著者
倉田 稔
出版者
小樽商科大学
雑誌
商学討究 (ISSN:04748638)
巻号頁・発行日
vol.53, no.1, pp.1-31, 2002-07-25

論説
著者
田村 哲樹 TAMURA Tetsuki
出版者
名古屋大学大学院法学研究科
雑誌
名古屋大学法政論集 (ISSN:04395905)
巻号頁・発行日
vol.280, pp.85-108, 2018-12-25

本稿は、科学研究費補助金15K03273、および部分的に16H03539の成果である。
著者
長田 典子 北村 紗衣 湯澤 優美 斉藤 賢爾 門林 岳史 折田 明子 横山 太郎 木下 知威 森山 至貴 松田 英子 北村 紗衣
出版者
北村紗衣
巻号頁・発行日
2012-04-12

表象文化論学会第4回大会パネル「共感覚の地平 : 共感覚は『共有』できるか?」, 2009年7月5日, 京都造形大学, 京都
著者
奥村 隆
巻号頁・発行日
2003-03-12

報告番号: 乙15597 ; 学位授与年月日: 2003-03-12 ; 学位の種別: 論文博士 ; 学位の種類: 博士(社会学) ; 学位記番号: 第15597号 ; 研究科・専攻: 人文社会系研究科
著者
太郎丸 博
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.52-59, 2010-05-29

本稿では、まず日本では数理社会学が不人気である事実を確認し、その理由を説明する仮説として、リベラル仮説と伝統的公共性仮説を検討する。リベラル仮説によると、社会学者の多くはリベラルであるが、マイノリテイの生活世界を描くことを通して、抑圧の実態を告発し、受苦への共感を誘う戦略がしばしばとられる。そのため、社会学者の多くは抽象的で単純化された議論を嫌う。そのことが数理社会学の忌避につながる。伝統的公共性仮説によると、日本の社会学では伝統的公共社会学が主流であるが、伝統的公共性の領域では、厳密だが煩雑な論理よりも、多少暖昧でもわかりやすいストーリーが好まれる。それが数理社会学の忌避につながる。このような数理社会学の忌避の原因はプロ社会学の衰退の原因でもあり、プロ社会学の衰退は、リベラルと伝統的公共社会学の基盤をも掘り崩すものである。それゆえ、数理社会学を中心としたプロ社会学の再生こそ日本の社会学の重要な課題なのである。
著者
中島 三千男 Nakajima Michio
出版者
歴史科学協議会
雑誌
歴史評論 (ISSN:03868907)
巻号頁・発行日
vol.358, pp.33-58, 1980-02-01

特集・天皇制の現段階と元号・靖国〔追記〕の指示に従い末頁にp.68の一部を収録
著者
菅瀬 晶子 Akiko Sugase
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.4, pp.619-652, 2016-03-31

歴史的にパレスチナと呼ばれてきた地域に建国されたユダヤ人国家イスラエルには,2 割程度のアラブ人市民が居住し,そのうち約8%をキリスト教徒が占めている。ユダヤ教徒やムスリムとは異なり,食の禁忌を持たない彼らは豚肉を食し,この地における豚肉生産・消費・流通をほぼ独占している。そのいっぽうで,豚肉食に嫌悪感を示すキリスト教徒もすくなくはない。聞き取り調査の内容からは,彼らの豚肉食嫌悪は比較的最近生じた傾向であることがわかる。そこにはムスリムやユダヤ教徒の価値観の影響もみられるが,もっとも大きな影響をおよぼしたのはイスラエルによるアラブ人市民に対する政策である。本来豚肉食は,キリスト教徒の主たる生業である農業と密接にかかわっていたが,軍政による農業の衰退や,豚肉食と密接にかかわっていた野豚猟の事実上の非合法化により,キリスト教徒の豚肉食観は大きく変化した。宗教的アイデンティティの根幹に深いかかわりを持っていた豚肉食への嫌悪感の増大は,キリスト教徒としての宗教的アイデンティティの損失をあらわしているといえる。
著者
呉座 勇一
出版者
神奈川大学日本常民文化研究所
雑誌
神奈川大学日本常民文化研究所調査報告 = Maritime History of Kumano : A Comprehensive Study of Koyama Family Papers
巻号頁・発行日
vol.29, pp.115-129, 2021-03-26

色川文書は、那智山西方の山間部の色川郷(現在の和歌山県那智勝浦町色川地区)を拠点とした熊野水軍色川氏に関わる計八通の文書群である。近代から現代にかけて、色川文書の中で最も注目されてきたのは、忠義王発給文書である。忠義王は長禄の変によって吉野で命を落とした南朝の末裔とみなされ、彼の発給文書は貴重・稀少な後南朝文書として関心を集めてきた。一方で同文書は、様式の不自然さから、後世の偽作ではないかと疑われてもきた。本稿では、真偽に関する議論には深入りせず、同文書が近世の地域社会においてどのように受容されたか、また近世の後南朝史研究でいかに扱われたかを解明した。 同文書を後世の偽作と仮定すると、その作成者は忠義王を長禄の変の被害者と認識していなかったと考えられる。後南朝の嫡流とされる自天王の文書ではなく、彼の弟とされる忠義王の文書が作られた不自然さは、文書作成時には忠義王が弟宮と位置づけられていなかったと想定することで解消される。 また奥吉野には南朝関連史跡は存在したが、江戸前期には後南朝関連史跡は未成立で、忠義王の名を知る人もいなかった。吉野に忠義王文書が残っていないのは、このためである。 ところが『大日本史』編纂のための水戸藩の史料採訪が、熊野に残る忠義王文書と、かつて吉野で起こった長禄の変を結びつけた。吉野郡川上郷では自天王・忠義王の位牌が作られ、長禄の変で命を落とした二皇子として両人の名前が川上郷で浸透していく。南朝関連史跡は後南朝関連史跡へと改変された。川上郷が両人に関わる由緒書や旧記を多数作成して先祖の後南朝への忠節を喧伝した結果、後南朝伝説は外部に拡散されていった。これらの伝説は国学者が編んだ後南朝史に採り入れられることで信頼性と権威を獲得し、近代以降の後南朝研究の前提となった。