク活動の開始前より,地元住民や自然愛好家が浅間山周辺地域の自然・文化資源を対象にして組織的なガイド活動を行っていた.そうした場所で,ジオパーク認定を目指した活動が始まったことにより,このガイド活動を行っていた人が中心になり浅間山ジオガイドの会が組織された.嬬恋村と長野原町とでジオパーク活動が進められることになると,浅間山ジオガイドの会に所属していなかったガイドも浅間山ジオガイドの会に所属するようになった.そうして,この地域ではジオパークの理念に沿ったガイド活動が行われるようになった.浅間山ジオガイドの会では,外部講師を招いての講座や会員相互での研修が行われ,ガイドのテキストを会員全員で分担して作成するなど,組織でガイド能力を向上させる取組みが進められた.さらにこの会は,ガイド養成講座を開催し,ジオガイドを増員させていった.
著者
有馬 貴之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.114-130, 2023 (Released:2023-06-01)
参考文献数
32
被引用文献数
1

本稿では,観光庁の発表した持続可能な観光ガイドラインと日本ジオパーク委員会のジオパーク自己評価表の比較を行った.その結果,日本のジオパーク活動は,運営体制,保護・保全計画,教育,宣伝,解説,自然遺産の把握に重きが置かれる枠組といえる.こうした枠組は持続可能な観光地を目指す地域にも貢献できる可能性がある.一方,日本のジオパーク活動では客観的データの取得やその調査が弱い.ゆえに持続可能な観光を進める上では,客観的データによる状況把握や,有用な指標の開発が急務である.また,人権などの権利関係や,地質や地形に関連する他の自然環境の把握,今後生じうる観光の負の影響への対策への関心が比較的低い点も課題であるといえる.
著者
麻生 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.298, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに 無教会主義は内村鑑三(1861~1930)によって創始されたキリスト教のグループの一つであるが,指導者や体系化された神学,儀式化された聖礼典,礼拝堂などを持たず,「既成の教会論を転倒」した運動であり,彼らの礼拝の場は「大自然という教会堂」であった(赤江 2013).すなわち既存のキリスト教の組織化,体系化された信仰実践ではなく,『聖書之研究』などの雑誌の読者によって支えられる「紙上の教会」であり,日常生活に根差した信徒たちそれぞれの場における祈りや聖書学習などの信仰実践であった(赤江 2013).このような無教会主義キリスト教の姿は近年人類学や地理学などで注目されている「生きられた宗教 Lived Religion」(McGuire 2008)とも関連すると考えられる.本発表は無教会主義キリスト教の詳細な記録を残した斎藤宗次郎(1877~1968)が描いた様々な風景画を通して,視覚資料による無教会主義の思想の検討を試みる. 2.『聴講五年』の挿絵 『聴講五年』は上・中・下の三巻,合計670ページから成るテクストで,斎藤が花巻から東京に転居した後の1926年9月から内村が死去した1930年3月までのおよそ三年半にわたる記録で,内容は今井館や日本青年館などでの聖書講義の内容のほか,内村の言葉,内村の家族の様子,内村の最期の様子,斎藤と無教会関係者との会話や活動などを記録したものである.また,斎藤はこれらの記録を内村の下での活動中から執筆していたが,第二次大戦後に清書し,1953年に完成させた.斎藤はこのテクストに膨大な文章とともに風景や人物などの数十点の挿絵を描いている.挿絵は合計62点で人物が47点,それ以外が15点で,人物を多く描いていた.人物の描き方について,内村の姿を描く際は人物を比較的大きく描く一方,集会に大勢の人々が集う様子や内村邸の庭先の数名の関係者を描く際は比較的小さめに描いていた.これらの挿絵は本文の内容と密接に関係しており,斎藤が後世に伝えるべき記録として必要に応じて描いたと考えられる.この点は近世京都名所を描いた『都名所図会』の人物の描き方との関連も考えられよう(長谷川 2010). 3.挿絵に投影される無教会主義の思想 図1の左は1929年5月16日の夕方に斎藤が現在の世田谷区の楠林で,左は1930年1月18日に現在の杉並区荻窪の林で,それぞれ祈る場面を描いた挿絵である.『聴講五年』の中で斎藤が自ら祈る場面をいわばメタ的に描いたものであるが,注目すべきは祈る自身の姿だけでなく,周辺とはるか遠くの景観を描いている点である.斎藤にとっては自分が存在する周囲の空間,そして自身の目に映る遠景も含めたまさに「生きられる空間」こそが信仰の実践としての祈りや賛美などを行う,彼にとっての「生きられた宗教」たる無教会主義キリスト教の信仰実践の場であった.こうした挿絵は斎藤の無教会主義キリスト教の信仰と思想を視覚化したものだったのである.言い換えれば,こうした風景や景観を描いた視覚資料は単に歴史的な景観を復元するだけではなく,日常的な信仰実践やその思想の研究,すなわち宗教史研究や思想史研究との接続も可能な資料なのである. (本稿の作成にあたってはJSPS科研費基盤研究(C)19K01193の助成を一部使用した.)
著者
王 龍飛 千川 はるか 朱 澤川 銭 胤杉
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.208, 2023 (Released:2023-04-06)

