2 0 0 0 IR 快さと楽しさ

著者
成田 和信
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-29, 2010

1. 心的事象に関する基本概念2. 快さとは何か3. 楽しさこの論文では,快さと楽しさという,似てはいるが異なる二つの心的事象をとりあげて,それぞれがどのような心的事象であるのかを考えてみたい。 これらの心的事象を解明することは,それ自体で哲学的に興味深いことであると同時に,快楽主義Hedonism を評価するうえで重要である。快楽主義といっても,いろいろな事柄に関する快楽主義がある。たとえば,「人は常に快楽を求めて行為する」という動機に関する快楽主義,「快楽だけが唯一それ自体で価値がある」という内在的価値に関する快楽主義などがあるが,ここで念頭においているのは,幸福に関する快楽主義である。幸福に関する快楽主義とは,「幸福は快楽から構成される」という考え方である。この考え方によれば,人生が幸福かどうかは,そこに含まれる快楽によって左右される。(以後,幸福に関する快楽主義を単に「快楽主義」と略して記す。)だが,何をもって「快楽」とするかによって,同じ快楽主義といっても,その中身が変わってくる。たとえば,快楽として,快さpleasantness だけを考える快楽主義を考えることもできるし,また,L. M. サムナーSumner などが示唆するように(Sumner 1996: 108-109),快さばかりでなく楽しさenjoyment をも含める快楽主義,あるいは,幸福を構成するのは快さではなく楽しさであると主張する快楽主義を構想することもできる。快さと楽しさは,よく似てはいるが,異なる心的事象であり,その相違のゆえに,これらの心的事象のうちどれを「快楽」の中に含めるかによって,快楽主義の評価も変わってくる。したがって。快楽主義をきちんと評価するためには,まずは,快さと楽しさのどこが似ていて,どこが異なるのかを明確にする必要がある。この論文でこれらの心的事象について考察する背景には,このような事情がある。 とは言っても,我われが日常において使用している「快さ」や「楽しさ」という概念は,その輪郭がぼけているために,それらを明確に区別することはとても難しい。にもかかわらず,快楽主義の評価に役立つようにそれらを区別するという目的からすると,それらにある程度の明確な輪郭を与えなくてはならない。このような事情のために,ここで語ることは,我われの日常的な理解と微妙にずれるかもしれない。だが,そのずれをなるべく大きくしない仕方でそれら二つの概念の輪郭を描くことが,この論文の目的である。
著者
ジャケ ブノア
出版者
日本建築学会
雑誌
日本建築学会計画系論文集 (ISSN:13404210)
巻号頁・発行日
vol.71, no.601, pp.211-216, 2006
被引用文献数
3

