著者
稲岡 大志
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2010, no.61, pp.165-179_L10, 2010 (Released:2011-01-18)
参考文献数
16

In this paper, we examine Leibniz's critique of Euclidean geometry and show what the point of his critique is. Leibniz thinks that, for the human mind to acquire geometrical ideas which have their origin in God's intellect, the use of symbols is essential. By Leibniz's theory of expressio, there is a structural isomorphism between the symbol system and the world. So we can acquire an eternal truth by using symbols. In Euclidean geometry, diagrams are used as symbols to introduce geometrical objects, but there is a difference in a precise sense between a diagram which is actually described and a geometrical object as an abstract object, so imagination must abstract this microscopic difference somehow. But, to acquire an intended geometrical object from a given diagram, we must in advance capture it by means of some kind of intellectual intuition. However, Leibniz rejects ideas acquired by intuition. So, he must discard diagrams as symbols capable of introducing geometrical objects appropriately.In fact, criticizing Euclidean geometry, Leibniz recognizes the role and importance of symbols in geometry and becomes keenly aware that diagrams are not capable of introducing geometrical objects. In analysis, Leibniz readily permits abstraction by imagination and he is thereby able to solve many mathematical problems. However, in geometry he cannot use diagrams in this way, for we cannot solve even an easy geometrical problem without expressing the geometrical object appropriately. This means that Leibniz realizes that between geometry and other areas of mathematics there is an essential difference in the function of imagination.Traditionally, Leibniz's critique of Euclidean geometry is interpreted as a kind of technical critique. But, the key point of his critique is that using diagrams as means of introducing geometrical objects involves a difficulty which is not solved in the framework of Leibniz's theory of knowledge based upon symbols and the theory of expressio.Finally, we discuss some features of Leibniz's characteristica geometrica [geometrical character], which he developed in order to overcome the defects of Euclidean geometry.
著者
坂本 頼之
出版者
国士舘大学哲学会
雑誌
国士舘哲学 = Kokusikan tetsugaku (ISSN:13432389)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.75-89, 2018-03-20

本稿は「海保青陵「談五行」訳注稿 (1)」(『国士舘哲学』第十九号 平成二十七年三月)「海保青陵「談五行」訳注稿 (2)」(『国士舘哲学』第二十号 平成二十八年三月) 「海保青陵「談五行」訳注稿 (3)」(『国士舘哲学』第二十一号 平成二十九年三月) に続き、江戸時代の漢学者海保青陵 (1755~1817) の「談五行」の訳注を試みたものである。
著者
ブライシュ エリック 冨増 四季 駒村 圭吾 奈須 祐治 東川 浩二 Erik Bleich Tomimatsu Shiki Komamura Keigo Nasu Yuji Higashikawa Koji
出版者
金沢大学人間社会研究域法学系
雑誌
金沢法学 (ISSN:0451324X)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.165-261, 2018-07

1. シンポジウム『ヘイト・スピーチはどこまで規制できるか』 企画・司会 東川浩二2. 基調講演「ヘイト・スピーチとは何か」 エリック・ブライシュ/ 東川浩二(訳)3.「ヘイトスピーチ事案における不正行為法・填補賠償法理の担う役割の再評価~京都・徳島事件を題材に、反差別(差別被害への共感醸成)の運動展開の文脈において」 弁護士 冨増四季4. ヘイトスピーチ規制賛成論に対するいくつかの疑問 ー憲法学的観点、政治学的観点、哲学的観点のそれぞれからー 駒村圭吾5. ヘイト・スピーチと「公の施設」 川崎市ガイドラインを素材として 奈須祐治
著者
伊吹 友秀 児玉 聡
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.17, no.1, pp.47-55, 2007
参考文献数
52
被引用文献数
1

