著者
山田 秀
出版者
熊本大学
雑誌
熊本法学 (ISSN:04528204)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.247-274, 2009-03-20

以下の論述は、固より試論に過ぎないが、ポパー思想のより十全な理解に幾分でも資するとすれば、これにすぐる幸いはない。同時に本稿は又、伝統的自然法論ないし哲学的カトリック社会倫理学への興味の喚起をも狙っている。
著者
鶴岡 賀雄
出版者
東京大学文学部宗教学研究室
雑誌
東京大学宗教学年報 (ISSN:2896400)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.27-37, 1984-02-21

「暗夜noche oscura」という言葉ないしイメージは,十字架のヨハネ全テクストの中でもとりわけ重要な位置を占めている。"Eu una noche oscura / con ansias en amores inflamada / odichosa ventura / sali sin ser notada / estando ya mi casa sosegada (ある暗い夜/愛の思いに これが燃えて/ああ なんという幸せ/気づかれずに 脱れ出た/わが家はもう 静まっていた)",とはじまる,「暗夜」と通称される彼の最も有名な詩の冒頭は,ヨハネの神秘思想全休の出発点であり,またそれの展開する場を開いて行く言葉であると言える。現代的な十字架のヨハネ研究の嚆矢となった大著『十字架の聖ヨハネと神秘経験の問題』において,すでにジャン・バリュジは,この「夜」という言葉をヨハネの「ユニークな「象徴(シンポル)」」とよんで,そこに,彼の著作にふんだんに見られる他の諸々のイメージ,アレゴリー等と区別された特別な重要性を見ている。この「象徴」は,バリュジによれば,それ以外の一般的概念に翻訳不能な,ヨハネの神秘経験自体と不可分なまでに結びついた言葉である。「象徴」という語は,しかし,バリュジの,またその後の様々な言語学的・哲学的考察の努力にもかかわらず,その内容が余りに一般的ないし多義的であって,宗教思想研究のための有効な概念とは未だ十分になりえていないと考えるが,ここでの「夜」という言葉に対するバリュジの着目と評価自体はたしかに正当なものと思われる。そこで,以下小論では,バリュジが「象徴」という語で捉えようとした,「暗夜」という語,イメージがヨハネの著作全休において有する意義を,筆者なりに探ってみたいと思う。これはしたがって,「暗夜」ということに焦点を当てた-しかもとくに,ヨハネの神秘思想の根本構造のごときものが提示されていると考える『カルメル山登攀』および『霊魂の暗夜』のはじめの数章に主に基いた-,筆者なりのヨハネ解釈の試みであるが,それはまた,バリュジにおいてすでにそうであったように,すぐれた意味で「宗教的」ないし「神秘的」とよばれうる言葉の一つのあり方を,その具体的な姿において,捉えてみたいという関心を背景としたものである。そしてこの視点はさらに,神秘家であるとともに詩人でもあったヨハネの研究における大きなプロブレマティックとなっている詩的な言葉と神秘思想との関係の問題とも,必然的に関わって行くこととなる。
著者
小林 潔
出版者
日本スラヴ・東欧学会
雑誌
Japanese Slavic and East European studies (ISSN:03891186)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.87-102, 2004-03-22

