著者
高橋 昂輝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

近年,エスニック・タウンの観光地化や機能の変化が指摘されてきた。時間の経過に伴い,エスニック集団の居住機能はエスニック・タウンから離脱するが,域内にはその後もエスニック・ビジネスなど一部の機能が残存する。したがって,エスニック・タウンはその形態を変えるものの,エスニック集団にとって一定の中心性を維持する。Zelinsky and Lee(1998)によれば,現代の都市においてエスニック集団は居住,就業など活動の内容に応じて異なる空間を利用しつつも,エスニシティを共通項として社会的な結合を保持する。エスニック集団の諸機能を要素として,一体のエスニック社会が形づくられることから,居住,エスニック・ビジネス,エスニック組織など各機能の空間配置を複合的に捉えることはエスニック社会の空間構造の変容を明らかにすることに通ずる。<br> 本発表で取り上げる,トロントのポルトガル系集団は移住から約50年を経て,世代交代期を迎えている。本発表の目的はトロントのポルトガル系社会における空間構造の変容を明らかにすることである。<br> 本発表は2012年10~11月,および2013年7~10月の現地調査にもとづく。調査方法には資料収集,聞き取り,質問票調査,景観観察,および参与観察を用いた。<br> 1960年代末~1980年代初頭,ポルトガル系社会の諸機能はトロントのダウンタウンに近接する,リトルポルトガルに集中した。しかし,1980年代以降ポルトガル系人の居住域は市内北部,および西部郊外へと集塊性を維持しつつ拡散した。現在,ポルトガル系人は①リトルポルトガルにくわえ,②市内北部,および③西部郊外にも居住核を形成する。1990年代末以降においては,居住地移動に呼応してエスニック組織が市内北部に相次いで移転した。<br> ポルトガル系事業所は,現在においてもリトルポルトガル内部に一定の集積を維持するものの,2003年以降ホスト社会住民が出店を続け,その数は減少傾向にある。都市のインナーエリアに対する,ホスト社会住民の再評価は地価の上昇を促進し,低所得のポルトガル系人を域外へと押し出している。ポルトガル系集団のリトルポルトガルからの拡散は,ホスト社会への同化過程としてのみならず,ホスト社会による閉め出しという観点からも捉えられる。また,域内の地域自治組織であるBIA(Business Improvement Area)では,2007年の創設以降ポルトガル系社会の中心人物が代表を務めたが,2012年において代表はカナディアンに交代した。まちづくりにおいても,リトルポルトガルからポルトガルのエスニシティは希薄化している。しかし域内の経営者のうち,ポルトガル系人は依然約半数を占め,リトルポルトガルはポルトガル系商業の核心地として機能を維持している。ポルトガル系経営者の大半は市内北部,または西部郊外から通勤する。他方,ポルトガル系顧客は買物のためにそれぞれの居住地からリトルポルトガルを訪れる。<br> 今日,トロントのポルトガル系集団は3つの居住核を中心に居住,就業,買物,組織への参加など活動の内容に応じ,複数の空間を利用する。ポルトガル系集団の諸機能は空間的に拡散したものの,それらはエスニシティに根差した社会的結合を維持しており,一体の空間的ネットワークを形成している。<br>
著者
植木 岳雪
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2010年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.128, 2010 (Released:2010-06-10)

はじめに 関東山地から関東平野に流れる相模川,多摩川,荒川などの河川は,氷期―間氷期サイクルに対応した河床変動(貝塚,1969)を示すことが知られている.すなわち,氷期には気温と海面の低下によって,上流部では堆積段丘,下流部では侵食段丘が形成され,河床縦断面は急勾配で直線状になる.一方,間氷期には気温と海面の上昇によって,上流部では侵食段丘,下流部では谷を埋める平野が形成され,河床縦断面は緩勾配で下に凸の形になる. 相模川では本流の上流部,支流の道志川で最終氷期に堆積段丘が形成された(相模原市地形・地質調査会,1986).堆積段丘の主体をなす本流性の礫層には御岳第一テフラ(On-Pm1)がはさまれ,箱根東京テフラ(HK-TP)あるいは姶良Tnテフラ(AT)にほぼ同じ高さの段丘面が覆われる.このことから,酸素同位体ステージ5cから3にかけて本流の上流部と道志川の谷が埋積されたことがわかる.また,HK-TPの降下後にいったん谷の下刻が生じたことが示唆される.一方,支流の中津川,串川の堆積段丘はHK-TPに覆われ,それらの河川では酸素同位体ステージ4には谷の埋積が終了していたことになる.また,支流の境川の谷中には角礫層が分布しているが,それは局所的なものとされている(久保,1988). 相模川と同様に,多摩川でも本流の上流部で最終氷期に堆積段丘が形成された(高木,1990).堆積段丘の主体をなす本流性の礫層にはHK-TP,最上部の支流性の礫層中にはATがはさまれることから,酸素同位体ステージ4から3にかけて本流の上流部の谷が埋積されたことがわかる.一方,支流では上流部まで侵食段丘が分布しており,最終氷期に谷が埋積されたかどうかは明らかではなかった. 本研究では,5万分の1地質図幅「八王子」の調査研究の一環として,相模川,多摩川の段丘の記載を行った.その中で,相模川の支流の中津川,串川,境川,多摩川の支流の浅川の堆積段丘の形成時期について,新たな知見が得られたのでここに報告する. 中津川・串川 中津川の堆積段丘(半原台地)と串川の堆積段丘(串川面)はHK-TPに覆われるとされていたが,HK-TPは段丘礫層中にはさまれることが明らかになった. 境川 境川の角礫層は谷を埋積しており,HK-TPが含まれていることがわかった. 浅川 浅川には侵食段丘が連続的に分布しているが,八王子市西浅川町,元八王子町,下恩方町では谷を埋積する礫層が見られる.下恩方町の礫層中の腐植のAMS14C年代は,10120+/-60 yBPであった. 相模川と多摩川の支流の堆積段丘の形成時期 相模川の支流の中津川と串川では,本流と同様にHK-TPの降下後の酸素同位体ステージ3まで谷の埋積が続いた.境川でもHK-TPの降下をはさんで谷の埋積が行われた.多摩川の支流の浅川では,谷の埋積が盛んであった時期はわからないが,完新世の直前まで谷の埋積が行われた所がある.このように,相模川,多摩川の支流でも,本流と同様に酸素同位体ステージ3にかけて堆積段丘が形成されていたことがわかった.境川や浅川で堆積段丘がほとんど分布しないのは,もともと堆積段丘の分布や谷を埋積した礫層の厚さが小さく,完新世の下刻作用で失われたためと思われる. 引用文献 貝塚(1969)科学,39,11-19;久保(1988)地理評,61A,25-48;相模原市地形・地質調査会(1986)相模原の地形地質調査報告書(第3報),相模原市;高木(1990)第四紀研究,28,399-411.
著者
木場 篤
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.60-69, 2019 (Released:2019-02-23)
参考文献数
22

