著者
安達 聡子 間山 美和 栁澤 理紗 中沢 実
雑誌
第28回マルチメディア通信と分散処理ワークショップ論文集
巻号頁・発行日
pp.169-171, 2020-11-04

本研究では,頻繁に電話ができなくても相手とのつながりを感じ,離れているという不安感を払拭することを目的に,相手の生体情報を抱き枕で再現することで,安心感を得る遠距離恋愛支援システム,HALOPを提案する.相手と時間を合わせることなく,つながり感を感じることができるため海外との遠距離恋愛でも使用することが可能である.
著者
冨士田 裕子 菅野 理
出版者
植生学会
雑誌
植生学会誌 (ISSN:13422448)
巻号頁・発行日
vol.37, no.1, pp.37-47, 2020 (Released:2020-07-07)
参考文献数
21

1. 北海道の汽水湖のうち,オホーツク海に面した濤沸湖,北海道東部地方の火散布沼,藻散布沼,トーサムポロ沼で水草の分布状況調査と塩分濃度等の測定を,カヌーを使用して水上から実施し,塩分濃度と出現水草種の関係について考察した.2. トーサムポロ沼ではアマモ,火散布沼,藻散布沼ではアマモとコアマモが出現し,それ以外の種は見られず,測定した塩分濃度は2.61%から3.15%の範囲であった.3. 濤沸湖では,アマモ,コアマモに加え,8種類の水草が出現した.濤沸湖では湖出口から5 km付近までアマモとコアマモが分布しており,さらに湖出口から遠い地点では発見できなかった.両種は,主に塩分濃度が1%以上の場所に出現していたが,コアマモは塩分濃度の低い場所でも生育が確認された.4. 濤沸湖の湖出口から5 km以上離れた場所では,アマモやコアマモ以外の種が出現し,それらは 塩分濃度1%以下の場所で採集され,種によって出現場所の塩分濃度に差異が見られた.本研究で測定した塩分濃度はいずれの種も,既存報告で示された各種類の出現する塩分濃度範囲内にほぼおさまっていた.汽水湖の水草の分布は,塩分濃度との関係が深く,多くの種が生育している汽水湖ほど,塩分濃度の異なる場所が湖内に存在することが示唆された.5. 環境省は日本の汽水湖として56湖沼をあげており,その内の半数に近い23湖沼が北海道に存在している.23湖沼のうち21の湖で過去の調査情報があるが,近年,調査がなされていない.さらに,情報のない湖も存在することから,北海道の汽水湖での定期的なモニタリング調査を実施することが必要と考えられた.
著者
船引 彩子 田代 崇 林崎 涼 中村 絵美
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2020年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.190, 2020 (Released:2020-12-01)

