著者
櫛引 素夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

1.はじめに<br>&nbsp; &nbsp;北陸新幹線が2015年3月に開業し、東京-金沢間が2時間半まで短縮された。2016年3月には北海道新幹線が新函館北斗開業を迎える。本研究は、新幹線駅が郊外に立地した市に着目し、より適切かつ速やかな対策の検討に寄与することを目的として、発表者が2015年までに青森市や北陸、北海道新幹線沿線で実施したフィールドワークと郵送調査に基づき、整備新幹線とまちづくりの関連について、地域政策上の論点整理と問題提起を速報的に試みる。 <br><br>&nbsp;2.北陸新幹線沿線の概況<br>&nbsp; &nbsp;JR西日本のデータによれば、北陸新幹線利用者(上越妙高-糸魚川間)は在来線当時の3倍の水準で推移している。ただし、地域を個別にみると、例えば富山県高岡市は新幹線駅が在来線の高岡駅から1.8km南側に位置している上、速達型列車「かがやき」の全定期列車が通過し、さらに北陸本線が経営分離され特急列車も全廃に至った状況に対して住民の強い批判が存在する。新幹線通勤者の発生に伴う新高岡駅一帯の駐車場不足も問題となっている。 <br>&nbsp; &nbsp;また、新潟県上越市は、都市機能が直江津、春日山、高田、上越妙高の4地区に分散した。直江津駅は鉄道の結節点としての機能が低下する一方、田園地域に新設された上越妙高駅周辺の再開発地区利用は進んでいない。上越地方全体としても、特急「はくたか」の廃止によって中越・下越地方との往復手段が激減した。加えて、「かがやき」が上越妙高駅に停車せず、やはり住民の不満が大きい。<br><br>3.北海道新幹線の開業概要<br>&nbsp; &nbsp;北海道新幹線は新函館北斗-東京間が最短4時間2分と時間短縮効果が限られ、直通列車も1日10往復にとどまる上、新駅から函館市中心部まで18km、駅が立地する北斗市の市役所は11km離れている。料金も割高で、開業によって観光客がどの程度、増加するか、また、函館市や北斗市のまちづくりがどう進展するか不透明な状況にある。新函館北斗駅前の利用は進んでおらず、むしろ南隣の木古内駅一帯が、道の駅の併設などによって活況を呈している。<br><br>4.青森駅、新青森駅と市民の意識<br>&nbsp; &nbsp;各市町のまちづくりが今後、どう進展するかを予測する参考とするため、発表者は青森市民を対象に、青森駅および新青森駅に関する郵送調査を実施した(対象257件、回答87件、回収率34%)。<br>&nbsp; &nbsp;市中心部に立地する青森駅からみて、東北新幹線の終点であり北海道新幹線の起点となる新青森駅は約4km西に位置する。2010年に東北新幹線が全線開業した後も周辺に商業施設やホテルは立地していない。<br>&nbsp; &nbsp;ただし、函館市の医療法人が2017年春の開業を目指して総合病院を建設中で、新幹線駅前の利用法の新たな姿を示した。<br>&nbsp; 二つの駅と駅前地域に市民は強い不満を抱いており、総合的な評価で「満足」と答えた人は実質ゼロだった。機能や景観、アクセス、駐車場など、ほぼすべての面で不満が大きく、特に新青森駅の機能や景観への不満が目立った。<br> 両駅周辺の将来像については大半が「今と変わらない」もしくは「すたれていく」と予測する一方、今後の対応については、両駅とも「一定の投資を行い速やかに整備すべき」「投資は抑制しつつ着実に整備」「整備の必要なし」と回答が分かれ、市民のコンセンサスを得づらい状況が確認できた。<br><br>5.考察と展望<br>&nbsp; &nbsp;青森市民への調査を通じて、「新幹線駅はまちの中心部にあって当然」「新幹線駅前には買い回り品を扱う商業施設や都市的な集積、景観が必要」とみなす住民が多いことが確認できた。ただ、多くの回答者は新幹線利用頻度が1年に1往復以下にとどまり、積極的に両駅前へ出向いているわけでもない。上記の認識は必ずしも自らの新幹線利用や二次交通機能、外来者への配慮、さらにはまちづくりの議論と整合しておらず、鉄道駅や駅一帯の機能と景観をめぐり、市民の評価に錯誤が存在している可能性を否定できない。<br>&nbsp; &nbsp;同様の傾向は、高岡市や上越市にもみられている。 <br>&nbsp; &nbsp;住民らは、在来線駅と新幹線駅が併設された都市を念頭に「理想像」を描き、そこから減点法で最寄りの新幹線駅を評価している可能性がある。その結果、新幹線駅が郊外に立地した地域では「理想像からの乖離」が、いわば「負の存在効果」をもたらし、新幹線をまちづくりに活用する機運を削いでいる可能性を指摘できる。 <br>&nbsp; &nbsp;整備新幹線の開業に際しては、主に観光・ビジネス面の効果が論じられがちである。だが、人口減少や高齢化の進展に伴い、医療資源の有効活用や遠距離介護、さらに空き家の管理・活用問題といった、住民生活や都市計画・まちづくりの課題を視野に、地理学的な視点に基づく地域アジェンダの再設定が不可欠と考えられる。
著者
金 木斗哲
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.110, 2006

1.はじめに<BR> 近年の韓国農村部にはどこかで活気を感じさせるところが多い。都市との生活水準の格差は依然としてあるものの、社会基盤整備も進んでおり、毎年のような変わっている韓国農村部の変貌ぶりには目を見張るものがある。本報告では、韓国農村部における近年の劇的な変化の要因を、1990年代以降の韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化から明らかにするとともに、変化の渦中にある韓国農村部の中でひときわ注目を集めている全羅南道咸平郡を事例として取り上げ、韓国農村部自治体の新たな地域開発戦略である「場所マーケティング」ついて検討し、場所マーケティング戦略が韓国農村部に新たな活路を見出す可能性について検討する。<BR>2.韓国農村部をめぐる社会経済的な環境変化<BR> 韓国において1990年代はあらゆる面で大きな変化があり、韓国の現代史の中で一つの分水嶺になるに違いない。何よりも30年間続いてきた軍部独裁による強権統治が終焉を告げ、社会全般に重くのしかかっていた権威主義的な雰囲気が晴れてなくなった。このような変化の具体的な内容は次の5つにまとめることができる。第一に、民主化と伴ういわゆる「文民政府」の登場と、それによる農業農村政策基調の変化である。この時期に至って農業農村部門への財政投資が本格的に行われるようになるが、その物的基盤になったのは地方譲與金制度の創設や各種補助金の拡充である。第二に、1995年の地方自治制の復活と民選郡守(郡長)による地域活性化への取り組みである。韓国農村部は、韓国社会全般の植民地支配と朝鮮戦争による伝統との「断絶」の上、画一性や均一性を重んじる軍事文化が社会全般に横行し、「没地域文化」を強いられていたが、地方自治制の復活後は民選郡守による地域活性化への取り組みが本格化し、伝統文化の発掘や特産品の開発など様々な試みがなされている。実に、2005年には600を超える「地域祝祭」が全国各地で行われている。第三に、金融危機以降の金融界の貸付先の変化である。金融危機後に新たに登場した融資先が土地などの担保能力のある自営業であり、与信禁止業種の緩和もそれに拍車をかけた。その結果、レストランやホテルなどの消費部門の過剰競争が起こり、それらの自営業が農村部にまで乱立するようになった。第四に、農村部における交通網の整備とIT化の進展である。1990年代以降農村部への財政投資の多くは道路整備に投じられ、農村部へのアクセスを飛躍的に向上させた。また、高速インターネット通信網の整備も進み、農村部にも高速インターネットが広く普及した。インターネットの普及に伴う農村部からの情報発信は新たな農村観光の需要を引き起こし、網道路整備による時間距離の短縮はそれらの需要を現実のものとした。最後に、観光パターンと意識の変化である。観光パターンの変化は農村を「立ち去るべき」空間から「訪れる価値のある」余暇空間へと変えていった。2002年からは週休二日制が導入され、農村観光の需要は大幅に増えている。<BR>3.場所マーケティングよる地域戦略<BR> 咸平郡の事例咸平郡は全羅南道に属する韓国の代表的な後進地域で、過去35年間に2/3以上の人口が減少し現在は約4万人で高齢化率は約21%、専業農家率は約80%である。最寄りの中心都市は東に約50_km_離れている光州市であり、ソウルまでの距離は約440_km_で高速道路を利用した場合約4時間30分で結ばれる。場所マーケティングとは、新しい地域のイメージを創り出し、場所資産としてマーケティングすることによって、地域経済の活性化を図るというものであるが、咸平郡では1999年から「チョウまつり」をはじめ、150万人以上の観光客で賑わっている。すなわち、地域のイメージを創造や清浄を連想させる「チョウ」に代表させ、地域ブランドとして「Nareda」(韓国語で'飛ぶ'という意味の造語)を登録し、すべての地元特産品に「Nareda」の商標を付け、付加価値の高い販売戦略を取っている。ここで注目すべき点は、咸平郡という場所性とチョウとの関連性であるが、実は「チョウまつり」以前の咸平郡はチョウとはまったく無縁であった。にもかかわらず、生態観光や体験型観光を求める需要に合わせて当該地域を「商品」として開発し、新しい地域性を創り出したのである。従来の地域づくりや地域ブランド化戦略では地域固有の資源、すなわち場所性に基づいて行わなければならないと主張されてきた。しかし、すべての地域が競争力のある地域資源を持っているとは限らない。それ故、場所性を場所に対して認知された特性と定義し、需要に合わせて修正ないし形成可能であるという場所マーケティング戦略は注目に値する。
著者
阿子島 功 山野井 徹 川邊 孝幸 八木 浩司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2003, pp.110, 2003

