著者
鍾 清漢
出版者
川村学園女子大学
雑誌
川村学園女子大学研究紀要 = The journal of Kawamura Gakuen Woman's University (ISSN:09186050)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.147-176, 2000-03-15

中国大陸でも,台湾でも,客家の人口は決して多くはないが,なぜか多方面に人材を輩出している。中華人民共和国で一1一も尊敬されている中華民国の国父・孫父と,革命に情熱をかけ,若き血を流した黄花山岡七十二烈士の半数以上は客家であった。中国史上はじめて直接選挙で選ばれた台湾総統の李登輝,中国を改革開放に導いた〓小平,シンガポール建国の父,李光耀(リーグァンユー),及び現首相の呉作棟(ゴーチョクトン),フィリピンのコラソン・アキノ元大統領はみな客家の血が流れている。台湾最大野党の前主席・許信良も台湾中歴出身の客家である。そして毛沢東とともに中華人民共和国をつくった朱徳,中国の前首相・李鵬,現首相・朱鎔基,副首相・鄒家華,前共産党総書記・胡耀邦,前国家主席・楊尚昆,四人組打倒の葉剣英元帥等,現在の中国の政治リーダーにも,客家出身者がきら星のごとく肩を並べている。また,歴史上の人物にしても,唐の名宰相・張九齢,名将・郭子儀,宋の兵飛,朱熹,欧陽修,文天祥,明の王陽明,袁崇煥,明末の遺臣で徳川光圀公の師匠として儒学を教えた朱舜水,清の洪秀全,楊秀清,石達開,黄遵憲,台湾抗日義士の唐景〓,劉永福,丘逢甲,呉湯興,徐驤,羅福星,清末抗清義士の鄒容,温生才,朱執信,廖仲〓らはみな客家の出身である。東南アジア等,海外で活躍した人材も多い。なかでも,大唐客長の羅芳伯,東南アジアの巨商・張振勲,タイガーバーム王・胡文虎,ハートヤイ開拓の始祖・謝枢泗,バンコク銀行の陳弼臣,在米フィクサー・陳香梅,マレーシア大蔵副大臣・黄思華,カナダ総督ゴービーンツの母親,ネクタイ王・曽憲梓らがよく知られている。また,著名な文学者の郭抹若,林海音,鍾肇政,音楽家の馬思聡,戴雨賢,映画監督の侯孝賢,サッカーの李恵堂など,枚挙にいとまがない。昨年(一九九九年)十一月四日から七日までクワラルンプールで第十五回世界客家懇親大会が催され,世界各地からおよそ二千人の代表が集った。大会の除幕式の挨拶に立ったマハティール首相は「クワラルンプールの発展史の中でもし華人『カピタン』(英植民地政府が華僑リーダーに贈った尊称)の貢献が歴史に記載されなかったらクワラルンプール発展史は完壁なものではない」と指摘した。とりわけ,客家人がマレーシア政府の部長(大臣)や各団体の要職に多く活躍していることについて高く評価した。たしかにこれらの優れた才能で世人の注目を集めた人々は,記念すべき先達である。本稿はきらめく客家の人物群像から,八名だけ取り上げて,簡単に紹介する。
著者
枝廣 哲也
出版者
東京海洋大学
巻号頁・発行日
2007

東京海洋大学修士学位論文 平成19年度(2007) 海洋システム工学専攻

1 0 0 0 OA 新選歌曲集

著者
岸上操 撰
出版者
博文館
巻号頁・発行日
vol.第1巻, 1891
著者
山本 早紀
出版者
早稲田大学日本語学会
雑誌
早稲田日本語研究 (ISSN:13484796)
巻号頁・発行日
no.30, pp.79-90, 2021-03

図1、2は著作権により公開不可、紙媒体を参照
著者
坂根 茂幸 石井 優 柿倉 正義
出版者
一般社団法人 日本ロボット学会
雑誌
日本ロボット学会誌 (ISSN:02891824)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.382-392, 1986
被引用文献数
10 3

知能ロボットの構成には, センサシステムを装備することがまず第一に必要である.ハンドアイシステムの要求の増加に伴い, ハンドアイシステムをいかに効果的に設計, 構成そして活用するかという課題の解決の重要性が認識されつつある.例えば, ハンドアイシステムの作業教示には, マニピュレータと共に視覚センサのオフラインプログラミングが必要となる.マニピュレータのオフラインプログラミングを支援するためのロボットシミュレータが, 最近, 注目を浴びているが, これに対してロボットセンサのシミュレータに関する研究はまだ殆ど行われていない.<BR>筆者らは, 現在, HEAVENシステムと呼ぶハンドアイ行動シミュレータの開発を行っている.HEAVENシステムは, ハンドアイシステムにおける作業環境の視覚認識と監視を支援する.本論文は, カメラがオクルージョンを回避して適切な画像データを得るように支援するHEAVENシステムの一機能について述べたものである.カメラから最適な視点を選択する問題は, 対象物体モデルの周りに生成する測地ドーム上で視点を評価する問題として設定される.オクルージョン回避空間は, 奥行バッファアルゴリズムにより測地ドーム上の領域として求められる.次に, 測地ドーム上の距離変換によりオクルージョン回避の最適な候補視点が得られる.ハンド装着型カメラを用いたシステムによる実験結果は, HEAVENシステムがオクルージョン回避プラニングに有効であることを示している.
著者
川浪 朋恵
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.89, no.3, pp.118-135, 2016
被引用文献数
2

