著者
シュミット・クラウディア・カロリネ
出版者
桃山学院大学
雑誌
国際文化論集 (ISSN:09170219)
巻号頁・発行日
no.47, pp.259-295, 2013-03-28

Samurai is an important genre in Japanese entertainment media, such as books, television, and even manga. It has been a genre especially for male target groups for a long time, but during the last decade, there has been a tendency for samurai manga to focus on female target groups. In my research, I focus on the difference between the image of samurai in manga for male and female target groups, and afterwards I describe the possible social reasons for those differences. For the analysis I chose Okita Soji from Watanabe Taeko's Manga "Kaze hikaru" as an example for a samurai described for a female target group, and for a male target group, I chose Miyamoto Musashi from Inoue Takehiko's "Vagabond" as a representative samurai. I mainly follow Yomota Inuhiko's method as presented in his work "Manga genron", adding a focus on the keywords social life, love and life as swordfighter, especially analysing problems and solutions concerning these themes. Through the analysis I found some interesting answers. While the image of Okita in "Kaze hikaru" obviously is adapted to classical genres for female readers (the keywords love and social life are the main points and the story itself is similar to high-school campus stories), Miyamoto's description focuses on his work of building a strong self, especially by countless action scenes. The two represent a different ideal of masculinity, on the one side showing an Okita who is influenced by the typical effeminate male aesthetics of Japanese male pop idols-an image mainly created by aiming towards female fans. And on the other side there is a Miyamoto representing aclassical warrior image, which can be interpreted as a counter flow to the new male aesthetics. Yet, Miyamoto's warrior journeys and his life far from civilization can also be seen as criticism of young men's reaction to the growing demands of their working lives, but also in their daily lives as some kind of escapism from their daily lives. In contrast to Miyamoto, Okita shows an exaggerated image of loyalty, especially to his troops' leaders and his protegee, a girl dressed up as boy who joines his samurai troop. Especially his relationship to his protegee shows the uncertainty of young women concerning gender constructs and shows the desire of women to take part in social life or even to create history. In summary, it is obvious that the image of the samurai is fit to the gender of the target groups and it seems as if it gives the reader an entertaining possibility to compensate for the limits of everyday live.
著者
辻本 慶樹
出版者
奈良大学大学院
雑誌
奈良大学大学院研究年報 = Annual reports of the Graduate School of Nara University (ISSN:13420453)
巻号頁・発行日
no.23, pp.39-49, 2018

近代化が行われ始めた明治時代以降、妖怪や怪異といった前近代的なものは悉く排除されていった。しかし、民衆の間では心霊ブームや怪異ブームといった、明治政府が排除しようと試みた、いわゆるオカルト的なものが広く流行した時期も存在しており、政府自体も徹底して妖怪・怪異を排除したとは言い切れない部分がある。それは戦時下という限定的な状況において「奇跡」「瑞祥」という形で現れており、政府はそれを容認している。本論考では日露戦争期における「奇跡」「瑞祥」について、当時の新聞記事と博文館の『日露戦争実記』を中心に論じ、「奇跡」「瑞祥」という妖怪・怪異がどのように表現されていたかを取り上げ、それらがどのようなものであったかを考察するとともに、妖怪・怪異という存在を考察する。
著者
小坂 啓史
出版者
愛知学泉大学
雑誌
愛知学泉大学コミュニティ政策学部紀要 (ISSN:13447939)
巻号頁・発行日
no.8, pp.93-112, 2005-12

本稿では,社会政策やその研究領域の概念・課題としての「社会的排除」に関し,初めに相互行為としての排除の関係,次にそれが社会的排除として構造化されることについて述べた。またその対応としての「社会的包摂」の政策については,対象者への選別過程により,排除の状況が現出することにふれた。以上の考察をふまえ筆者が行った調査の結果をみると,排除の対象としては公的な空間での「精神病にかかっている人」「知的能力に障害がある人」,私的な空間での「同性愛・両性愛の人」,公共的な空間での「ホームレス」の存在に対しての意識が高かった。社会政策基盤としての社会的排除・包摂の社会意識的基準については,(1)労働意欲についての主体的姿勢とやむを得ず働けない状況に基準がおかれていること,また(2)年齢の高低や素行の良し悪しについても重視されていた。(1)は積極的福祉の存立基盤となるが,そこからの排除への対策として他の連帯方法の模索が必要であり,(2)は社会的排除場面において若者へのエイジズムという要素がはたらいている可能性が指摘できた。
著者
延 恩株 Eunju YON
出版者
桜美林大学
雑誌
桜美林論考. 言語文化研究 (ISSN:21850674)
巻号頁・発行日
no.2, pp.83-100, 2011-03