<B>1.問題点</B> 山形盆地南部の上山断層は、酢川火山岩屑流台地を上下2面に分ける、地形的には比較的明瞭な活動度B級の断層である。 山形盆地西縁断層群については、科技庁の平成9から11年度交付金による山形県の調査によって活動歴に関する資料が増えた。 地震調査研究推進本部の平成14年5月評価では、予想される最大地震規模7.8、活動間隔約3,000年、最近30年間の地震確率は ほぼ0から7%と 社会的にも影響の大きい評価となった。 その根拠のひとつは、総延長を上山断層を含めて約60kmとしたことである。 しかし、盆地南半西縁の山辺町から山形市村木沢の一連の南北性の断層群と上山断層との連続性には問題がある。 西側隆起という共通性はあるが、上山断層の走向はNE-SW方向で、両者は斜交し、上山断層の走向方向からはむしろ山形盆地東縁の断層に連なる。上山断層の詳細な活動歴・活動様式はわかっていなかった。 地域整備振興公団の協力を得て調査した。 <B> 2.調査手法</B> 上山断層北半部でトレンチ3ケ所、ボーリング2本、酢川火山岩屑流上位面の凹地の堆積層中の広域火山灰検出のためシ゛オスライサーによる採取3本である。<B> 3.調査結果</B><BR> <B> 1) 断層の累積変位量と長期的平均変位速度</B> ボーリングb-1は 断層崖の中腹にあり、上位面頂部より約25m低い。-30mまで粗大な岩屑よりなる火山岩屑流堆積物で断層破砕帯はない。<BR> 下位面のb-2はGL-1から-4mが表層堆積物、-4から-43mまでは一部に木片を含み、やや泥質な部分を含む火山岩屑流堆積物、 -60mまでは岩屑流堆積物である。 -49m付近にせん断面あり。 b-1,2とも第三紀凝灰岩に着岩しなかった。 断層の累積変位量:断層崖両側の酢川火山岩屑流堆積層の頂部の比高(b-1頂+25mとb-2の-4mとの比高)は約46mである。 酢川岩屑流の年代:b-2の-23m,-32mの木片(周辺に腐植層などが挟まれていないので岩屑流に巻き込まれたものと解釈)の14C年代は 後述T-1の年代よりも新しくなり上下逆転した。 上位面の凹地堆積層6mのうち2枚の火山灰をそれぞれNm-Kn,Ad-N1に対比し(八木が別報とする)、2層の火山灰年代を外挿すると、火山岩屑流台地面が形成された年代は 約75,000年前となる。 よって、長期的平均変位速度は約0.6m/1000年(1.8m/3000年)となる。<B>2)最新の断層運動</B> トレンチT-3(探さ3m、延長6m)では、黒ボク土を含む礫層と締まった砂礫質粘土層が 逆断層状に接している。イベントは2回以上、変形を受けた礫層の年代は3,430+_50(yrBP)、覆土の年代は270+_40(456から5 Cal yrBP)である。 上下方向の単位変位量は1.5m程度。<B>3)未固結堆積層の塑性変形</B> T-1、T-2では、断層破砕帯は認められないが、顕著な地層の変形がみられる。 T-1(8m深、20m長)に酢川火山岩屑流堆積層の2次堆積層がみられ、地表面傾斜が約10°、 トレンチ上部の地層の傾斜が約20°である。高角度の明瞭な断層破砕帯はないが、3種類の変形構造が認められる; 1)層理面の変形で波高1.5m程度の波状および炎状の断面形を示す。 2)層内の微小なせん断構造。 3)幅数cmで、延長が数m以上つづく低角度・南傾斜のせん断面である。 T-2(6m、30m長)では、岩屑流堆積層の2次堆積層のなかに著しい変形構造が認められる。 最大波高2mで、地層のひきずり変形構造、 褶曲構造、礫の配列異常など。変形のひきずり方向は南側へ押し出すような方向である。変形している地層の年代測定を行った結果、変形の時期はT-1では46,300±630(yrBP)以降、T-2では27,870±190(yrBP)以降であった。断層活動の強振動によって未固結の堆積層が塑性変形した可能性がある。<BR>図1 上山断層北部の調査地点 CTO-76-19に記入
著者
山田 浩久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.81-95, 1993

