著者
足立 和成 渡辺 裕二 西脇 智哉 柳田 裕隆
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2013-10-21

本研究では、文化財建造物の健常度調査のためその構造部材内部の異常部を非破壊で可視化する、可搬性があり容易に取扱いができる実用的な超音波音速CT装置の開発を行った。具体的には、①あらゆる音響特性の探査対象に強力かつ鋭い超音波パルスを打ち込める小型音源の設計・製造方法の確立、②超音波の波動性を考慮した画像再構成手法の開発、及び、現場での調査作業を容易にする③堅牢かつ軽量で一体化された超音波音速CT用機器の開発、④調査現場における音波伝搬時間測定の自動化を実現した。しかし、小型強力超音波音源の開発とその装置への組込みと調査現場における画像処理の自動化までは達成できなかった。
著者
志田 惇一 持木 一夫
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 工学 (ISSN:0085834X)
巻号頁・発行日
vol.23, no.1, pp.25-31, 1994-01-31

The characterization of the precipitation in Yamagata prefecture was investigated and discussed. The samples collected every rainfall and snowfall in Yonezawa city from May 1990 to February 1992 were analyzed concerning pH value, electric conductivity (EC) and concentration of major ions (Na+, K+, NH4+, Ca2+, Mg2+, Cl-, NO3- and SO42-). These data were compared with the date observed in Yamagata and Sakata cities. The annual mean pH values of rainfall and snowfall ranged frorn 4.6 to 4.9 and from 4.5 to 5.1, respectively. The lowest pH value Was 3.7 in each city. The total concentration of major ions was very dependent on the amounts of sea salts dissolved in precipitation, and the concentration in Sakata was higher about 4 or 5 times than the one in Yamagata or Yonezawa. It was forecast that a regional difference of pH value between rainfall and snowfall was owing to a washout phenomenon. The equivalent concentration ratio of NO3- to nss-SO42- has been increasing over a long period of time in every city, and it is presumed that nss-Cl- from HCl contribute to acidifying the precipitation, because the monthly mean pH values gradually decreased with an increase in the equivalent concentration of [(NO3- + nss-SO42- + nss-Cl-)] - [(NH4+ + nss-Ca2+)].
著者
大神 訓章 日高 哲朗 内山 治樹 佐々木 桂二 浅井 慶一
出版者
山形大学
雑誌
山形大學紀要. 教育科學 (ISSN:05134668)
巻号頁・発行日
vol.12, no.4, pp.427-440, 2001-02-15

要旨 : 本研究は,日本女子バスケットボールリーグ(WJBL)に所属する12チームを分析対象として,チームの平均身長を数学的手法により数量化・細分化し,それらを身長力として捉え,チームの身長力が戦力及び得点に及ぼす影響について分析したものである。 本稿で捉えたチームの身長力とは,各プレーヤーの出場率を加味し,併せて長身プレーヤーのチームに対する貢献率を考慮して数量化したものである。そして,その身長力について,回帰係数及び回帰直線を求め,その数値及び直線の傾きからチーム戦力を評価し,また,対戦した2チーム間の身長力の差並びに得点比を算出し,戦力比較を試みた。 その結果,チーム身長について,数学的手法による数量化,それに基づく身長力の細分化は,チーム戦力を捉える有効な手段のひとつであると考えられ,算出された数値は,体格的側面からみて,各チームの戦力をより適正に評価し得る数値であると思われる。また,チーム間における身長差と得点比には,高い信頼性と強い相関が認められ,それは,今後のチーム指導の示唆を得るものと考えられる。 The purpose of this study is to analyze the numerical terms on basketball player's height in detail and the effects on fighting power of team. The results may be summarized as follows: 1. Quantification of the baskeball player's height in detai1 can provide an effective means to understand the ability of each team. 2. It is shown that the ability of height can be valued for rate of contribution on strength of team. 3. It is shown that CK and JE are highly scores in S, CK is ah = 8.2, JE is S - ah = 9.7 in regular season, and CK is ah = 11.l, JE is S - ah = 5.2 in playoff, and that the difference in both teams are observed through the different of scores. 4. The regression line was analyzed, are a 2 = 1.68, σ = 5.0, r = 29.8 in regular season, and therefore it is recognized that between the difference of height and the rate of points have reliance and highly correlation.
著者
黒田 昭
出版者
山形大学
雑誌
山形大學紀要. 農學 (ISSN:05134676)
巻号頁・発行日
vol.10, no.2, pp.311-343, 1987-01-20