本稿は古代新羅の始祖神話と日にっしん神信仰の考察である。古代の韓国には壇君(タングン)神話・朱蒙(チュモン)神話などの建国の始祖神話が多くあるが、これらの神話も視野に入れて、本稿ではまず、新羅の始祖と見なされている、朴・昔・金という三氏の始祖神話の特性を分析している。高句麗の始祖神話には、東北アジアの民族に特徴的である日光感精説話が見られるが、新羅の三氏の始祖神話にはこれが明確には現れていない。新羅では日神信仰は日光感精などの神話よりも海洋型・水平型の太陽崇拝にその源泉を有する傾向が強い。その意味では三氏のうち昔氏の脱解(タルヘ)神話に最も多く日神信仰が反映しているように思われる。しかし三氏の神話は新羅の始祖神話の全体像を構成しているとは言えない。これに、赫居世(ヒョッコセ)やその王妃閼英(アリョン)を生んだとされる、慶州の仙桃(ソンド)山(西岳)の神、娑蘇(サソ)神母説話ないし神話と、延烏郎(ヨノラン)・細烏女(セオニョ)説話とを加えて総合的に考察することによって、初めてその全体像を知ることができるであろう。本稿では娑蘇神母に特に注目し、まず新羅の始祖女神としての神母を『三国史記』(12世紀。本稿では「國」はすべて新字体に直した)と『三国遺事』(13世紀)に則して取り上げ、その後で、中国の伝説上の神仙である西王母に娑蘇の神話的ルーツを探っている。なお延烏郎・細烏女説話については紙幅の制約があり、後日の発表を期すことにした。
著者
荘島 幸子
出版者
一般社団法人日本発達心理学会
雑誌
発達心理学研究 (ISSN:09159029)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.83-94, 2010-03-20

本研究は,身体に対する強烈な違和感から,身体的性別を変更することを望む我が子(身体的性別女性,A)から「私は性同一性障害者であり,将来は外科的手術を行い,身体的に男性になる」とカミングアウトを受けた母親(M)による経験の語り直しに焦点を当てた事例研究である。子からカミングアウトを受けて2年が経過した第1回インタビュー時に,「性別変更を望む我が子を簡単には受け入れることができない」と語っていた母親1名に対し,約1年半の間に3回のインタビューを行った。分析の視点は,【視点1:Aについての語り直しの状況】,【視点2:構成されるMの物語】,【視点3:語りの結び直し】の3つであった。A-Mの関係性は,3回のインタビューを経て良好なものへと変化していた。分析の結果,Mが語り直しのなかで,親であることを問い直しながら自らの経験を再編し,M自身の人生の物語を再構成していく過程が明らかにされた。語りを生成する際には,他者(周囲の他者/聞き手としての他者)が重要であることが見出された。考察では,自責の念や悔いといった語り直しから母親の生涯発達を捉え,従来の段階モデルを越えた議論を行った。また,Mの語り直しを促進させ,親物語の構成を下支えする1つの軸となる役割を担う存在として聞き手を位置づけた。
著者
東 雅夫
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.54, no.11, pp.82-91, 2005-11-10
著者
牟田 和恵
出版者
東京大学社会科学研究所
雑誌
社会科学研究 (ISSN:03873307)
巻号頁・発行日
vol.57, no.3, pp.97-116, 2006

日本における家族の歴史社会学研究の蓄積について,とくに隣接領域である家族社会学との関連においてレビューする.その際,80年代以降に若手フェミニスト研究者たちを中心的担い手として展開した「近代家族」論に注目し,それが,家族をめぐる学問領域においてもっていた意味と意義を確認する.その上で,ポストモダン・フェミニズムを経た新たなジェンダー概念の導入により,「ジェンダー家族」という概念を提起し,日本近代の天皇制と家族に関する分析を行なう.結論として,家族の歴史社会学的研究を現代に生かしていく方途を提言する.

18 0 0 0 IR 性的モノ化再訪

著者
江口 聡
出版者
京都女子大学現代社会学部
雑誌
現代社会研究 (ISSN:18842623)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.101-114, 2019-01

「性的モノ化」は1970年代以降の第二派フェミニズムの中心的な概念の一つで、性犯罪、セクハラ、売買春、ポルノ1、美人コンテスト、性の商品化など、フェミニズムがとりあげた数多くの「女性」問題において、男性中心的な社会慣行(家父長制)における女性の隷属的地位を説明する概念としていまだに頻繁に用いられており、また哲学的な討議も続けられている(Papadaki, 2015)。この性的モノ化の問題は12年前の拙論「性的モノ化とセックスの倫理学」であつかった(江口, 2006, 本誌第9号)。前回この問題をとりあげたのは、「セックスの哲学」という、当時国内では関心の低かった応用哲学・倫理学の一分野の問題領域と興味深さを示すためであった。しかしその後この「モノ化」の問題はますます哲学者たちの関心をひくと同時に、性の商品化が盛んになっている現代社会で一般の興味をひくようになっているために、再度考察してみたい。Various forms of "sexual objectification" have long been criticized by feminist authors. This essay reconsiders the feminist conceptions of "sexual objectification" and argue that, (1) "objectification" is not always immoral, (2) not only men but also women may sometimes (and often) be objectifying members of the opposite sex, and (3) some forms of objectification, especially self-objectification, sometimes may be beneficial and even empowering. Feminist conceptions of "objectification" have to be reconsidered and reconstructed through empirical studies.