地誌学習においてスケールの概念は重要であるが,教師・生徒ともに意識化することが難しい.本稿では,地誌学習にとっての「主体的・対話的で深い学び」を実現するために,「地理的スケール」を援用した協同学習の方法と効果を明らかにした.協同学習の具体的な方法は,ジグソー法を参考にして,個人をナショナルなスケール,小集団をリージョナルなスケール,学級全体をグローバルなスケールに反映させる学習活動を試みた.その結果,授業で扱う地域が社会的プロセスを通して形成されるようすを実感しながら,地域問題やグローバル・イシューの考察に取り組むことができた.本研究で取り上げた地誌学習は,政治地理的な視点を取り入れており,今後,地誌学習と同様に政治地理学習の発展も求められる.
著者
林 泰正 石田 雄大 山元 貴継
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.76, 2011

<B>調査の背景と目的</B><BR> 今回調査を行った伊勢市は,かつては「(伊勢)神宮」への参拝者で大きくにぎわっていたものの,近年では短時間での滞在にとどまる観光客が多くなり,「日本一滞在時間の短い観光地」という指摘も受けている.<BR> あらかじめ2009年6月28日(日)の終日行った調査では,伊勢市内の各所において,それらの場所に立ち寄っていた観光バスのナンバープレート記録をもとに,同市を訪れていると思われる観光バスがどのように市内をめぐっているのかを明らかにした(林ほか2010).そこでは,追跡できた192台の観光バスのうち127台が(伊勢)神宮「内宮」を訪れているものの,同じ神宮の「外宮」を経由したのは32台にとどまっていた.また多くの観光バスが,午前中には隣接する鳥羽市・志摩市から伊勢市方面へ,一方で夕方以降は,伊勢市から鳥羽市・志摩市方面に向かうことが確認された.このように,伊勢市を訪れている観光バスの多くが,実際には「内宮」周囲に立ち寄るのみで,そのまま宿泊などのために鳥羽市・志摩市方面に向かっていると想定された.<BR> そこで今回の調査では,こうした想定をもとに,伊勢市を訪れる観光バスツアーの関係者(バス運転手または添乗員)に対して,各ツアーが伊勢市内の観光地をどのように訪れているのか,また,同市以外の三重県内の都市をどのようにめぐるツアーを設定しているのかについて,その理由を含めた尋ねるアンケートを行なった.アンケートは,先の調査と条件を揃えた2010年6月27日(土)・28日(日)の両日に,「内宮」前駐車場にて実施した.<BR><BR><B>観光バスツアーと伊勢市内の観光地</B><BR> 今回,回答を得られた観光バスツアーは計150組であった.まず,それぞれの観光バスツアーについて,参加者の居住する都府県として最も多く挙げられたのは大阪府(30組),次に兵庫県(16組)となるなど,関西地方の居住者を対象とするツアーが多く占めた.これに愛知県(13組),岐阜県(11組)が続いた.ツアーの参加者の年齢層としては,50歳代,40歳代に偏って多かった.<BR> そしてアンケートからは,「内宮」を訪れていた観光バスツアーの中で,116組が「おかげ横丁」,89組が「おはらい町」にも立ち寄るよう,ツアーを設定しているとの回答が得られた.「内宮」に隣接しているこれらの観光地ですら訪れないとする観光バスツアーが現れており,続いて53組が「二見浦」,45組が「外宮」,23組が「二見シーパラダイス」,14組が「倉田山周辺」に立ち寄るとしたほか,「伊勢安土桃山文化村」などの伊勢市内の各観光地に立ち寄った観光バスツアーは一桁台にとどまった.これらの伊勢市内の観光地に立ち寄らなかった理由としては,ほとんどの観光バスツアーが「もともとコースに設定していない」と回答していた.とくに,6割以上と圧倒的に多くのツアーが伊勢市での観光への期待として「神社参拝」を挙げているにも関わらず,「外宮」にすら参拝していないことが明らかとなった.<BR><BR><B>周辺都市への観光との関係</B><BR> アンケートでは,観光バスツアーが伊勢市だけでなく,三重県内の他の都市をどのように訪れているのかについても尋ねた.その結果,ツアーの出発地から伊勢市に直行し,そのまま出発地に戻った27組を除いた123組が,伊勢市の前後に,三重県内の他の都市を訪れていた.とくに,伊勢市に続いて鳥羽市や志摩市に向かうといったように,伊勢市を訪れた後に県内の他の都市を訪れるコースを採る観光バスツアーが,相対的に多くみられた.<BR> そして,宿泊地についても,宿泊を伴っていた観光バスツアー計105組のうち,伊勢市内に宿泊地を求めていたツアーはわずか15組しかなかった.とくに,鳥羽市の存在が際だっており,宿泊を伴った観光バスツアーのうち74組が鳥羽市にも立ち寄っている中で,実に48組が同市に宿泊していた.伊勢市に宿泊地を選ばなかった理由としては,伊勢市以外の都市に宿泊した方が日程の都合が良いとする回答が最も多く,また,伊勢市内に良い宿泊施設が無いからという回答も多くみられた.<BR> 以上の結果からは,伊勢市をめぐっていると思われた観光バスツアーの多くが,実際には鳥羽市や志摩市などをメインに観光および宿泊する観光コースを採っている中で,「内宮」のみを訪れるために伊勢市に立ち寄っている可能性が高いということが明らかとなった.こうした,他の都市を含めた観光の中でますます,「内宮」を除いた伊勢市内の各観光地を観光バスツアーがめぐる時間が短くなっていることが想定される.<BR><BR>林 泰正,石田雄大,田中博久,山元貴継 2010. 三重県伊勢市をめぐる観光バスの動向.2010年度日本地理学会秋季学術大会.
著者
浅野 久枝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.57, no.8, pp.519-536, 1984-08-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
39
被引用文献数
1 3