<p>日本における世界遺産登録は,地域資源の価値の評価と保存・保全への担保という性格だけでなく,地域資源と観光とのより強固な結合という性格も有する.2011年6月に日本で4番目の世界自然遺産に登録された小笠原諸島においても,登録が観光に大きな影響を与えた.本稿では,世界遺産登録前後の観光客について,その数の変化と,属性・観光行動などの質的変化を明らかにした.その結果,登録によって,全国的に知名度が上がり,急激な観光客の増加が見られた一方で,受入数の制限から,観光客の入替わりが起こり,リピーターの減少,初訪問者の増加,一人旅の減少などの属性の変化のほか,滞在の短期化やツアーへの参加率の上昇,トレッキングの人気,物見遊山的な行動など,観光行動も変化した.世界遺産登録は,観光地としての小笠原諸島に強力な付加価値を生み出すとともに,そこに引きつけられる観光客を変化させたことが示された.</p>
著者
古本 泰之
出版者
日本国際観光学会
雑誌
日本国際観光学会論文集
巻号頁・発行日
vol.21, pp.71-76, 2014

Museums are a major attraction in tourist areas in Japan. This study paid attention to tourist areas that have a cluster of museums, and the analysis in this paper found that community activities are a key to making museums attractive for tourists. A case study of the Izu-kogen area, Shizuoka Prefecture, and the Azumino area of Nagano Prefecture found that community activities by both long-time residents and newcomers have promoted the profile of their area and thus played an important role in forming a cluster of museums and making art a tourist attraction.
著者
紙谷 浩喜 佐藤 雄太 藤本 邦洋 梅木 駿太 古原 岳雄 七森 和久
出版者
公益社団法人 大分県理学療法士協会
雑誌
大分県理学療法学 (ISSN:13494783)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-5, 2020 (Released:2020-07-10)
参考文献数
8

【目的】 地域包括ケア病棟における入院患者において,生活機能の改善が高い患者と低い患者において,患者の転帰先に影響を与える要因と担当理学療法士・作業療法士が行った対応方法に関して質的研究法を用いて調査すること.【対象】 対象は2017 年6月~ 2018 年1月に,在宅から入院し当院の地域包括ケア病棟から退院した患者409 名のうち除外基準を満たした202 名とした.【方法】 病院環境におけるFIM 運動項目(以下,mFIM)からFIM effectiveness(以下,emFIM)を算出した.全群におけるemFIM の中央値より高い者を生活機能改善率が高い,中央値より低い者を生活機能改善率が低いと定義した.退院先が自宅でありemFIM が低いもの(以下,自宅低emFIM 群)と,退院先が施設でありemFIM が高いもの(以下,施設高emFIM 群)を調査対象とした.転帰先の決定に重要であった要因と対応方法について担当セラピストより聴取し,分類した.【結果】 自宅低emFIM 群は67 名であった.67 名の転帰先に関する特徴は3種類に分類できた.①病院環境ではemFIM が不十分だが自宅生活が可能な者,②手すりや歩行補助具など物的環境調整によってemFIM が十分となった者,③物的環境を調整してもemFIM が不十分であるが本人や家族の強い希望により自宅に退院した者であった.施設群高emFIM 群2名であった.2名のうち1名は家族関係が不仲,1名は入院前生活以上の介護負担を負えないと家族が判断した.【考察】 自宅低emFIM 群67 名のうち,約9割は適切な物的環境で課題となる動作の評価が重要であった.物的環境,人的環境のいずれにおいても,早期から医療者と当事者の認識の誤差を埋めるような関わり方が重要だと思われる.
著者
三浦 麻美
出版者
中央大学人文科学研究所
雑誌
人文研紀要 (ISSN:02873877)
巻号頁・発行日
vol.89, pp.359-389, 2018-09-30

本稿は中世ザクセン,マンスフェルト伯領における修道院の史料を整理・分析し,伯と修道院の関係性に関する考察を通じ,13~16世紀の女子修道院と貴族家門の霊性を明らかにする。12世紀にドイツの貴族家門が所領と家修道院を中心に発展する中,遅れて13世紀に修道院を創設した伯はどのようにして家門の歴史を形成したのだろうか。『マンスフェルト伯領修道院証書集』の分析で判明した10修道院のうち,伯が創設したシトー会女子修道院であるヘルフタは特に頻繁な所領や貨幣の寄進を受けた。さらに,同修道院のカルテュレールを再現してヘルフタの歴史認識を明らかにし,修道女たちが寄進の対価として一族の故人のために捧げる祈祷をアイデンティティの中心に置いていたことを指摘する。この関係は伯家もしくはヘルフタが危機に陥るたびに更新され,修道院改革とヘルフタのベネディクト会への転属を超えて継続し,死者を中心とした霊性の1つのあり方を示している。
著者
高木 正朗 森田 潤司
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.19, pp.159-201, 1999-06