昨今、デザイナー・ベビーやスポーツにおけるドーピングなど、医科学技術のエンハンスメント的な使用に対する倫理的な懸念が高まっている。だが、「エンハンスメントとはそもそも何なのか」という議論が十分になされているとはいいがたい。そこで、本研究では、1)「エンハンスメント」という語の用いられ方を系統的な文献調査によって明らかにし、これを基に、2)「エンハンスメント」という語の整合的な定義はどのようなものか、3)その様に定義された場合に、エンハンスメントに対するさまざまな懸念に対してどのような含意があるのかということを考察した。その結果、エンハンスメントとは治療の対概念と定義されることが多く、治療との区別の仕方には、a)医学的な区別、b)政治哲学的な区別、c)社会学的な区別の三種類があることが明らかになった。しかし、そのいずれも欠点を抱えており、治療とエンハンスメントを判然と区別するには至らないことを示した。他方、治療とエンハンスメントの区別を重要視しない立場には、保守的なものとラディカルなものに分類されることを示したが、これらはいずれも直観との不整合が見られた。これらの結果より、エンハンスメントと治療は概念的な連続性があること、そして、エンハンスメントは、「医科学的介入のうち、医療の目的にあまり強く合致しない改善目的の介入」と定義すると整合的であることを示唆した。その上で、エンハンスメントに対して向けられている懸念は、医科学技術全般に対して当てはまる懸念であり、本来は治療にも当てはまる懸念であるが、治療は医療の目的をより強く満たしているためにその懸念が相殺されていると論じた。
著者
奈良 和重
出版者
慶應義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.47, no.8, pp.90-92, 1974-08

紹介と批評表紙の記述: M・マルコヴィッチ著 『豊かさから実践へ : 哲学と社会批判』
著者
高橋 昌一郎
出版者
日本物理教育学会
雑誌
物理教育 (ISSN:03856992)
巻号頁・発行日
vol.50, no.2, pp.103-107, 2002
著者
加藤弘之 著
出版者
哲学書院
巻号頁・発行日
1894

2 0 0 0 OA 哲学と宗教

著者
宇都宮 芳明
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1995, no.45, pp.33-46,2, 1995-04-01 (Released:2009-07-23)

Kant versuchte das durch die Vernunft auszuführende Philosophieren mit dem religiösen Glauben in seinem Leben zu vereinigen, indem er den "Vernunftglauben" annahm and alle seine praktische Philosophie aus diesem Glauben entwickelte.Kants Vernunftglaube, der aus der Quelle der moralischen Gesinnung entspringt, bedeutet einerseits den Glauben an die reine praktische Vernunft, die uns die moralischen Gesetze vorschreibt, and andererseits den Glauben an den Gott, der uns die Gluckseligkeit der Moralität genau angemessen austeilt. Nach Kants Auffassung ist die Religion"die Erkenntnis unserer Pflichten als göttlicher Gebote" (nicht "die Erkenntnis göttlicher Gebote als unserer Pflichten"), so ist die Autonomie der praktischen Vernunft mit dem Glauben an Gott ohne Widerspruch vereinbar.
著者
山内 友三郎
出版者
大阪教育大学
雑誌
大阪教育大学紀要. 第Ⅰ部門, 人文科学 = Memoirs of Osaka Kyoiku University (ISSN:03893448)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.71-82, 2017-02

西洋近代主義(Western modernism)は人間と自然を分ける二元論であって,人間による自然と先住民支配を本質とする「人間中心主義」(anthropocentrism)に陥っている,--というのは現代の環境倫理の定説である。これが地球環境危機を惹き起こした思想的原因と考えられている。西洋近代主義の二元論に絶望した環境倫理学者は,東洋思想の「自然と人間を分けないで一体と見る一元論」(ないしは全体論)に注目するようになった。こうして西洋的二元論と東洋的全体論の対立が生じて,両者を統合するような哲学は未だ現れていないような状況である。1)日本儒学の主流では--西洋的二元論,東洋的一元論に対して--第三の道として,人間が自然に働きかけて自然を豊かにする,という思想があった。筆者はこの思想を「天地の化育を賛く」という儒教(『中庸』)に由来する日本思想の主流の一つとみて,この思想を地球的・人類的規模にまで拡張して再構成する試みを続けてきたが,その試みの一つが本稿に他ならない。叙述は次の順序で進められます。序 徳川の平和と西洋近代主義, I 加藤弘之の人権新説, II 和辻哲郎の世界国家の説, III 普遍的道徳はあるのだろうか, IV 西洋近代主義の崩壊と梅原猛の人類哲学, V 新・人類哲学の構造。Today's environmental crisis and the threat of war have made an global ethics necessary and even urgent. My trial in this paper is in the creation of an integral philosophy of humanity that should synthesize the philosophies of East and West. My strategy is mainly in the using Hare's method of dividing levels of moral thinking into two; that is, intuitive and critical. While Hare excludes the human moral concern for nature from his ethical system, Leopold's land ethic asks people to change the role of humans from a conqueror of nature toward a simple member of the land community. I tried in this paper to found Hare's two level utilitarianism on the basis of Leopold's land ethic; thus creating three levels of moral thinking. Applying this three level theory (that I call three level eco-humanism), I compare the traditional Japanese philosophy with Western modernism to find the way of combining both philosophies.
著者
柴田 依子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.巻末5-7, 2004-12

