- 著者
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小泉 賢吉郎
- 出版者
- 文教大学
- 雑誌
- 文教大学国際学部紀要 (ISSN:09173072)
- 巻号頁・発行日
- vol.9, no.2, pp.79-115, 1999-02
The purpose of this article is to offer an alternative explanation as to why and how Japan was able to become a technological power. My approach is a cultural one. I first examine how the Japanese regarded imported technology historically in the context of a traditional, premodern society. It was adopted and applied freely and without external economic, political, or cultural restraints. This situation abruptly changed after Japan's encounter with the West in the latter half of the 19th century. Threatened, as China had been, by Western colonization, Japan came to form a national view, a framework, a methodology and goal defined as Eastern Ethics and Western Technology, which meant to them that Japan is superior in morality, but the West excels in technology. This framework subsequently evolved into a self image or self definition under the label Japanese Spirit and Western Knowledge. These key words or national mottos made it possible for Japan to import Western things while retaining their culture and values. It led to a wholesale copying of Western technology for the purpose of catching up with the West. And catching up with the West technologically was essential if Japan was to retain its national independence. This was a convenient framework, but at the same time it greatly limited the development of technology in Japan. It meant Japan viewed technology only in the same terms that the West did. The only possible direction that technology in Japan could go therefore was toward replication of the technology of the West. This situation lasted until Japan's defeat in the Second World War. After the war with the prewar Wakon or Japanese Spirit completely discredited, the Japanese began looking for a new identity, a new raison d'etre that could replace the old one. The Japanese were greatly influenced by American culture under the American postwar occupation of Japan, especially by its materialistic aspects. Through a complicated process the Japanese began to identify culturally with the affluent materialistic goals of American society and focused on manufacturing technology, one of the basic aspects of materialistic culture, at which they could excel. This new national mission led to a liberation from the upward and onward, faster, more powerful, high-tech direction of Western technology, and the Japanese rediscovered that technology can be innovated or improved endlessly--and that this in itself was a national goal worth cultivating and worthy of a national self identity. The issue of innovation as creativity, not copying is addressed. 第二次世界大戦が終わったとき、日本と欧米の間の技術力はどれくらい離れていたのだろうか。一口に技術力といっても技術の範囲は広大であり、基準もはっきりしないし、また、まとまった資料もないので、これを知ることはほとんど不可能に近い。が、散見する印象記を集めてみると、やはりその差は想像を絶するほど大きく、容易に埋めがたいとの感じが強い。 たとえば、ある技術者は第二次大戦中に実際に経験したこととして次のようなことをいう。日本軍の鉄砲は温度がマイナス25度になると、引き金が凍ってしまい、撃てなくなってしまったが、そんな寒さのなかでもソ連軍は撃ってきた。これを見て、日本軍には温度に関する科学がないのではないかと思ったほどであった。また日本軍の弾丸はすぐにさびた。それに対してイギリス軍の弾丸はまったくさびなかったが、イギリス軍の捕虜から聞いた話では、イギリスでは弾丸の腐食試験が行われており、これに合格した弾丸だけが実戦に使用されるとのことだった。 第二次大戦中、日本は潜水艦をドイツに何度か派遣し、彼らの進んだ技術を入手しようとした。ほとんどの潜水艦が途中でアメリカの軍艦の攻撃にあって撃沈され、この作戦の成功度は低かったと伝えられているが、潜水艦イ8号がこれに成功し、当時の日本にとって大変に貴重な技術をいろいろ持ち帰った。