Ⅰ はじめに 現在,日本に滞在する外国人の増加に伴い,それぞれのエスニック・グループが独自のエスニック・ビジネスを展開している。出入国在留管理庁のデータによると,とくに中国人が増加していることがわかる。山下(2010)は中国の農村には強固な地縁・血縁社会が残っており,親族の中の一人が海外に出稼ぎや留学に行き,ビジネスに成功すると、それを頼って郷里から人々が集まるようになり、異国の地に同郷グループが形成されていくと述べている。 大阪においても,このような強い繋がりをもつ中国人グループが存在すると予想される。とくに中国系の店舗は,同胞向けにビジネスを展開し,宣伝方法の利活用も変化させている。本研究では,大阪「ミナミ」周辺におけるエスニック・ビジネスに着目し,その集積状況を把握し,集積の背景を検討した上で,同胞向けビジネスの新動向として,新たな宣伝方法のあり方についても言及する。Ⅱ 対象地域の概要大阪中央区南部(以下、ミナミ)は近年エスニック系店舗の増加・集積が顕著な地域であり,外国人向けに観光地化されたエスニック・タウンとは異なり,主に同胞向けにビジネスを行っている。出入国在留管理庁のデータによると,2022年6月末時点で大阪市の24区では,在留中国人が最も多い区は浪速区で,次いで中央区となっている。2018年以降は,中央区の在留中国人の数の伸び率は浪速区よりも高くなっている。中央区における在留中国人の数が浪速区を抜いて1位になるのは時間の問題だと思われる。 このようにエスニック・ビジネスの集積が進むミナミだが,その実態は粉河(2017)による報告があるのみで,それからわずか5年で大きく変化している。本研究では,そうした変化にも注目しつつ,特に成長著しい中国系ビジネスを取り上げる。Ⅲ 結果と考察現地での観察調査とGoogle Mapおよびインターネット情報から,ミナミには270軒のエスニック系店舗が確認され,そのうちの6割を中国系店舗が占めていることが分かる。アンケートおよび聞き取り調査により,これまでのところ合計21軒から情報を得ることができている。 対象地域では,もともと韓国系の飲食店が多く立地していたが,2017年ごろから中国からのインバウンド需要が急増したことで,空き店舗には,中国人経営による観光客向け免税店が多く入居するようになった。2020年からのコロナ禍によって,訪日観光客は激減したが,中国人による日本製品への需要は衰えず,インターネットで注文した日本の商品を中国へ発送するための国際物流店が増加した。一方,飲食店は大阪に居住する同胞向けのものが多く,コロナで影響を受けながらも店舗を維持している。このように,コロナ禍を挟んだ時期でも中国系店舗数は増加・維持されながら,その業種・業態の変化が見られることが分かった。 ミナミおける中国系店舗の集積については,2つの要因が考えられる。1つは,中国系不動産や富裕層が同地域に多くの土地や建物を保持しているという点である。2点目として,この地域周辺には日本語学校などの教育機関や企業が集積しており,定住中国人も多く,難波や心斎橋といった一大観光地にも隣接していることから,定住者と観光客の双方をターゲットとしたビジネスを展開できる場所であるといえる。 集積の手段や顧客の誘致については,SNSが発揮した効果が大きいと考えられる。聞き取りをした21軒の店舗のすべてが中国系SNSのWeChatを利用して店のメニューやキャンペーンを宣伝している。また,やはり中国SNSである小紅書(RED)を利用して宣伝している店は12軒,抖音(TikTokの中国版)の利用は4軒あった。これらは決済機能もついており,宣伝だけでなく商品売買にも利用される。今後も複数の中国系SNSを利用したビジネス拡大の動きは容易に予想できる。参考文献粉川春幸 2017. 大阪市中央区南部における複数のエスニック集団によるエスニック・ビジネスの実態.人文地理69(4): 447-466. 山下清海 2010. 『池袋チャイナタウン 都内最大の新華僑街の実像に迫る』株式会社洋泉社出版.
著者
長井 彩綾 根元 裕樹 松山 洋 藤塚
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.256, 2023 (Released:2023-04-06)