一九世紀後半に日本の美術・工芸品が輸出されてジャポニスムの流行をもたらし、フランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えた。その流行が終わる頃の二〇世紀の初頭に、俳句(俳諧)はヨーロッパに紹介された。 その先駆者の一人であるポール=ルイ・クーシュー(①879-1959哲学者、精神科医)が、青年期に「世界周遊」の給費生として来日(一九〇三―一九〇四)し、俳句をフランスへ移入してから、本年二〇〇四年は一〇〇年を迎える。帰国後、クーシューは最初のフランス・ハイカイ創作の小冊子(一九〇六)を友人とともに出版した。翌年には俳句仏訳論文「ハイカイ」(日本の詩的エピグラム)をフランス文芸誌に連載した。そこに俳句の特質として「大胆なほどの単純化」「日本風の素描」などを挙げ、一五八の俳句を仏訳・解説している。一九一六年には、同論文「ハイカイ」を「日本の叙情的エピグラム」として再録した著書『アジアの賢人と詩人』がパリで刊行された。同書には、俳句を、浮世絵と対比し、日本の芸術として、しかも普遍的なポエムとして紹介している。第一次大戦中に刊行されたクーシューの書は彼の俳句活動とともに、フランスの文人たちにハイカイ創作への啓示を与えた。 一九二〇年九月には、二〇世紀フランス文学を担った『N・R・F』誌の巻頭に「ハイカイ」アンソロジーが花開いたのである。ダダの芸術革新運動がパリで推し進められていた時期に、同誌には、詩人や作家――ジャン・ポーラン、ポール・エリュアール、ジュリアン・ヴォカンス、ジャン=リシャール・ブロックなど一二人によるフランス・ハイカイ八二編がクーシューを筆頭に発表された。これはフランスにおける詩歌のジャポニスムの開花とも呼ぶべき、画期的な出来事であったと考えられる。同誌の刊行された一九二〇年を、フランスの文芸評論家は「ハイカイの年」と呼んでいた。この「ハイカイ」掲載が導火線となって、フランスでは一九二〇年代に、「詩法」などの優れたハイカイ集や二八三編のハイカイ選集などが次々と発表され、さらに俳句の受容はリルケなどヨーロッパの芸術家たちにも及び、文学の領域を越えて音楽の分野にも波及していった。 本稿では、『N・R・F』誌に「ハイカイ」の掲載が実現するまでの過程について、クーシューの俳句紹介の活動、特に著書『アジアの賢人と詩人』刊行以後を軸に、関係一次資料をたどりながら、考察する。主な資料は、ベルナール・バイヨーによって近年発表されたクーシューやポーランの書簡及び筆者が収集したクーシューの未発表書簡他である。 以上、資料を検討することによって、次のことが浮き彫りにされた。(1) クーシューの書はフランスの詩人や作家たちに新しい詩のヴィジョンを啓示し、ハイカイの創作活動を触発した。同書を読んだポーランは、論文「日本のハイカイ」(一九一七)を発表し、俳句に「純粋な感覚にきりつめられた詩」として共感し、「日欧の人々が共有する感動の言語を創造すること」という普遍的なポエムを感得した。彼は、友人のダダの詩人エリュアールに、注目すべき同書のことを一九一九年三月に書簡で知らせており、その書に関心を抱いていたエリュアールは同書を読んだらしく、同年五月に自作のハイカイ作品を手書きで記し、ポーランに送っている。また作家ブロックも一九二〇年一月にクーシューの書を読み、啓発されて多くの作品を創作していた。(2) クーシューの俳句活動の全容、俳句の紹介と創作の他に、ハイジンの会合をも主宰していた事情が明らかになった。クーシューは大戦中、軍医の任にありながら、ハイジンの会合の開催にも心を傾け、大戦後一九一九年五月一一日に自宅にハイジンたちを食事に招き、初会合を催した。その招待状をポーランとヴォカンスに送っているが、エリュアールらを含めて六人を招いている。クーシューはフランス・ハイカイの「座」の結成ともいえる活動も行っていたのである。(3) 興味深いことには、エリュアールが自作のハイカイ作品をポーランに送っている時期は、この会合の後、五月末のことであり、ポーランもその返事に自作の作品を添えている。翌一九二〇年初めには、エリュアールの誘いを通じて、クーシューとヴォカンスの二人が、ポーランばかりではなく、ダダの集会に出席している。ハイジンの集いが契機となって、ハイカイの創作意欲やハイジンたちの文学交流も次第に深まっていったことがうかがえる。(4) 『N・R・F』誌「ハイカイ」掲載の経緯についてであるが、その口火を切ったのは、ブロックである。彼は同誌編集長ジャック・リヴィエールに、一九二〇年三月、自作のハイカイを送っていた。同年五月、これを「ハイカイ」アンソロジーの企画へと発展させたのは、秘書のポーランであった。彼はリヴィエールやヴォカンスの支持や協力を得て、その編集を同年九月の発刊までひたむきに手がけたのである。このアンソロジーの発案とその編集の大きな契機となったのは、彼が参加したハイジンの会合やクーシューの活動であることがうかがえる。このアンソロジーには、ハイジンの会合の招待者六人全員の作品がクーシューを筆頭に掲載され、その前書きに「クーシューのもとに、ハイカイの作り手一〇人が初めてここに集い」と記されている。また、将来ハイカイがソネットのような新しい詩の領域を開くことへの冒険と期待も表明されている。同アンソロジーの発刊の背景にはクーシューの書や会合に啓発されたポーランのハイカイという新しい詩へのヴィジョンが、また俳人たちの新文芸への情熱が反映していることが考えられる。 ポーランは、フランス・ハイカイが、浮世絵がフランス絵画に革命を促したように、将来、詩の分野に革新をもたらす可能性を予見して、クーシューを始めとするハイジンの活動成果を文壇にいち早く提示したかったのではないだろうか。
著者
内藤可夫
出版者
河原学園 人間環境大学
雑誌
人間と環境 (ISSN:21858365)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.41-54, 2015-12-30 (Released:2018-04-23)