【あとがき】以上の研究によって,土地分級および地域計画の方法についていろいろな点を明らかにすることができた.そしてこの計画が採決され実施に移されることになると次のような問題の解決に当たらねばならないことになる.まず,今までに述べた分析に直接引きつづく課題として畜産物の集荷と資材供給のネット・ワ一ク,加工工場それらを計画管理する畜産基地,林業基地の建設の計画,道路網の計画,用水確保・排水処理などの関連投資計画の諸問題があり,また開発地への入植者の生活・文化・教育環境,集落形成の問題などがある.もう一つの論議を呼びそうな点は,このような開発計画の実現に際しての問題である.それは土地所有,地価上昇,先回り買占め,土地利用と交通輸送網の選定における観光との競合関係などの問題が潜在していることは当地域としても例外ではないからである.これらの問題の解決策としての地域計画方法については今後の課題として行なわなければならない.本研究は昭和54年,55年度文部省科学研究費助成(試験研究,研究代表 東京農工大学 穴瀬 真教授)によって行なわれた「土地分級体系における評価基準の実証的研究」の分担研究として,その一部を発表している.最後に本研究を遂行するに当って,東北農政局北上地域総合開発調査事務所,岩手県企画部,農林部からは各種報告書およびデータの提供を受けた.また,当研究室の鈴木隆技官および卒論専攻生菊池郁聡,下河辺浩弥,渡部靖雄の諸君の協力を得た.ここに記して謝意いたします.
著者
北川 忠明
出版者
山形大学
雑誌
山形大学法政論叢
巻号頁・発行日
vol.43, pp.92-35, 2008-10-10
著者
高橋 達也 深尾 彰 藤盛 啓成 山下 俊一
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

マーシャル諸島共和国は、34の環礁と火山島が太平洋中部に点在して構成されている島国である。ここでは、合衆国によって1946-58年の間に66回の核兵器実験が行われた。多くの住民は放射性ヨードやセシウムなどを含んだ放射性降下物を呼吸器あるいは消化器からを体内に取り込んだ。この体内からの放射線被曝(内部被曝)による晩期障害として甲状腺がん罹患増加が予測された。そこで1993年から、現地住民の甲状腺検診を開始し4762名の被曝住民のコホートを確立した。そのコホートのベースライン情報を用いた横断研究では、(1)生年がビキニ水爆実験(1954年)以前の年齢層では甲状腺がん有病率が1.5%と極めて高値である、(2)甲状腺がん有病率は被曝推定線量と関連が認められる可能性があるという結果を得た。しかし、低線量被曝晩期効果としての甲状腺がん有病率と被曝量との関連について統計学的に明確な結論を得ることができなかった。この原因の一つが、放射線被爆量推定の精度の低さと考えられた。そこで、本研究ではこのコホートの個人別甲状腺放射線被曝量を推定した。現在のところ、(1)1954年のブラボー実験で被曝したロンッゲラップ環礁住民の被曝線量を基にした簡易推定、(2)各環礁の残留放射性セシウム量を基にした被曝線量率を考慮しないモデルによる推定、(3)各環礁の残留放射性セシウム量を基にした被曝線量率を考慮したモデルによる推定を行った。(1)の推定を用いた研究結果では約5cGyを超える被曝量の集団では明瞭な線量反応関係が得られた。(2)、(3)の推定を用いたモデルでは統計学手に有意ではないが放射線被曝量と甲状腺がん有病率の間に両反応関係を認めた。今後、追跡で得られた総死亡と甲状腺がん罹患を用いた検討を行う予定である。
著者
仁科 浩美 ニシナ ヒロミ NISHINA Hiromi
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 教育科学 = Bulletin of Yamagata University. Educational Science (ISSN:05134668)
巻号頁・発行日
vol.15, no.4, pp.75-92, 2013-02-15

