2 0 0 0 OA 雅言集覧

著者
石川雅望 編
出版者
中島惟一
巻号頁・発行日
vol.巻之2, 1887
著者
広沢 俊宗 小城 英子 ヒロサワ トシムネ コシロ エイコ Toshimune HIROSAWA Eiko KOSHIRO
雑誌
関西国際大学地域研究所叢書
巻号頁・発行日
no.2, 2005-03-31

本研究は、大学生を対象とした質問紙調査により、日本のプロ野球ファンの心理を明らかにしようとするものである。本稿では、その調査結果の一部について記述することを目的としている。概括すると、阪神ファンと巨人ファンでプロ野球ファン全体の4割近くを占め、巨人を除く11球団のファンの半分以上が巨人を嫌う傾向にあった。特に、広島、阪神、中日といった球団のファンにアンチ巨人傾向が強く示された。また、阪神ファンは巨人ファンに比べ顕著なイメージが形成されていること、両ファンの嗜好性はマイナー-メジャー(大阪-東京)に代表される項目で差異が見出されることが明らかにされた。
著者
永峰秀樹 訳
出版者
奎章閣
巻号頁・発行日
vol.巻之1, 1875
著者
杉本 直俊 紫藤 治
出版者
金沢大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2014-04-01

近年、気温の上昇により熱中症発病者が急増し、特に熱中症高齢者の増加が特記される。熱中症予防の基本は暑さに身体を慣らす、つまり暑熱順化である。しかし暑熱順化の分子機構はほとんど解明されていないのが現状である。本研究では暑熱順化の分子機構の解明を試みた。暑熱順化により(1)シャペロンタンパク質であるHeat Shock Proteinsが増加した、(2)低酸素刺激にも耐性が獲得された、(3)温度センサーであるTRPV1が減少した。以上が、これまでに判明した暑熱順化の分子生物学的な解析結果である。本成果により、熱中症予防への応用が少なからず可能性が高まったと思われる。
著者
小玉 重夫
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.21-38, 2002-05-15 (Released:2011-03-18)
参考文献数
26
被引用文献数
2 1

The 1990s were a turning point in world history; as Eric Hobsbawm wrote in his recent book, the “short twentieth century” ended in the early 1990s. With regard to public education, not only in Europe and North America, but in Japan as well, the structure of the public education system underwent dramatic change during the 1990s.In this paper I examine the characteristics of this change. The dominant feature of the change in the 1990s has often been conceptualized as “liberalization, ” or the “deregulation” or “marketization” of public education. However, this conceptualization does not adequately grasp the political aspect of the change, as Chantal Mouffe demonstrated when she termed it “the return of the political, ” or Nancy Fraser when she called the dilemma of justice in a “post-socialist” age one that was moving “from redistribution to recognition.” Focusing on this political aspect of the change in public education in the 1990s, I clarify the specificity of the historical context of this change.As in the Western countries, opportunities for public education in Japan expanded to all areas of society during the 1960s. There was, however, an important difference in the characteristics of this expansion between the West and Japan. In the West, it was initiated by the policy of the welfare state. In Japan, by contrast, the role of the welfare state was less important, and was replaced by the depoliticized triangle of family, school, and private enterprise.In the 1990s, Japan experienced major social and political upheavals. The “bubble economy, ” which had prevented the manifestation of economic crisis, burst in the early years of the decade. The depoliticized triangle of family, school, and private enterprise, which had replaced the welfare state, fell into a crisis of legitimacy.It was at this point that the triangle began to break down, and the need arose for an alternative to it. In this situation, the actual possibility emerged of a return of “the political.” In order to seek this possibility, it is necessary to reconstruct the space of political significance as well as democratic citizenship. The task of public education here should be focused on political life, which is, as Giorgio Agamben cited, to be distinguished from biological life. This is one of the most important points in the restructuring of public education.
著者
松本 仁助
出版者
日本西洋古典学会
雑誌
西洋古典學研究 (ISSN:04479114)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.1-15, 1997-03-10

本論は,民話から詩的にすぐれた叙事詩が創作されている実態を,『オデュッセイア』におけるぺネロペイアの再婚問題に関連して,見ていくものである.ただし,本論においては,妻の婚礼をあつかった説話として,民話のみならず文学的水準がそれほど高くない叙事詩をも,『オデュッセイア』との比較の対象にしている.
著者
Jones Willie
出版者
北海学園大学
雑誌
北海学園大学人文論集 (ISSN:09199608)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.103-127, 2000-07-31