1. 北海道,静狩湿原 北海道南部,渡島支庁管内山越郡長万部町に位置する静狩湿原は,太平洋(内浦湾)に面した海岸平野に形成された湿原で,北海道の低地に発達する高層湿原の南限とされている. 1922年に「静狩泥炭形成植物群落」として国の天然記念物に指定されたが,1951年の指定解除後は大規模な排水路が湿原内に掘削され,農地化が進んだ.現在でも一部に湿原が残るが,その面積は221ha(1953年)から6ha(1990年)と大幅に縮小している(富士田・橘,1998). 本発表では,空中写真の判読や現地での聞き取り,絵地図などの歴史資料を用い,静狩湿原の地形と歴史の関係を調査した結果について報告する.2. 浜堤列と湿原 1948,1976年撮影の空中写真を用いて静狩湿原周辺の地形分類図を作成したところ,海岸線に沿って南北にのびる3列の浜堤列が確認された.海側の2列の浜堤は標高4〜5m程度で,後背湿地には1951年頃まで浮島が存在しており,静狩湿原の範囲はこの海側の浜堤まであったとされる(富士田・橘,1998).明治初期の絵地図では,浜堤上にアイヌの人々の住居も確認された. 現在の静狩湿原は最も内陸側の浜堤より,さらに西側の地域に限定される.林崎ほか(2020)によると,残存する静狩湿原の泥炭の下位に位置する砂層やテフラからはおよそ3-1kaの年代が得られており,この時期に湿原が形成されたことがわかる. 内陸側の浜堤は3列のうち最も大きなものだったが,1951年以降は砂利採取のため地形改変が進んでいる.隣接する道路面は標高約6m,かつての浜堤内部と思われる地点はそれより約3m掘り下られ,現在は農地に転用されている. また,残存する湿原部分でドローン撮影を行ったところ,開拓当時の暗渠と思われる地形が検出された.長万部町には開拓当時の設計図や暗渠の分布を示す資料が残っておらず,乾燥化が進む湿原をモニタリングしていく中で重要なデータと言える.3.戦後の開拓 静狩湿原では農地転換後,もち米やジャガイモの生産も試みられたが,現在は大部分が牧草地となり,酪農がおこなわれている.経済的効果を期待して行われた戦後の開拓であったが,現在では初期の開拓者の9割以上が静狩湿原を離れている. 湿原の復活・保護を望む声もあったが,1960年代以降の原野商法によって所有者がさらに細かく分かれるなど問題も多く,湿原の復活に向けた動きは道半ばである.引用・参考文献富士田裕子・橘ヒサ子(1998)本国指定天然記念物静狩湿原の変遷家庭と現存植生.植生学会誌,15,7-17.林崎 涼・田代 崇・船引彩子(2020)北海道南部静狩湿原より採取した堆積物中の火山灰と基底砂層の年代に関して.日本地理学会2020年秋季学術大会.
著者
正富 宏之 正富 欣之 富士元 寿彦 増澤 直 小西 敢 藤村 朗子
出版者
一般社団法人 日本生態学会
雑誌
保全生態学研究 (ISSN:13424327)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.1910, 2020-05-15 (Released:2020-06-28)
参考文献数
29

世界におけるタンチョウ Grus japonensis Mlerは、大陸個体群と北海道個体群の二つの地域個体群に分かれる。北海道個体群の道東から北海道北部への繁殖域の拡大を、 2003年から 2015年まで航空機により調査した。北海道の北端宗谷地方には、 1860年ころまで確実にタンチョウが生息していたが、その後 2000年代初頭まで、この種の出現記録はなかった。しかし、地上調査により 2002年に日本海に面するサロベツ原野地区で夏に 2羽を見つけ、翌年から飛行調査を行い、 2004年には営巣活動に続いて 45日齢ほどのヒナも観察した。また、 2006年にオホーツク海側のクッチャロ湖地区で初めて 2羽を目撃し、 2008年には繁殖を認めた。その後、 2014年にサロベツ原野地区で 3番い、クッチャロ湖地区で 2番いが営巣し、 2015年は北限となる稚内大沼地区でも 1番いが加わり、計 6番いが就巣し、宗谷地方の主要繁殖適地における営巣地分布拡大を確認した。その結果、 2004年から 2015年までに、ペンケ沼周辺で 13羽、クッチャロ湖周辺で 9羽の幼鳥が育った。これに伴い、宗谷地方の春 -秋期個体群は 2015年までに最多で 15羽(幼鳥を含む)となり、明確な増大傾向を示した。宗谷地方へのタンチョウ進出は、道東における繁殖番いの高密度化によるもので、収容力に余地のある道北の個体群成長は、道東の過密化傾向抑制(分散化)にとり極めて意義深い。しかし、個体は冬に道東へ回帰し給餌場を利用すると思われるので、感染症等のリスクを抱えたままであるし、 2016年以降の営巣・繁殖状況等も不明である。従って、道東と分離した道北個体群創設や越冬地造成等も含めた効果的対応手段策定のため、道北一帯で飛行調査を主軸とする全体的動向把握を継続的に行うことが不可欠である。
著者
伊藤 毅 渡辺 剛弘
出版者
Japan Wetland Society
雑誌
湿地研究 (ISSN:21854238)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.7-18, 2020 (Released:2020-08-10)
参考文献数
57