2011年に発生した東日本大震災の,地震後の津波は甚大な被害をもたらした.高田ほか(2012)は,東日本大震災の津波による神社の被害調査によって,スサノオノミコトを祀る神社,熊野系,八幡系の神社の多くは津波被害を免れた一方,アマテラスオオミカミを祀る神社や稲荷系の神社の多くが津波被害を受けていたことを明らかにした. 長井ほか(2022)では,先行研究で挙げられた「スサノオノミコトを祀る神社は津波被害を回避できる」という点に着目し,東京都を対象にスサノオノミコトを祀る代表的な神社である氷川神社の鎮座地の地形的特徴を調査した.氷川神社は武蔵一宮であり,埼玉県にも多い神社であることから,本研究では旧武蔵国を対象範囲を広げて氷川神社鎮座地の立地特性を調べた.さらに,神社と洪水浸水想定区域との位置関係を調べることで氷川神社の被災リスクについて考察した.本研究では,埼玉県神社庁ホームページ,『東京都神社名鑑(上・下)』(東京都神社庁1986),神奈川県神社庁ホームページに記載された神社のうち,旧武蔵国に該当する埼玉県、東京都、神奈川県横浜市と川崎市の土地条件図がある範囲に鎮座する2,848社(うち氷川神社195社)を対象として分析を行った(東京都の島しょ部,他社の境内神社を除く). 対象とした神社の鎮座地住所を緯度経度へ変換した後,ArcMapにて,航空写真を用いて社殿の位置へ合わせた.傾斜地に関する分析は,基盤地図情報数値標高モデル5mメッシュを用いて,神社が傾斜地付近に鎮座するか確認した.高低差を調べるために,ArcMapのフォーカル統計機能を用いて半径10メッシュ(50m)の標高の最大値と最小値を算出し,比高を求めた.比高1m未満は平坦地とした.地形分類は,数値地図25000の土地条件図を用いて,神社鎮座地の地形分類を抽出した.神社から河川までの距離は,現在の国土数値情報河川データの他,地形分類のうち,低地の一般面,凹地・浅い谷,頻水地形,水部を河川として神社との距離を算出した.洪水浸水想定区域との位置関係は,国土数値情報の関東地方整備局,埼玉県,東京都,神奈川県のデータを用いて,洪水浸水想定区域と重なる神社があるかを調べた.旧武蔵国の神社は比高の大きい場所に沿って鎮座していたが,氷川神社は,その他の神社と比較すると,鎮座する場所の比高は特別大きいものではなかった.地形分類の分析で,旧武蔵国の神社は,台地・段丘や低地の微高地といった浸水しにくい場所に多く鎮座しており,氷川神社は特に台地・段丘に鎮座するものが多かった.河川までの距離について,旧武蔵国の神社の多くが河川まで100m未満に鎮座しており,氷川神社とその他の神社で平均値の差の検定を行ったところ有意差はなかった.神社と洪水浸水想定区域との位置関係では,荒川沿いの低地や大宮台地より東側の低地で多くの神社が浸水した.氷川神社は,荒川沿いの低地にも多く鎮座する.そこでは,浸水するおそれのある氷川神社がその他の神社よりも多く,浸水深も深い場所にあることが明らかになった.なお,荒川の支流沿いの氷川神社は浸水しにくいことがわかった.
著者
本多 忠素
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.122, 2023 (Released:2023-04-06)

