著者
石原 嘉一
出版者
安全工学会
雑誌
安全工学 (ISSN:05704480)
巻号頁・発行日
vol.49, no.3, pp.155-160, 2010-06-15 (Released:2016-09-30)
参考文献数
3

世界各国で現在,環境の観点等からも鉄道は脚光を浴びており,様々な国・地域において鉄道建設が計画されているが,国際市場への参入において日本の車両メーカーは苦戦を強いられている.その背景には,鉄道システムに関して,システム全体の安全性・信頼性を立証する手法として“RAMS 規格”,“鉄道RAMS”と呼ばれている国際規格(IEC 62278)の存在がある.このRAMS 規格は,今や欧州はもちろんのことアジア等の新興市場においても採用されつつあり,システムアシュアランスアプローチをベースとして,安全性および信頼性などシステムの要求項目を満たしていることを示すことが国際的な共通認識となっている.システムアシュアランスアプローチにおいては,ドキュメンテーションとトレーサビリティが非常に重要であるが,鉄道システムの海外輸出の際には,鉄道RAMS への対応が,今まで以上に強く求められるようになっていくと考えられる. IEC 62278 は機能安全規格の一種であり,IEC 61508 の流れを汲むものである.現在,IEC 61508 は様々な産業分野に展開されている.今後,日本の製造業が技術力に見合った国際競争力を保有するためにも,システムアシュアランスアプローチを確実に効果的に効率よく導入していくことは必須であり,そのためにRAMS 規格・システムアシュアランスアプローチの概要と,そのポイントについて考察する.
著者
西澤 真理子
出版者
THE SOCIETY FOR RISK ANALYSIS, JAPAN
雑誌
日本リスク研究学会誌 (ISSN:09155465)
巻号頁・発行日
vol.19, no.2, pp.2_21-2_32, 2009 (Released:2012-03-09)
参考文献数
44

Media reporting often influences how people perceive risks.Using a content analysis as a method, this paper attempts to investigate acorrelation between newspaper reporting about BSE (bovine spongiformencephalopathy) and risk perception of Japanese consumers about the safety of beef.
著者
小野 道之 竹内 薫 北村 豊 森川 一也 保富 康宏
出版者
筑波大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2013-04-01

Human Hepatitis E Virus (HEV)のカプシドタンパク質が自己会合したVirus-like particle (VLP)は、消化耐性と腸管免疫誘導活性を持つ、食べるワクチンとして注目されている。インフルエンザの共通抗原であるM2エピトープを融合したHEVのカプシドを、果実特異的なE8プロモーターの制御下で発現する遺伝子組換え栽培トマト(Solanum lycopersicum cv. マイクロトム x 愛知ファースト)を作出した。遺伝子組換え植物用の特定網室で栽培することにより、各種の動物実験に資するに十分量の果実を収穫した。
著者
吉原 佑
出版者
一般社団法人 日本生態学会
雑誌
日本生態学会誌 (ISSN:00215007)
巻号頁・発行日
vol.69, no.1, pp.1-7, 2019 (Released:2019-04-11)
参考文献数
56

草原は生態系機能や食料生産の場として極めて重要な生態系である。本稿では、草原の生態系サービスの持続的利用に向け、生態系機能、生物多様性、空間的異質性と撹乱それぞれの関係性について概説する。生物多様性と生態系機能の関係については草原を舞台として世界をリードするインパクトのある研究が展開されてきた。それらの多くは生物多様性が相補性効果等を介して生態系機能の上昇をもたらすことであった。生物多様性と空間的異質性の関係も同様に、概して正の関係がみられるが、これは植物等の環境の空間的異質性が動物に様々な生息地を提供することや、土壌中の資源の空間的異質性が根の競争を介して植物の共存をもたらしていることによる。撹乱はその空間的異質性に影響を与えるが、撹乱体制によってその影響は空間的異質性の創出にも喪失にもなる。したがって、空間的異質性をもたらす撹乱は、生物多様性の上昇を介して生態系機能を促進させる可能性があるが、草原における農地管理のように空間的異質性を損なう恐れも認識しておくべきである。また、環境の変動性が大きい生態系では、生物多様性が必ずしも生態系機能の安定に繋がらないということも認識しておくべきである。
著者
中西 尋子 Hiroko Nakanishi
出版者
甲南大学
巻号頁・発行日
2018-03-31