本稿は、口頭発表時における質疑応答に対する理工系外国人留学生の意識と態度について、日本人学生との比較を通し、PAC(Personal Attitude Construct 個人別態度)分析により、「個」の特徴について質的に分析・検討したものである。その結果、同じ群である外国人留学生においても、意識・態度には多様性が見られ、日本語に関わる要因と専門の内容に関わる要因とを日本滞在の時間経過とともに段階的に切り離して捉えている事例や、回答の誤りに気がついたり、適切な回答ができないと判断すると、反論や質問の複雑化を恐れ、対話を「あきらめ」、切り上げる態度を示す事例などが見られた。日本人学生との比較においては、教員の存在に発言を遠慮・躊躇したりする点と、わかりやすい説明を行なうことの難しさを挙げた点で共通するものがあった。他方、留学生独自の特徴としては、質疑応答の受容・産出に対する一定の日本語力や、動転に伴う日本語の忘却や方言の聞き取りへの対応力等、日本語に関して意識・態度が示されている点と、研究に対する社会的関与への意識が特に見られない点が挙げられた。
著者
藤岡 久美子 フジオカ クミコ Fujioka Kumiko
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 教育科学 = Bulletin of Yamagata University. Educational Science (ISSN:05134668)
巻号頁・発行日
vol.15, no.4, pp.9-23, 2013-02-15

本稿は、幼児期・児童期の引っ込み思案に関する最近の研究を概観した。まず、研究で用いられているsocial withdrawal, solitude, shyness, inhibitionなどの用語及び具体的な測定方法から引っ込み思案のとらえ方を整理した。次に、乳児・幼児期の縦断的研究を中心に、乳児期の抑制が幼児期の遊び場面での一人行動に至る道筋に関与する、気質や養育スタイルに関する知見をまとめた。また、幼児期から児童期にわたる長期縦断研究を含む児童期の研究から、引っ込み思案が学校での不適応へとつながる軌跡及びそのつながりに関与する要因について検討した。最後に教育への示唆を述べた。
著者
佐藤 篤
出版者
山形大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2011

グリオブラストーマの治療ではアルキル化剤であるtemozolomide( 以下TMZ と略す) が用いられているが、グリオーマ幹細胞ではTMZ 耐性を与えるDNA 修復酵素のO6-methylguanine-DNA methyltransferase ( 以下MGMT と略す) が高発現しているため、TMZ 治療後も残存し再発につながると考えられている。本研究では1)MEK あるいはMDM2 を阻害によりp53 依存的にMGMT の発現が低下すること、2)MEK 阻害剤とTMZ の併用によって単剤投与よりも有意に細胞死が増強すること、3) マウス頭蓋内腫瘍モデルにおいてMEK 阻害剤とTMZ の併用で単剤投与よりも生存期間が有意に延長することを確認した。本研究の成果は、難治性腫瘍の一つであるグリオブラストーマに対してMEK-ERK-MDM2-p53 経路が新たな治療ターゲットとなる可能性の有効性を示唆するものである。
著者
柴田 洋雄 是川 晴彦[聞き手]
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 社会科学 (ISSN:05134684)
巻号頁・発行日
vol.39, no.1, pp.1-12, 2008-07-31

柴田洋雄氏は昭和44年9月に山形大学人文学に赴任され,理論経済学の科目を主に担当された。平成10年4月から平成12年3月にかけて人文学部長を歴任。平成17年9月には山形大学理事に就任されたのち,平成19年8月31日に勇退された。平成19年9月1日に名誉教授就任。今回は柴田氏の山形大学における38年間におよぶ研究・教育・地域貢献について柴田氏ご自身からお話を伺った。対談は平成20年3月27日に行われ,聞き手は,是川晴彦が担当した。
著者
八月朔日 泰和 後藤 薫 渡辺 雅彦
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

野生型に比してDGKβ欠失マウスの線条体投射ニューロンの棘突起数が減少していることが明らかとなった。また、DGKβとAMPA型グルタミン酸受容体のサブユニットであるGluR2の結合が見出された。DGKεについてはDGKεが小脳プルキンエ細胞樹状突起に発現すること、またsubsurface cisterns内に局在することが明らかとなった。内分泌細胞については、ラット副腎にはmRNAレベルでDGKβおよびDGKεの発現が認められたが、DGKβは蛋白レベルでは副腎には発現していないと考えられた。一方DGKεは、副腎皮質球状帯細胞の形質膜に局在する可能性が明らかになった。
著者
高樹 英明 青葉 高
出版者
山形大学
雑誌
山形大學紀要. 農學 (ISSN:05134676)
巻号頁・発行日
vol.9, no.4, pp.565-572, 1985-01-21