1. はじめに近年,日本において墓は多様化しており,樹木葬墓地や合葬による永代供養墓など選択肢が増えている.こうした変化は,都市の墓地のあり方にも表れている.特に都市部において新規墓地の開設は,一定の広さを持つ土地を確保したり,設置のための法的要件を満たしたりする必要があるため容易ではない.その一方で,遺骨を収蔵する施設である納骨堂は増加しつつある.こうした墓の多様化のほか,近年では信仰の希薄化も進行しており,これらは墓石や宗教用具の市場動向にも表れている.墓石を含む石工品製造業の出荷額や,仏壇などの宗教用具の販売額は,1990年代以降大幅に減少している.また,宗勢調査からは多くの寺院が,檀家の減少により財政的苦難にあることが明らかになっている.これらを踏まえ本研究は,都市の納骨堂の増加を,1990年以降の墓地・納骨堂の供給主体の動向から把握することで,利用者による墓需要だけでなく,供給主体の経営的状況を踏まえた墓の多様化の動向を考察することを目的とする.2. 先行研究 現代の墓地に関する研究は,民俗学や社会学などの分野で墓制や祭祀性等の議論があるほか,地理学においても墓地の立地をはじめとした研究がなされてきた.しかし,墓の選択が多様化する中で,墓石が配された墓という形態以外の「墓」の空間的様相は十分に論じられてこなかった.加えて,行政や民間,他学問分野における今日の墓需要の分析はしばしばみられるものの,その供給主体から論じたものは少ない.こうした先行研究の傾向を踏まえ,本研究では都市部における納骨堂の増加の背景を,供給主体に着目して検討した.3. 研究対象と調査方法本研究の調査対象地域は,近年の納骨堂の施設数の増加率が著しく動向がより観察しやすい大阪市とした.研究対象については,納骨堂の施設増加は宗教法人による設置が大半であり,そのなかでも多くが仏教寺院によるものであることから,公営や財団運営などのものを除いて仏教寺院に絞った.そのうえで寺院や石材店,仏具店,納骨壇製造業者等への聞き取りを行い,それら供給の様態と納骨堂の増加が進む背景を把握することとした. 4. 結果と考察聞き取りからは,寺院,石材店,仏具店の三者で,各事業の財政的状況を改善しようとする工夫が確認された.そうした供給側の工夫が,利用者による多様な墓需要以外での,納骨堂の増加の一要因となっている.また,こうした納骨堂を所有する寺院の内訳からは,宗旨や祭祀性といった寺院の宗教性と納骨堂の所有との間の関連を認めることはできなかった.これは東京都23区を対象とした横田・八木澤(1990)の指摘とも符合する.しかし,30年前の東京などの都市において,納骨堂は一時的な遺骨の預け先という旧来のイメージ(横田・八木澤 1990:264)であったが,今日では恒久的な利用が一般化している.このように墓地や葬送のあり方は,半世紀足らずで既に異なる様相を呈しており,それらの研究分野ではこうした今日的変化に対して,より一層の注意が必要であると思われる.今後は,大阪府の郊外・農村部にも調査対象範囲を広げることで,納骨堂の増加の地域的特徴を明らかにし,加えて納骨堂を墓地と比較して,その景観的,形態的特徴を考察することを課題としたい.参考文献 横田 睦, 八木澤 壮一 1990. 納骨施設の現状からみた,東京都区部における墓地以外の祭祀空間に関する考察. 都市計画論文集25: 259-264.
著者
原田 歩
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2023年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.244, 2023 (Released:2023-04-06)

1.はじめに 日本の都市はその成立と発展の基礎を都や港町,門前町や宿場町におくなど、その起源は様々である。なかでも近世城下町は、県庁所在地をはじめとする多くの主要な都市の起源となっているため、その空間構造や都市計画の変化などに着目して研究されてきた。近世城下町は、侍町・町人町・寺院地を主要な構成要素とし、各要素の相互関係や配置の変化から支配者層の意図に迫ってきた。 本研究は、城下町を形成する3つの要素の中でも寺院地に着目し、近世城下町の成立から藩政の終焉にかけて,寺院配置の変遷を分析することによって,藩主の都市設計の意図の変化を明らかにすることを目的とする。藩主の治世ごとに寺院の分布図を作成し、藩政や周囲の大名との関係、江戸幕府の支配と関連付け、藩主の意図やその変化の特徴を考察する。 2.近世城下町研究における寺社地の位置づけ 既往の城下町研究では、都市の消費地である「侍町」と生産地である「町屋」を研究対象としたものが多くみられる。その一方で寺社地は、寺院集積地である「寺町」が防御機能を担っていることが指摘されていた(矢守1974;久保2013)。 大阪城下町を事例に寺院と「寺町」型・「町寺」型・「境内」型に類型化し、その役割を考察した研究(伊藤1997)や江戸城下町において寺院が呪術的役割から余暇空間機能に変化したことを示した研究(松井2014)、江戸の明暦の大火後の寺社地と都市構造の変化を考察したもの(黒木1977;岩本2021)など防御的機能に留まらない寺院の役割が明らかになっている。しかし、こうした研究は一事例にとどまっており、今後さらなる事例の蓄積が求められている。 これらの研究は城下町整備が整った後の時代に描かれた絵図を用いて分析されることが多く、城下町形成期の変化を分析することはできていない。 城下町形成期に焦点を当てて分析することは、城下町を整備した藩主の都市計画に迫るうえで有効であり、戦乱の世から泰平の世に移り変わるなかで、軍事的役割が重視された時代から経済活動の場としての役割が重視 されるようになるまでの変化に迫ることが可能となる。 3.名古屋城下町における「寺社地」 名古屋城下町は,1609(慶長14)年,家康の九男義直の居城として,天下普請によって築城された。清須城の軍事的脆弱性や中世以降の無計画な発展に伴う城下町拡大の限界を補う目的で,清洲城に代わる新たな近世城下町として整備された。 他の城下町が中世山城に代わる新たな城として整備されたのに対し,名古屋城下町は近世城下町の代替として整備されたため,あらかじめ家臣団や町人の規模を把握することが可能であり,綿密な計画に基づいて建設されている。 その構造は次のようになっている。町人町が碁盤割で城下の中心に配置され,侍町は町人町を覆うように位置している。寺社地は外延部の特定の場所への集積地および碁盤割の町人町の中心(会所地)に置かれた。 名古屋城下町にみられる寺社地の特徴として,宗派ごとに形成された寺院集積地(寺町)が形成されたこと, 町人町の会所地に寺院が置かれたことが指摘できる。これらの特徴は他の城下町にもみられる特徴(宗派ごとの寺町は広島城下町,会所地の寺院は熊本城下町にみられる。)であり,名古屋城下町における配置意図を明らかにすることは,他の城下町の分析にも示唆を与える。特に、名古屋城下町は複数の寺院集積地を持ち、他の城下町で指摘される防御的機能だけでは説明できない寺院配置がみられる。 そこで前述のとおり,名古屋城下町は清須城からの移転が多く,初代義直と2代光友の治世に多くの寺院が建立されているため、本研究では,この時代に注目し,清洲からの移転寺院,他からの移転寺院,創建寺院と分類し,宗派の特徴や熱田神宮との関係とともに考察する。 参考文献 伊藤 毅1997.近世都市と寺院.吉田伸之編.『日本の近世 第9巻都市の時代』81-128中央公論社. 岩本 馨2021.『明暦の大火「都市改造」という神話』,吉川弘文館. 久保由美子2013.城下町・熊本の街区要素の一考察. 熊本都市政策2:63-68. 矢守一彦1974.『都市図の歴史 日本編』, 講談社.
著者
大竹 あすか
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2021年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.63, 2021 (Released:2021-03-29)