元来日本はキリスト教が根づきにくい国である。そうした状況にありながら、韓国出自のキリスト教会が日本で宣教を展開し、日本在住の韓国人のみならず、日本人信者も一定程度獲得している事例が見られる。在日大韓基督教会(1908年創立)、統一教会(1954年創立)および「韓国系キリスト教会」(1990年代以降来日)である。本論文の課題は、これらがどのように日本宣教を行い、信者を獲得しているかを問うことにある。 従来の宗教社会学は、これら3教会を別個に性格づけてきた。在日大韓基督教会は「在日の宗教」、韓国系キリスト教会は「ニューカマーの宗教」、統一教会は「反社会的宗教」として。確かにそうなのだが、3者を同じ俎上に乗せることによって新たに見えてくるものがある。申請者の狙いはここにある。 本論文は、以上の問題設定に加えて調査概要、概念枠組みなどを提示する序章に続き、全3部12章および結章で構成されている。 第Ⅰ部「在日大韓基督教会―民族の教会として」では、第1章「民族の教会としての教会形成―在日大韓基督教会を事例として」で、教団機関紙『福音新聞』(1951年創刊)の内容分析を行い、在日大韓基督教会の民族主義的性格を明らかにする。植民地支配下の朝鮮半島から日本に来た人々が受けた差別に向き合う教会の姿勢が鮮明である。 第2章「一世にとっての教会、二世にとっての教会」では、在日一世にとっては教会が日本での厳しい暮らしに耐えるための民族共同体であったのに対して、二世にとってはエスニック・アイデンティティの獲得の場であることを、信者の生活史から明らかにする。 第3章「在日大韓基督教会と韓国系キリスト教の日本宣教のあり方を比較して」は、在日大韓基督教会と韓国系キリスト教会の間に日本人信者の獲得で差があることを、教会での使用言語や民族主義的色合いの有無から説明する。 第4章「韓国系キリスト教会の在日大韓基督教会への加入」では、在日同胞の教団として日本に定着した在日大韓基督教会だったが、現在は牧師の3分の2が韓国の教団から派遣されていること、および、1980年代以降、韓国系キリスト教会が在日大韓基督教会に加入するケースが増えてきたことから、両者がボーダーレスの関係になりつつある現状を報告する。 第Ⅱ部「韓国系キリスト教会群―普遍主義のもとに」は、日本の植民地支配という日韓関係の「負の歴史」を乗り越えて、日本人宣教を精力的に行う韓国系キリスト教会がテーマである。まず、第5章「日本における韓国系キリスト教会の概要」で、これまであまり知られていなかった韓国系キリスト教会の全体像を明らかにする。データソースに『クリスチャン情報ブック』(2010年版)を用いて、当該教会が大都市圏だけでなく38都道府県に分布し、推計300近くもあることをつきとめた。また、1990年前後から2000年代前半にかけての設立が全体の81%にのぼることがわかった。 続く第6章「韓国人宣教師にとっての日本宣教―『汝の敵』『隣り人』としての日本」は、韓国系キリスト教会が活発な日本宣教を行う要因の考察である。キリスト教人口が25%の韓国では牧師が供給過剰であり、それが海外宣教の構造的要因となっている。だが、それだけでは盛んな日本宣教を十分に説明することはできない。韓国では儒教道徳がエートスとして国民の間に深く浸透している。ここで「儒教道徳」とは、ものごとを道徳的な上下関係に位置づける思考様式のことを言うが、これを韓国系キリスト教会も共有していた。韓国人宣教師にとって日本は韓国を侵略した道徳的に劣った国である。しかし、そうした恩讐を越えて日本人に福音を伝える崇高な使命として日本宣教が意味づけられていることを、牧師の語りから明らかにする。 第7章「なぜ日本人が韓国系キリスト教会の信者になるのか」は、日本人が信者になる教化過程の考察である。教会には「7週の学び」、「小グループ(筍)」、「Quiet Time」、など、学びのプログラムが用意されている。新来者はこのプログラムに沿って信仰を強化していくが、この点で日本の教会に物足りなさを感じる人が韓国系キリスト教会にアプローチしている場合が少なくないことを、本章は明らかにする。 