研究目的と方法 本研究は、丹下健三の建築言説を対象とし、「伝統」と「創造」という、よく知られた彼の概念の根底に「モニュメンタリティ」の原理が潜んでいることを明らかにするものである。「伝統」と「創造」という概念について、丹下は「Michelangelo頌-Le Corbusier論への序説」(1939)の論文で初めて論じている。そして約二十年後、『桂・日本建築における伝統と創造』(1960)及び『伊勢・日本建築の原型』(1962)において、再び論じている。本研究ではこれらを主要な対象とする。丹下の建築言説には、ル・コルビュジェをはじめ彼が影響を受けた近代西洋哲学者(ニーチェ、ハイデッガー、ヴァレリー)が引用されている。そこで本研究では、それらの原典と丹下の解釈との比較分析を通して、丹下の建築言説を解釈する方法をとる。研究内容 「Michelangelo頌」と約20年後の2冊の著作(『桂』と『伊勢』)を比較し、丹下が用いる「伝統」と「創造」の概念の根底に「モニュメンタリティ」に対する丹下の関心があることを示す。近代建築とモニュメンタリティの関係については、ル・コルビュジェ等の近代建築家やギーディオンも関心を示しており、それらの影響と丹下の独自性を以下のように明らかにした。現代建築家としてのル・コルビュジェの独創性は、過去を見習うボザールのアカデミーとも、伝統を無視する他のモダニズム派(バウハウス)とも異なる方法で、パルテノンのモニュメンタリティを参照したことにある。ル・コルビュジェによると、パルテノンは幾何学の秩序と数学の応用の完璧なモデルとされ、その時代の意志を象徴する建物と解されるが、丹下によるとパルテノンのモニュメンタリティは二つの幾何学の様式の完壁なバランスであり、それらは有機的かつ経験的、無機的かつ合理的と解釈されている。この解釈の二重性はヴァレリーによっても説明され、ニーチェが定義したアポロとディオニュソスの概念が元になっている。丹下は日本建築における「伝統」と「創造」の起源を分析するために、この考え方を応用したと考える。なぜなら、伊勢神宮もまた二つの伝統美によって説明されるモデルとし、一つは縄文的なるもの、もう一つは弥生的なるものとしているからである。更にこの考察はsymbol化されたものというモニュメンタリティの原理を丹下に対して新たにもたらした。結論 丹下はミケランジェロとパルテノンに関するル・コルビュジェの言説を分析し、西洋建築の起源であるパルテノン同様、この分析を日本建築の起源である伊勢神宮に適用したことを示した。また、パルテノンと伊勢神宮はともにモニュメンタリティを表現しており、それらが建築を生みだす神話の象徴として、丹下のモニュメンタリティを理解する上で重要な要素であると考えられる。丹下は「伝統」と「創造」に明確な定義を与えず、ブリコラージュ(レヴィ・ストロース、1962)のように、象徴的なイメージと名前を参照しながら、それらに意味を与えていると考えられる。直接に言及されることはないが丹下の真意は建築の起源を理解し、現代におけるモニュメンタリティをデザインすることにある。現代建築家として、常に「伝統」と「創造」の起源に戻り、ゼロから現代のモニュメンタリティを再解釈することが、丹下健三の「伝統」と「創造」の概念に潜むモニュメンタリティの原理と考えることができる。
著者
荒木 慎一郎
出版者
長崎純心大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は教育基本法の教育目的観を、その立案者である田中耕太郎の人格概念に遡って明らかにすることを目的とした。本研究の結果として、先行研究に加えられた知見は次の三点である。第一は田中の教育目的観の出発点が、東京帝国大学法学部長として新入生歓迎講話で述べた人間・政治の究極目的としての「道徳的人格の完成」にあることを明らかにしたことである。第二に、田中の「道徳的人格の完成」に至るまでの思想の変遷を、とくに田中の青年期から出発して、跡づけたことである。田中の青年期の思想をこれまで一般に知られてこなかった二資料、大学時代に友人と翻訳出版した『生ひ立ちの記』、および無教会主義時代に内村鑑三のもとで行った講演「律法の成就」を用いて明らかにしたことはその成果の一端である。第三に、研究の最大の成果は、田中の人格概念がフランスのトマス主義哲学者、ジャック・マリタンの人格理論に大きく依拠していることを実証的かつ論理的に明らかにすることができた点にある。第二次大戦以前から戦後文部大臣を辞任するまで、田中は公に一度もマリタンの名前に言及したことがなく、これまで、教育基本法制定以前の田中とマリタンの関係を主張するには、戦後に書かれた田中の回想、状況証拠および両者の思想の内的関連に基づくよりほかなかった。本研究の結果、フランス・コルプスハイムにあるマリタンの研究センターに、1931年に田中からマリタンに宛てられた手紙が保存されていることが判明した。この手紙には田中がマリタンを知るに至った経緯、マリタンに対する評価、カトリシズムの思想家田中の抱負などが記されており、マリタンの人格理論が田中に与えた影響を実証的に明らかにする上で最大の根拠となった。
著者
藤沢 令夫
出版者
日本西洋古典学会
雑誌
西洋古典學研究 (ISSN:04479114)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.1-19, 1973-03-20