Ⅰ 研究の背景と目的 本発表では,行政機関や民間企業が着目する「ソフト面」における都市計画における課題を,経済地理学者ハーヴェイ(2013)が提示した「都市コモンズ」概念を対象に、スケール論の観点から分析することの意義を明らかにする. 高度経済成長期以降のモータリゼーションを基盤としたハード面重視の都市整備に対する批判として.住民参加の意識や地域ブランド創出など,「空間を利用する」人々を基盤としたソフトな都市計画が推進されるようになった.一方1970年代後半にイギリスで発祥した新自由主義を受けて,日本政府は2000年代以降,公共施設の民営化を推進した.また地方自治体も規制緩和を行い,都市公園の管理を民間企業に委託する事例が増加している. これまでの経済地理学では,民間企業による公的資本の独占が都市空間における公共性を源泉として利益を創出していることを「独占レント」にあたると批判してきた.これらの研究に対して,ハーヴェイ(2013)はコモンズの管理には地理的なスケール分析が必要だと指摘している.そのため,都市空間におけるコモンズが持つ公共性が,民間企業と一般市民の間で、「空間利用の私有化」をめぐるスケールの問題を引き起こしていることを、主に言説により明らかにする必要がある.Ⅱ 研究方法と背景 上記の課題について東京都渋谷区の宮下公園の指定管理者委託過程に関する論争について分析した.宮下公園に関する裁判の記録,宮下公園を管轄する渋谷区議会の議事録,宮下公園を特集した雑誌記事を対象に分析した.あわせて,宮下公園の観察調査を行った.分析するために利用するスケール観点は,地理学の研究を整理した上で,Smith(1984),Jones et al.(2017)が提唱したスケールの複層性とスケールの統合に関する議論を用いた. 宮下公園は,渋谷駅に隣接する都市公園である.2000年代から始まった渋谷駅周辺の再開発の一環として2度にわたり、空間利用が民営化され,現在は三井不動産株式会社が主な指定管理者として公園を管理している.しかし,1度目にナイキジャパンが指定管理者として登場したときに,公園の改修工事中にホームレスの強制排除が行われたこと,宮下公園の命名権に関する入札競争が不透明であったことが裁判や議会で論争となった.Ⅲ 考察 宮下公園の論争に関する分析を通して,地理学者スミス,N.が提示したスケールの複層性に関する理論によって,ある都市空間を形成する主体間の立場の違いを理解できることが可能となった.宮下公園を含む渋谷駅周辺地区は,都市社会学で“user”と定義される公園の利用者や都市住民が,ファッション街を中心としたクリエイティブ産業の拠点として発展させてきた.これは,「若者の街」としてのイメージや,パブリックアート活動などに表れている.宮下公園を媒介として,身体やコミュニティレベルの下位スケールが,都市空間や地域レベルの上位スケールを形成したといえる. しかし公園の管理権限が指定管理者へ移行することで,都市空間の利用のスケールを規定する主導権が都市整備を行う主体に移行することが明らかになった.さらに,公園を管理する民間企業が若者向けの店舗を設置し,宮下公園が持っている交通利便性や渋谷駅の拠点機能,宮下公園の個々の利用者が作り上げてきた場所イメージを利益の源泉としている.この現象は,ハーヴェイ,D.が提唱した「独占レント」とみなせるこの過程で,国や地域などの上位のスケールが,身体,コミュニティ,都市空間のスケールを包括する「スケールの統合」が起きていると捉えられる.表面的にはスケールの複層性が保たれ,都市空間の多様性が利益創出の源泉となっているも関わらず,民営化によりスケールを規定する主体から“user”が疎外されることが明らかになった.
著者
池田 和子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.48-56, 2021 (Released:2021-03-02)
参考文献数
12
被引用文献数
2 2