本研究は,三宅島に従来から住む住民自身の民族科学に従って,主として地形に関する民俗分類を検出し,伝統的環境観の復元をめざしたものである.その結果,以下のことが明らかになった. 住民の民俗分類は,決して単一のものではなく,いくつかの体系が重なり合っている.例えば,地形に対しての分類では,少なくとも2種類の体系が見い出せる.地形的には同一の対象に対し,一方では地形的形態からの,他方では生業形態に由来した名称が与えられている.同様に,同じ海岸地形に対し,視点の位置の違いにより,陸上からみた名称と,海底からみた名称との2種の名称が与えられている.さらに坪田においては,地形の民俗分類が主にテングサ採取の知識とともに語られることから明らかなように,生業形態の違いも異なる体系を生み出しているとみることができる.近似した環境においても,その環境の利用および認織は旧村ごとに異なる場合が少なくない.住民の価値観が環境を選択するためであり,ここに環境と文化との相互関係も見い出すことができよう.
著者
熊原 康博
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

はじめに 群馬県北東部片品川流域では,活断層研究会編(1991)により,長さ約7km,北北東-南南西走向の東傾斜の逆断層が認定され,断層と片品川との位置関係から片品川左岸断層と呼ばれた.さらに,黒ボク土を変位させる明瞭な逆断層露頭の写真も載せている.中田・今泉編(2002)では,活断層研究会編(1991)の断層トレース周辺において,より詳細な位置を提示し,二本の断層トレースが平行にのびていることを示した.熊原(2015)は,右ずれ変位を示す河谷の屈曲や累積性をしめす形成年代の異なる河成段丘面の変形があること,断層長が30kmに及ぶことを報告した。本断層が片品川右岸にも連続することから,本断層を「片品川断層」と改称した。 一方,この活断層がどのような活動履歴をもつのかについては,全く明らかになっていなかった。本発表では,片品村築地地区においてトレンチ掘削調査を行った結果を報告する。 片品川断層の概要 断層の長さは30kmに及び,北端は片品村東小川,南端は沼田市(旧白沢村)高平である.全体としては,北北東-南南西走向であり,4~5本のトレースが左ステップしながら連続する。断層変位の向きは,河谷の屈曲から右横ずれ変位が認められるが,断層の走向が変化する箇所や,トレースの末端部では,段丘面上に撓曲崖が存在することから,一部では逆断層性の変位も確認できる。 サイトの地形とトレンチの概要 トレンチ掘削調査は,片品川左岸沿いの高位段丘面上の撓曲崖で行った。この段丘はフィルトップ性の段丘で支流に沿って段丘面が連続する。垂直変位量は8.8mであった。トレンチは,長さ8m,最大深さ3.5mである。 トレンチ調査の結果 トレンチ壁面からは,地表下には榛名二ッ岳伊香保降下テフラ(Hr-FP,6世紀前半),礫混じりのクロボク土がトレンチ全体で認められた。その下位には,断層変形を受けたクロボク土と礫層の互層が認められ,低角な断層面が2本認められた。下位の断層面(F1)はほぼ水平であり,クロボク中に挟まれる礫層を約2m変位させている。F1を覆うクロボク土は,上位にある断層面(F2)によって変位を受けている。F2はHr-FP下位の礫混じりクロボク土に覆われる。従って,最も新しいイベントはF2によるものであり,おそらく一つ前のイベントはF1によるものと考えられる。ただしF2に沿っては,上盤側に,高位段丘面構成層と見られる礫層の褶曲構造が随伴し,変形の程度が大きいことから,F1の断層変位よりも前にもF2に沿った断層変位があったと見られる。 活動履歴の検討 地層中に含まれる有機質のクロボク土のAMS C<sup>14</sup>年代測定に基づくと,F2の変位を受けている地層から5300-5040 cal BP (Beta-394829),変位後の地層から 8185-8035 cal BP (Beta-394828)の年代値を得た。F1の変位を受けている地層から10225-10160 cal BP (Beta-394827),変位後の地層から17025-16780 cal BP(Beta-394826)を得た。したがって最新イベントの発生時期は5040-8185 cal BP,一つ前のイベントの発生時期は10160-17025 cal BPとなる。 現状ではイベントの年代幅が広く,再来間隔は単純には2000-12000年間隔となってしまうが,5000年前以降活動していないことを考えると,少なくとも2000年間隔よりは長くなるであろう。現在追加の年代測定を依頼しており,発表時にはその結果も加味する予定である。 &nbsp; 文献 活断層研究会編(1991)『新編 日本の活断層』;中田・今泉編(2002)『活断層詳細デジタルマップ』;熊原(2015)地理科学学会春季学術大会発表 <b>謝辞 </b>本調査にあたっては,基盤研究(C)課題番号26350401(代表者熊原康博)の一部を用いた。
著者
黒木 貴一 品川 俊介
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