【緒言】チューリップ'GoldenHarvest'は,Multiflowered系統のものを除く他の大多数の品種と同様に,通常1茎に1花しかつけないが,年によって大球では花茎が上部で2~5本に分枝して,それぞれの分校の頂端に花をつける個体がかなり生ずる.この分枝現象は枝咲きといわれ,オランダではみられないが,わが国では問題になっている.枝咲きの発生が夏の涼しいオランダでみられないこと,また,わが国でも発生率が年によりかなり変動することなどから,環境要因とくに夏の高温・多湿が枝咲き発生に大きな影響を及ぼしているのではないかと従来からいわれてきた.著者の1人青葉は,枝咲きの誘起には掘り上げ期までの地温・気温や掘り上げ直後の条件の影響が大きく,貯蔵初期の高温条件がこれらに相加されて枝咲きを誘起するらしいことを前報で示した.本報では,校咲き発生を助長する要因とされている球根の大きいことや球根の高温貯蔵に関して,それらの要因の影響がどのような場合にあらわれやすいのかについて検討した.また,植物生長調節物質と枝咲き発生との関係や球根生産栽培での施肥条件と生産球の枝咲き発生との関係などについても検討した.本報はこれらの検討により'GoldenHarvest'の枝咲き発生に影響を及ぼす要因の種類とそれらの作用様式とを明らかにしようとしたものである.
著者
赤瀬 章 藤浦 建史 今川 順一
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

トレリス栽培されたオウトウを対象にして,三次元視覚センサを取り付けた直角座標ロボットを試作した。収穫ハンドは開閉型,平行リンク型,リング型,カット型を試作した。果実とロボット間の距離は40cmが最も適していた。ほ場試験では,ハンドの位置が果梗からずれる場合があった。そのずれは最大約1cmであり,ハンドの位置決定成功率は57.2%であった。ハンドの位置決定が適正になされた時の各ハンドの果実収穫率は,開閉型と平行リンク型では80%以上であった。リング型ではその直径が果実直径に比して小さかったため0%であった。1本仕立てのオウトウを対象とした収穫ロボットも試作して実験を行った。この栽培様式は側枝を整枝して主幹のみを並木状に栽培するものである。このロボットは,4自由度マニピュレータ,三次元視覚センサ,ハンド,コンピュータ,走行部などで構成した。三次元視覚センサの画像を処理して,果実や障害物の位置を認識し障害物を避けて果実収穫を行うようマニピュレータの軌道を決定した。ハンドは果実を吸着したあと,フィンガで果梗を把持して収穫するものとした。実験の結果,目的外果実をフィンガで把持することがあったため,フィンガの開口幅を小さくして実験を行った。開口幅を小さくすると目的外果実は損傷しなかった。低樹高一本仕立ては,植栽5年目に10a当たり約500kg,7年目に10a当たり約800kgの収量を得ることができた。作業時間は盃状形と比べて,収穫は約3分の2,剪定は約4分の1に抑えられたが,摘芯は約3倍かかった。ポットを用いた加温栽培試験では,休眠覚醒直後(7.2℃以下の遭遇時間が1,400時間)に最低温度5℃から漸次昇温し,5月中旬収穫を目標とするのが効率的と考えられた。
著者
森谷 菜穂子 高橋 加津美 丸山 俊明
出版者
山形大学
雑誌
山形大学高等教育研究年報 : 山形大学高等教育研究企画センター紀要
巻号頁・発行日
vol.4, pp.33-44, 2010-03-31

はじめに 山形大学附属博物館(以下当館と記す)では通年の事業として,特定のテーマに沿った「特別展」と一般市民を対象とした「公開講座」をそれぞれ年に一度開催している。近年,大学法人化にともなって当館にも地域貢献や社会連携の課題が課せられている。このような社会背景や学内環境の変遷のもと,昭和50年代から30年以上にわたって継続されてきたこれらの事業も一大転機を迎えることとなった。本稿は,初めて学外との連携において行なわれたこれらの事業について報告するものである。開催概要については文末の図表1・2にまとめたのでご参照願う。平成19年度の開催当初から3年間,ただただ無我夢中で振り返る暇もなかったが,ここで一区切りつけて反省することによって,高等教育研究機関のひとつであると同時に,地域に開かれた社会教育施設を目指す当館の課題が明らかになると思われる。
著者
川勝 忍 大谷 浩一 和田 正 奥山 直行
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1999