本研究は,若者の「聖地巡礼」経験の実態を明らかにするため,小山工業高等専門学校1年次生205名へのアンケートを分析したものである.聖地巡礼経験は学生の約4分の1にみられ,未経験の学生も約3分の1は行ってみたいと考えていた.作品はアニメが中心だが,実写なども含まれた.訪問先は東京都区部が特に多く,次いで近隣の北関東が多いが,国外を含め広範囲にみられた.回答者の能動的な訪問では,効率よく回遊できる東京都心が選ばれる一方,地元への関心を背景とした訪問がある.訪問に至る過程は多様で,訪問意思の強さも一様ではない.訪問は作品の熱心なファンによるものだけでなく,他の目的のついでなどでも行われていた.また訪問には映像との関わりが強く,作品の映像美や聖地巡礼動画に触発されていた.若者の「聖地巡礼」は,幅広い関心度と多様な目的で行われる,身近な観光・レジャーといえる.
著者
河本 大地 板橋 孝幸 岩本 廣美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2017年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100045, 2017 (Released:2017-10-26)

Ⅰ.背景と目的 日本では公立学校の統廃合が加速化している。文部科学省による2015年「公立小学校・中学校の適正規模・適正配置等に関する手引」では、学校規模の適正化として、クラス替えができるかどうかが判断基準とされている。また、学校の適正配置として、スクールバス等でおおむね1時間以内を目安にするという基準が加えられた。 へき地小規模校の数は著しい減少には、以下の問題があると考えられる。第一は、地域社会の維持・発展に制約がもたらされることで、従来から多く指摘されている。第二に、通学する児童・生徒に大きな負担を強いる。第三に、へき地に暮らす子どもたちの地域学習の機会の減少・喪失が挙げられる。第四に、自然に即した暮らしの可能性を大きく制限してしまう。 へき地小規模校は、都市部の大規模校ではできない教育実践が多々ある中、それらのアンチテーゼの存在であり得る。また、学校統廃合に関して1か0かの二択ではない適応力と弾力性に富む実践や工夫が地域には存在するはずであり、それらに光を当てることには社会的な意義がある。 本研究では、地域多様性を守り育む学校教育システムとして、沖縄島の北端に位置する沖縄県国頭郡国頭村の事例を把握する。国頭村には村立の小学校が7校、中学校が1校ある。へき地小規模校5校(いずれも小学校)で学ぶ魅力を高めつつ、規模の比較的大きな2つの小学校や1校に統合されている中学校をも含めた教育システムを構築し、学力向上を含むさまざまな成果を出している。それに対し、筆者らの所属する大学のある奈良県をはじめ全国各地では学校の統廃合が進み、1自治体に小学校と中学校が各1校か2校、あるいは併置の形で1校となっている場合も多い。両者は小規模な小学校の維持・発展に関して対照的であるが、学校の統廃合が地域多様性の観点からマイナス要因となることも多い中、国頭村の事例は全国的に持続可能なへき地教育の体系を構築していくためのヒントとなり得る。   Ⅱ.方法 2017年3月に国頭村を訪問し、教育委員会指導主事、各へき地小学校の校長のほか、教職員や児童、地域住民にも随時、地域事情や教育に関する聞き取りを行った。訪問校では、施設の見学や授業参観も実施した。教育委員会では地域学習副読本も入手した。さらに、地域学習で扱われる村内の施設や場所を視察した。 事前・事後には、各校のウェブサイトに掲載されている情報の収集や、国頭村の教育事情や人口・産業・生活等に関する文献資料の収集を行い、発表者間で議論をし、考察を加えた。   Ⅲ.結果と考察 国頭村では、持続可能なへき地教育の体系を実現すべく、地域の持続と子どもの能力向上を図るための多大な努力が払われている。そこにおいて鍵になるのは、各校および各校区の努力のみに任せず、村全体としての教育システムをつくりあげている点である。具体的には、小規模校のへき地教育対策として、近隣の小規模校同士の集合学習や合同学習など日常的な教育活動、児童数の多い小学校2校との交流学習を推進し、子どもたち同士をつなげるさまざまな取り組みが行われている。さらに、子どもたちだけでなく、教育システムを支えるために教員研修も連携して実施され、同僚性の構築が進められている。小規模へき地小学校もそうでない小中学校も含んだ形で、村全体で「学びの共同体」理念を導入し成果を上げている点は、特筆に値する。また、村の公認のもと、多様な学校間連携の形を実現させ、小規模へき地校のメリットの伸長とデメリットの克服を同時に行っている。 国頭村の事例からは、小規模へき地校のよさを活かし地域多様性を持続させるには、各校・校区の自助努力にゆだねるのではなく、行政や教育委員会が小規模へき地校やそれが存在する地域の価値をきちんと理解したうえで、それらを維持・発展させる教育システムを構築することが重要と言える。
著者
大矢 幸久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.92-109, 2023 (Released:2023-04-29)
参考文献数
58

