著者
村田 諒太 高島 三幸
出版者
日経BP社 ; 2002-
雑誌
日経ビジネスassocie (ISSN:13472844)
巻号頁・発行日
vol.16, no.11, pp.50-53, 2017-10

2012年のロンドン五輪で「金メダリスト」になってから5年。今年の5月20日、プロとして「世界チャンピオン」を目指し、日本ボクシング史上初の「ダブル制覇」に挑まれました。WBA世界ミドル級暫定王者アッサン・エンダム選手との判定問題が議論を呼び、10月22日に再戦が決定しましたが、今あらためてアマチュアとプロの違いをどう思いますか。
著者
長田 蔵人
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
no.29, pp.13-26, 2002-09-01

As concerns proofs of "Transcendental Antinomies" in the Critique of Pure Reason, it has been quite a natural attitude to entertain doubts against their validity. This paper picks up some proofs from both Theses and Antitheses of the Antinomies and tries to clarify them in terms of the Principle of Sufficient Reason as Reason's "logical postulate." For this purpose, this paper shows, in the first place, a relation between the major premise of "Dialectic Reasoning" and the Principle of Sufficient Reason. What is emphasized in this argument is, it is not this Principle that Kant rejects as a "transcendental Illusion." The root of the Illusion is not that Principle as a "logical postulate, " but the failure in recognizing essentiality of Sensibility for human knowledge. Secondly, upon these arguments, this paper construes each argument of the First, and the Third Antinomies. To understand the ground of inevitability in falling into these Antinomies and of the alleged validity of each proof, it will be necessary to remember that what Kant wanted to deny is not the "postulate" of Reason itself. Reconstructing several proofs of Antinomies from this point of view, this paper makes clear that the Reason's postulate is related to the demand for the unity of nature (Natureinheit), and this demand plays an important role as a keystone in making proofs of the Antinomies 'valid.' As a result of this, finally, we will see that when laying the foundation for the causal law of nature, Transcendental Aesthetic and Analytic are imposed a double task of meeting that demand for "Natureinheit" on the one hand, and of 'schematizing' the Principle of Sufficient Reason on the other hand.
著者
齊藤 了文
出版者
日本金属学会
雑誌
まてりあ : 日本金属学会会報 (ISSN:13402625)
巻号頁・発行日
vol.42, no.10, pp.696-699, 2003-10-20
参考文献数
4
被引用文献数
1

エンジニアという専門家は、専門家として非常に奇妙な位置づけにある.これは,医者や弁護士というよく知られた専門家と比べてのことである。専門的知識を駆使し,素人ではおよびもつかない専門的な職業であることはこの3つの職業で共通する。しかし、倫理的行為(他人を配慮する行為)に関しては、エンジニアは少し奇妙な専門家と言われざるを得ない.(もちろん,このことは,エンジニアに変わり者が多いということを言おうとしているのではない.哲学研究者と日ごろ付き合っている私とすれば,エンジニア,工学者は,よほど社会常識をわきまえた人々のように見える.).このように言えるのは,大きく分けて3つの側面がある.一つは,人工物をつくるということを職業にしているという側面である.二つめは,企業内のエンジニアという側面である.三つ目は,公衆を考慮するということが要請されるところから由来する.以下,この3つの側面がどのような論点を含んでいるかを明らかにすることにしよう.
著者
Barbara Charles 亀谷 乃里
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶応義塾大学日吉紀要 フランス語フランス文学 (ISSN:09117199)
巻号頁・発行日
no.36, pp.134-110, 2003