<br>台風第18 号や前線による平成27年9月関東・東北豪雨では,7 日から11 日までの総降水量が関東地方で600mmを越える場所があった。中でも茨城県の鬼怒川では,破堤,溢水により40km<sup>2</sup>以上が浸水し,全半壊家屋5500棟以上,死者3人が出た。この被害に関して破堤・溢水・漏水個所を中心とする被害状況全般,浸水範囲と微地形に関して報告がなされた。この浸水はハザードマップで予想された範囲で生じたとされるが,破堤を除き,浸水の始まりとなった段丘面上の浸水や遍在する堤防の漏水箇所など,治水地形分類図の情報からは予測が難しい弱点も確認された。そこで本研究では,既存成果を参考に鬼怒川の破堤・溢水・漏水箇所に関し,河川の微地形との空間関係を地形量を鍵に明らかにし,氾濫に注意が必要な河川条件を検討した。
著者
松井 秀郎 竹内 淳彦 田邉 裕 濵野 清 吉開 潔
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.シンポジウムの趣旨 1)新学習指導要領における地誌学習(諸地域学習)の拡充 平成25年度からいよいよ高等学校での新学習指導要領が完全実施となる。なかでも地理Bでは、三つの大項目の中で「(3) 現代世界の地誌的考察」を設け、諸地域の地誌的な学習内容を充実し、また、「地誌的に考察する方法」を身に付けさせることも重要なねらいとされている。 内容の取扱いでは「アで学習した地域区分を踏まえるとともに,様々な規模の地域を世界全体から偏りなく取り上げるようにすること。また,取り上げた地域の多様な事象を項目ごとに整理して考察する地誌,取り上げた地域の特色ある事象と他の事象を有機的に関連付けて考察する地誌,対照的又は類似的な性格の二つの地域を比較して考察する地誌の考察方法を用いて学習できるよう」とされ、これまでのいわゆる静態地誌,動態地誌に加えて、比較地誌の方法によっても考察することが求められている。 2)地理学における地誌研究などの衰微と再興への方途 高等学校での地理教育において、地誌学習が拡充される一方で、地理教育の根幹となる地理学における地誌研究や方法論としての地誌学の衰微が著しい。宮本昌幸・武田泉によれば地誌学を専門とする日本地理学会会員数は減少し、題名に地誌と明記した著書・論文や学会発表も低調な状況にある。 このような問題意識から、地誌学の興隆期から地誌学に強い関心を抱きつつ研究を続けてこられた先生方や、高校教育現場の長として地理教育に力を入れておられる校長先生、全国の学校での地理教育・社会科教育の指導を進めている教科調査官の参加を求めて、本シンポジウムを地誌研究などの再興に向けた講演と総合討論の場としたい。2.講演内容の概要 (1)濵野 清:「新学習指導要領における地誌学習の位置付け」 新学習指導要領における地誌学習重視の視点は、小・中・高等学校を貫く改訂の柱である。学力の重要な要素として基礎的・基本的な知識、技能の習得が求められる中、日本や世界の諸地域に関する地理的認識を養うための学習が、改めてその学習指導要領の内容として位置付けられることとなった。 ここでは、とりわけ大項目レベルで内容構成が変更された中学校と高等学校に焦点を絞り、その概要を確認したい。 (2)竹内 淳彦:「いま、地誌を考える」 「地誌」は正しい地方づくりのための基本である。"地域性の解明と記述"を目的とする地誌の基本は田中啓爾の研究に見られ、田中の「指標をもとにした地域性の解明」と動態的な「地位層」の考えこそが地誌研究のベースとなる。これらをもとに地域区分、域の重層、シンボルなどが検討される。「地誌」の充実のためには、学界、教育界、行政挙げての強力な取り組みが不可欠である。 (3)田邉 裕:「私の受けた地誌教育から考える」 1950年代の大学では、多田先生が外国地誌、福井先生が自然地誌、飯塚先生が「日本と世界」を中心に地誌全般を講じ、1960年代のレンヌ大学ではフランス地誌を受講した。共通する特徴は系統的・画一的でなく、「そこはどのような所か」を明らかに出来るような地域性の指摘から入っていた。自分がヨーロッパ地誌を講ずる立場になって、網羅的でありながらトピック的な地誌とその順序性の論理構築を心がけた。 (4)吉開 潔:「私の体験的地誌教育論」 グローバル人材の育成やリベラルアーツの重視など、総合的な知識・思考力を求める最近の教育動向は、地誌学及び地誌教育の活性化に資するものといえる。かつて高校地理教師として世界地誌を指導したとき、大学で地誌関係講座を履修した経験が活きた。新学習指導要領で地誌学習が充実された今こそ、地誌学研究者と中・高地理教師が連携・協力して、魅力ある地誌授業の開発・実践に取り組んでいく必要がある。
著者
西山 弘泰
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.92, 2008

1.はじめに 郊外の一戸建て住宅は,住宅双六に代表されるように,終の棲家と位置付けられ,その住民の転出入については不問に付されてきた.居住遍歴の通過点として位置づけられていた公団の賃貸住宅は,1960年代を中心とした地方からの人口流入に対応するため,1960年代後半から1970年代前半にかけて大量に供給が行われた.しかし,公団の賃貸住宅はこれらの膨張した都市人口に対して十分な住宅供給ができたとは言えない.ファミリー向けの民営借家も借地借家法などの法制度によって供給は極めて少なかった.一方,公団の賃貸住宅やファミリー向け民営借家の補完的役割を担っていたのが,郊外にスプロールを伴って建設された狭小で低廉な戸建住宅である. 本報告では,主に1970年前後に開発された敷地面積100_m2_以下の戸建住宅が密集するミニ開発住宅地を事例として,住民の入れ替えとその特徴を明らかにする.2.調査概要 本報告は敷地面積100_m2_以下の戸建住宅の割合が55.1%と高い,埼玉県富士見市関沢地区の3つの番地を事例として,計151筆の土地と建物の登記簿と住宅地図の居住者表示の分析が主である.当地域では1998年に登記内容がコンピュータ化されたため,1998年以前は閉鎖登記簿の閲覧を,1998年以降は登記事項証明書を発行した.A番地は1966年に開発され総戸数は40戸,平均敷地面積40.17_m2_で現在までに約3分の2が建替えを行っている.B番地は1971年に開発され,総戸数は48戸,平均敷地面積は82.89_m2_で現在までに約半数が建替えを行っている.最後にC番地は1977年に開発されたものが主で,総戸数は63戸,平均敷地面積は98.70_m2_で現在までに約4分の1が建替えを行っている.各番地の最寄り駅は,東武東上線みずほ台駅と鶴瀬駅で,各番地から両駅へは徒歩13分程度の距離にある. なお,不動産登記簿の所有者と住宅地図の居住者表示の整合性については,住宅地図の表記に即応性がなく1,2年の表記の遅れはあるものの,ほぼ一致している.よって,関沢地区においては,所有者の変更は居住者の転出入とほぼ同義である.また,国勢調査の結果からも,ほぼすべての戸建住宅が持家であることも明らかとなっている.3.結果A番地では1966年から現在まで,計184回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと124回の所有権の移転であった.これは一筆あたり平均で3.1回の所有権移転があったということを示している.1966年の開発時から現在まで同一の所有者は1筆で,現所有者を除く,平均所有年数は約5年であった.所有者変更が活発なのは1960年代後半から1980年代前半までである. B番地では,1971年から現在まで,計126回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと107回の所有権の移転であった.一筆当たりの平均所有権移転数は2.1回であった.入居当時から現在まで同一の所有者は12筆で,A番地と比べると滞留率は高いものの,約半数で1980年までに所有者移転があった.B番地の所有権移転の特徴は1990年以降の所有権移転が16回と,A番地の7回に比べて多いことである. C番地では,1971年から現在まで,計94回の所有権移転が確認できた.そのうち業者や相続・贈与に伴う所有権移転を除くと83回の所有権の移転で,一筆当たりの平均所有権移転数は1.3回と他に比べると大幅に少ない.また,7割以上が開発時から現在まで滞留しており,所有権の移転は格段に少ない.なおC番地の居住者の前住地は4割が富士見市内であることが国勢調査より明らかになっている. 以上,各番地の所有権移転数の違いは開発時期,敷地面積,居住者の年齢などが密接にかかわっていると考えられる.また,A番地やB番地のように,1960・70年代に所有権移転が多かったのは,ファミリー向け民営借家の不足,急激な地価の高騰,低廉な価格といったことも背景としてあると考えられる.
著者
中林 一樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2005, pp.75, 2005