Most social and economic activities are based on land, which is included among high-dimensional goods. The balance between supply of and demand for land is maintained, by its price. However, its supply cannot be controlled. Land prices rise, not with demand, but with the increase in utility value resulting from the construction of railways and redevelopment. As the price of a plot of land is determined by the sales price of land nearby, high prices for neighboring areas due to increased utility value influences the price formation for land in outlying areas without changing their own utility value. Such a phenomenon was observed in small towns when land price in the Tokyo metropolitan area suddenly rose in the late 1980s. <br> In order to better understand the mechanism for land price fluctuations in this area, this paper aims to demonstrate the disparity between the price and use of land on the micro scale and to clarify the characteristics of the rise in land prices in the commercial area of a small town, with the area around the JR Nishifunabashi station as an example. The results of the analysis are as follows:<br> 1) The low interest rate policy and the resultant business boom in the 1980s activated transaction and finances involving land. As a result, land prices rose sharply in commercial areas around stations along the JR Sobu line over the three-year period 1985-1988. Many areas that showed a higher rate of appreciation in this period have developed as major commercial areas. On the other hand, the area around the Nishifunabashi station showed the highest rise in the 1988-1991 period, when the appreciation of land prices had eased off in all commercial areas. This belated rise was influenced by the appreciation of land prices in the area around the nearby Funabashi station and is therefore different from the phenomenon widely observed from 1985 to 1988.<br> 2) In the study area, the area of expensive land to the north of the station did not expand during the period 1985-1988, although the price difference increased. In 1991, however, the land on the south side of the station, where a number of large parking lots were located, appreciated in value, and the price became higher than in the northern area on the whole. The price difference with in the study area grew even greater.<br> 3) In contrast to the changes in the land price distribution, no remarkable changes were observed in land use in the study area. Such a precursory rise in the land price could be attributed to the inability of local commercial capital to cope with the rapid rise occurring in the area. It seems that the delay in the effective utilization of land in the northern area relatively improved the estimated value of the more promising land in the southern area. The 1991 appreciation in the southern area resulted from this situation. Concerning the relationship between the rise in land prices and changes in building height, most medium-high-rise and high-rise buildings were situated in areas where land was expensive, although some had been built within such an area in 1991. In addition to the shortage of local funds, setting the land price on the basis of the medium-and long-term forecast had led to this phenomenon. Lands assessed according to the projected value is not immediately utilized in accordance with the present circumstances.
著者
淺野 敏久 金 枓哲 伊藤 達也 平井 幸弘
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.139, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 2006年4月に韓国・セマングム干拓事業の防潮堤がつながった。2箇所の水門はまだ開放されているものの,約33kmの堤防により干拓事業地は外海から締め切られた。事業はまだこれからが肝心の部分であるが,ここに至るまで,世界的な巨大開発事業に対して,環境への影響を懸念した反対運動が全韓国的に展開されてきた。<BR> 報告者らは,セマングム問題に関する調査を,2003年度より共同研究として続けてきた。2006年度は,科研費は切れていたが,締め切り後の状況を知るために現地を訪れた。今回は,セマングム問題の現状を報告するとともに,断片的に状況を把握したレベルではあるが,この間のセマングム問題をめぐる環境運動の変化について,運動体の支持層・参加層の空間的な違いに注目しつつ指摘することを目的とする。<BR>2.セマングム問題の経緯<BR> 韓国西南海岸では,1970年代に干潟の開発が注目され,西南海岸干拓農地開発事業基本計画が策定された。セマングムはその10分の1を占める巨大開発で,閉め切り面積は約4万ha,干拓面積は28,300haに及ぶ。セマングム開発は1991年に起工されるが,1996年に同様の干拓地であるシファ地区での水質悪化が社会問題化し,これをきっかけに,セマングム開発への懸念が全羅北道の環境団体から投げかけられると,全国的な注目を集めることになった。<BR> 全羅北道が強く要望する産業・都市開発に対して,1998年末に用途変更は認めないと農林部が表明,セマングム開発は建前上,農地開発を行うものとして進むことになる。水質問題が争点になり,環境影響評価を行うための民・官共同調査団が組織され工事が一時中断した。この間,反対運動は全国的に広がり,環境団体,労働・社会団体などが抗議行動を次々に起こしていった。<BR> 一方,高まる事業反対世論に抗して,全羅北道の有識者らが環境に配慮した事業の推進を求め,全道的な事業推進運動に発展していく。農地だけではない産業・都市開発が提案され,「親環境的な開発」がキーワードになっていく。 <BR> 2003年3月,キリスト教や仏教の宗教指導者が,三歩一拝デモを始めると,賛否双方の運動はますます過熱化し,社会的混乱が生じ,同年7月にソウル行政法院が,反対派の求めた本訴判決までのセマングム工事執行停止を命じると,それはピークに達した。翌年1月に,ソウル高裁はこの仮処分決定を取り消し,2005年2月にソウル行政裁判所が事実上の原告(反対派)勝訴判決を下すものの,進行中の防潮堤補強工事と残る区間の防水工事の工事中止決定を出さなかったために工事は進み,さらに控訴審で原告敗訴の判決が下ると一気に防潮堤工事が進んで,2006年4月にはセマングムは水門部分を除いて外海から隔てられることになった。<BR>3.ケファの変化<BR> ところで,筆者らは,地元の反対運動の拠点となったケファ地区を2003年から2006年まで毎年訪れ,この問題に翻弄されたこの集落の変化を見た。初めての時は,過激な行動を辞さない抵抗運動が行われ,ソウルから若い「活動家」が住み込んでいたが,工事が再開した2005年には彼らはいなくなり,絶対反対のこの地区と親環境的な開発を視野に入れた方針転換を図りつつあった全国的環境団体との温度差がみられるようになった。2006年にはこの地区の干潟は消失(陸化)して,砂地がどこまでも広がる景観が現れ,この地区では干潟の恵みを生活の糧にすることはできなくなっていた。絶望感が漂う一方で,これからどうするかというアイディアが,反対を続けてきた住民の中から出されてもいて,この土地で生き続けてきた人のしぶとさも感じられた。<BR>4.環境運動の変化<BR> この問題について調べる中で,韓国と日本の環境運動の違い,例えば,民主化運動とのつながり,大衆的な運動スタイル,運動団体の規模・人員の充実度,労組や宗教団体などとの幅広い連帯,運動の舞台となるソウルの重要性といったことや,セマングム問題を理解する上で重要な全国レベル・道レベル・地区レベルそれぞれの空間的な枠組み,例えば,運動がこの空間ごとに異なる様相を示し,それぞれでの利害関係が問題の社会的な側面を構成していることなどに気づかされた。本報告では,この環境運動の空間構造について論じるつもりである。
著者
尾方 隆幸
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1. 普天間飛行場代替施設建設事業<br> 日本政府の「普天間飛行場代替施設建設事業」に関するさまざまな準備作業が,名護市の辺野古湾および大浦湾周辺で進められている.これまで,日本生態学会による「沖縄県名護市辺野古・大浦湾の米軍基地飛行場建設に伴う埋め立て中止を求める要望書」(2013年3月),沖縄生物学会による「米軍普天間飛行場代替施設建設のための辺野古埋め立て計画に関する意見書」(2014年2月)など,生物科学関係の学会からは反対意見が提出されている.本発表では「普天間飛行場代替施設建設事業」について,ジオコンサベーションの観点から検討する.&nbsp;<br><br>2. 沖縄のサンゴ礁と辺野古の生物多様性<br> 日本の地理学的特徴のひとつに,南北方向に長い国土による気候の多様性がある.その中で,南西諸島をはじめとする広い地域にサンゴ礁の生態系を有することは,国内の自然資源を考える上で大きな意義を持つ.しかしながら,これまでに進められた開発行為により,特に沖縄島周辺のサンゴ礁は破壊が著しく,ごく一部の海域を除いて健全な造礁サンゴは残されていない. <br> 一方,辺野古周辺には,環境省の「日本の重要湿地500」(No.449沖縄本島東沿岸)に指定された自然度の高い海域がある.辺野古~漢那の選定理由には「ボウバアマモ,リュウキュウアマモ,ベニアマモなどの大きな群落.アマモ類を餌にする特別天然記念物のジュゴンは,この海域で発見例が多い.沖縄島北東部の沖には藻場が存在し,そこにアオウミガメの大規模な餌場があるらしいことがこれまでの調査から推定される」とある.また,沖縄県による「自然環境の保全に関する指針」においても,最も評価の高い「ランクI」(自然環境の厳正な保護を図る区域)に指定されている.すなわち,生物科学の専門家のみではなく,国および県もこの海域の極めて高い自然的価値を認めている.<br> 辺野古の周辺は,良好な状態でサンゴ礁の生態系が守られてきた数少ない海域である.あえてそのような海域で大きな環境破壊を伴う事業を行うことは,日本の自然資源の多様性を自ら損ねる行為でもあり,持続的な国土の発展と整合する事業かどうかを慎重に検討する必要がある.&nbsp;<br><br>3. 辺野古における地質調査<br> 生物資源そのものだけではなく,その生息・生育環境を同時に考えることをジオコンサベーションでは重視する.たとえば新基地の建設が予定されている辺野古を例にすると,藻場や造礁サンゴのみならず,生物活動を支えるサンゴ礁地形・堆積物の保護・保全を問題にする.サンゴ礁の地形や堆積物は,地球の歴史の中で形成された自然史的な資源であり,いったん破壊されると,その回復には極めて長い時間を要する(短期的には不可逆的なものとなる).また,一連の事業はサンゴ礁の表面物質を破砕・拡散させ,破砕物による海水の混濁を引き起こす可能性がある.さらに,調査や建設工事に付随する騒音と海中の攪乱は,ジュゴンの行動に直接的な影響を与える可能性もある.&nbsp;<br><br>4. ジオコンサベーションからみた米軍基地移設問題<br> ジオコンサベーションにおいては,地球科学的資源ごとに,破壊からの回復に要する時間スケールを検討することが重要である.米軍基地移設問題の場合は,既存の米軍基地エリアと,新基地の建設が予定されているエリアの地質・地形を整理し,それぞれの地質・地形について破壊から回復に要する時間スケールを明らかにすることが,地球科学者の課題ではないだろうか.こうした基礎的な研究に立脚する形で問題解決への道を探っていくことを,地球科学者としては提言すべきであろう.さらに,地理学者には,ジオコンサベーションを踏まえた持続的な地域振興について,人文社会科学的な検討も求められよう.
著者
虫明 英太郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

