著者
富永 真琴
出版者
山形大学
雑誌
山形医学 (ISSN:0288030X)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.1-10, 2009-02

抄録 臨床医学はまぎれもなくサイエンスであるが、医療はアートも大きい部分を占める。筆者は「臨床の知とは何か」について中村雄二郎先生の哲学的思索に触れてみることを勧めたい。厳密物理・精密化学の進歩が万人の幸せに繋がると信じる知の在り方は、中村先生によれば「北型の知」であって、医学も含めたサイエンスの一面に過ぎない。これに対比できるのが「南型の知」で人間や自然本来の複雑性と多義性をそのまま、認めるという知の在り方である。中村先生は「臨床の知」は「南型の知」に似る、としている。一方、長い間、「ヒポクラティスの誓い」に代表される倫理観の下に医療が行われてきたが、その特徴はパターナリズムと矛盾はしなかったことである。近年の医師・患者関係の成熟により、1970年代から患者の人格を尊重する原理および医療資源の公平な配分という原理が導入されている。医療行為がサイエンスに基づく判断の下、患者に対し善行かつ無危害であったとしても、それが患者個人に関わる様々な状況にまったく配慮しない医師の独善的な判断ならば、倫理上も問題とされる。臨床医学が生身の人間を対象としている以上、サイエンスとともに、患者の人格を尊重し思いやるアートの部分も大事である。サイエンスとしての臨床医学が対象とするのは肉体であって,人格ではない。これに対して、アートとしての臨床医学が対象とするのが患者の人格であって,それは複雑性・多義性に満ちている。類型化は可能だとしても二人として全く同じ人格などあり得ない。生身の人間である患者を目の前にした時、「人は自己の存在の理由を求めている。」と斎藤武先生が述べたことを深く理解したい。医師および医療従事者は、複雑性・多義性に満ちたさまざまな患者さんに対し、鋭い洞察力、豊かな想像力そして個々の患者の人格に関する深い理解をもって、適切な医療行為を提供できるようになるため、生涯をかけ、サイエンスとアートの両方の部分に研鑽を積むことが求められている。
著者
林 遠澤
出版者
大阪大学大学院文学研究科臨床哲学研究室
雑誌
臨床哲学 (ISSN:13499904)
巻号頁・発行日
no.20, pp.19-31, 2019-03-31

本文は、まず「反精神医学」の批判を再考し、現在の精神保健看護学における患者自身の生活史の秩序を重視する「リカバリーモデル」の意義と限界について分析を行う。また、Peplauの「治療的人間関係論」を援用し、患者自身の相互ケアリングの回復を協力するために看護対策の目標を設定する。これらを踏まえ、ドイツの哲学者ハーバーマス(Jürgen Habermas)の「討議理論」がなぜ精神保健看護の人文学的基礎を構築するのに役立つのかを説明する。
著者
鈴木 由加里
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.39-56, 2007-03-26

フランス哲学が日本に輸入されて以来、多くの哲学者が紹介されたが、現在では忘れられている哲学者も少なくない。ジャン─ マリー・ギュヨーもそのような哲学者の一人である。ギュヨーは、中江兆民の編んだ『政理叢談』において、その著作が紹介され、明治末期から大正期にかけては、多くの邦訳が出版され、また英訳を介して文壇及び大正期の文化に影響を与えた。アカデミズムでも美学・教育学・道徳学において一時期取り上げられたが、その後アカデミズムでは取り上げられず、主体的に論じられることもないまま現在に至っている。 明治末から大正期にかけて発展した大学制度においては、哲学といえば新カント派のドイツ哲学であり、それに対抗するものとして、当時のフランス哲学が在野の文化人や一部の大学の研究者によって取り上げられてきたものである。フランス哲学の受容において、重視されたのは、「現代性」「同時代性」であり、それ故、明治大正期に取り上げられたベルクソンやブートルーなどは「現代哲学」として受容されていたのである。 難解であるけれども思想的な深さをもつドイツ哲学に対して、明晰判明であるが浅いフランス哲学という批判を退けるために、ギュヨーを初めとするフランス哲学者がアカデミズムにおいて紹介されたのである。その目的は、ギュヨーの思想の研究ではなく、むしろフランス哲学の特性を証明するためであった。 そこには、ドイツ哲学を経由したフランス哲学観を離れてフランス哲学を研究することへの希求が存在している。しかし、そのフランス哲学受容の必要性の主張の裏には、「現代哲学」としてのフランス哲学を研究し、それを日本的な哲学の創生に役立てるという目的も同時に存在しているのである。欧米の思想の輸入過多に対して、日本的なるもの、日本独自の哲学という西欧思想との融合に際して、フランス哲学が利用されていたのである。そのような目的において、ギュヨーの哲学は役立つと考えられなかったためにアカデミズムの中で研究されなくなっていった。ギュヨーの生命の哲学を日本的な文脈の中に置き換えることは難しく、19 世期末に夭逝した哲学者であったために哲学史における評価も定まらず、ベルクソンの哲学ほど利用価値がないと判断されたために忘れられた哲学者となっていったのである。
著者
笠木 雅史
出版者
Japanese Association for the Contemporary and Applied Philosophy (JACAP)
雑誌
Contemporary and Applied Philosophy (ISSN:18834329)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.20-65, 2015-09-29