O.O.ローゼンベルク(1888-1919年)は、大正時代に来日し漢字研究および仏教研究に従事したペテルブルク東洋学派の日本学者である。仏教学者シチェルバツコイの高弟で、日本語はペテルブルク大学で黒野義文に、ベルリンで元東京大学教授ランゲおよび辻高衡に学んだ。1912年〔明治45年〕に来日。これは師であるシチェルバツコイの意向であった。シチェルバツコイは当時、日本をも含めた各国の研究者と倶舎論(5世紀の仏教書)研究を推進しており、日本に残る伝統的な教学を学ばせるためにローゼンベルクを東京に派遣したのである。留学時の指導教授は姉崎正治、専門の仏教研究では、シチェルバツコイとともに倶舎論研究グループを形成していた荻原雲来が指導に当たった。日本の同僚とも親しくつきあい、また同時期に留学していた同窓の日本研究者ネフスキーやコンラットとも交流を続けている。また、ドイツ東洋文化研究協会(OAG-Tokyo)で仏教論を発表したほか、日本の学界に向けて倶舎論研究上の問題点について問う文書を公開している仏教研究を続ける一方、彼は、外国人にとっても使いやすい用語辞典と漢字典が無いことを嘆き、これらの制作を決意し、日本人と協力しつつ在日中に2つの辞書を実際に刊行した。1つは、仏教研究に必要な術語、日本史、神道の用語を集めた一種のコンコーダンス『佛教研究名辞集』(1916年〔大正5年〕)である。ここでは術語は漢字毎に排列されており、発音を知らない外国人でも検索しやすいものになっている。また、中国語音、対応する梵語術語を掲げ、語の解説に関しては別の然るべき便覧への参照指示がつけられている。もう1つは、外国人にとって日本語学習のネックとなっている漢字を解説した字典『五段排列漢字典』(1916年〔大正5年〕)である。ここで彼は従来の部首引きを批判し、ペテルブルク中国学の伝統に基づいた新たな漢字分類法を提唱、それに基づいて漢字を排列している。これは漢字の図形的要素に注目した分類であった。1916年〔大正5年〕に帰国。ペテルブルク(ペトロダラート)大学でエリセーエフらと日本研究に従事する中で、1918年、日本・中国の伝続的教学の知見と倶舎論研究に基づいて博士論文『仏教哲学の諸問題』を執筆する。ここで彼は、仏教の基本概念である「法(ダルマ)」について詳細な分析を行った。翌1919年に亡命、31歳でレヴァル(タリン)にて死去した。没後、彼の博士論文は、独訳されて世界の東洋学者に影響を与えることとなった。日本の和辻哲郎もローゼンベルクの独訳論文を活用しつつ仏教研究を行っている。独訳からの重訳で日本語訳も刊行され、ローゼンベルクのこの著作は現在の日本の仏教学界でも基本文献とみなされている。ローゼンベルクが提唱した漢字排列方法は、ソ連・ロシアで刊行される中国語辞書で採用され、今日まで用いられている。また、アメリカでもローゼンベルク方式を採用した漢字字典が刊行されている。ローゼンベルク方式は今なお生きているのである。ローゼンベルクは、仏教学及び漢字研究に於いてアクチュアルな意義を有する業績をあげた。この意味でロシア東洋学史上の重要人物である。また、その業績は、在日中の研鑽の結果であり、日露の学者の協同の成果でもあった。日露文化交流史上でも価値ある存在であり、その生涯と業績について更なる研究が侯たれる。
著者
中野 東禅
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.154-159, 2004-09-17

ヒト胚性幹細胞(ES細胞)の医学利用につて、法律はできたが、哲学的な論考が十分尽くされたとは思えない。あっても、浅薄な一般論で、生命の発生段階に立ち入っての人間考察になっているものは少ない。人間の識の構造を考察した仏教の「唯識思想」では、自我を成立させる根源的な能力を「阿頼耶識」という。そこからヒト受精胚は自立した人間かどうかを考察したい。特に生命の最初期の胚は、生命の全体を包含する情報を持つが、いまだ、身体の各機能へと分化してはいない。また、人として「自立」するのは母胎などの必要な環境との互縁で成立するが、その互縁が成立していないのであれば、自立した生命とは言えない。そうした点から可能態としての生命と、部分化して個体として自立する生命とを分けてみる必要があるということを論考したい。

1 0 0 0 情報倫理

著者
今道 友信
出版者
国立研究開発法人 科学技術振興機構
雑誌
情報管理 (ISSN:00217298)
巻号頁・発行日
vol.50, no.10, pp.649-657, 2008