1.レビー小体型痴呆28例とアルツハイマー型痴呆49例、正常対照30例について、XE-133吸入法シングルフォトンエミッションCT (SPECT)により局所脳血流量を測定した。平均脳血流量はDLBではADや対照と比較して有意に低下していた。脳萎縮の程度はアルツハイマー型痴呆と差がないことから、レビー小体型痴呆においては、網様体賦活系など脳幹機能の障害と関連して大脳皮質の血流が低下している可能性が考えられた。部位的には、アルツハイマー型痴呆では側頭頭頂葉の低下がみられるのに対して、レビー小体型痴呆では側頭頭頂葉に加えて、後頭葉での有意な局所脳血流量低下を認めた点が特徴的であった。これは、幻視の出現との関係が推測された。2.次に、アポリポ蛋白E多型について検討し、ε4アリルの頻度は、対照0.07、アルツハイマー型痴呆0.25、レビー小体型痴呆0.17であり、アルツハイマー型痴呆では有意に高く、従来の報告と一致していた。また、レビー小体型痴呆では有意ではないが高い傾向がみられた。これは、レビー小体型痴呆の多くで老人斑アミロイド沈着が広範囲に認められることと考え合わせると、アミロイド沈着促進の遺伝的危険因子であるアポリポ蛋白Eε4が、アルツハイマー型痴呆の場合と同様に、レビー小体型痴呆でも作用している可能性が考えられた。なお、対象のなかレビー小体型痴呆1例については剖検により診断を確定した。3.以上より、レビー小体型痴呆は、画像所見およびアポリポ蛋白E多型からみた遺伝的危険因子において、アルツハイマー型痴呆と共通する病態を有する疾患であることが推察された。
著者
阿部 宏慈 中村 三春 大河内 昌 清塚 邦彦 阿部 成樹 中村 唯史
出版者
山形大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、日本、英米圏、フランス、ロシア(ソ連)等で蓄積されてきた記号論的分析の成果をもとに、視覚表象が優越する芸術諸ジャンル(絵画、写真、映画、マンガほか)とその周辺領域における「リアル」の意義と機能を明らかにすることを目的として実施された。その目的を達成するため、山形大学人文学部人間文化学科の、特に芸術、表象文化論、視覚表象の理論に関わる研究に携わっている6人の研究者がそれぞれの課題にしたがって分担しつつ、共同で研究をすすめた。その中で、阿部宏慈は主としてドキュメンタリー映画における表象不可能性の問題と「リアル」の概念をめぐる理論的研究と分析をおこなった。中村三春は、映画と文学における「リアル」の表象の問題をむしろフィクション映画を対象として研究した。大河内 昌は、英国十八世紀におけるピクチャレスクの美学とリアルの問題の理論的研究をおこなった。清塚邦彦は、写真における「リアル」の問題を、ウォルトンの哲学的分析を中心に研究した。阿部成樹は、ダヴィッドの「マラーの死」をはじめとする新古典主義絵画における「リアル」の表象を研究した。さらに、中村唯史はマンガにおける「リアル」の問題を、特に最新の理論的成果をもとに研究した。如上の研究を通じて、「リアル」の表象に対する基盤を異にするアプローチを突き合わせることによって、表象をめぐる学際的な研究の可能性が開かれたことが何よりも大きな成果である。表象文化論のアプローチを絶えず純理論的な枠組と芸術史に基づく正確な理解に照らしつつ検証することで、分析の精度を高めることができた。
著者
岩田 浩太郎
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 社会科学 (ISSN:05134684)
巻号頁・発行日
vol.34, no.1, pp.81-114, 2003-07-31

In this study, I examine the structure of regional society in Japan in the 18th and 19th centuries. The purpose of this research is to promote the study of regional society, which has been vigorously pursued recently in the field of pre-modern history from the perspective of economic history. It is an examination, in particular, of the manner in which gono (rich farmers involved land ownership, financial business, production and commerce) consolidated and restructured political and economic aspects of regional society. I pursue the study citing as an example the family of Horigome Shiroubei, who lived in Yachi-go, Murayama-gun, in the land of Dewa (the present Kahoku-cho, Nishi-murayama-gun, Yamagata Prefecture). The Horigome family, a large-scale gono (rich farmer) family that held economic sway over the society of the region, undertook wide-ranging business activities while cooperating with village representatives and goyado in Murayama-gun. This research is divided into a number of sections. As part 4 of the research, I report on how the Horigome family conscripted peasants organized as a force in preparation for peasant protests and how it sought to control commercial distribution in Murayama-gun in cooperation with the Shogunate's local administration office and examine the process by which large-scale gono expanded as a political force in regional society. Finally, I outline the various stages of development in the business activities of the Horigome family and raise a number of issues relating to the approach to research in regional society, which has become a focus of attention in this academic field.
著者
関口 武彦
出版者
山形大学
雑誌
山形大学紀要. 社会科学 (ISSN:05134684)
巻号頁・発行日
vol.43, no.1, pp.一-三四, 2012-07-31