1.中越地震の特徴 中越地震は、新潟地震(1964)の40年記念の年に発生した。10月23日午後5時56分、わが国観測史上2回目の「震度7」の強い揺れと、3回に及ぶ「震度6強・弱」の強い余震が引き続いた。被害は、死者40人(震災関連死を含む)、負傷者2,860人、全壊大破家屋3,250棟、半壊5,960棟、一部損壊家屋は75,500棟以上に達した。引き続く余震は、多くの人を自宅外に避難させ、ピーク時は10万人を超えた。 特徴的な被害は、崖崩れや宅地崩壊などの被害である。元々「山崩れ地帯」である中越地域ではあるが、主震や余震の震源直上の中山間地域では、棚田や養鯉池が山腹に拓かれた(外部との連絡道路である)幹線道路や斜面に建つ家屋とともに大崩落した。いわば「山塊崩落」が至る所で発生し、斜面全体が「ゆるみ」、情報的に交通的にも「孤立集落」が多発した。さらに、崩落した大量の土石が河川を埋め、「自然ダム」が発生し、谷筋の集落をせき止められた泥水が水没させた。こうして、山古志村では「全村避難」を行い、その他の被災地でも孤立集落や自然ダム下流の集落などが「全集落移転」を行った。 地震から2ヶ月後に、雪が降った。3000戸の応急仮設住宅が配置も工夫され、積雪以前に完成したことは幸いであった。阪神・淡路大震災の教訓でもあったが、地域(集落)の絆は驚くほど強く、避難所においても、応急仮設住宅においても、「地域」毎にまとまって入居している。4ヶ月の冬を迎え、春以降の本格復興への話し合いが進められた。2.台湾集集地震との比較とその被災地復興の基本方向 台湾集集地震(1999)の被災状況と共通する被災様相を呈している。中山間地域が主に被災し、台湾の震災復興では「社区総体営造」という概念が、その復興の基本となっている。これは、「地域社会の総合的なまちづくり」という計画理念である。被災地では住宅再建と産業復興を、埋もれていってしまった地域の文化の再興や新しい産業の創出など、ソフト・ハード両面からの地域主体の復興への取り組みである。3.中越地震における中山間地域の復興の基本方向 幸い、中越地域は、養鯉業や魚沼産コシヒカリ米という「名産品」を生む地域であり、地域がほこる「闘牛」文化もあり、この地域には他の中山間地域にはない経済力と地域力があるように思われる。しかし、高齢社会の進展した積雪地域であることは、阪神・淡路大震災とも異なる復興プログラムを提供することになる。個々の生活再建には、「被災者生活再建支援法」と「新潟県による生活再建支援」諸制度による支援が基本となるが、孤立集落や山塊崩落に巻き込まれた集落では「防災集団移転事業」などによる移転型「集落復興」を必要としよう。その基本は、動いた山塊や傾斜地の「土留め」と「道路再建」という中山間地域のインフラ復興である。本格復興には相当の長期化が予想される。その間の台風災害による複合災害化が再び発生すると、その復興はさらに長期化するかもしれない。市町村合併による行政体制の変化とともに、注目していなければならない、復興過程の課題であろう。 もう一つの広域的な課題として、温泉観光やスキー観光などの「風評被害とその復興」も大きな課題となっていることを忘れてはならない。
著者
小池 拓矢
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