近年,過剰捕獲,人工孵化への過度な依存,産卵場所の減少により,サケの保全は危機的状況に置 かれている.サケは自然界の食物連鎖の中で湿原生態系を維持する役割を担うキーストーン種である 一方,人間社会においては,サケは生業としての漁業を成り立たせる重要な資源であり,両方の世界 の健全な将来のために必要不可欠な役割を担っている.本稿では,サケの保全に重要な役割を果たす 湿地に焦点を当て,特に,ラムサール条約で保護された日本最大の湿地である釧路湿原におけるサケ の自然産卵がいかに産業としてのサケ漁業と湿地の豊かな生態系の保全の両方に有用であるかを検証する.最初に,サケの自然産卵を通じた湿原生態系の保護が流域生態系にもたらすポジティブな影響を北米の事例を中心に取り上げ,次に,社会・生態システム分析を用いて,開発が進んだ明治から今日までの釧路地方の発展の歴史の中でサケと湿原を中心とした流域生態系がいかに変化してきたかを検証する.そこから明らかになったことは,林業,酪農,サケ増殖などの近代的産業が盛んになったため,人間社会とサケを中心とした流域環境の間で生態系サービスとスペースをめぐる競争が激しくなり,サケ捕獲のポイントは釧路川上流域から徐々に湿原の中心部そして河口域に移された結果,繊細かつ複雑に絡み合ったサケを中心とした流域生態系が崩れることになった.本稿は,人工孵化への過度な依存を見直し,自然産卵ができる環境とそれを促す社会システムを考えることで,釧路川流域の生態系の再生と地域社会の創生の両方につながることを提示する.
著者
後藤 暁彦 黒木 真理 森田 健太郎
出版者
一般社団法人 日本魚類学会
雑誌
魚類学雑誌 (ISSN:00215090)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.241-245, 2020-11-05 (Released:2020-11-14)
参考文献数
20

A non-native brown trout Salmo trutta (407 mm in fork length, 717 g in body weight) was collected from the Otsukushinai River, southern Hokkaido, Japan, in 2019. This specimen was an immature male (0.4 g in gonad weight). The otolith Sr:Ca ratio profile and annual rings suggested that the specimen had migrated to the sea at the age of 4+ years and ascended the Otsukushinai River in the year of the seaward migration. This study is the first record of invasion of anadromous brown trout through the sea in Japan.
著者
池田,良穂
出版者
日本船舶海洋工学会
雑誌
日本船舶海洋工学会論文集
巻号頁・発行日
no.2, 2005-12

Modern large passenger ships usually have a buttock-flow hull shape with flat stern and large bow flare. Such shapes cause significant variations of the stability in waves. In the present study, measurements of roll motion of a scale model of a large passenger ship of 110,000 GT with such a hull shape in beam regular waves are carried out in a towing tank. The results demonstrate that when the ship has no bilge keels, large parametric rolling with 27 degrees of maximum amplitude appears at about half period of the natural roll period in 5m of wave height. The effects of wave height and roll damping on appearance and magnitude of the parametric rolling in beam seas are experimentally investigated.
著者
永瀬 唯
出版者
研究・イノベーション学会
雑誌
研究 技術 計画 (ISSN:09147020)
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, pp.145-152, 1994-06-30 (Released:2017-12-29)

"Pop-Science" (Popular Science) is a "culture" that does not share the norms of the scientific community. The author believes it was established in the U.S.A. during the 1920s and 1930s when science magazines were published that became the model for the present ones. Several factors have marked the rise of "Pop-Science" the first being the view of technology as "The application of the sciences to the useful arts". The development of electrical engineering by inventors who had not received a university education was another important factor that shaped "Pop-Science". Further, the images given rise to by the so-called "Future Boom" in the 1930s - when much research from industry and academia went along economic policies to stimulate consumption by suggesting images of future cities and consumer durables - were spread by popular science magazines.