著者
片桐 弥生
出版者
静岡文化芸術大学
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要 (ISSN:13464744)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.168-176, 2013

『源氏物語竟宴記』は九条稙通が叔父である三条西公条の源氏物語講釈を聴聞し終えたのを記念して、永禄三年(一五六〇)十一月十一日に行った竟宴の記録である。この竟宴では、紫式部が石山寺に参籠し湖上に映る月をみて『源氏物語』を発想した様子を描かせた掛軸がかけられたが、まさしくこの時の紫式部図と考えられる作品が宮内庁書陵部に現存する。本稿では、まず本図が『源氏物語竟宴記』に記載される作品であることを確認したうえで、絵の筆者が土佐光元であると考えて問題ないこと、また本図は江戸時代以降に多く描かれた「紫式部観月図」などと称される一連の作品の規範となる作品であることを示す。加えて本図が飾られた「源氏物語竟宴」の場が、平安時代以来の源氏供養などの『源氏物語』享受の歴史のなかでどのような意味があるか明らかにする。
著者
村木 桂子 ムラキ ケイコ Muraki Keiko
出版者
同志社大学日本語・日本文化教育センター
雑誌
同志社大学日本語・日本文化研究 (ISSN:21868816)
巻号頁・発行日
no.12, pp.109-130, 2014-03

研究論文(Article)唐の玄宗皇帝(685~762)と楊貴妃(719~756)を題材とする絵画は、古代から近世にわたり連綿と描き継がれてきた。とはいえ、玄宗と楊貴妃のイメージ(どのような人物として描くのか)とその目的は必ずしも同じではなく、明らかに時代による変化が認められる。これまでの研究によれば、古代では「長恨歌」に基づいて玄宗と楊貴妃を悲恋の主人公として描くことによって、文学的情趣に訴えることを目的としたり、玄宗が楊貴妃に耽溺する様子を描くことによって、為政者への勧戒とする手段として用いたりした。しかし、近世になると、古代からのものに加えて、『開元天寶遺事』に基づいて、玄宗を栄華を極めた人物として描くことによって、為政者の権威を高める装置として利用されるようになった。ただし、古代と近世をつなぐ中世については、作例が乏しいため、玄宗と楊貴妃がどのような人物として描かれ、その目的は何であったのかについては明らかになっていない。本稿の目的は、中世の数少ない遺品の一つである南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》中の扇面九点の図様と賛文を分析することによって、空白の中世における玄宗と楊貴妃のイメージと目的がどのようなものであったかを明らかにすることである。分析の結果、図様は玄宗の華麗な宮廷風俗を描く近世の作例と構図、モチーフが共通するものの、賛文は古代と同様に貴族に享受された感傷性や信西入道の「玄宗皇帝絵」にみられる栄華の儚さを哀れむ無常観を継承していることが判明した。おわりに、このような不均衡とも言うべき事態は、画を享受する公家や武士は、俗の世界にあって、風俗への嗜好を強めるのに対して、賛を記す禅僧はといえば、聖の世界にあって、旧来の世界観を堅持する傾向があることによって生じた可能性があることに言及する。
著者
村中 明 林 明子 天野 貴司 荒尾 信一 成廣 直正 樋口 真樹子 西村 明久 今城 吉成
出版者
川崎医療短期大学
雑誌
川崎医療短期大学紀要 (ISSN:02873028)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.81-86, 2007

蛍光ガラス線量計をX線診断領域の線量測定に使用することを目的に,その基本特性について検討した.測定値はプレヒートを繰り返し行っても影響を受けず,線量を監視しながらの長期間の積算線量測定が可能であった.自由空間中でガラス素子を直接X線で照射した場合には,素子の線量読取り方向によって約5%の比較的大きな測定値の変動が認められ,ガラス素子内部の線量勾配と蛍光読取り機構のズレが測定値変動の要因の一つと考えられた.繰り返し読取り誤差,読取り方向による誤差,素子の感度バラツキを含んだ測定値の変動は,10mGy程度の線量では変動係数3%以下と良好であった.診断用X線のエネルギー範囲ではガラス素子の感度の変化は小さく,エネルギー補償フイルタ無の素子でも線量評価が可能であった.これらの結果から,蛍光ガラス線量計は患者被ばく線量や外部放射線量の測定評価に大変有用であると考えられた.
著者
細川 武稔
出版者
公益財団法人史学会
雑誌
史學雜誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.107, no.12, pp.2083-2106, 2198-2199, 1998-12-20