これまで地誌学習において,カリキュラム作成者や授業者によって恣意的・主観的に設定された「地域性」や「地域的特色」を子どもに無批判にとらえさせる危険性が指摘されてきた.本稿では,地域を社会的に生産された構築物としてとらえ,それを吟味・批判し,地域像の再構成や新しい地域像の創造を目指す地誌学習の授業構成を明らかにした.イングランド地理教育研究やジオケイパビリティ・プロジェクトの成果を踏まえると,社会構成主義的アプローチだけでなく,知識の実在性を重視する社会実在主義的アプローチに基づく地誌学習の構想が求められる.検討の結果,学術研究の成果に基づく学問的知識と子どもの生活経験に基づく日常的知識を問いによって結び付けて地理的概念の獲得・伸長を図る「構築物–再構成型地誌学習」の構成原理および授業過程モデルを提起した.

1 0 0 0 OA ピルバラ紀行

著者
藁谷 哲也
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.82-91, 2023 (Released:2023-04-18)
参考文献数
19
著者
長坂 政信
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.239-257, 1988-03-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
14
被引用文献数
1 1

岩手県におけるブロイラー産業は1960年代前半に大船渡市で開始され,その後半には県南地域に波及した.その担い手は飼料資本の地元飼料特約店であり,処理加工場を設立しつつ,地元の生産者を確保するために主に委託契約方式を採用してブロイラー飼養を行なわせた. 1960年代後半から70年代前半にかけ,次第に県北地域へとブロイラー産業は地域的に拡大した.その担い手は地元飼料商のほか,総合商社・飼料資本の子会社,単位農協地元農民など多様であった. 1970年代後半には大手のローカル・インテグレーターを中心に,種鶏・ふ卵場の設置,直営農場によるブロイラー飼養,荷受・卸売部門への進出を通して,生産から販売に至る一貫した自己完結型のインテグレーションを形成し,また飼養農家の強い生産意欲にも支えられて市場競争力を強め,南九州産地と並ぶ日本のブロイラー産業の生産地を確立した. 岩手県のブロイラー産業の主産地を形成している南東部地域と北部地域では,零細農家が収益の相対的優位性を最大の要因としてブロイラー飼養を選択し,また,複数のインテグレーターが地域の農業経営や農家経済の状況に対応して,ブロイラー産業への地域的条件整備の役割を果たしてきたという共通の存立基盤のあることが判明した.
著者
中村 和郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.71, no.3, pp.155-168, 1998-03-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
31
被引用文献数
1