<b>1.</b><b> </b><b>はじめに<br></b> これまで、観光回遊行動に関する研究においては、観光地を訪れている観光者に対するアンケート調査やGPSロガーを用いた調査により、観光者がどのようなルートをたどってどこを訪れたのかについて、分析が行われてきた。これらの分析においては、主に観光施設内や観光地間での観光者の典型的な移動パターンや、距離や時間などの回遊行動を規定する要因などについて明らかにされてきた。一方、実際に観光者を誘引している個々の観光対象のもつ属性や観光対象間の関係性について、議論の対象となることは少なかった。しかし、情報入手手段や観光者の旅行形態が多様化した現代における観光行動を把握するためには、観光対象の本質的な特徴を捉えることが必要となるだろう。そこで、本研究では観光対象の特徴が観光行動にどのような影響を与えるのかを明らかにする。<br><b>2.</b><b> </b><b>研究方法<br></b> 本研究では、観光者の回遊行動を把握するための第一段階として、定期観光バスなどによるパッケージツアーにおいて、それぞれのツアーの訪問地について分析する。具体的には、「はとバス」ホームページ上のツアー検索を用いて、日帰り・宿泊のツアーがともに存在する東京発長野行きのバスツアーについて整理した。<br><b>3. </b><b>結果<br></b> 検索の結果得られた16ケースのツアーを対象に、訪問地の整理をした。まず、特徴的であったのが、観光入込客数の多い観光地である善光寺(2位)や上田城跡(8位)がすべてのツアーで訪問地になっていなかったことである(括弧内は長野県主要観光地の平成24年度観光入込客数の順位)。必ずしも観光入込客数の多い観光地を訪問地として選択しているわけではなかった。また、図1はすべての訪問地の位置を特定できた8ケースのツアーについて、最初の訪問地から最後の訪問地までの行程を直線でつないだものである。図1からは、多くのツアーが県の外縁部で行われていること、上高地にツアーの訪問地が集中していることなどがわかる。 今後は、他の地域や他の旅行会社のツアーの分析、マイカーによる個人での旅行における訪問地の分析を通して、観光行動においてそれぞれの観光対象がもつポテンシャルを明らかにする。
著者
フルガラ ラナトゥンゲ 井上 吉雄 三上 岳彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2006, pp.71, 2006

ENSO related spatial and seasonal variation in rainfall regimes in Laos was investigated using the Factor Model (FM). A 3-Factor Model (FM) with statistically significant t-values identifies the three seasonal rainfall regimes, which can be characterised as wet, dry, and inter seasons rainfall. Influences of ENSO were significant during the wet season, and apparently a significantly lower rainfall during the wet seasons. The wet season rainfall found to be most important in restricting upland rice farming in Laos. Significant correlation coefficients are found between rainfall and upland rice production. Importantly the ENSO related rainfall largely controls the upland rice production in Laos.
著者
蝦名 裕一
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2016年度日本地理学会秋季学術大会
巻号頁・発行日
pp.100102, 2016 (Released:2016-11-09)

1.はじめに 本研究は, 江戸時代の絵図や明治期の地籍図といった絵図資料に基づいて, 人工改変以前の地形や景観を復元し, これを用いた歴史災害の分析を実施するものである.今日, 我々が目にしている景観は, いわゆる河川改修や護岸工事などの人工改変によって, 本来の自然地形とは大きく異なっている場合が多い. 今回は, 1611年の慶長奥州地震津波に関する歴史記録・伝承が残されている宮城県岩沼市と岩手県宮古市を対象とする. 両地域の江戸時代の絵図や明治期の地籍図を用いて地形を復元し, この復元地形をふまえて歴史記録・伝承の妥当性を検証していくことにする. 2.歴史資料に基づく地形復元 2.1 宮城県岩沼市の地形復元 岩沼市地域の地形を示す史料として, 1662年(寛文2年)に作成された『田村右京亮知行境目絵図』(仙台市博物館所蔵)がある. これによれば, 「岩沼町」の南側で阿武隈川は一度分岐して再び合流していることがわかる(蝦名2011). さらに, 現在の阿武隈川の川筋となっている流れには「新川」と記されており, 内陸側の川筋がかつての本流であることがわかる. ここに描かれている中州は, 現在の岩沼市吹上地区であり, 従来は亘理郡の領域であったが1947年に当時の岩沼町に編入された地域である. すなわち, かつて阿武隈川の本流はより内陸側, より千貫山に近い地点を流れていたことが確認できる(図1). 2.2 岩手県宮古市の歴史地形の復元 岩手県宮古市の市街地は閉伊川の河口部に位置している. 閉伊川は市街地の南側を西から東に流れており, 山口川が横山八幡宮付近で合流している. 宮古地域の歴史地形の復元にあたっては, 下記の絵図資料を使用した. ①1857年「御領分海陸分間絵図」(もりおか歴史文化館所蔵)…1857年(安政4年)に盛岡藩が作成した絵図 ②1874年「陸奥国閉伊井郡宮古村書上絵図面」(岩手県立図書館所蔵)…1874年(明治7年)の宮古村絵図. 地租改正事業にともなう地券取調地引絵図として作成されたものと考えられる. ③1916年「5万分1地形図」…1916年(大正5年)に大日本帝国陸地測量部が測図したものである. ①, ②, ③の絵図を比較した時, 最も特徴的なのが閉伊川の可耕地形の変化である. ①・②の段階で描かれている閉伊川の河口が, ③の段階では埋め立てが進み, 砂州が地続きとなっている. (蝦名ほか2015)また, 閉伊川は横山八幡宮付近で大きく蛇行するとともに, 山口川は市街地の中心を経て閉伊川に合流するなど, 河川の流路が現代とは大きく異なっていることが確認できる. (図2) 3.慶長奥州地震津波の記録・伝承の検証  1611年12月2日(慶長16年10月28日)に発生した慶長奥州地震津波は, 現在の東北地方太平洋沿岸に大きな津波被害をもたらした. 徳川家康が記した『駿府政事録』という史料には, 伊達政宗の家臣が語った話として, 政宗の家臣らが舟で沖に出ていた時に津波に遭遇し, 「千貫松」と呼ばれる松の側まで流された, と記されている. この「千貫松」は, 現在宮城県岩沼市南部の千貫山付近の地名であると考えられる. また, 『古実伝書記』という史料には, 慶長奥州地震津波の際, 閉伊川を河川遡上した津波が小山田・千徳まで到達, 小山田から八木沢に向かう道に五大力舟が流れ着いたと記されている. さらに, 宮古市田の神には平成元年に建立された「一本柳の跡」という碑があり, 江戸時代に発生した津波によりかつてこの場所に存在した一本柳に舟を繋ぎ止めたという伝承が記されている. これらの史料・伝承にみる津波痕跡地点であるが, いずれも2011年に発生した東日本大震災における津波浸水範囲よりさらに内陸部に位置している. この事実のみでは, 慶長奥州地震津波の地震規模は東日本大震災のそれを上回るものであったといえる. しかし, 復元地形を元に考えた場合, これらの津波到達点は①『駿府政事録』の記述は, かつて千貫山寄りを流れていた阿武隈川の旧流路, ②『古実伝書記』に記される小山田-八木沢間の津波到達は小山田の山沿いを流れていた閉伊川の旧流路, ③かつての宮古町の市街地を流れていた山口川の旧流路を, 津波が河川遡上していた可能性によって説明することができる.
著者
山内 昌和 江崎 雄治 西岡 八郎 小池 司朗 菅 桂太
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2009, pp.109, 2009