伝統的に「愛」と「個人」という言葉は日本人にはなじみの薄い言葉であり,特に教員と学生の関係を語るときにはあまり考えないことばです。しかし私がお話ししますことはまさにその「愛」と「個人」のことなのです。それはなぜかと言いますと,「愛」と「個人」ということこそが非常に重要な問題であり,そのことを考えることを怠ることは,きわめて基本的なことを見過ごすことになり,また「愛」と「個人」ということこそすべての教員が考えるべき事であると私は信じるからであります。私たちが学生を教育していると言う時,私たちは一体何をしていると言うことなのでしょうか。日本人の子供たち(大人も同様ですが)を語るときよく"units of society"(社会の単位)と言います。私の考え方は単に外国人の視点であると反論される方もおありでしょうが,しかし私はこのことは非常に間違っていると思うのです。人間は社会の利益のために存在するのではなく,社会が人々の利益のためにあるのです。しかしながら,人々が皆コミュニティーの福利のために働こうとするならば,その社会はうまく機能するのです。それゆえに全ての人を同一のクローンのように育てないように教育するというのが学校の仕事ではないでしょうか。個人の才能を伸ばし,それによりその個人が社会において自分の役割を果たすように教育することが学校の仕事ではないでしょうか。しかしそれは私たちが個人として目覚めて利己主義になっていくということを言っているのではありません。仮に私たちが学校で自分が持っているある才能に気がつき,その才能を伸ばすように指導されたとしたら,私たちはこれらの才能を他の全ての人々の利益のために効率良く使うことができるのです。そのためにはこれらの才能を養い,育てなければなりません。子供たちが自分が持っている才能を大切にし,さらに他人の才能を大切に思うようになるには愛という媒介が必要なのです。これは難しいコンセプトであり,危険な感情であります,しかしそれを避けてはいられないのです。恐怖心を掻き立てるようなしつけや過酷なしつけというものは学びたいと思う気持ちを壊し,個人の成長を押さえてしまいます。しかし仮に私たちが自分かおこなっていることが好きであれば,その事をよりよく理解するようになります。それゆえに教員の仕事は学生が自分のやっていることを好きになる手助けをすることなのです。そのための唯一の方法は教員が学生達を好きである・愛しているということを示すことなのです。(例えば,3年B組の坂本先生や金八先生),そして学生の全てを平等に愛することなのです。もしそのことから学生が先生に対する愛を育んでいく(そのようになる傾向がありますが)ようになれば,まさに3人のパートナーの踊りが生まれるわけです:教員と教えた科目と学生の3つのパートナー(ボッティチェリのPrimavera: the dance of the Three Graces)これらの考えをまず愛という問題を語ることから始めます。それはこれが地盤(土)であり,その他の全てのものは愛から育っていかなければならない(愛からしか育っていかない)からであります。そして次に個人という問題に触れます。これらのことを皆さんに考えて頂くために,それぞれの事例となる逸話を交えながらお話しいたします。
著者
野田 尚史
出版者
高知大学総合教育センター修学・留学生支援部門紀要編集委員会
雑誌
高知大学総合教育センター修学・留学生支援部門紀要 (ISSN:18831508)
巻号頁・発行日
no.3, pp.29-43, 2009-03

国際化の時代になって,日本語を学習する日本語非母語話者の目的や学習環境も大きく変わってきた。それにともなって,日本語教育も「聞く」「話す」「読む」「書く」というコミュニケーション能力の育成が強く求められるようになってきている。これまで日本語教育で使われてきた教材は, 文型という言語形式を教えることが中心になっていた。そのような教材ではコミュニケーション能力の育成は難しい。コミュニケーション能力を育成するためには,これまでとはまったく違う新しい方針で教材を作らなければならない。新しい方針というのは, 「聞く」「話す」「読む」「書く」の教材を分けることや,現実的な状況を設定し,現実的な目的の達成を目標にすること,個別学習に対応できるようにすることである。
著者
山前 碧 小林 裕太 上原 哲太郎 佐々木 良一
雑誌
研究報告マルチメディア通信と分散処理(DPS)
巻号頁・発行日
vol.2015-DPS-162, no.39, pp.1-7, 2015-02-26

ここ数年で,PC の不揮発性記憶媒体として SSD(Solid State Drive) の普及が高まると予想される.IT 調査会社の IDC Japan によると,SSD 市場の 2017 年までの平均成長率は 39.2% と予測している.そのため,SSD の消去ファイルの復元率の把握が,PC の破棄の時点での事前処理や,デジタルフォレンジックのための証拠の確保可能性を知る上で重要となってきた.また,SSD には Trim 機能という特徴的な機能があり,この機能による復元の影響を検証する必要が出てきた.そのため,本研究では,SSD の Trim の有無,削除後の利用状況の差異,OS の差異に伴うデータ復元の確率について検証した.結果,Trim 無効時は,データの多くは削除してから一日しか残っていないことが明らかになった.また,Trim 有効時は削除直後でもデータは残っていないことが明らかになった.さらに,ファイルサイズや拡張子,OS による大きな違いは見られなかった.本稿では上記の検証とデジタルフォレンジックの目的での復元,PC 廃棄の目線からの考察を報告する.