Experimental philosophy is a new growing field whose core consists in applying the methods of experimental psychology to pre-theoretical intuitions regarding philosophical cases. Traditional philosophy uses such intuitions as evidence for or against a philosophical theory. A camp of experimental philosophy, experimental restrictionism, has it that the results of experimental philosophy undermine this methodology of traditional philosophy. This paper goes as follows. Section 1 briefly introduces three camps of experimental philosophy and describes the methodology of traditional philosophy. Section 2 gives a survey of various views on philosophical intuitions, i.e., the kind of intuitions that are supposed to play an evidential role in traditional philosophy. Section 3 sees several experimental results on which experimental restrictionism bases its attack on the methodology of traditional philosophy. Then, Section 4 summarizes the current debate between the proponents of experimental restrictionism and the defenders of traditional philosophy. Section 5 turns to my own defense of traditional philosophy, arguing for the possibility of collaboration between experimental and traditional philosophy.
著者
星野 太
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2011

昨年度に引き続き、今年度も近代における「崇高」概念を広く検討し、まずはエドマンド・バークに関する研究の成果を論文として公表した。従来の先行研究には欠けていた偽ロンギノスとバークの崇高論のつながりを指摘した同論文は、美学会の欧文誌である国際版『美学(Aesthetics)』に掲載された。また、近代における偽ロンギノスの再評価を踏まえつつ、『崇高論』というテクストの構造を論じた口頭発表を1度(英語)、20世紀後半のフランスにおけるリオタールの「崇高」を主題とする口頭発表を1度(英語)行なった。以上の国際会議における発表および国外の研究者との議論を通じて、本研究は当初の研究計画に即して大きく進展したと言える。さらに特筆すべき成果としては、フランスのパリ国際哲学コレージュにおいて、近代の崇高概念をめぐる発表を行なったことが挙げられる(仏語)。コレージュのプログラムの一環として行われた同発表では、18世紀から20世紀にかけての崇高論の展開を「理性」と「非理1生」という近代の主要な問題系のもとに位置づけることができた。これは、近代における崇高論の展開を「モダニティ」という錯綜した概念との連関のもとに論じることを目的とした本研究において、大きな成果であったと言える。以上の成果とともに、今年度はフランスの哲学者ジャン=リュック・ナンシーをめぐるワークショップでの発表(日本語)、書籍『人文学と制度』への執筆および翻訳、さらに同書をめぐるワークショップでの発表(日本語)を行なった。以上の成果は、先に挙げた本研究課題の主要実績とも緊密に連動し、今後のさらなる研究へと発展していくことが予想される。
著者
中村 一
出版者
京都大学農学部附属演習林
雑誌
京都大学農学部演習林報告 = BULLETIN OF THE KYOTO UNIVERSITY FORESTS (ISSN:0368511X)
巻号頁・発行日
vol.37, pp.190-197, 1965-11-15

造園計画の哲学的側面は2つの問題に関して顕著にあらわれる。第1に造園が他の物的諸計画 (建築, 土木など) と協同して有機的生活環境を作り上げるための統一的な理論はないだろうかという問題がある。そのような理論的体系のひとつとして哲学そのものがある。ただしその哲学は科学との明確な相違点を自覚しつつ, しかも科学の諸成果を価値領域にもちこんで, 人間の未来を実験的に築いていくための理論を提供するものでなければならない。第2に専門化した造園計画の特色はなにかという問題がある。その特色は造園が扱う自然的材料にみられるが, ここで自然という言葉の哲学的内容が問題化する。私は自然の本質的特性である安定性と不安定性に注目して, 不安定性要因をより多くもつものとして, 「みかけの自然」の概念を仮説的に使用することによって造園計画の特色をより深い意味でとらえようと試みた。
著者
森 亘
出版者
京都大学大学院教育学研究科
雑誌
京都大学大学院教育学研究科紀要 (ISSN:13452142)
巻号頁・発行日
vol.64, pp.71-83, 2018-03-30