第Ⅲ部「統一教会―建前の普遍主義、本音の民族主義」、第8章「韓国社会と統一教会」では次の諸点が明らかになる。第1に、統一教会の性格が韓国と日本では大きく異なっている。韓国の統一教会は宗教団体を越えて巨大な事業体である。第2に、合同結婚式で韓国人と結婚し、韓国に暮らす日本人女性が現在、7千人いることが韓国と日本の統計データから明らかになる。第3に、統一教会による韓国人男性と日本人女性のカップリングが韓国で許容される背後には、韓国農村における男性の結婚難や、男性の非正規雇用率の異常な高さといった社会構造の歪みがある。 第9章「日韓両国における統一教会のあり方の差異―新聞報道の比較から見えること」では、『朝日新聞』と『朝鮮日報』の統一教会関連記事を分析し、両国における統一教会のあり方を比較する。日本では霊感商法が1980年代後半から社会問題化した。『朝日新聞』にはその提訴、判決などの記事が多数見られる一方、『朝鮮日報』にはそのような記事は一切なく、統一教会や教祖の動向、および傘下の関連企業などの記事が多く見られた。統一教会の活動内容が日本と韓国では大きく異なっている。 続く第10章と第11章のデータソースは、合同結婚式を経て韓国で暮らす日本人女性信者38人の語りである。まず第10章「在韓日本人信者の信仰生活」では、彼女たちが韓国で暮らすことの意味づけを明らかにする。教団が決めた韓国人男性と愛情のない結婚をし子供を産むのは、日本の植民地支配を贖罪し、国境と民族を超えた「地上天国」を建設するためだと、彼女たちは語るのだった。 次いで、第11章「統一教会への入信―『女性性』の回復」は、日本人女性信者たちが統一教会に入信し、結婚に至る背後経験の考察である。日本で彼女たちは、結婚と家庭に関して深刻な絶望体験を持ち、職業経験からも「女は損」という感情を抱いていた。女性であることに積極的な意味を見出せない状況で、統一教会に救済を求めていた。そして統一教会で結婚し、子どもを産み育てることに宗教的な意義を見出すことによって女性性を回復できたと、彼女たちは信じている。 第12章「『本郷人』に見る祝福家庭の理想と現実」は、統一教会が発行する在韓日本人信者向けの機関紙『本郷人』の内容分析である。分析の目的は、1つに申請者の調査対象者を相対化すること、2つに教団が在韓日本人信者に伝えようとしているメッセージの解読である。調査対象者たちは現地で比較的平穏無事に暮らしていた。しかし『本郷人』の記事からは夫や子どもの問題、病気、生活苦などで問題を抱える信者が少なくないことがわかる。また、『本郷人』には教団の行事と、そこで語られる教祖や幹部の言葉がつねに掲載されている。それは、日々の生活で精一杯な信者に対し、初心忘れることなく、統一教会の信者として使命を遂行せよというメッセージであった。機関誌『本郷人』は、統一教会の思考の枠組みを維持・強化させる機能を果たしていた。 結章「日韓関係を背景にした三者三様の宣教」では、第1章から第12章までの知見をまとめ、3教会の日本宣教が日韓関係の「負の歴史」を背景に展開されてきたことを確認する。在日大韓基督教会の場合は、戦前の植民地から日本に渡った同胞を対象に宣教を始めた。そして戦後は、同胞の人権問題に積極的に関与することによって民族主義的な性格を強めていった。韓国系キリスト教会の場合は、負の日韓関係を倫理的な上下関係に置き直して宣教を展開する。宣教師にとって日本は「傷ついた隣人」であり、彼らはその隣人を助ける「よきサマリヤ人」の使命感をもって行動している。そして統一教会によれば、日本は朝鮮半島を植民地支配した罪深い国である。日本は贖罪のために韓国にできる限りの人的・財的協力をする事は当然である。こうした信仰を内面化した日本人女性がすすんで韓国人と結婚し、韓国で家庭を営んでいる。 以上のように、韓国出自の3教会は近代日韓関係史をそれぞれの仕方で定義づけることによって日本宣教を可能にしたと言うことができるのである。
著者
木村 定三
出版者
立教大学
雑誌
史苑 (ISSN:03869318)
巻号頁・発行日
vol.3, no.3, pp.220-228, 1929-12
著者
下重 清
出版者
[出版者不明]
巻号頁・発行日
2005-10