20 世紀最大の発見とも言われるミラーニューロンについて、その哲学的意味の解明の努力はほとんど行われていない。だが、存在概念や自我の否定という現代哲学の文脈から考えるならば、その重大な意義は明らかである。他者は人間にとってアプリオリだと言える。また、自我は他者の写しであり、存在概念も他者概念から派生すると考えるのが自然である。今後「概念」の概念自体もこの機能を手掛かりに考えられるようになるだろう。また、鉤状束の機能から、それらの持つ意味は畏れであると予想する事ができる。
著者
近藤 紀子 伊澤 栄一 渡辺 茂
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.183-205, 2009-03

特集 : 小嶋祥三君退職記念展望論文カラスは, 霊長類や鯨類などの社会性哺乳類と類似した. 固定的な個体群が緩やかに結びついた離合集散型と呼ばれる社会を形成している. そこでは, 個体間に競合関係や友好関係が生じ, 資源競合の解決策として機能している. 近年のカラス科の研究はその証左としての優れた社会認知戦略を明らかにしてきたが, それらに不可欠な個体認知機能のメカニズムは明らかにされていない. 個体の離合集散を伴う社会では, 音声による個体認知が有効であり, 実際に, 多くの社会性哺乳類がコンタクトコールと呼ばれる音声を用いて個体認知を行うことが知られている. 鳥類の音声個体認知については, つがい相手や親と子, なわばり隣接個体などの社会生態学的に固定的関係をもつ個体間に関するものがほとんどであり, 個体間の社会関係が時刻 と変化する複雑な社会において, どのように個の個体を認知しているのかは不明であった. 本論文では, 離合集散型の社会を形成するハシブトガラス(Corvus macrorhynchos)について, 我 が近年行ってきた研究の中から, 音声コミュニケーションについて紹介する. 彼らは音声能力に長けているとされながらも, その多くは不明のままであったが, 野外観察研究と実験室研究の両者を行うことで, コンタクトコールを特定し, それを用いたコミュニケーションが担う個体認知機能を明らかにしつつある. これらの研究は, 従来なされなかった社会性鳥類における音声個体認知のメカニズムとその機能を明らかにするだけでなく, 社会性哺乳類の知見との比較議論を可能にし, 社会生態と音声コミュニケーションの進化に関する理解を深める可能性をもつ.