文化産業は特定の大都市に集積する傾向が強いが,映画の撮影工程では,製作拠点の外部で<b>ロケーション撮影</b>(ロケ)が行われることが多い.日本では2000年以降,各地の自治体などが<b>フィルム・コミッション</b>(FC)を設立し,ロケ支援事業を開始したことから,ロケがロケ地にもたらす効果が注目されるようになった.しかしながら多くのFCが観光振興・地域振興の目的で設立されたこともあり,ロケ地に対する製作者側の需要や,ロケ地の地理的条件を踏まえた研究は不足している.本研究では,製作者とFCへの聞き取り調査をもとに,製作者がロケ地を選定する基準,FCに求めるサービスを把握した上で,FCの取り組みが製作工程にどのような影響を及ぼすのかについて分析する.また各地のFCが,製作拠点からの距離・地域内の景観など地理的な条件を踏まえつつ,どのようにロケを誘致し,ロケ作品を地域振興に活用しているのかについて考察する.<br>日本の映画産業では1960年代以降製作部門の合理化が行われ,固定式のオープンセットを備えた撮影所の閉鎖が相次いだことから,ロケによる撮影が増加している.ロケ地の選定は撮影前のプリプロダクションの段階で行われ,<b>「画」「予算」「許可」</b>の3点が選定条件となる.画に関しては他地域の景観を代替として利用することも多く,予算は撮影隊の滞在費・撮影準備期間の長さを規定する. 撮影許可については施設管理者や行政・警察だけでなく,周辺住民の理解を得ることも重要となる.映画の製作機能は東京への集積が著しいことから,ロケ地も関東地方に集中しているが,東京の都心部は撮影許可を得るのが難しく,日帰り圏内の市街地などを代替として利用することも多い.<br>FCはロケ地探索やロケハン・ロケの際に利用される.製作者はFCが<b>地域への「根回し」</b>を行い撮影交渉が円滑になることを期待するが,初期のFCは作品を利用した観光振興を目指し,製作者のニーズに応えられないことも多かった.しかし近年では,ロケ支援の経験を多く蓄積したFCは行政各部署・警察などへの交渉力を高めており,製作者とFCの職員との間でも人脈が形成されている.<br>現在国内には,全国組織のJFCに加盟する113のFCと,加盟していない241のFCが存在する. 東京から日帰り圏内の地域では映画やドラマに限らずテレビ番組などのロケの依頼も多く,著名な観光地に加えて学校や公共施設など「どこにでもありそうな景観」も求められる.また1回の遠征で複数のシーンを撮影しようとする製作者も多いことから,地域内の多様なロケ地の情報を提示できるFCに多くのロケが集まっている. 遠隔地では,「その地域でなければ撮影できないもの」が無い限り,ロケ地としての需要は少ない.自治体の出資によって観光地が登場する作品を製作する地域も存在するが,他の地域では許可を得にくい特殊な撮影を実現すること,ロケに対する地域全体の協力体制を整えることなどによって製作者の信頼を得て,「地域性が前面に出ない作品」も含めてロケを継続的に呼び込むFCもみられる.<br>FCはロケ支援経験を蓄積する中で「地域との結びつき」を強め,地域がロケ地に選定される可能性を高めている.すなわち<b>ロケ地情報の収集</b>により多様な画を提案でき,FCの取り組みを通して<b>ロケに対する地域の理解</b>が深まれば撮影交渉は円滑になる.また短期間でのロケ地探索・撮影交渉を可能にすることで,予算面でも製作者に貢献している. 継続的なロケ誘致を実現したFCでは,製作工程だけでなく映画産業全体に貢献する取り組みも行われている.すなわちロケ作品の公開時に関連イベントを開催することで,ロケ支援活動に対する地域のコンセンサスを形成しつつ,<b>宣伝の機能</b>を担うFCが増加している.また自主製作映画のロケ支援や上映機会の提供により,地域に根付いた<b>製作者の育成</b>を図るFCも存在する.
著者
山川 大智 泉 岳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1</b><b> はじめに<br></b><b></b>&nbsp;近年, UAV(無人航空機)の低コストかつ高解像度のデータ取得能力とSfM-MVS手法を利用し,災害現場やアクセス困難地での地表計測を行う研究(例えば,小花和ほか, 2014; 泉ほか, 2014; 飛田ほか, 2014など)が数多くなされている.一方で,既存研究では露頭のように傾斜がほぼ垂直の崖面を扱った研究はほとんど見られない.これは既存のUAVの自動航行ソフトでは崖面のステレオ画像を取得することが困難なことや基準点の設置や測量が困難であることが影響していると考えられる.<br>&nbsp;そこで本研究では,UAVを用いて露頭のステレオ画像を取得し,露頭の3次元モデル作成を試みた.その際,UAVの位置情報のみを使用した3次元モデル(UAVモデル)と露頭内のGCPの位置を与えた3次元モデル(GCPモデル)の2種類を作成し,精度の差についても検討した.<br> <b>2</b><b> 現地調査の概要</b><br>&nbsp;対象地域は神奈川県足柄下郡箱根町仙石原,箱根外輪山中腹の長尾峠露頭とした.選択理由としては,長井・高橋(2008)に地層構造が示されており比較・検討が行いやすいことや,露頭が小規模でUAVの手動フライト時の安全確保が容易であることなどが挙げられる.露頭全体を目視できる基準点をGNSS(Trimble GeoExplorer 6000XH)で測量し,そこからTS(トータルステーション, SOKKIA SRX3)で露頭内の6点のGCPの位置を測量した.<br>&nbsp;使用したUAVはDJI社のPhantom3 Professionalである.調査は2016年9月16,17日の2日間で行った.16日は撮影設定やフライト方法の検討や練習を行い,17日に撮影した2回分の各約120枚の画像を分析に用いた.フライトは手動で行い崖面との距離5mを目標で行い,概ねオーバーラップ75%以上,サイドラップ60%以上の画像を取得できた.SfM-MVS解析には,Agisoft社のPhotoScan Professional Ver.1.2.5を用いた.<br> <b>3</b><b> 結果と考察<br></b><b></b>&nbsp;カメラ画像の撮影位置の推定結果からUAVと崖面との距離は最大でも8m以下であり,取得した画像の解像度は最大でも0.36cmであることが分かった.17日の2回目の画像に基づく露頭の3次元モデルを図1に示す.3次元モデルを拡大し判読を試みると,直径約1cm未満の中礫以上の粒子の判別が可能であった.<br>&nbsp;露頭内の6点のGCPの位置をGNSSとTSで測量した結果を真値とし,位置情報の付加の仕方が異なる2種類の3次元モデル(UAVモデルとGCPモデル)上での6点の位置の推定値と比較した結果が表1である.GCPモデルの最小二乗誤差(RMSE)が0.16mなのに対し,UAVモデルのRMSEは21.84mと非常に大きい.これはUAVモデルの位置情報はUAVに搭載されている単独測位のGPSに依存しているためz方向や急斜面により視野が狭められているy方向の精度が悪いためと考えられる.ただし,UAVモデルはいずれの方向に対しても系統的な誤差が大きいため,3次元モデル自体の形状や大きさ,方位などの精度は悪くない可能性がある.そのため,2つの3次元モデル内で,長さや方位の計測を行い,比較をおこなった.その結果,長さの精度は両モデルともRMSEが0.15mで同程度,方位に関しても両モデルの差は0.1度未満であることが分かった。このことにより,絶対的な位置精度は高くないが,3次元モデルを用いて露頭の観察や計測を行うには,地上測量を行う必要のないUAVモデルでも十分な精度を持っていることが示唆される.<br><b>謝辞<br> </b>&nbsp;長尾峠でのUAVの撮影許可について,箱根町企画観光部企画課ジオパーク推進室の青山朋史氏に大変お世話になりました。記して謝意を表します。
著者
松岡 由佳
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.000121, 2018 (Released:2018-06-27)

精神疾患は,2013年度から日本の医療計画における五疾病の一つに位置付けられた.メンタルヘルスの問題がますます身近なものとなっている今日にあっては,医学的・心理学的な病理や心的メカニズムとともに,日常の様々な空間とメンタルヘルスとのかかわりを解明する必要がある.英語圏の地理学者は,1970年前後から,既にこうした問題意識のもとで実証研究に取り組み始めた.本発表の目的は,メンタルヘルスを扱う英語圏の研究動向を整理し,その主題や方法論を検討することを通じて,メンタルヘルスへの地理学的な視点の有効性と課題を提示することである. 戦後,ノーマライゼーション理念の進展と福祉国家の危機は,思想と財政の双方の側面から,精神病院の解体と地域におけるケアの推進を要請した.この大きな政策的転換は脱施設化と呼ばれ,1960年代頃から欧米各国で進展した.地域の小規模な施設やサービスの整備が求められる中で,その立地やアクセシビリティが研究課題となった.サンノゼやトロント,ノッティンガムなど北米やイギリスの都市を事例に,センサスや土地利用に関するデータから,サービス利用者の社会・経済的属性や施設の立地とその背景要因が分析された(例えば,Dear and Wolch 1987).施設立地をめぐる紛争や近隣住民の態度を取り上げた研究も同様に,変数間の関連性を分析する計量的手法に依拠していた. 医学地理学や公共サービスの地理の一潮流として興隆したメンタルヘルス研究は,1990年前後に主題や方法論の転機を迎える.地理学における文化論的転回や,健康地理学や障害の地理の台頭が背景となり,社会・文化地理や歴史地理などの幅広い視点から,政策の再編とロカリティ(Joseph and Kearns 1996),「狂気」の歴史(Philo 2004),精神障がい者のアイデンティティ(Parr 2008)といったテーマが取り上げられた.史料や文学作品の分析,インタビュー調査や参与観察などの質的手法が導入されるとともに,研究対象となる時代や地域,空間スケールが多様化した.近年は,以上のような精神障がいに着目する研究に加えて,精神的な健康を,貧困や剥奪などの社会環境や,自然や災害・リスクから検討する研究も登場した(Curtis 2010). 政策の転換に伴う現象を空間的に捉えた一連の研究は,1990年前後を境に主題や手法を多様化させ,個々の研究分野へと細分化する傾向にある.こうした点はメンタルヘルス研究の課題であるとともに,分野間に関連性を持たせ,より大きな枠組みから地理的現象を解明する上で,メンタルヘルスが有効な視点になりうることをも示唆している.文献Curtis, S. 2010. Space, place and mental health. Routledge.Dear, M. J. and Wolch, J. 1987. Landscape of despair: From deinstitutionalization to homelessness. Polity Press.Joseph, A. E. and Kearns, R. A. 1996. Deinstitutionalization meets restructuring: The closure of a psychiatric hospital in New Zealand. Health & Place 2(3): 179-189.Parr, H. 2008. Mental health and social space: Towards inclusionary geographies? Blackwell.Philo, C. 2004. A geographical history of institutional provision for the insane from medieval times to the 1860s in England and Wales: The space reserved for insanity. Edwin Mellen Press.本研究の一部には,平成28・29年度日本学術振興会科学研究費補助金(特別研究員奨励費:課題番号16J07550)を使用した.
著者
苅谷 愛彦 松永 祐 宮澤 洋介 石井 正樹 小森 次郎 富田 国良
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.113, 2008