制度:新 ; 文部省報告番号:乙2024号 ; 学位の種類:博士(文学) ; 授与年月日:2006/5/16 ; 早大学位記番号:新4277
著者
牧野 利明 大澤 匡弘
出版者
名古屋市立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

ハナトリカブトの根を減毒処理のために加熱加工した生薬である加工ブシの有効成分としてneolineを単離し、その神経障害性疼痛に対する有用性を明らかにしようと試みた。加工ブシ熱水抽出エキスは、指標成分であるbenzoylmesaconine (BM)を0.042%と最も多く含み、次いでneoline 0.026%、benzoylaconine (BA) 0.010%を含んでいた。この加工ブシをラットに経口投与後、経時的に採血し、各アルカロイドの血中濃度を測定したところ、15分後の血中からはその順で高濃度に検出された。一方、9時間におけるBM、neoline、BAの血中濃度曲線下面積は、それぞれ64、65、32 ng/mL・hrと、neolineとBMは同等の値を示したことから、BMと比較してneolineの生物学的利用能は比較的高いことが推測された。市販されている13種類の加工ブシ製剤中のneolineの含量は、0.042 ± 0.016%と高いバラツキがあり、また修治前のウズを減毒のために加熱加工処理しても、neolineの含量は変化しなかった。以上のことから、neolineのトリカブトの根中の含量は、加熱加工(修治)によるものではなく、トリカブトの栽培条件によることが推測された。Paclitaxicelによるマウス神経障害性疼痛に対して、加工ブシ末およびneolineは有意な緩和作用を示したものの、BMは有意な緩和作用を示さなかった。Neolineの作用機序の1つとして、Nav1.7に対するアンタゴニスト作用が認められた。以上のことから、加工ブシの神経障害性疼痛に対する有効成分は、指標成分であるBMではなく、neolineである可能性が示唆された。
著者
杉本 直治郎 御手洗 勝
出版者
日本文化人類学会
雑誌
民族學研究 (ISSN:24240508)
巻号頁・発行日
vol.15, no.3-4, pp.304-327, 1951-03-15 (Released:2018-03-27)

Over 2, 000 years ago the Fu-sang legend appeared in Chinese literature in the form of a treelegend, also having some connection with the sun. The authors, tracing the legend back to its original form, make it clear that its original form must have been a pure sun-legend. The Jo-mu (若木) which was identified with the Fu-sang means a sun-tree, the sound of 若 (^*njiak) being that of 日 (^*njiet), "sun", and both Jo-mu and Fu-sang are associated with the legend of "Ten Suns." As the character of "sang" (桑)="mulberry" in Fu-sang resembles that of "jo" (若=〓) in Jo-mu, there has been a misreading since the Chou period. But 扶桑=扶〓=扶若=扶日 seems to have been the proper series, and the last of the series 扶日 (Fu-jih) is identical with the Fu-jih (拂日 "striking the sun") which is seen in old Chinese documents combined with the Jo-mu (若木). Furthermore, as we have the legend of the Pi-jih (〓日 "shooting the sun") in which the archer I (〓) shot nine suns down out of the ten, the Pih-jih ("shooting the sun") must have been the original meaning of the word Fu-sang (扶桑) which can be identified with the Fu-jih (拂日 "striking the sun"). We find examples of such a rite of invigoration as "helping the sun" in the eclipse or shooting for the same purpose wang shih (枉矢)=huang shih (黄矢), fire-arrow, at the sun not only in the old Chinese documents, but also in modern ethnological literature. The Shantung peninsula was the principal field of activities of I, the hero of the legend of "Ten Suns." The legend itself seems to have derived from the institution of "Ten Days" which was prevalent among the Tung-i (東夷) in Shantung. The authors assume that the Fu-sang legend was first formed among this people and then transmitted southward by the migration of the Ch'u (楚) tribe belonging to the Tung-i. According to Chinese legends, there is the Hsiliu (細柳 "slender willow") in the west where the sun sets, in contrast to the Fu-sang in the east where the sun rises. The epithet hsi ("slender") being added only from the association with the meaning "willow" which the character liu has, the real meaning of the Hsi-liu must lie in the sound liu. While the place where the sun rises in the east is called T'ang-ku (湯谷), the place where the sun sets in the west is called Liu-ku (柳谷). Liu-ku is called also Mei-ku (昧谷), Meng-ku (蒙谷), Meng-ssu (蒙〓), etc. As the liu here is demonstrated to be mei (昧)=meng (蒙)=an (暗)=yin (陰), meaning "dark, " the Liu-ku must be Mei-ku=Meng-ku=Meng-ssu=An-ssu (暗〓)=Yin-ssu (陰〓), "the valley wherein the sun sets, " opposite to the T'ang-ku (湯谷)=Yang-ku (陽谷), "the valley from where the sun rises." Therefore, the proper meaning of such a name as Yen-tsu (〓〓) where the sun sets, which has been a riddle to sinologists, is Yin-ssu (陰〓), the valley wherein the sun sets. The Hsien-ch'ih (咸池) and Kan-yuan (甘淵), in which the sun is said to bathe, are also respectively nothing else than the An-ch'ih (暗池)=Yin-ch'ih (陰池), "the pond in which the sun sets, " and An-yuan (暗淵), "the deep in which the sun sets."
著者
久保田 淳
出版者
日本学士院
雑誌
日本學士院紀要 (ISSN:03880036)
巻号頁・発行日
vol.73, no.3, pp.139-150, 2019 (Released:2019-04-12)