In order to better clarify medieval society, its warrior class and what the shogunate was, it is necessary to consider religion. The aim of the present paper is to shed light upon the character of the Muromachi shogunate by examining the residences, temples and shrines of the Ashikaga family. The first shogun, Ashikaga Takauji first lived in Rokuhara (an eastern suburb of Kyoto), then he and his younger brother Tadayoshi built residences in the center of Kyoto, and established a new shogunate there. Tojiji temple was attached to Tadayoshi's residence the Sanjobomon-tei. Aftr his death, Takauji and the second shogun Yoshiakira decided that Tojiji temple would be the patron temple of the Ashikaga family. Takauji and Yoshiakira lived near Tojiji temple, and Gosho-Hachimangu shrine was built at Tadayoshi's Sanjobomon-tei as the guardian of the shogun's residence. Therefore, the whole Sanjobomon area belonged to the Ashikaga family. The third shogun, Ashikaga Yoshimitsu, built his residence, called the Muromachi-dono, in a northern suburb of Kyoto. He also built Shokokuji temple near Muromachi-dono, as the area became much larger than that at Sanjobomon. Yoshimitsu moved the functions of the Ashikaga family temple nearer to him, sponsoring, for example, the Hokkehakko memorial service for the former shogun, at Shokokuji temple instead of Tojiji temple. After building his residence in Kitayama to the north of Muromachi-dono, he sponsored the Hokkehakko in Kitayama. From the reign of the fourth shogun, Ashikaga Yoshimochi, the two temples of the Ashikaga family coexisted. Regardless of where the shogun lived, Hokkehakko was performed at Tojiji temple, while smaller temples of each shogun were built on the grounds of Shokokuji temple. This indicates that the Muromachi shogunate at that time came to assume a double character, one attributable to Takauji's government, the other to Yoshimitsu's.
著者
福島 千賀子
出版者
埼玉短期大学
雑誌
学校法人佐藤栄学園埼玉短期大学研究紀要 (ISSN:13416006)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.172-165, 1997-03-22

天孫降臨に先立って葦原の中つ国に遣わされた天若日子(あめのわかひこ)を、決定的な反逆者に追い込んだのは天佐具売(あめのさぐめ)である。しかし天つ神の印としての弓矢を携えた聖なる特使天若日子が、何故に天佐具売如きものの進言に絶対服従するのか。彼女は昔話の天邪鬼(あまのじゃく)や山姥、トリックスターなどと関連づけて解釈されてきたが、その本来の性格は神の子を守り育てるウバであり、天若日子の先導的役割を果す巫女であったと考えられる。天佐具売を我国の巫女の系譜の上に位置づけて見てゆきたい。
著者
大塚 寿子
出版者
和洋女子大学
雑誌
和洋女子大学紀要 家政系編 (ISSN:09160035)
巻号頁・発行日
no.29, pp.p227-243, 1989-03

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著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1923年06月23日, 1923-06-23
著者
宮下 ひろみ
出版者
仙台白百合女子大学
雑誌
仙台白百合女子大学紀要 (ISSN:13427350)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.67-80, 2007

若年女性の調理能力について、34種の料理について質問紙法による11年間の調査を行った。総合的には、各料理の調理可能者数の割合の推移は各年若干の上下を繰り返しながら、ほとんど横ばい状態か、または緩慢な上昇状態を示し、調理能力の低下は認められなかった。10年前と最近の比較を行うと、多くの料理で最近3年間の調理可能計数の割合が高くなる傾向にあり、しじみのみそ汁、肉じゃが、ちらし寿司、だし巻き卵、きんぴらごぼう、炊き込みご飯、クリームシチュー(ルー不使用)、酢豚では有意な差がみられた。近年、社会で行われている伝えたい料理の調査類の結果からもわかるように、和食のよさの見直しや伝承の必要性が求められている状況が反映されていることが考えられた。仙台白百合短期大学の家政科人学生(11年間の前半)と仙台白百合女子大学の健康栄養学科入学生(11年間の後半)という対象の集団による違いによる34種の各料理の調理可能割合の比較を行った結果、5種をのぞく29種料理において健康栄養学科大学生の調理可能者数の割合が高く有意差が認められた。しかし、調理可他者数の割合が70%を超える料理はカレーライス、チャーハン、みそ汁、に加えオムレツ、市販ルー使用のクリームシチュー、お好み焼き、ハンバーグの7品に限られていた。調理法分類別にみると焼き物の調理可能者数割合は高く、煮物、蒸し物は前回の調査同様低い結果となった。得意な料理については4位までが主食系で占められ、カレーライス、チャーハンの上位2つは本調査における調理可能者数の割合が80%を超える料理と一致した。
出版者
日本刑法学会
雑誌
刑法雑誌 (ISSN:00220191)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.349-396, 2001-04