<BR><B>はじめに</B><BR>長野県白馬村白馬尻と白馬岳山頂を結ぶ白馬大雪渓ルートは北アルプスの代表的な人気登山路である.しかし大雪渓の谷底や谷壁では融雪期~根雪開始期を中心に様々な地形・雪氷の変化が生じ,それに因する登山事故が例年起きている1).特に,広い意味での落石 ―― 岩壁や未固結堆積物から剥離・落下・転動した岩屑が谷底の雪渓まで達し,それらが雪面で停止せず,またはいったん停止しても再転動して≧1 km滑走する現象 ―― は時間や天候を問わずに発生しているとみられ,危険性が高い.大雪渓のように通過者の多い登山路では,落石の発生機構や登山者の動態などを解明することが事故抑止のためにも重要である.本研究では,大雪渓に静止画像データロガー(IDL)を設置し,地形や雪氷,気象の状態および通過者の行動を観察・解析した.<BR><BR><B>方法・機器</B><BR><U>IDL</U>:KADEC21 EYE II(カラーCCD,画素数2M).<U>IDL設置点</U>:大雪渓左岸谷壁(標高1730 m).方位角約240度,仰角約5度.<U>記録仕様</U>:2007年6月10日~8月7日の毎日.0330~1900JSTの毎時00/30分に記録(6月10日10時開始).<U>画像解析</U>:肉眼による静止画と疑似動画の解析(落石,通過者数,融雪,気象など).<U>関連野外調査</U>:5月上旬~10月下旬に地温観測や落石位置のGPS測量などを複数回実施.<BR><BR><B>結 果</B><BR><U>IDLの作動</U>:設置直後から正常作動していたが,8月8日以降停止し,無記録となった(浸水による回路損傷).<U>撮像状態</U>:レンズへの着水による画像の乱れや濃霧により,谷を全く見通せない状態が全記録(1767画像)の約21%あった.<U>融雪</U>:反復測量に基づく日平均雪面低下量は5月上旬~6月上旬に約14 cm,6月上旬~7月上旬に約12 cm,7月上旬~8月上旬に約17 cm,8月上旬~9月上旬に約24 cmだった.この傾向は画像解析でも確認された.登山者の増加する7月~8月に融雪が加速したが,主谷はU字型断面をもつため雪渓表面積の減少は著しくなかった.<U>気象</U>:上記のように,全画像の約1/5に降雨や濃霧の影響が認められた.しかし大雪渓下部での降雨や濃霧が大雪渓上部でも同時発生していたのか否かは不明である.一方,大雪渓上部のみでの霧や雪面での移流霧の発生が多かった.<U>落石</U>:画像の前後比較により,雪渓上に落下し,停止した礫が確認された.また,それらの一部には融雪の進行による姿勢変化や再転動が認められ,撮像範囲外に移動したものもあった.さらに,雪渓上に達したナダレや土石流堆積物に含まれていた礫の一部にも姿勢変化や転動が認められた.なお,滑走する礫が雪面に残す白い軌跡は画像では確認できなかった(現地観察によれば,明確な軌跡を残すような巨礫の滑走は5月上旬~10月下旬に生じなかった可能性がある).<U>その他の地形変化</U>:大雪渓上部の珪長岩分布域では落石が定常的に発生しているが,画像では確認できなかった.<U>通過者</U>:7月20日(金)まで日通過者は≦40名(画像不鮮明などによる解析誤差あり)だったが,21日(土)に61名となった.これ以降増加し,27日(金)に292名,28日(土)に253名を記録した.時間帯別累計では,6時以降に増えて8時30分~10時30分に最多となり,11時以降減少することが判明した.<BR><BR><B>主たる結論</B><BR>(1)雪渓には谷壁や支谷から礫が到達し,雪面を滑走するほか,雪面に停止した礫の再転動も生じる.(2)記録期間における大雪渓下部の視界不良率は約20%である.(3)遠隔山岳地における地形,融雪,気象および登山者のモニタリングにIDLは有効である.(4)定量解析のためにIDL画素数の増量のほか,新たに動画記録も望まれる. <BR>--------------------<BR>参考文献:1)小森2006(岳人),2)苅谷ほか2006(地質ニュース),3)苅谷2007(地学雑),4)Kawasaki et al. 2006(EOS Trans. 87(52) AGU 06Fall Mtg. Abst).<BR> ◆本研究は,東京地学協会平成19年度研究調査助成対象.
著者
上杉 昌也 樋野 公宏 矢野 桂司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO
巻号頁・発行日
vol.13, no.1, pp.11-23, 2018
被引用文献数
2

<p>本研究は,居住者の社会経済的な属性に基づいて近隣地区を類型化したジオデモグラフィクスデータを用いて,社会地区類型による手口別の窃盗犯発生パターンの特徴を明らかにするものである.東京都市圏の12都市を対象とした分析の結果,社会地区類型による空き巣・ひったくり・車上狙いの窃盗犯の発生パターンの違いを明らかにした.またこの社会地区類型は,地区の建造環境や都市間の差を統制しても犯罪発生に対して一定の説明力をもっており,特に空き巣において顕著であった.これらの知見は手口に応じた防犯施策の重点地区の特定など,近隣防犯活動へのジオデモグラフィクスの活用可能性を示すものといえる.</p>
著者
岡本 有希子 長澤 良太 今里 悟之 久武 哲也 小林 茂
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.10, 2007

<BR> 日本軍は,1928年以降空中写真による地図作製を本格的に開始し,第二次大戦中も各地でこれを実施した.これらの写真は,かなりが終戦時に焼却されたが,2002年9月アメリカ議会図書館で発見された.翌2003年には,このうち標定が可能と思われるもの723枚をスキャンして持ち帰り,この一部について中国製衛星写真と比較対照しつつ標定に成功し(安徽省五河付近),すでに分析がこころみられている(長澤ほか, 2005, 岡本勝男, 2007).本発表は、さらに残されていた空中写真について、とくにその方法と撮影地域を報告する.<BR><B>1. 標定の方法</B><BR> 空中写真に付された地名はごく簡略なため,地名辞典によりまず関係する地域を特定した.スキャンした空中写真をプリントし,これを飛行コース(東西方向)ごとにはりあわせて特徴的な地形を観察してから,Google Earthによって類似のものを探した.拡大縮小が容易なGoogle Earthでは能率的に作業を進めることができ,ひとまとまりの飛行コースの標定はほぼ一日で終了した. <BR><B>2. 撮影場所</B><BR> 図1にそれぞれの位置,表1にひとまとまりの飛行コースの北西・南西・北東・南東隅の緯度経度を示す.緯度経度は暫定的にGoogle Earthにより読み取ったもので,今後の本格的な標定の参考にするものである.撮影地域は農村部にかぎられ,特徴的な農地パターンがみられた.またGoogle Earthにみられる湖岸線や農地パターンと比較すると,大きな変化がみとめられ,解放後の中国における土地開発の進行がうかがわれた.今後は本格的な標定をおこなうとともに,オルソ化などもすすめたい.
著者
川久保 篤志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.6, 2004

1.はじめに<br> 日米間の農産物貿易で長年の懸案であったオレンジの輸入自由化(1991年)が実施されてから10年余りが経過した。自由化前には,輸入の増加による日本の柑橘農業への悪影響やわが国の青果物流通業界の再編や海外農場への進出,外資系企業の日本進出など様々な予想がなされたが,現実にはどのように推移したのか。<br> 本発表では,自由化後のオレンジ生果の輸入動向の特徴を統計的に把握し,そのような変化が生じた要因を,わが国のオレンジの流通・消費事情の変化から探ることにする。<br><br>2.自由化後のオレンジ生果の輸入動向<br> 図1は,1980年以降の日本のオレンジの輸入量を国別に示したものである。これによると,自由化後の変化として次の2つが指摘できる。1つめは,輸入量は自由化後の4年目にあたる1994年をピークに減少基調にあることである。2002年には自由化が政治決着した1988年の水準をも下回っている。2つめは,減少基調のなかでアメリカ産のシェアが低下し,輸入国が多様化してきたことである。これは,アメリカ産の流通の端境期にあたる8_から_11月にオーストラリア・南アフリカ共和国など南半球産のオレンジの輸入が増加してきたことによる。しかし,このような変化は既に1971年に自由化されているグレープフルーツにはみられず,日本特有のオレンジ流通・消費事情が反映されたものであるといえる。<br><br>3.自由化後のオレンジの流通・消費事情<br> 自由化前のオレンジは完全な供給不足で買い手市場の状況にあり,政府から割り当てられた輸入枠の大小が輸入業者の利益の大小にほぼ直結していた。このため,自由化後は多くの社・卸売業者・小売業者が競って輸入業務に参し,一部の商社や小売業者ではアメリカのオレンジ農場に資本提携や契約栽培といった形で直接関わる動きもみられた。しかし,多くの輸入業者は日本での販売先を確保してから輸入するのではなく,輸入後に探したり,とりあえず卸売市場に流すといった販売方式を取っていた。このため,過剰輸入が港湾倉庫での在庫と鮮度の低下・腐敗をもたらし,販売価格が輸入価格を下回ることも生じた。<br> このような流通業者の需給バランスを無視した過剰輸入は,自由化前の希少価値のある高級品としてのオレンジのイメージを一挙に崩壊させ,自由化当初に目玉商品として設定された低価格をさらに下回る価格が近年では定着することになった。また,消費そのものが減少傾向にあることについては,健康食品しての評判が定着したグレープフルーツに外国産柑橘のトップ<br>銘柄を奪われたことや,自由化後にバレンシア種からネーブル種に輸入の主力品種が変化することで日本の中晩柑類との時期的競合が激化し,競争に敗れたことが大きな要因である。今や小売店におけるオレンジは,グレープフルーツに次ぐ外国産柑橘,日本産柑橘のシーズン終盤にあたる3・4月の主力柑橘,として果実コーナーで販売される商材になってしまったのである。<br>
著者
設樂 律司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.4, 2004