My hypothesis that there is some connection between “ma” (space or pause),which has been considered important in classical Japanese literature and arts, and “yūgen” (ethereal beauty), an often-discussed aesthetic principle thereof. To prove this hypothesis, I examined what interests the authors have in “sukima”, a form of “ma”, how effectively they express it, and what intentions they have, using waka poems, karon (poetic treatises), and monogatari (narratives) as examples. The works I cited are as follows: waka poems from the Man’yōshū, waka poems composed by poets of the Heian period, Genji monogatari (The Tale of Genji), Mumyōshō (a poetic treatise by Kamo no Chōmei), Tsurezuregusa (Essays in Idleness, a collection of essays by Yoshida Kenkō), and Kosunoto (a jiuta song of the Edo period). Furthermore, I introduced the criticisms made by Masaoka Shiki in his Utayomi ni atauru sho (Letters to a Tanka Poet), and the examples of usage of the word “yūgen” in Natsume Sōseki’s novel Kusamakura. Also, I argued that there is a connection between “yūgen” and “iki”, an aesthetic principle of early-modern Japanese literature and arts advocated by philosopher Kuki Shūzō in his book “Iki” no kōzō (The Structure of “Iki”), although the two notions appear to be quite distant from each other.
著者
平本 嘉助
出版者
The Anthropological Society of Nippon
雑誌
人類學雜誌 (ISSN:00035505)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.221-236, 1972 (Released:2008-02-26)
参考文献数
36
被引用文献数
20 22

関東地方の縄文時代より近代初期まで,各時代人の平均身長を推定し,これに既発表の現代人の生体計測による資料を加えて縄文時代より現代までの身長の時代変化を検討した.繩文時代より近代初期(明治維新より1900年まで)までの各時代人の推定身長は大腿骨をもちいた身長推定式によって算出した.推定式は藤井(1960)の報告による大腿骨最大長の身長推定式をもちいた.結果は男女ともに繩文時代人より古墳時代人が大きく,以降,鎌倉時代,室町時代,江戸時代,そして近代初期へと順次身長が低下してきたことが推測される。そして現代においては急激な身長の増加が生じている.また現代人の身長は古墳時代人よりも大きくなっている.
著者
歴史研究会 著
出版者
田中宋栄堂
巻号頁・発行日
vol.尋常6年用, 1912
著者
岡﨑 一
出版者
首都大学東京人文科学研究科
雑誌
人文学報 表象文化論 (ISSN:03868729)
巻号頁・発行日
no.514-10, pp.13-60, 2018-03-20
著者
隠岐 さや香 OKI Sayaka
出版者
名古屋大学大学院人文学研究科附属超域文化社会センター
雑誌
JunCture : 超域的日本文化研究 (ISSN:18844766)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.18-32, 2019-03-25

Mr. Osomatsu (Osomatsu-san) is a Japanese anime comedy series (2015–2018) based on Akatsuka Fujio’s manga series, Osomatsu-kun (1962–1969). The anime features more adult-oriented humor compared to the original manga, as it follows the lives of the sextuplet Matsuno brothers, who have fully grown up into lazy NEETs. The anime series attracted young female audiences with its character designs and its comical but delicate portrait of the everyday relationships among the brothers. The purpose of this study is to examine and explain the queer elements apparent in this series, including its bromance and accompanying incestuous connotations, human/non-human romantic relationships, and polyamorist desire between the sextuplets and the heroine, Totoko. We can find similar elements in Akatsuka’s canon, which adopts a “nonsense gag manga” style marked by a fascination with the transgression of rules. However, it is clear these elements take on different meanings in Mr. Osomatsu, with its very satiric description of today’s neoliberal market society, which excludes the Matsuno brothers from any kind of stable social relationship except with their own family. We see these queer relationships are indeed forced options for them in place of a heteronormative romantic love out of the brothers’ reach, but at the same time they make us look at a certain strategy to challenge the neoliberal norm of masculinity, to be an economically independent man capable of living a heteronormative family life. In this regard, Akatsuka’s gag heritage almost merges with the act of queering, and allows us to look into the diversities and the difficulty of masculinity in today’s Japanese society.