<B>課題</B> 沖縄県の出生率は、少なくとも沖縄県が日本に復帰して以降、都道府県別にみればもっとも高い値を示す。2007年のTFRは全国の1.37に対し、沖縄県は1.78であった。<BR> 沖縄県の高い出生率の背景に夫婦の出生力の高さがあることは知られているが(例えば西岡・山内2005)、さらに踏み込んだ検討はほとんどなされていない。こうした中で、Nishioka(1994)は、1979年に沖縄県南部地域で行われた調査データをもとに、沖縄県の夫婦の出生力が高いのは家系継承者として父系の長男に固執するという家族形成規範があることを実証した。同研究は沖縄県にみられる出生行動とその要因を指摘した重要な研究といえる。しかし、近年の沖縄県の出生率が低下傾向にあることを踏まえるならば、現代の沖縄県の出生率の高さを沖縄県特有の家族形成規範で説明できるのかどうか慎重であるべきだろう。他方、Nishioka(1994)は言及していないが、沖縄県の高出生率は人口妊娠中絶率の低さとも関わっている。このため、妊娠が結婚・出産に結びつきやすいことも沖縄県の高出生率の一因となっている可能性がある。<BR> 以上を踏まえ、本研究ではNishioka(1994)で利用された調査データの対象地域を含む地域で改めて調査を実施し、近年の沖縄県における出生率の高さの要因について検討する。<BR><B>方法</B> 出生行動を把握するための独自のアンケート調査を実施し、その結果を分析する。アンケート調査は調査員の配布・回収による自計式とし、20~69歳の結婚経験のある女性を対象として2008年10月下旬から11月中旬にかけて実施した。対象地域は沖縄県南部のA町の複数の字であり、全ての世帯(調査時点で1,838)を対象とした。<BR><B>結果</B> 調査票は20~69歳の結婚経験のある女性1,127人<SUP>1)</SUP>に配布し、有効回収数は946(83.9%)であった。<BR> 分析対象とした調査票は、有効票のうち、Nishioka(1994)や全国の出生行動についての調査結果(国立社会保障・人口問題研究所2007)との比較可能性を考慮し、夫婦とも初婚であり、調査時点で有配偶であること、子どもの数とその性別構成が明らかであること、さらに複産・乳児死亡を含まないという条件を満たす706である。分析の結果、以下の点が明らかになった。<BR>(1)45~49歳時点の平均出生児数は2.9人で全国の2.3人(国立社会保障・人口問題研究所2007)よりも多かったが、1979年の4.7人(Nishioka1994)よりも減少した。<BR>(2)かつてみられた強固な男児選好は弱まっていたが、夫ないし妻が位牌を継承した(或いは予定のある)ケースでは男児選好が強く、多産の傾向がみられた。このため、沖縄県特有の家族形成規範と出生行動との関連は弱まっているものの、依然として一定の影響を与えていることがわかった。<BR>(3)第1子のうち婚前妊娠で生まれた割合が全体で4割を超え、明瞭な世代間の差もみられなかった。このため、妊娠が結婚・出産に結びつきやすい傾向は少なくとも数十年間は継続していると考えられる。<BR> 以上から、沖縄県の高出生率をもたらしている夫婦の出生力の高さの要因として、沖縄県特有の家族形成規範と妊娠が結婚・出産と結びついていることの2点を挙げることができる。ただし、沖縄県特有の家族形成規範と出生行動との結びつきは弱まっており、今後は沖縄県の出生率がさらに低下する可能性もあろう。<BR> なお、本研究の実施に当たって科学研究費補助金(基盤研究B)「地域別の将来人口推計の精度向上に関する研究(課題番号20300296)」(研究代表者 江崎雄治)を利用した。<BR><BR>1) 対象地域の1,838世帯の全てに調査を依頼し、協力を得られた1,615世帯(87.9%)に対して聞き取りを行い、対象者を特定した。<BR>
著者
荒木 俊之
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.560-566, 2018 (Released:2018-12-29)
参考文献数
9
被引用文献数
2

本稿では,都市計画基本問題小委員会において審議された「都市のスポンジ化」を取り上げて,それに関する研究動向,小委員会での議論の結果として提示された中間とりまとめを概説し,「都市のスポンジ化」に対する地理学的アプローチの有効性を検討した.現在,「都市のスポンジ化」の実態は,ほとんど明らかにされていない.また,それに影響を受けるであろう立地適正化計画は,都市圏の範囲で作成することが求められる一方で,「都市のスポンジ化」は街区単位の問題としてミクロな視点から捉えることが必要であり,それぞれ扱うスケールが異なっている.そのため,筆者は,都市圏を対象に,まずはマクロな視点から都市の低密度化を捉え,そのうえでミクロな視点から「都市のスポンジ化」の実態を明らかにする地理学特有のマルチスケールによる地域特性の把握が,その手法として考えられると示した.
著者
阪上 弘彬 川端 光昭
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
E-journal GEO (ISSN:18808107)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.549-559, 2018 (Released:2018-12-29)
参考文献数
22
被引用文献数
1

近年,地理と土木の連携が注目されており,また土木技術者の育成において地理を学ぶことの重要性が指摘されている.本稿の目的は,高等専門学校(以下,高専とする)における地理と土木が連携したモビリティ・マネジメント教育(以下,MM教育とする)の学習単元開発・実践を示すこと,およびそれを踏まえて高専地理が土木と連携してMM教育に取組む意義について示すことである.岐阜市におけるコンパクトシティ構想を題材に,政策提案者の立場から,LRT導入の影響を持続可能な開発の観点から判断し,交通政策を提案する学習単元を開発し,実践した.開発・実践を踏まえて,地理が土木と連携してMM教育に取組む意義として,土木技術者の育成と公民的資質の涵養双方に貢献できる点,地理の学習成果が土木の学習においても活用できることを学生に気付かせることができる点,街づくりをより実社会のやり方に即して学習することができる点を指摘した.
著者
前田 健一郎
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2002, pp.94, 2002