<b>1.はじめに</b><br>近年、中心商店街では停滞、衰退化が問題となり、様々な活性化策が講じられている。従来の中心商店街の活性化では、ハードが重視される傾向があったが、次第にソフトが重視されるようになり、地域イベントなどが広く行われるようになった。本研究は商店街の活性化を目的とする地域イベントを多面的な視点から評価し、また、地域イベントが効果を挙げるプロセスを明らかにする。<br>本研究は江戸期以来、西多摩地域の中心都市として栄えたが、現在は中心地機能が衰退している東京都青梅市のJR青梅駅周辺の商店街を対象とし、そこで行われている地域イベントを主とした商店街の活性化策を取り上げた。既存の統計や文献資料、現地調査結果を用いて商店街の特徴を把握した後、地域イベントの運営主体と商店会および市役所への聞き取り調査および現地での地域イベントと景観の観察の結果から、地域イベントとその主体および地域がどのように関わるのかを時間的に把握し、それら3者の関係の中から内発的な地域イベントによる商店街の活性化の構造を明らかにした。<br><br><b>2.青梅宿アートフェスティバルによる街おこし</b><br>商店街が衰退する中、青梅駅周辺の商店街では、各商店会が単独で、あるいは共同で独自の地域イベントなどの活性化策を講じてきたが、効果は上がらなかった。そのような中、商店街の経済的な活性化を目的として1991年に始められた青梅宿アートフェスティバルは商店街を観光地化させる大きな契機を生み出した。青梅宿アートフェスティバルは青梅宿アートフェスティバル実行委員会と各商店会によって運営され、毎年設定されるテーマに沿って市民参加的なアートが街全体を舞台にして行われている。テーマは1993年から大正・昭和をコンセプトとし、1998年頃からノスタルジィーをキーワードとするようになった。青梅宿アートフェスティバルが継続されていく中で、様々な地域資源が掘り起こされ、新たな地域資源が生み出されるなかで、街おこしが始まっていった。街おこしが始まっていくとマスコミによって青梅にいくつかの地域イメージが与えられた。それらの地域イメージに合わせて、掘り起こされた地域資源を活用した街づくりが展開された。それらの結果、青梅は映画の街、怪傑黒頭巾生誕の地、猫の街、雪女縁の地、昭和レトロな街として街づくりがされた。<br><br><b>3.青梅宿アートフェスティバルの効果</b><br>青梅宿アートフェスティバルの経済効果は当日も期間外もあまりない。しかし、青梅宿アートフェスティバルを通して形成された人的ネットワークが多様な効果をもたらした。青梅宿アートフェスティバル以前は、各商店街で閉じていたネットワークが、青梅宿アートフェスティバルの継続とともに、青梅宿アートフェスティバル実行委員会のネットワークと接続し、開かれた2段階のネットワークを形成するようになった。この結果、青梅宿アートフェスティバル実行委員会内のコミュニティが強化された。このネットワークは青梅駅周辺の商店街に共同の意識を持たせ、各商店会単独ではできないような事を実現した。開かれたネットワークは街おこしのきっかけとなった地域資源の掘り起こしを可能にした。開かれたネットワークはさらなる街おこしを可能にした。また、開かれたネットワークを通して、地域外交流が生まれた。ネットワークがさらに広がったところでは、マスコミによって地域イメージが創成された。
著者
武者 忠彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>なぜリノベーションが都市再生につながるのか</b><br>都市の再生という現象は,これまでもジェントリフィケーションやコンパクトシティの視点から大きな関心が寄せられてきた.国内では商業振興の事例を分析するアプローチが中心であったが,1998年の中心市街地活性化法の施行以降は,行政の活性化計画や開発規制などの制度面に着目した研究も蓄積されてきた.ところが,現実の都市をみると,商業振興中心のまちづくりや行政主導の計画的なまちづくりは,今や全国各地で機能不全に陥っている.これに対して,近年大きな注目を集めているのが,民間主導で中心市街地の既存ストックを次々と利活用して都市を再生する「リノベーションまちづくり」とよばれる取り組みである.こうした必ずしも計画的ではないまちづくりが全国で同時多発的に生じているという現象は,商業振興や制度の分析を中心に展開してきた従来の中心市街地研究とは全く異なるアプローチが必要であることを示唆している.実際,個別建築物のリノベーションという点の動きが,なぜ計画することなく連鎖的に展開し,場所全体の価値が高まる面的な都市の再生につながるのか,その機序については当事者の間でも十分に理解されていない.<br><br><b>創造的人材と都市再生</b><br>これに対して,報告者は長野市で実施した予備的な調査から,リノベーション建築の入居者にデザイナーなどの創造的職業やU・I・Jターン者の比率が高くなっているという事実に着目し,「リノベーションは単なる建築的価値の再生ではなく,建築を媒介とした創造性に富む外部人材の定着であり,それが都市の再生にもつながる」という仮説的な知見を得ている.こうした創造的人材が都市の再生要因となるという議論は,1960年代に始まるジェントリフィケーション研究のほか,近年ではフロリダらによる創造都市論でも展開されているが,創造都市論は,あくまで創造階級とよばれる人材の数と都市の経済的成長を表す指標との統計的相関に関心があり,そうした人材がなぜ,どのように集積し,都市の成長につながるのかというプロセスは十分に理解されていない.<br><br><b>「創造都市化」仮説と「都市の文脈化」仮説</b><br>本研究では,リノベーションによる都市再生のプロセスについて,下の表1に整理した2つの仮説をもとに分析を進めている.「創造都市化」仮説とは,空洞化した中心市街地では都市的アメニティが充実している割に低コストで経営・居住可能な建築物が潜在的に多く立地しているため,リノベーションを通じてそれらの空間資源が可視化されることで,都市的環境を好む創造的な職種の人材が連鎖的に流入するというものである.一方,「都市の文脈化」仮説とは,特定の産業集積や歴史的地区など空間的文脈が共有された範囲において,建築のリノベーションによって空間がリデザイン(再創造)されることで空間的文脈が継承・強化され,その価値を共有する地域コミュニティが再構築されるというものである.報告では,アンケート調査で得られたデータをもとに,仮説を検証する.
著者
鷹取 泰子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

■研究の背景・目的 <br>農林水産省の農産物地産地消等実態調査によれば、2010年世界農林業センサスで把握された全国16,816の産地直売所の92.9%が常設施設利用型であり、朝市等の常設施設非利用型は7.1%に過ぎない。後者の場合、初期投資が少ない等の利点があるほか、近年では軽トラックを活用した市場(軽トラ市)などの直売形態が全国各地で認められる。また同調査では地場農産物販売にあたり「高付加価値品(有機・特別栽培品)の販売」への取組状況が相対的に低いと報告されている一方、大西(2012)のような、有機・特別栽培品を中心に取り扱う直売活動の事例は全国各地で観察・注目される。そこで本研究では常設施設非利用型の直売所、および高付加価値品を取り扱う直売所の活動について、その存在意義を明らかにしながら、直売所がローカル・フードシステムに果たす役割や展開について明らかにすることを目的とする。<br><br>■事例地域概観 <br>本研究では北海道十勝(総合振興局)管内の屋外型の有機直売市場を事例として取り上げる。同管内は日本で有数の大規模農業経営が展開され、食料供給の重要な拠点として機能している。北海道の大規模畑作農業地域は、井形ほか(2004)が指摘するように加工原料などを主たる生産物とする産地形成の中で、直売や契約栽培などによる環境保全型農業の推進が難しい地域の一つでもある。<br><br>■帯広市の直売市場(マルシェ)の概要 <br>今回事例としてとりあげる直売市場(マルシェ)は商業施設(パン販売店)の店舗入口付近に設置される屋外型市場である。5月から10月までの約半年間、毎日2時間限定の営業である。創業60年以上のパン販売店は新しく旗艦となる店舗の開店に合わせ、有機農産物等を販売する直売市場の設置を模索し、帯広市内の有機農家Y氏に相談を持ちかける形で始まった。2013年に4シーズン目を迎えた市場は、有機農業や自然農法で生産された農産物やその加工品を販売する14軒の農家・農場からなる産直会によって運営され、シーズン中毎日2-4軒の農家が当番制で生産物の販売をおこなっている。<br><br>■常設施設非利用型の有機直売市場の存在意義 <br>十勝管内の直売所は2012年時点で45個所が確認されている中にあって、分散する有機農家が本市場に参集し、有機や特別栽培品を志向する消費者の来店を促し、両者の出会いや交流の場としての役割を果たしている。またとくに本事例の場合、パン販売店の強力なバックアップと協力体制が直売市場を支える大きな基盤である。限られた季節・短時間の営業、当番制の販売形態では各農家の販売金額に占める割合はさほど大きいものではない。しかし既存の商業施設との協力しながら常設施設を利用しないことによる経済的負担の軽減等の効果は大きく、農産物の量り売り販売等とあわせコスト削減が実現できている。結果として慣行品よりは割高な値段設定をした場合でも、他所で販売される高付加価値品(有機・特別栽培品)に比較した場合の低価格を実現できている。これらが一部の購買層に評価され、少量多品目で珍しい品目の販売も生かしつつ直売市場の魅力や強みを生んでいた。<br><br>■今後のローカル・フードシステムの展開の可能性 <br>地産地消をめざし地元農家と協力しながら地場産農産物の積極的な活用を実現してきたパン販売店と有機農家のネットワークにより支えられる直売市場の存在は、国の農業政策の中に位置づけられる十勝管内にあって、経済的な意義は大きいものではない。しかしながら近年、直売所の競合や需要の飽和状態という課題が諸分野から指摘されている状況で、例えば直売所の差別化を探る方策の一つとして、あるいは2011年の東日本大震災の発生に際し、直売所によって支えられるローカル・フードシステムが非常時の食料供給に重要な役割を果たしてきたという報告(大浦ほか(2012))なども踏まえながら、ローカル・フードシステムの中に積極的に位置づけること等でさらなる展開の可能性が見込まれるだろう。<br><br>■文献<br>井形雅代・新沼勝利 2004. 北海道大規模畑作地帯における環境保全型農業の展開--津別町の有機,減農薬・減化学肥料タマネギ生産を事例として.農村研究 99: 82-90.大浦裕二・中嶋晋作・佐藤和憲・唐崎卓也・山本淳子 2012. 災害時における農産物直売所の機能―東日本大震災被災地のH市直売所を事例として―. 農業経営研究 50(2): 72-77.大西暢夫 2012. この地で生きる(6)にぎわいを創り出す支え合いの朝市: オアシス21オーガニックファーマーズ朝市村(名古屋市・栄).ガバナンス 137: 1-4.<br>
著者
土`谷 敏治 高原 純 平林 航
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