Although Aristotle's view in the Protr. on the nature of philosophy may, generally speaking, be called anti-Isocratic and Platonic in character, this paper, by analysing esp. Frr. 5, 12 and 13, traces Aristotle's real intention in his conception of philosophy as the following: (I) There are two distinct provinces of knowledge (επισγημη=ψρονησιζ) , each of which is different from the other in its function and character, viz., (1) Knowledge that deals with 'nature and the rest of reality' (Fr. 5), i. e. ,'philosophy' (Fr. 13), which is 'theoretical' and 'good' in its proper character (Frr. 12, 13). (2) Knowledge that deals with 'the just and the expedient' or 'the virtue of the soul' (Fr. 5), i. e. 'politics' or 'legislation' (Fr. 13), which is practical and 'useful for our human life' in its proper character (Frr. 12, 13). (II) The relation between (1) and (2) is such that knowledge-(2) requires knowledge- (1) as the basis for its work (cf. προσδεονται ιλοσοψιαζ, Fr. 13) ; the task of knowledge- (2) should be performed 'in accordance with' (κατα) knowledge-(1) ; or the norms by reference to which the task of knowledge- (2) is to be performed should be 'taken from' (απο) nature and truth itself which are the proper objects of knowledge- (1) . The contrast, then, between Aristotle's position in the Protr. and those of Isocrates, Plato, and Aristotle himself in his later treatises may be described as follows: (A) The difference from Isocrates will be obvious to every interpreter since he confines the task of philosophy to the realm of (2) which he thinks can be grasped only as 'doxa' (not as 'knowledge'). (B) While Aristotle in his later years (Eth. Nic. Bks. Z, K, etc.) comes to make a sharp separation of the province of (2) (which alone is called ψρονησιζ and concerned with that which is contingent) from that of (1) (which is called επιστημη and concerned with that which is necessary), he in the Proty. is still making (2) related to (1) (by κατα, απο etc.) and using the term ψρονησιζ to cover both. This must be called a radical difference in the sense that Jaeger once argued. (C) The relationship between the two kinds of knowledge, (meta) physical (1) and ethical (2), may seem to reflect a Platonic character; but in fact it involves an entirely un-Platonic distinction, the distinction, that is, between the good (αγαθον)belonging to theoretical knowledge and the useful (ωψελιμον, χρησιμον) belonging to practical knowledge. And, whereas for Plato Being and Value, knowledge and action, coalesce in the contemplation of the Forms, so that knowledge- (1) is at the same time knowledge- (2), Aristotle in the Protr. is virtually thinking of knowledge- (1) as the proper function of human intellect, of which knowledge- (2) is only secondary and derivative and can in consequence be dispensed with in certain conditions. This difference of thought, which again must surely be considered a radical one, is strikingly shown by comparing two philosophers' descriptions of the state of pure bliss in an ideal life: the life of the gods in 'the place beyond the heavens' (Phaedrus 247 AB) and the life of the inhabitants of 'the Isles of the Blest' (Protr. Fr. 12). In the former passage the Forms of ethical virtue such as 'Justice' and 'Temperance' are mentioned as ones which nourish and prosper the souls of the gods, but in the latter it is said that all the ethical virtues are not present since they are no longer needed and there remains nothing but theoretical knowledge- (1). In submitting these points the present writer departs significantly from the views of I. During, E. de Strycker, S. Mansion, and J. D. Monan as well as W. Jaeger.
著者
石井 宏典
出版者
千葉大学大学院人文社会科学研究科
雑誌
千葉大学人文社会科学研究 (ISSN:18834744)
巻号頁・発行日
no.23, pp.64-75, 2011-09

政治学の経験的手法と規範的手法を架橋する熟議民主主義の試みは政治学の再生を掲げる重要な分野であるとともに、民主主義の形を新たに捉えなおす好機となっている。加えて、民主社会の問題解決を提案する学問である政策科学・公共政策学においても民主主義ともにキーワードとなっている「熟議」は、政策形成の仕組みを捉える点で重要な論点であり、ともに形は違えどもどちらも根源的な学問の存在意義の重要性において接近している。熟議民主主義の思想史的総括を終えて実証的・実態的側面への研究が求められる現在、熟議そのものをどう解釈するかには蓄積された実践例の分析が必要不可欠となる。本稿ではその分析に政策科学分野における一領域である「政策類型論」を用いて、政策の分類・類型化を試みたい。その意図するところは、熟議民主主義思想と実際の熟議事例の対応関係を表すとともに、政策類型により漠然として一括りにされている熟議の質、事実-価値関係と熟議民主主義に親和的な政策分類を捉えることにある。この結果は、政治学においては熟議研究の新しい切り口に、政策科学においては古典とされた政策類型論の理論的拡張と政策形成と熟議の一体化を確認することとなる。この政策類型区分には公共的観点、いわゆる公共哲学の理念を加味しており、「熟議-政策-公共」をつなぐ民主主義の形を構築するその為の一試論としたい。
著者
エゲンベルク トマス
出版者
静岡大学
雑誌
人文論集 (ISSN:02872013)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.A175-A191, 2002-07-31

遺伝子技術と生殖医療は飛躍的な進歩を遂げ、議会やメディアでは権利・倫理・道徳について激しい議論が戦わされている。「〔ドイツ〕連邦共和国の哲学者」(『シュピーゲル』誌)ハーバーマスは2001年の秋、注目を集めた書物でこの論争に参入することに躊躇しなかった。小論の目的は、リベラルな優生学に対抗するハーバーマスの立場を内容的に検討することではなく、ハーバーマスの議論にとって中心的な「自然」と「自由」という概念を批判的に解明することである。換言すれば、「遺伝に意図的に関与することによって、人間の自由は失われる」というハーバーマスのテーゼがなぜ脆弱な土台の上に立っているか、を示すことにある。その際、ベルリンの哲学者ペーター・ビエリが、手がかりを与えてくれる。と言うのも、彼の『自由の手仕事』という直観に溢れる書物は、ちょうど時を同じくして、悲観的なハーバーマスが「自由」を失ったと考えるところでも「自由」はなお存在しうる、という認識に至っているからである。
著者
米虫 正巳
出版者
関西学院大学
雑誌
関西学院哲学研究年報 (ISSN:02892928)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.19-59, 2002-12-10

大学から依頼があり、本文は非公開にした。