In striking contrast to the long history of general maps, it was not until the latter half of the seventeenth century that thematic maps appeared. A. Hettner, (1927), who fully discussed the unique properties and importance of maps in geography, did not yet use the term “thematic maps, ” but stated instead that new types of maps had been introduced in the nineteenth century. A. Kircher (1665) and E. W. Happel (1685) were among the first thematic map makers. The contribution of E. Halley deserves special mention. His world map of trade winds and monsoons (1686) was the first map which used iconic symbols to depict wind directions, and even the seasonal reversal of the Indian monsoon was well demonstrated. Very few had ever used isolines before Halley, who made a chart of compass variations in 1701. Thematic maps made rapid progress in the eighteenth century, when maps of geology, biology, linguistics, population density, economics, administrative divisions, etc. were made. In the author's opinion, Alexander von Humboldt and Karl Ritter made full use of thematic maps to establish the firm foundation of modern geography. “Sechs Karten von Europa” by Ritter, attached to his book “Regional Geography of Europe, ” was the first printed atlas of thematic maps. An incredible amount of information concerning individual locations on the earth's surface was put into an orderly system of knowledge in the form of thematic maps. By making distribution maps of trees and shrubs and of cultivated plants, he delineated several natural regions which were almost parallel to the latitudinal zones. His famous definition of geography, that is, geography deals with the earth's surface as long as it is earthly filled (irdisch erfüllt), can be well understood through his intention to make various thematic maps, because comparable information must be collected for the whole region to complete a map. Halley's isoline map was followed only by those of Ph. Buache (1752) and J. I. Dupain-Triell (1791) until Humboldt made an isothermal chart in 1817. The isoline map is unique in that it can be made with a limited number of data. Humboldt used only 58 cities to produce his chart of a wide area in the Northern Hemisphere. In addition, isoline maps are also unique in that, once made, interpolation and extrapolation allow determination of the figure for every arbitrary point. With the aid of Humboldt, H. Berghaus, the eminent cartographer, published the “Physische Atlas” which included many thematic maps. It cannot be denied that Humboldt was also very keen to illustrate the regularities of physical phenomena and the interrelationships between them using thematic maps.Scrutiny of the history of modern geography from the viewpoint of thematic maps, discovering what type of map was developed for what purpose, etc., is a promising research area.For example, C. Darwin made a distribution map of coral reefs to test his subsidence theory explaining the formation of three types of coral reef. Emphasizing the shapes that maps can describe better than language, O. Peschel believed that a precisely prepared map could illustrate the hidden factors explaining the formation of fjords and other phenomena. F. Ratzel also recognized the importance of map representation in the science of “Anthropogeographie.” His movement theory was highly appreciated by the Kulturkreis school in cultural anthropology. L. Frobenius developed the culture-complex diffusion theory with the help of a number of thematic maps.K. Yanagita (1930), a Japanese folklorist, assembled more than three hundred parochial expressions for the word “snail” into a map. Identifying a concentric pattern with the center in Kyoto from a seemingly chaotic map, he concluded that the distribution pattern of some Japanese dialects resulted from a slow diffusion from the ancient cultural core.
著者
澤田 康徳 鈴木 享子 小柳 知代 吉冨 友恭 原子 栄一郎 椿 真智子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.40-53, 2023 (Released:2023-03-08)
参考文献数
28
被引用文献数
1

本研究ではGLOBEプログラムを例に,身近な自然環境調査成果の全国発表会に関する感想文から,生徒と教員の発表会のとらえ方および生徒の調査の継続志向の特徴を示した.発表会のとらえ方には,生徒の参加や発表,調査に関する観点が生徒と教員に認められた.発表会の多様性は生徒に特徴的な観点で,日本各地や他の学校の環境およびその認識などを含む.すなわち生徒において全国発表会は,自然環境の認識や理解を日本規模で深める場の機能を有する.また,異学年間の活動の継続を考え今後の活動意欲につながっている.教員において全国発表会は,充実した調査の継続に重要な自校の測定環境をとらえなおす場として機能している.生徒の調査の継続志向は,科学的思考より調査結果や探究活動過程全体,生徒をとりまく人と関連することから,継続的調査に,発表会においてとりまく人などと連関させた生徒の振り返りや教員の測定環境のとらえなおしが重要である.
著者
寿円 晋吾
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.38, no.9, pp.557-571, 1965
被引用文献数
1

武蔵野台地南部は多摩川の形成した段丘地形の発達するところで,上から下に武蔵野・立川・青柳・拝島の四段丘と,拝島以西に発達する沖積段丘が識別される.またこの地域の東部には,武蔵野段丘よりも一段高い田園調布台・荏原台・淀橋台が発達するが,それらは海成段丘で,多摩丘陵東部の下末吉段丘に対比されている.<br> 筆者はさきに,武蔵野台地西部において,立川段丘が武蔵野段丘の上に重なる合成扇状地の地形発達を示すことや,段丘面の縦断投影図において,立川段丘面が武蔵野段丘面や現河床に斜交し急勾配であることに着目し,台地の地盤運動を考察した。すなわち,台地は武蔵野段丘面の形成後から立川段丘面の形成前に,武蔵野段丘面と立川段丘面との交点付近を中心として,上流方向が下がり,下流方向が上がるような傾動をし(両段丘がcrossingterracesをなした原因),また,台地は立川段丘面の形成後から現在までに,上流が下流に対して相対的に上がるような傾動をしている(立川段丘面の急勾配の原因)と考えた.<br> しかし,台地の段丘地形が主として海水準変化によるものか,地盤運動によるものかを考察するためには,まず各段丘面の傾動を定量的に知る必要があると考えた.そこでこの問題を解決するため,砂礫を仲介として,段丘面形成時代の河床(元河床)の距離一高度曲線(縦断曲線)を知る方法を案出し,本研究を行なった.<br> ここにまず,本研究の基礎である多摩川の現河床および各段丘の地形学的観察について述べた。