全国レベルでの規模拡大が進んでいない現状の中で、新潟県頚城村では経営規模の拡大が進んでいる点に注目し、規模拡大が展開している要因を考察することを本報告の目的とした。1969年以降からはじまった減反政策のさらなる強化や近年のさらなる米価の低迷は、全国的レベルで水稲作農業経営を困難なものとして、その対応に苦慮しており、低湿地を広く持つ頚城村でも例外ではなかった。畑作物の導入が困難な村の農業経営の安定にとっては、水稲作の大規模化が迫られている。このような状況のもとで、一部の個別経営農家や農業法人では積極的な経営規模の拡大が展開している。農地の流出元は「浜」の少ない面積を所有する多数の農家、「在」の大きな面積を所有する少数の農家が挙げられるが、近隣である上越市周辺の就業機会の深化とともに流動面積を伸ばした。
著者
田代 雅彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

<br><br><b>1.はじめに</b><br><br>福岡は、札幌、仙台、広島とともに地方圏での広域中心都市(地方中枢都市)に位置づけられている。バブル経済崩壊後、日本経済が長期の低迷にあえぐ中で、福岡は国内でも相対的に&ldquo;元気な&rdquo;都市と言われ、発展を続けた結果、最近ではいわゆる「札仙広福」から一歩抜けだし、一部の事象では東京、大阪、名古屋という三大都市に迫る勢いを見せている。<br><br>本研究では、福岡の1990年以降の動向について、人口のみならず産業、交通、アジアとの関係、コンベンション、イベントなど多方面のデータより分析し、広域中心都市・福岡の発展要因について分析する。<br><br>&nbsp;<br><br><b>2.</b><b>九州の中枢都市として発展する福岡</b><br><br>福岡の発展要因の1つは、九州という背後圏の存在である。九州は、北海道や東北、中四国など他の地方圏と比較して、人口規模の大きな県都クラスの都市が、域内に分散的に位置している。九州では1990年代に、7つの県都が高速道路で結ばれ「九州クロスハイウェイ」が完成、2000年代には九州新幹線が完成した。福岡に本社を置く西鉄バスやJR九州は福岡を中心とするネットワークを整備、両者が競合することで利便性が高まった。結果、地方圏では規模の大きな九州が、1つのマーケットとして機能するようになり、その中心都市として福岡が発展することとなった。<br><br>福岡は、大都市圏に流出する若者を九州域内にとどめる「ダム効果」を果たし、学生や若い女性が多く若者へのサービス集積がさらに若者を呼び込む好循環を形成している。<br><br>&nbsp;<br><br><b>3.</b><b>アジアとともに発展する福岡</b><br><br>2つにはアジアとの近さと連動した発展である。福岡市は1989年にアジア太平洋博覧会「よかトピア」を開催し、アジアとともに発展する方向性を打ち出した。当時アジアとの連動は希薄だったが、東アジアが急速な経済成長を遂げる中で、福岡空港の国際線ネットワークは充実、博多港の国際港湾化も進み、交通結節点や各種都市機能がコンパクトに整備された福岡はアジアの玄関となっていった。<br><br>また、アジアなど国際市場をターゲットにした自動車産業をはじめとする大企業の主力工場が、九州各地に相次いで立地・拡大し、九州経済はアジアとの連動性を高めていった。同時に豊かになったアジアからの入込も増加した。九州がアジアと連動して発展した結果、九州の中枢都市である福岡も国際都市として発展した。<br><br><b>&nbsp;</b><br><br><b>4.福岡は&ldquo;日本の第4の大都市圏&rdquo;へ</b><br><br> 福岡は、東京や大阪、京都などとともに各種の世界都市ランキングに登場することが増え、世界的にも国際都市として認知されるようになった。このランキングには札幌、仙台、広島はもちろん名古屋でさえ登場は稀である。<br><br>この福岡の発展は、交流人口に支えられている。国際コンベンション開催件数は東京に次いで2位。2003年には日本医学会総会が三大都市圏以外では初めて福岡で開催された。著名アーティストの公演(ライブ)でも、札幌、仙台、広島を大きく引き離し、名古屋に迫る勢いである。<br><br> 福岡は、三大都市圏とは異なるコンパクトさが特色であり、人口減少社会に向かう日本において、新しい大都市のモデルとなることが期待されている。
著者
中川 清隆 榊原 保志 下山 紀夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.43, 2007

<BR> 筆者らは、第2筆者を代表者とする任意団体「気象情報を教育に利用する会」を結成して、「気象情報画像取り込み・表示ソフト」の普及に努めてきた。旧版ソフトを公開して4年が経過し、(1)静止気象衛星の交代(GMS5→GOES9→MTSAT1)、(2)気象庁の画像圧縮形式変更(jpeg形式→png形式)、(3)気象庁および広域定点観測実証コンソーシアムのURL変更等が相次いだため、デザインやコンセプトは旧版を踏襲するものの、コーディングそのものは全く新たにやり直して、大幅な改訂を行ない、改定版を作成したので、その概要を報告する。<BR> 2005年6月のMTSAT正式運用後、日本気象協会の画像の領域が気象庁実況天気図領域をはるかにしのぐ領域に拡大されたのを利用して、画像ビュアーサブソフト(第1図)の実況天気図全域と衛星画像の重ね合わせを可能にするとともに、画像観察ウィンドウを3画面に増設した。これにより、旧版では基本画面と観察画面との比較しかできなかったのに対して、改訂版では3種類の衛星画像同士とか3箇所のライブカメラ画像同士等、様々な画像を比較することが可能となった。<BR> 発表当日、「気象情報を教育に利用する会」入会手続者にソフト入りCDを先着順に実費配布する。また、既存会員にはメール添付ファイルにより改訂版ソフトを送付する体制を整備する予定である。