そのなかに高速魚雷艇エンジンMB501あり、これを見たある技術者は、このエンジンをそっくりそのままモノマネして、量産をすれば、アメリカに対抗できるのではないかと考えた。そしてこのドイツ製のエンジンを実際にバラバラに分解して、いろいろ調べてみたところ、このエンジンは、そっくりそのまま模倣することが不可能なほど精密に作られていることがわかった。つまりデッドコピーができない技術のかたまりだったのである。たとえばシリンダーは一万分の一ミリという精度で作られていたが、当時の日本の技術ではこれは不可能であり、「肝をつぶした」と当時の関係者は語っている。明治維新以降、西洋に追いつこうとして日夜努力してきた結果がこれであった。 戦後においても技術力の差については、ほぼ同じような状況が続いていた。1953年にはじまった戦後のビッグプロジェクトの一つ、佐久間ダム建設は関係者の間では大変にむずかしいとされていた。ところが、これは日本の技術を使った場合の話であって、もしアメリカの技術が使えるのであれば、建設できる確率は高いと判断された。実際、大型の機械を数種持ち込みアメリカの技術者の助けを借りて工事が行われ、予定通り3年間で完成した。関係者の回想によると、もし日本の技術だけを使っていたら、5年はかかっていただろうという。ダム建設の関係者はこの際に使われたアメリカ製の機械の大きさに驚愕している。ちなみに、戦後初の技術白書には、たとえば溶接技術の分野では約30年の遅れがあると書かれている。 以上は、個人的な印象をいくつか集めただけであり、これでもって日本と欧米の技術力の差は正式に論じられないものの、模倣さえできないほど精密に作られていたという証言を聞くと、愕然とするし、やはり敗戦の時点において相当な差があったものと考えざるを得ない。これに加えて、終戦後の食うや食わずの混乱を考えると、戦前のレベルを回復するだけでもかなりの時間がかかると考えるのが妥当だったと思われる。ところが、その後の状況を見ると、敗戦からわずかの期間に元に戻っただけでなく、とくに、技術、なかでも製造技術は異常なほど発達した。「異常な」という表現を用いたのは、アメリカに脅威を感じさせるところまで発展したことを強調したいからである。アメリカ自身が、技術のある面において日本より遅れていると感じはじめた。 とくに1980年代、ハイテク摩擦と呼ばれた問題が日本とアメリカの間で顕著になった。それ以前にも貿易摩擦というかたちで、繊維、鉄鋼、テレビ、自動車などの分野において摩擦問題があったが、ハイテク摩擦は、ちょっと違った側面をもっていた。というのは、アメリカが日本の技術水準に脅威を感じはじめたからである。たとえば、レーガン大統領によって悪の帝国と名付けられた旧ソ連の存在より、日本の強力な技術力を背景とした経済力のほうがアメリカにとって脅威だと見なす人が増えたことがあげられる。また、エレクトロニクスや新素材などの分野でアメリカの軍事技術が部分的に日本の民生技術に依存するようになったことに対しても、危惧の念が表明された。ただし、こうしたアメリカの反応には誤解に基づくものもあった可能性がある。アメリカと違って軍事用と民生用に分離して発達してこなかった日本では、いわゆるデュアルユース、つまり軍・民両用の技術が高度に発達し、軍事上と民生用の間に高い壁は設けられなかった。普通、軍事用の技術の方がはるかに高いため、日本で民生用に高い技術が使われているのを見て、脅威を感じた可能性があるからである。 とはいうものの、80年代に日本が世界中から、とくに技術において異常なほどの注目を浴びたことだけは事実である。いったいこれはどう理解すればよいのだろう。明治以降、育成だけを念頭に、政府、とくに通産省の主導のもとに強力な産業育成政策を実施してきた賜物なのか、それとも日本的変容を受けた儒教が国民を動かしたからなのか、あるいは技術が国の安全保障にとってもっとも大切であるとのテクノナショナリズムのもとにデュアルユースの技術システムを作り上げてきたからなのか、それとも技術革新の社会的ネットワークを作り上げ、技術情報がスムーズに流れるシステムを形成したからなのか。以上のような考え方の延長として製造技術の「異常な」までの発展を説明できるのだろうか。本稿では、もう一つの考え方を提案してみたい。 この論文は、構造的に少し込み入っており、誤読される恐れもあるので、まず最初に、簡単に梗概を述べておきたい。第二次世界大戦前に存在した和魂洋才と呼ばれた文化的枠組みは、日本的なものを保持しつつ、西洋の優れたもの、なかんずく科学技術を移入することができ、うまく機能している限り、便利な枠組みであった。これに加えて、日本が近代化に成功すれば、その理由として、「洋才」でなく「和魂=日本精神」の優秀性をあげることもできた。戦前の日本人は、この文化的枠組みに満足していたといえる。 ところが、敗戦によってこの枠組みは崩壊し、日本人は、それまで心の拠り所だった「和魂」を失った。敗戦後、勝利者であるアメリカの、物質的なものを強調する文化が登場し、このなかで日本は、モノ作りを学習した。その時点まで、例えば、西洋からの技術は、あくまで使いこなすための対象でしかなかった。すなわち、日本人が優れた和魂の持ち主であるという理由によって、技術は自由に使いこなせる対象として認識された。もし改良するならば、より安価にするか、日本人にとってより使いやすいようにするかであり、いくらでも改良できる対象として認識されていなかった。ところが、敗戦によって自由に使いこなす主体である和魂が消滅してしまい、代わって登場した新しい文化のなかで生存のために必要となったモノ作りと取り組むうちに、技術の改良に魅せられてゆき、技術改良自体に自らのアイデンティティを見出すようになったというのが私の主張である。 つまり、この新しい文化のなかで枠組みの大きな変化が起こったのである。戦後、モノ作りと改良作業が和魂を失なった日本人の心のなかの真空を埋めていった。戦前の古い和魂洋才の枠組みのなかでは西洋に追いつき・追い越せだけが目標となり、技術の発展は、低い段階(日本)から高い段階(西洋)へと進むことを決定づけられてしまっていた。しかし、敗戦後、和魂洋才の崩壊と新しい枠組みの出現によって、技術発展の方向に変化が生じたのである。もちろん、依然として低度から高度への方向性は不変であったが、のちに見る伝統社会のなかの技術発展のように、多様性が見られるようになった。日本人がモノ作りの過程に自らのアイデンティティを見出してゆくなかで限りなく改良できる技術の存在を発見したからであった。これはまた技術革新の新しい意味の獲得でもあったといえるが、このように多様性の存在が可能になったために、技術開発の多様な在り方が可能となり、製造技術の興隆を見たのである。 以上の主張を検討するために、まずはじめに技術と技術革新の性格について考察し、とくに技術革新の概念が固定された存在でなく、時代とともに変化する存在であることを確認したい。実際のところ、技術革新という言葉がはじめて日本で使われたのは、1956年の日本初の経済白書のなかであった。次に、伝統社会における技術について簡単に見たい。鉄砲技術と木造建築技術を取り上げ、外から入ってきた技術に対して日本の伝統社会が示した反応についてみたいわけであるが、その目的は、この社会には技術発展の方向を決定づけるものはなく、技術は多様な発展の仕方を許されていたことを指摘したいためである。 ところが、この多様性は、江戸時代末期の本格的な西洋との出会いによって崩れてしまった。東洋道徳、西洋学芸の枠組みの誕生とともに、低度から高度へと発展する技術の方向が選択されてしまったのである。状況は、東洋道徳、西洋学芸が和魂洋才へと変化しても同じであった。敗戦だけがこれに変化をもたらした。もちろん、依然として西洋に追いつけ・追い越せのために技術発展の方向性は、決定づけられたいたが、さきに呼べた理由によって多様性が誕生したのである。