本稿は二つの目的を持っている。一つ目は、ある転倒の後に私たちの世界を位置づけること、およびこの移行過程について論ずることである。本稿ではこの転倒を超越した世界の当たり前化と呼ぶ。二つ目は、神的なものや聖なるものを別の世界にイメージするプラトン以後の哲学者たちを、この転倒の後に位置づけることである。主要な論点は、「事物性(超越性)--内奥性」の運動を生きていた内奥秩序から、内奥性の放棄と人間中心主義の起源でもある超越した世界の当たり前化を導いた現実秩序への移行を捉えることである。この点は、原始的な意味での供犠を有していた社会から軍事秩序(帝国)への移行とも表現されうる。この転換点以後神的なものは、超越や理性の価値とのみ結びつくことになる。哲学史を視野におさめながら、原理的には軍事秩序と結びついて誕生したこの道徳を乗り越えていく準備作業を行うこともまた、本稿の目的である。
著者
堀 雅彦
出版者
北海道大学宗教学インド哲学研究室
雑誌
北大宗教学年報 (ISSN:24343617)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.26-32, 2019-08-31

本稿は、2018年12月に東京大学で行われた研究会―「宗教学生成期における哲学の位置」―での発表をもとにしたものである。堀の発表は、ウィリアム・ジェイムズ(William James 1842-1910)の哲学的(かつ神学的)営みとしての「宗教の科学」に注目し、その対象と方法の側面から、彼が描き出そうとした「宗教」の姿の再構成を試みるものであった。後日の考察を加えて行った北大宗教学研究会(2019年2月18日)での報告内容も含めて、以下、その概要を研究ノートとして記す。
著者
浅井 茂紀 アサイ シゲノリ Shigenori ASAI
雑誌
千葉商大紀要
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.95-115, 2002-12-31

この論文は,目次,I序論,II本論,第1節倫理学とは何か-人間の行為の原理を研究する学-第2なぜ倫理学が必要か-人倫と理法の学における価値-第3ソクラテスの「汝自身を知れ」-西洋倫理学の創始-第4プラトンの哲人政治と善のイデア-四元徳とイデア論-第5節アリストテレスの倫理学(実践哲学)-観照と中庸-,第6節イギリス経験論-経験について-,第7節大陸合理論-理性について-,第8節ドイツ観念論-カントの善意志について-,第9節キリスト教-愛について-,III結論(注付),から成立している。倫理学(Ethics)の語源,「倫理学」の訳語(井上哲次郎),倫理学の概念も説明した。孟子も「聖人は,人倫の至りなり。」(離婁上)と述べた位に,倫理,人倫や人道の言葉だけでも難解な問題であるが,西洋倫理学と関連して,人間の行為の原理を考察してみた。これら倫理学を分析や総合し,その全体的な体系付けをして,その中身の意義と価値を考慮した一研究論文である。
著者
アンドリュー・ ベルナール 倉島 哲
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.25-53, 2018-09-30 (Released:2019-09-30)
参考文献数
60

サーカス・パフォーマーの運動をコントロールするのは誰なのだろうか。空中のアクロバットは、無意識のうちに全身を協調させることで、パートナーに掴んでもらうべく正確に手を伸ばすことができるが、これは周辺視野にかすかに捉えた情報だけを頼りに行われている。そのうえ、視覚それ自体も、意識的にコントロールされるのではない。アクロバットは、意思によらずに視線を導き、パートナーとの視線の相互的なコンタクトを運動中も維持しつづけることができるからである。 両眼をも含めた全身の高度な協調が意識なしに可能なのは、生ける身体(living body, corps vivant)のおかげである。前意識的かつ前運動的な生ける身体は、刻々と変化する状況にエコロジカルに適応するために必要な判断を瞬間的に下してくれる。だが、こうした判断は、脳の活性化(activation)と意識によるその知覚を隔てる450ミリ秒の遅延のために、つねに事後的にしか意識に上らない。それに加えて、主観的な身体イメージや、日常的な意識のフレームなどの要因も、生ける身体を見えにくくしている。 われわれが2013年に開始したフランス国立サーカス芸術センター(CNAC)研究プログラムは、こうした困難を乗り越えるために、身体に取り付けたGoPro カメラ・GoPro 録画を用いた自己分析(self-confrontation)インタビュー・パフォーマーを巻き込んだ哲学ワークショップの開催などを含む様々な方法を用いた。そうすることで、パフォーマーたちの生ける身体が運動のさなかに無意識のうちに生成したものの意識への浮上、つまりエメルジオン(emersion, émersion)を捉えることができた。これを踏まえ、最後にエメルジオンの学としてのエメルシオロジー(emersiology)の可能性とその社会的含意を考察したい。