Ⅰ.はじめに<br> 本来鉄道は,通勤・通学,買い物,通院,観光,用務などの諸目的を実現するため,その目的地に到達する移動手段の1つであり,鉄道に乗車すること自体が目的ではない.しかし,諸目的のうち観光については,鉄道が単なる移動手段だけではない場合が考えられ,鉄道そのもの,あるいは鉄道に乗車することが観光の目的となりうる.新納(2013)によると,鉄道をはじめとする乗り物は,①観光地への移動手段,②観光資源をみるための移動手段,③それ自体が観光資源となるものの3つの位置づけが可能であるとしている.すなわち,①は他の目的達成のための派生需要に過ぎないが,②と③は鉄道自体が目的の本源的需要であるとする.<br> 静岡県の大井川鐵道は,旧国鉄の蒸気機関車が全廃された後,SL列車の運行を最初に復活させ,さらに定期的に運行していることで知られる.収支面や技術面などさまざまな側面からの検討がなされた結果,1976年にSL列車の大井川本線での運行が開始され(白井,2013),明らかにSL列車自体を観光資源と位置づけた経営をしている.しかし,これまで利用者に対して,その属性や観光利用の特色について調査したことがないという.これを踏まえて,本研究では大井川鐵道のSL列車利用者について,その諸属性,旅行目的とその特色を調査・分析し,利用者の側面から大井川鐵道の観光利用の特色と今後の課題について検討することを目的とする. <br><br> Ⅱ.調査方法<br> 今回の調査は,大井川鐵道のSL列車利用者,すなわち,観光目的での大井川鐵道利用者を対象としている.このため,調査は2013年10月19日(土)と20日(日)の2日間にわたって実施した.両日は,いわゆる秋の観光シーズンの週末,土曜日と日曜日に相当する.また,大井川鐵道でもこの日から11月末までを観光シーズンの重点期間と位置づけており,19日に観光シーズンに向けての列車ダイヤ改正を実施した.<br> アンケート調査は,2日間3往復6列車の車内で,利用者に調査票を配布し,利用者自身が記入する方式で回答を求めた.主な質問項目は,年齢・性別・居住地等の利用者の属性,個人・家族・団体等の同行者構成,旅行日数,大井川鐵道乗車回数,観光の目的などである.また,SL列車の利用パターンを明らかにするため,SL列車の停車駅間で,乗車中の旅客数を数え,輸送断面を作成した.<br><br> Ⅲ.調査結果の概要<br> 2日間の調査によって,SL列車の旅客輸送断面とその特色が明らかになるとともに,アンケート調査の結果,503人から有効回答がえられた.<br> 1.SL列車の利用は,往路の下り千頭行きが中心で,上り新金谷行きは往路の半分程度以下の利用である.また,ツアー客を中心に,新金谷・家山間の区間利用がみられ,上り列車利用促進,全区間乗車促進策が求められる.<br> 2.SL列車の利用者は,いわゆる中高年の女性中心という観光客の一般的特色に比べ,広い年齢層にわたっていることが明らかになった.また,鉄道が対象ということもあり,比較的男性の利用者が多い.その居住地は,愛知県,三重県,岐阜県など中部地方が多く,距離的に大きな差がない東京都,神奈川県など南関東からの誘客が課題である.<br> 3.SL列車利用者の旅行目的は,SL列車に乗車することに集中しており,SL列車以外の観光目的への誘導が必要である.<br> 4.SL列車利用者は,一人旅をはじめ,夫婦旅行・家族旅行・友人同士などの個人旅行と,旅行会社のツアーやグループ旅行などの団体旅行に2分される.前者は,大井川鐵道までの交通手段として,家族旅行を中心に自家用車の利用が多い.ただし,夫婦旅行や一人旅のように同行者人数が少ないとJR線利用が増加する.後者は,ツアーバス利用が基本である.また,団体旅行に比べ個人旅行では,SL列車乗車以外の旅行目的の割合が高まる.<br> 5.SL列車利用者は約1/4が再訪者で,比較的リピーター率が高い.さらに,再訪者ほどSL列車乗車以外の旅行目的をもつ場合が多い.<br> 以上の結果から考えられる今後の課題としては,区間利用の対策として,蒸気機関車はもちろん,旧型客車,駅や検修設備を含めた大井川鐵道全体の特色・魅力をこれまで以上に利用者に伝え,車内・駅での見学の機会を増やすことが求められる.SL列車乗車に偏重した旅行目的,片道乗車への対策として,沿線・沿線以外の静岡県内の観光地・観光施設の活用・連携と広報,ツアーを企画する旅行会社への働きかけ,JR各社との協調,各種マスメディアの活用も重要である. 参考文献<br>白井昭 2013.保存鉄道とは技術と文化の継承である。(インタビュー).みんてつ44:20-23.<br>丁野朗 2013.観光資源としての地域鉄道.運輸と経済73(1):10-17.<br>新納克広 2013.鉄道経営と観光 ―派生需要と本源需要―.運輸と経済73(1):4-9.&nbsp;
著者
中澤 高志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2004, pp.50, 2004

1.目的<br>ある地域における女性労働のあり方は,その地域が持つジェンダー文化を如実に反映し,その地域の空間分業への組み込まれ方と密接に関連する(マッシー,2000).また,ある人が辿るライフコースは,どのようなジェンダー文化を持つ地域に生まれ,育ったかによって異なってくるだろう.膨大な蓄積を持つ女性労働の研究の中で,その地域差に目を向けた研究は必ずしも多くないが,戦後についてはKamiya and Ikeya(1994)や禾(1997)などがある.本研究では,大正期の日本における女性労働がどのような地域差を持って展開していたのかを明らかにするとともに,そうした地域差をもたらす要因を探ることを目的とする.本研究の成果は,現代日本の女性労働の地域的パターンが歴史的にみて連続性を持つものか否かを検討する基礎ともなるものでもある.<br><br>2.資料と時代背景<br>本発表では,第一回国勢調査をもとに女性労働の地域差を把握し,いくつかの資料を使いながらそれを説明してゆく.第一回国勢調査が行われた大正9年は,第一次世界大戦の終結直後に当たる.当時日本では,第一次大戦時のドイツやイギリスにおいて,男性が戦場に赴くことによる労働市場の逼迫を,女性労働力の動員によって対処したことに国家的な関心が向けられていた.もとより大正期は,近代化の進展による新しい職業の誕生と,大正デモクラシーを背景に,「職業婦人」が登場し始めた時代である.その一方で紡績工場などにおける「女工哀史」的な状況は,いっこうに改善していなかった.第一回国勢調査の結果概要を記した『国勢調査記述編』でも女性労働に関する記述は多く,当時の女性労働に対する関心の高さが伺える.<br><br>3.分析<br>女性の年齢5歳階級別の本業者割合をもとに,クラスター分析によって都道府県をグルーピングすると,都道府県は3_から_7つのグループに分けられる.ただし労働力化率のカーブは,大都市に位置する都道府県を除くと基本的にどれも台形で,台の高さがグループの違いとなっている感が強い. <br>女性労働力化率を規定すると思われる変数を説明変数とし,年齢5歳階級別の労働力化率を被説明変数とする重回帰分析を行ったところ,全年齢層について農家世帯率の高い地域ほど労働力化率が高かった.労働力化率が大都市とその周辺で低く,農村部で高い傾向は,戦後の研究の知見と一致する.20歳未満の若年層については,大規模工場に勤める者が多く,女学校卒業者割合が小さく,染織工場出荷額が高い地域で労働力化率が高くなっており,若年女性労働力と繊維工業地域との関係が示唆される.<br>当時,大都市における職業婦人の登場が社会現象となっていたにもかかわらず,大都市における女性労働力化率はどの年齢層でもきわめて低い.大都市の労働力化率の示すカーブは,丈の低いM字型か,現代の高学歴女性にみられる「きりん型」に近いものといえる.東京市について,年齢階級別の労働力化率を配偶関係別に分けてみたのが図1である.これをみると,30歳代以降では,女性労働力のかなりの部分が離別・死別者によって担われていたことがわかる.東京市では,死別・離別の女性の実数も多く,こうした女性達が生活の糧を得る為に他地域から流入していた可能性もある.当時は結婚規範および結婚適齢期規範が強く,30歳代以上で未婚の女性者は少ない.しかしこうした女性の労働力化率は高く,公務・自由業を職業とする者が多い点が特徴的である.労働力化率の高いグループに入る茨城県では,既婚者の労働力化率も15-19歳から50-54歳までのすべての年齢階級で60%を上回っている.ところが東京市における有配偶女性の労働力化率は,最も高い40-44歳でも10.2%でしかなかった.当時の大都市圏における女性労働は,生活の為にやむを得ず働くという性格が強かったと考えられる. <br>〈文献〉<br>禾 佳典1997.東京の世界都市化に伴う性別職種分業の変化.人文地理49:63-78.<br>マッシー,D.著,富樫幸一・松橋公治訳2000.『空間的分業』古今書院.<br>Kamiya, H., Ikeya, 1994. Women's participation in the labour force in Japan: trends and regional patterns. Geographical Review of Japan Ser.B 67: 15-35.<br>
著者
西井 稜子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.253, 2006