前近代社会の人々は、今日の開発途上国の国民や未開社会の人々がしばしばそうであるように、頻繁に穀物の不作や飢餓に直面した。一九世紀中期日本の最もひどい凶作(不作)はベーリング海からの寒気の吹き込みに起因する天保の飢饉だった。読み書き能力をもった人々は、この飢饉に関わるさまざまな記録を書き留めたが、こうした甚大な自然災害を精確に復元するために利用できる記録はわずかしかない。例えば、彼らは死亡の概数だけを記したので、現代の研究者がその数値が信頼できるか否かについて結論を下すことは容易ではない。幸いにも大籠の村役人が、仙台藩当局やこの村の近くで商売をしていた商人たちによって貸付あるいは寄付された穀物類、味噌、塩、胡椒、薬そして金銭の数量を詳しく記録していた。この史料は、宗門改帳と平常年の食品ストック書上げとともに使用すれば、飢饉の年と平常年のエネルギー供給量および栄養素供給量を推計することを可能にする。われわれの研究からの事実発見は左記の通りである。(A) 平常年(一八四五)のエネルギー、栄養素供給量。(1) 平年作のもとでは、一人一日当たり二、二三〇 kcalが供給された。(2) 一消費単位一日当たりエネルギー供給量は八二三 kcalだった。(3) 一日一人当たり蛋白質。脂質、炭水化物供給量はそれぞれ九三・八、三九・四そして三七五・一gだった。(B) 飢饉の年(一八三六年一二月から一八三七年五月までの一七七日間)のエネルギー、栄養素供給量。(1) 飢饉の年には、一人一日当たり三二〇 kcalが供給された。(2) 一消費単位一日当たりエネルギー供給量は一一〇 kcalだった。(3) 一日一人当たり蛋白質、脂質、炭水化物供給量はそれぞれ七・五、一・九そして六六・四gだけだった。結局、エネルギーおよび栄養素供給量は、飢饉の時期には平常年に比べ、およそ七分の一程度に急減した。流行性の疫病が人々の死亡に致命的役割を演じたかもしれない。飢餓は死亡数の急激な上昇とともに、出生力の劇的な低下をもたらした。同種の資料が利用できれば、われわれはこれと同じ手法でこうした数値を計算できるだろう。そのためには、比較研究のための良質の資料が必要である。
著者
大和 英成
出版者
東京大学
巻号頁・発行日
1959

博士論文
著者
藤井 律之
出版者
東洋史研究會
雑誌
東洋史研究 (ISSN:03869059)
巻号頁・発行日
vol.59, no.4, pp.607-644, 2001-03-31

The origins of the title Te jin, Lords Specially Advanced, a Tang-era civil service prestige title 文散官 are found in the Han. During the Han, Adjunct Marquises 列侯 resident in the capital were permitted to attend court twice a month (on the first and fifteenth day), and they were awarded the Te jin title, which was the equivalent of that of Counselor-in-chief 丞相, a court rank which was later of the same status to the Three Dukes 三公 in the military hierarchy. The criteria for this court rank were distinguished on the basis of official compensation, from duke 公, minister 卿, grand master 大夫, and serviceman 士 status, and this was at the same time the ritual order. However, with the addition of generals 將軍 to the hierarchy during the turmoil of the Late Han, this ritual order was disturbed. During the Wei, there was a pressing need to reorganize the ritual order and regulate the title of general. Although the earlier status hierarchy was revised to duke, solitaire 孤, minister, grand master, and servicemen, there was no fundamental reform of the system. The succeeding Jin inherited the status hierarchy of the Wei, but by shifting the criteria of status distinction from compensation accorded each office to the rank associated with each office, it was successful in reforming the ritual order. In addition, by establishing a fifth-rank within the nobility that was superior to that of Adjunct Marquis, the Te jin title lost its original function in relation to the Adjunct Marquises and instead became associated with civil officials 文官. Moreover, because the hierarchical order of the Guang lu da fu, Grand Master for Splendid Happiness, whom were paired with the generals became rigidly formalized, the role of the Te Jin title grew increasingly diluted. However, during the Southern Dynasties, the Te jin title played a new role. As can be understood from the fact that one individual who had refused the post of Commander Unequaled in Honor 開府儀同三司, the pinnacle of the hierarchy of the Guang lu da in, was given the title Te jin. The Te jin title was inserted within the hierarchy of the Guang lu da fu. This also marks the beginning of its being the highest rank of the Tang civil service prestige titles. The shift of association of the Te Jin title from Adjunct Marquises to the Guang lu da fu, and its ultimate retention among the civil service prestige titles was due to the fact the functions fulfilled by the Adjunct Marquises in the Han were split between the Generals and the Guang lu da fu during the Wei, Jin, and the period of the Northern and Southern Dynasties and that it conformed to the trends toward the adoption of Tang prestige titles.