Ce qui fut determinant pour parvenir au concordat de 1122 fut la reconnaissance par Calixte II d'un droit royal sur les biens et les droits transmis a l'Eglise.L'entente ne fut possible que lorsque chacun des partis reconnut les droits de l'autre. C'est ce que l'on fit au concordat de Worms, qui assurait a l'Eglise la libre election des prelats, et a l'empereur une influence notable sur ces elections. Heinrich V renoncant a l'investiture par les symboles religieux de la crosse et de l'anneau, les biens temporels se trouvaient nettement separes des biens spirituels. Cette separation repondait a l'accord anglais de 1107. En Angleterre, par le compromis de Londres en aout 1107, le roi renonce a toute investiture par la crosse et l'anneau, mais garde le droit a l'hominium. En Allemagne, en 1122, l'investiture des biens ecclesiastiques se fait par le sceptre, mais, la encore, l'hominium est maintenu. La ratification du concordat de Worms fut l'objet principale du premier concile de Latran qui s'ouvrit le 18 mars 1123. Pourtant, si l'on en croit Gerhoh, chanoine regulier de Reichersberg, le pacte de Worms n'etait pas du gout des gregoriens intransigeants (vieux gregoriens). Ceux-ci auraient manifeste leur desapprobation par le cri non placet. Nombreux sont les canons de Latran I qui visent a renforcer le pouvoir episcopal (can. 2, 4, 8, 16 ). Les reglements particulie rement dignes d'attention, c'est-a-dire canons 4 et 16 visent a consolider, selon les principes de la nouvelle reforme, la structure paroissiale sous le controle des eveques, a affecter la cura animarum par l'ordinaire, a interdire aux moines de remplir, sans etre institues par celui-ci, l'office curial.A la mort d'Honolius II, le 13 ou 14 fevrier 1130, les cardinaux sont profondement divises. Au cours de la meme journee, deux partis de cardinaux se reunirent pour elire et proclamer respectivement leurs candidats. C'est ainsi que Gregoire, cardinal-diacre de S.Angelo fut elu par les novateurs (cardinales novitii) et consacre sous le nom d'Innocent II, tandis que les vieux gregoriens se ralliaient a Pierre Pierleoni, cardinal-pretre de S. Maria in Trastevere, dont la famille etait le plus influente dans la ville, et qui fut proclame sous le nom d'Anaclet II. Les cardinaux novateurs, diriges par le cardinal-chancelier Aimeric, etaient formes dans les ecoles d'Italie septentrionale et de France, et vouaient leurs efforts a la cura animarum, tandis que la plupart des vieux gregoriens provenaient de Rome, d'Italie centrale ou meridionale, eprouvaient de la sympatie pour l'ordre benedictin et esperaient la cooperation avec les normands de Sicile et l'Italie du Sud. A la difference des schismes anterieurs, tranches dans la Curia Romana et dont seuls les resultats avaient ete annonces parmi les prelats du monde catholique, ou des schismes causes par l'intervention des pouvoirs laics, celui de 1130 a ete discute au Nord des Alpes et dans une large couche de clercs et de laics. Ce n'etait pas assez pour le pontife legitime de pouvoir toujours rester dans Rome. Il fallait encore se faire reconnnaitre de la chretiente tout entiere. Le schisme s'eteignit peu apres la mort d'Anaclet (le 25 janvier 1138). Le concile oecumenique de Latran II fut convoque (avril 1139) pour reprendre et completer celui de 1123. Ce n'est pas par hasard que s'accomplit sous le pontificat d'Innocent II un tres important travail du droit canonique. C'est la Concordia Discordantium Canonum (Decretum Gratiani) compilee vers l'annee 1140.