情報倫理についてここでは主として以下の4項目について述べる。1) 日本では古来「情報」はどのように考えられていたか。それは主として初めはただの「知らせ」であったが次第に噂の対極にある「告知」とか「命令」「報告」といった公的権威のあるものとして考えられていた。それゆえ,語に重圧があった。2) 知識社会が情報社会化するにつれて,言語が機械化され,情報は情報機器を介して収集される知識と考えられ,当初は世界中で情報は一般市民にとって受信の対象であった。それが情報機器の普及とともに神話の「隠れ蓑」の実現のようになり,無責任な発信が多くなってきた。ここから,情報機器使用の倫理が情報倫理の新しい部門となってきた。3) 学術情報と情報社会の構造的非倫理性や情報学に関わる倫理の問題が挙げられている。4) 情報倫理に関する本質的考察として,その基礎的命題を論じつつ,エコエティカ(生圏倫理学)との関わりに触れ,情報倫理が空間倫理から時間倫理を,さらに音の倫理を意識させることになった由来などを展開しながら,情報倫理が文明文化の社会における他者意識の覚醒をもたらすこと,それも魂の世話としての哲学の一環であることを述べ,情報倫理の一つとしての否定工学の使命にも言及する。<br>
著者
田中 泉吏
出版者
京都大学文学部科学哲学科学史研究室
雑誌
科学哲学科学史研究 (ISSN:18839177)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.29-42, 2008-01-31

Evolutionary biologists, together with philosophers of biology, build two different, but mathematically equivalent models for a single selection process in a hierarchically structured population. I call one the BPS (broad-sense particle selection) model and the other the MLS (multi-level selection) model, and delineate a distinction between them in terms of parameterization. It is observed that in other sciences scientists employ multiple models to analyze and represent aspects of real-world phenomena indirectly. I argue that the same observation applies to biologists who employ both BPS and MLS models.
著者
伊藤 幸郎
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
no.22, pp.69-75, 2004

What is meant when a doctor says, "You are healthy" after the health examination? Is it possible to diagnose a person to be healthy? In fact, this question comes from a confusion between science and values. Health is not a scientific term but a value-laden, normative concept. So your doctor can only say "I couldn't find any disease," not "You are healthy." Clinical medicine textbooks describe many diseases, but they never give a working definition of "health". There are many diseases to be diagnosed but only one "health." "Health" is unique for each person and stands outside any medical investigations. When one tries to define health he will tend to fall into a circular discussion: Health is an absence of diseases and disease is a lack of health. One typical definition of health has been given by the WHO (1946). The WHO defined health as a state of complete physical, mental and social well-being. Some critics say that the WHO definition merely replaced the word "health" with "well-being." Many philosophers have proposed non-circular, positive definitions of health. However, like the WHO, they eventually fall into theories of happiness, which are very important, but cannot be applied to medicine as science. In contrast to clinical, the textbooks of public health education have rich descriptions of health. Public health officers also stress the importance of health. As shown in the slogan "health promotion," the health and disease of a population is recognized as a quantitative concept which may increase or decrease. In conclusion, health examinations don't diagnose a person as being healthy. All we can do is a massscreening of diseases. The true meaning of health depends on each person's view of happiness and as such, it is not a pure medical problem.
著者
中井 大介
出版者
近畿大学
雑誌
生駒経済論叢 (ISSN:13488686)
巻号頁・発行日
vol.5, no.3, pp.249-272, 2008-03

ヘンリー・シジウィックは,ベンサムやJ.S.ミルに続く「功利主義の伝統の直接的系譜にある最後の哲学者」として知られている。彼の『倫理学の諸方法』についてはこれまでに多くの研究がなされているが,『経済学原理』,『政治学要論』およびこれら著作の相互関係については十分検討されていないのが現状である。本稿の目的は,以上の三著作を通じてシジウィックの功利主義を考察すること,さらには倫理学・経済学・政治学から構成されるシジウィックの哲学体系のパースペクティブを描くことである。
著者
丸 祐一
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.151-163, 2001-02-01

本稿の目的は、アメリカの法哲学者ロナルド・ドゥオーキンが提唱する憲法の読み方「道徳的読解(moralreading)」がどの様な考え方であるのかを明らかにすることである。ドゥオーキンは彼の一連の著作を通じて、法解釈には道徳的な考慮が不可欠であるという主張を繰り返している。その中でも、本稿で取り上げる「道徳的読解」という考え方は、その名称からしても、彼の主張を最も直裁に表していると言えよう。