高山帯の稜線付近には等高線と平行するように伸びる小崖(凹地)がしばしば認められ,重力性の変形地形として認識されている.近年では大規模地すべり・大規模崩壊といったマスムーブメントとの関係が指摘されている.山地斜面における複雑な斜面変動の実態を明らかにするためには,個々の小崖地形の成因に対して詳細な検討が必要である.そこで本研究では複数の小崖が存在し,その成因が清水ほか(1980)により検討されている飛騨山脈三ッ岳周辺において,その分布と形態的特性を詳細に調査し,その成因を考察する. 2.調査地域調査地域は,飛騨山脈の中央部に位置する烏帽子岳から野口五郎岳にかけての,南北に伸びる主稜線周辺の斜面である.主稜線の標高は,約2,500 mから2,920 mである.主稜線の東斜面は,南北に走る高瀬川断層により基盤岩が脆弱化し崩壊が多く土石流が発生しやすい。最終氷期後半には野口五郎岳南西側斜面,南東側斜面,および三ッ岳北東側斜面に氷河が存在していたと考えられている(五百沢 1979).この地域の地質は,野口五郎岳と三ッ岳のほぼ中間部を境に北は奥黒部花崗岩,南は有明花崗岩からなる.この付近の更新世中期以降の隆起速度は約2.9_から_4.0 mm/年と推定されている(原山ほか 1991)。3.調査方法空中写真判読より小崖地形,崩壊地,氷河地形,周氷河性平滑斜面を認定し,地形学図を作成した.特に,小崖地形の位置は,現地調査により確認した.小崖が谷によって分断,あるいは凹地が埋積されている場合でも,両端の小崖の山向き斜面の走向傾斜がほぼ同じと考えられるものは連続する1つの小崖地形とした.また,1 m以下の崖において連続性に乏しく更に崖長が5 m以下の極端に短いものについては小崖地形とみなしていない.現地では地形の特徴を把握するため,小崖地形の横断形と縦断形の測量を行った.地質構造に関して,稜線付近の基盤の節理の走向傾斜を計測し,電研式岩盤分類法に基づいて,連続的に稜線付近の基盤の岩盤性状の分類を行った.また,数ヵ所の凹地においてピット掘削を行い,凹地内堆積物の分析を行った.4.小崖地形の配列パターンによるタイプ分け調査地域の小崖地形は,ほぼ南北に伸びる主稜線と大略平行に標高約2,350_から_2,920 mにかけて分布する.小崖地形の分布の配列パターンから大きく3つのグループに分けられる.稜線を挟む両側の斜面が急傾斜で稜線直下まで表層崩壊により谷頭侵食が進んでいる場所では,小崖地形が稜線付近に集中して分布する(タイプA),対称性を持つ稜線では,小崖地形は稜線を挟んで斜面中腹に対になって分布する(タイプB),斜面勾配が非対称の稜線では,小崖地形は緩傾斜の斜面に偏って分布する(タイプC),以上のタイプとは異なる,カールを切る小崖地形も存在する(タイプD).5.各タイプの形成メカニズムタイプAの範囲は,調査範囲の中で,最も岩盤の風化が進んでいる場所である.そのため,風化に伴う表層崩壊が稜線付近まで及び,稜線近くに40°以上の急勾配斜面が存在している.このような山稜上部の形態のため,稜線付近には引っ張り応力がはたらいていることが推測される.ここでの卓越する節理の方向は,凹地の方向とほぼ一致している.そのため,稜線に平行な節理に沿って,開口性の凹地が形成されたと考えられる.このタイプAの凹地の1箇所で,ピット調査を行い,堆積物中に含まれる有機物の年代測定を行った.その結果,1140±20 yrBP(パレオ・ラボ(株), PLD-5149)という値が得られた.この値は,タイプAの凹地のいくつかが,現在進行している崩壊作用に関連して形成されているものであることを示唆する.タイプBでは,山体の横断形と,小崖地形の位置が対称性をもつことから,山体上部の陥没によって小崖地形が形成されたことが推測される. タイプCでは,山体の横断形は非対称である.ここでは,急斜面側の侵食の進行により,稜線付近の不安定化が進んだと考えられる.節理の走向が凹地の伸びの方向と一致し,傾斜が高角度であるため,小崖に対して山側の斜面が相対的に落ちる正断層によって形成されたと考えられる.タイプDの小崖地形は,最終氷期後半に形成されたと考えられるカール内に分布する.この小崖地形は,他のものに比べ崖長,崖高が大きいが,周囲の起伏は小さい.最終氷期後半以降の氷河の後退に伴う応力解放により形成された可能性が考えられる.6.まとめ約8 kmにわたる稜線に沿って,小崖地形の分布と形態的特徴を調べ,形成メカニズムを推定した結果,地質の風化程度と,山稜の形状,氷河地形の有無により,山体変形のタイプが異なることが考えられる.
著者
藤岡 英之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

近年、葬儀には2つの大きな変化が起きたといわれている。1つは喪家近隣の人々の手伝いによって担われてきた葬儀の役務が葬祭業者によって代替されるようになったこと、そしてもう1つは、葬儀の場所が自宅から葬儀会館へ移行するという会場の変化である。この2つの変化によってもたらされる葬儀の地理学的な変化をみていくことが、本発表の目的である。<br><br> 地域共同体が担ってきた葬儀の役務は葬祭業者に代替されるようになったが、その進み方は一様ではなかった。東日本(甲信越から北関東、南東北)では比較的最近まで地域共同体の関与が大きく、これが現在でも葬儀費用における参列者や親族への「接待費用」の金額の高さ、さらには葬儀費用「総額」の高さとなって現れている。<br><br> こうした地域の性格を典型的に表している栃木県宇都宮市でも90年代半ば以降、それまでの自宅に代わって葬儀会館での葬儀が普及している。会館内でも受付は組内の仕事とされるなど、助力の習慣は一定程度維持され、手伝いへの返礼として通夜振る舞いや精進落としの会食も、告別式と火葬を済ませた後、再び葬儀会館に戻って行うのが習慣となっている。市内の葬儀会館は集積することなく、互いに一定の距離を保って設置される傾向にある。とくに2000年以降は、人口集中地域の縁辺に沿った立地が目立つ。<br><br> 葬儀の会館への移行によって葬儀の場所は自宅を離れることになった。この実態を明らかにするため、栃木県の地方新聞「下野新聞」のお悔やみ欄を使い、故人の自宅から葬儀の場所までの距離と、死亡日から告別式までの日数(間隔)を調べた。1995年1月に57%あった自宅葬は、2000年1月には25%、05年1月3%、10年1月は1件(0%)に減少、代わって民営の葬儀会館と市営火葬場に併設された式場(市営斎場)を合わせた利用割合は、40%から、74%、94%、98%へと増加した。<br><br> これによって、故人の自宅から葬儀の場所までの距離は当然ながら離れていくが、そのなかで民営の葬儀会館での葬儀の場合、自宅からの距離は3.4kmで経年的な変化はほとんどなかった。各会館の集客のパターンを調べても、多くが会館の周囲から集客しており、利用者側からみて最近接の会館とまでは言えないものの、自宅近くの会館が利用されていた。<br><br> 一方、これと異なる傾向を示したのが農協系葬祭業者の葬儀会館と市営斎場での葬儀である。農協系葬儀会館は、自宅からの距離が一貫して拡大する傾向にあるとはいえないが、自ら出資して組合員として参加する「農協」というブランド力により、他の葬儀会館に比べて利用者の範囲は広い。他方、市営斎場は、火葬場(「悠久の丘」)が2009年に郊外に移転したため併設式場も中心部からの距離は遠くなったものの、式場が2つに増設されて利用件数が大きく伸びた。2010年1月の利用割合は10%で、故人の自宅からの距離も平均5.5 kmと民営葬儀会館の1.6倍になっている。これには「安価さ」をアピールする「公営式場専門」の葬祭業者が新聞広告を掲載していることからも推測されるように、葬儀費用が影響していると考えられる。<br><br> ただし悠久の丘には、宇都宮市の葬儀習慣である火葬後の会食(精進落とし)のための場所がなく、火葬中の待合室で弁当を食べることをもって精進落としとすることが多い。火葬中の簡略化された会食でも問題のない、地域(共同体)との関係が希薄化した利用者が利用できる施設とみることができる。こうした利用者であれば、自宅やその周辺(地域)との距離は大きな問題にならず、遠方からでも利用が可能になる。<br><br> 死亡日から告別式までの日数は、とくに民営葬儀会館や市営斎場での葬儀においてその間隔が長くなっている。1993~2000年の間、自宅葬でもっとも多い間隔は各年とも2日だったが、民営葬儀会館では93年の2日から2000年までに3日が最多となってピークが1日分ずれた。2010年には4日以上が半数を占めている。利用が伸びている悠久の丘の式場でも、平均の間隔が4日に達した。こうした間隔の伸びは会館の空き具合によるものである。<br><br> このように、宇都宮市では自宅近くの葬儀会館の利用が続く一方で、より簡略化され費用も安価ながら、自宅から離れ、告別式までの待ち時間の長い葬儀が増えている。<br> <br>