ある名演奏家の生涯の素描(1)シャルル・亀谷 乃里バ ル訳バラ 作・解説解説 シャルル・バルバラは一八一七年オルレアンで楽器製造業を営むドイツ生れの父とオルレアン生れの母との 間に生れた。↑)兄は後にピアニスト、オルガニストで、かつ作曲家となり、三弟はピアノ調律師となる。(三シ ャルルはこうしたいわば音楽的風土に育った。若くしてパリに出た彼はボードレールと同じルイ・ル・グラン コンセルヴァトワ ル 中学校で学業を終え、一時はパリ音楽院で勉強したこともあった。三自然科学に強い関心をもっていた エコ ル ポリテクニック 彼は理工科学校に学ぼうと考えていたが、(5)文学を聖域と考え、転じてその道に身を投じた。(、)アンリこ、丶 ホ エ ム ユルジェールの「放浪芸術家の生活情景」にカロリュス・バルブミュッシュ〔9『。一⊆。・ロコ碧げ。詈魯ρσ㊤ひ。(ひげ) とσ碧9お(粗野な)とをかけ、∋⊆魯o(若い娘に声もかけられない恥ずかしがり屋の青年)とで合成した名前〕という滑稽 な名前で登場するのはシャルル・バルバラ彼自身である。(ヱしかし当時バルバラはひげもなければ粗野でも四 なかった。彼は孤独で極端に非社交的で、仲間内でも黙って耳を傾け、ポケットからノートを取り出してはメ133(2)モを取っていた、とシャンフルリは回想している。〔、) ロマン主義から自然主義への移行期の芸術家達、シャンフルリ、ミュルジェール、哲学者のジャン・ヴァロン、画家のクールベなど自称レアリスト達の集まったグループ〈ラ・ボエーム〉にバルバラが受け入れられたのは一八四一年の暮である。(,)彼らはそれまでのロマン主義に反旗を翻し新しい道を模索していた。そうし コルセ ル コルセ ルロ サタンてその活動の中心である小新聞、『海賊』紙『海賊11悪魔』紙に寄稿し、互いに助け合った。バルバラが、『悪 ラ ル の フ ル ロラ ル カリアテデノドの華』の詩人ボードレールや〈芸術のための芸術〉の信奉者で『女像柱』の詩人バンヴィルと知り合うのもこうした中であった。〔m) 音楽は、〈ラ・ボエーム〉での重要な活動領域であった。優れたヴァイオリン奏者であったバルバラは第一ヴァイオリン、シャンフルリはセロ、画家のアレクサンドル・シャンヌがヴィオラ、後にリリック座のヴァイ グリセノトオリン奏者となるオリヴィエ・メトラが第ニヴァイオリンを受け持ち、この四重奏団は学生や女 工 を前にコンサートを催したこともあった。(H)バルバラの音楽活動はシャンフルリの『若き日の回想と肖像』(E)や「サン・ルイ島の四重奏団」、(B)「シュニゼルの三重奏」(回)等に詳しく述べられている。絵画的素養はあったものの、音楽の分野ではこれといって教育を受けていなかったボードレールが初めて音楽に親しんだのも、親友であったバルバラとその周囲に集まった音楽をする人達の中であった。(垣バルバラの作品はしばしば、多様な音楽的要素を含み、音楽的情感と感動に浸透されている。(博)ちなみにワーグナーのパリ初演(一八六〇)に際して書かれたシャンフルリのワーグナー論はバルバラに献じられている。(7) バルバラの文学の領域でのデビューは一八四四年のπ轜粒邸一だと考えてよい。(侶)この年には一八四六年 コルセ ルに『海賊」紙に発表することになる贋金造りの物語で探偵小説の先駆をなす「ロマンゾフ」がすでに書き上げられる。〔円)その後「カーテン」(一八四六)等幾編かの朗、癌.醒,でかつ心理的な短篇を『却術須』誌に発表^20)132(3)ある名演奏家の生涯の素描(1)した後、一八四八年の革命の頃には故郷のオルレアンのいくつかの新聞編集に携わりなが舷む自らの作品やパ リの友人達の作品、それにエドガー・ボーの作品の翻訳{2)を掲載する。
著者
Muller Hans-Rudiger 真壁 宏幹 渡邊 福太郎
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.120, pp.145-170, 2008-03

本論文は,2006年3月,学術振興会外国人招へい研究者として来日され,3月8日,文学部教育学専攻と三田哲学会の共催のもと三田で行われたハンス-リューディガー・ミュラ_(Hans-Rudiger Muller)教授の講演原稿(Kunstliche Natur. Bildungsanthropologische Aspekte bei Schiller und Plessner)を訳出したものである.ミュラー教授は1952年ドイッに生まれ,ゲッティンゲン大学のクラウス・モレンハウアー教授の下でPh.D.(1990年)および教授資格(1996年)を取得,現在はオスナブリュック大学教育文化科学部の教授である.専門は,18,19世紀の教育思想,人間形成論(ヘルダー研究を中心に)や自伝研究に基づく教育史研究だが,最近では,とくに自伝を資料としながら家族における文化伝達の問題に取り組んでいる.しかし,その関心の中心は,あくまでも広い意味での美的実践と人間形成の関係に関する理論的考察であり,身体や感覚現象と自己の関係に関する文化分析である.本論文では,18世紀後半の美的人間形成論の鳴矢となったシラー『人間の美的教育について』と,20世紀のはじめに独特な感性論・身体論をもとに哲学的人間学を展開したプレスナーの人間形成論が比較されている.自然(身体)と理性のあいだに開いた近代的分裂を和解する可能性を「美的なもの」にみるシラーと,このような理想なきあと,たえず「脱中心化」を繰り返していくところに人間の本性と可能性をみるプレスナーのあいだに,近代における美的(感性的)人間形成論の連続性と非連続性をみようとしたのがこの論文である.最後に,ミュラー教授の代表的著作(編著,共著を含む)を挙げておこう.Klaus Mollenhauer (unter Mitarbeit von Cornelie Dietrich, Hans-Rudiger Muller und Michael Parmentier), Grund-fragen asthetischer Bildung. Theoretische und empirische Befunde zur asthetischen Erfahrung von Kindern, Munchen: Juventa 1996(クラウス・モレンハウアー『子どもは美をどのように経験するか』真壁/今井/野平訳,玉川大学出版部,2001年).Hans-Rudiger Muller, Asthesiologie der Bildung. Bildungstheoretische Ruckblicke auf die Anthropologie der Sinne im 18. Jahrhundert, Wurzburg: Konigshausen und Neumann 1998. Dietrich Cornelie/Hans-Rudiger Muller (Hrsg.), Bildung und Emanzipation. Klaus Mollenhauer weiterdenken, Weinheim und Munchen: Juventa, 2000. Hans-Rudiger Muller, Reflektierte Leiblichkeit. Zum Leibbezug bildender Kulturerfahrungen in Autobiographien um 1800, in: J. Bilstein/K. Bering/H. P. Thurn (Hrsg.), Kultur-Kompetenz. Aspekte der Theorie. Probleme der Praxis, Ober-hausen: Athena 2003, S. 95-113.1. シラーにおける技巧的自然 : 教育的作用を伴う超越論的理念としての美2. プレスナーにおける技巧的自然 : 人間存在の可能条件としての媒介された直接性と自然的技巧性3. 役者4. 結論 : 人間形成論的まとめ講演
著者
TAHIR Marghoob Hussain ターヒル マルグーブ フサイン
出版者
大阪大学大学院言語文化研究科
雑誌
Frontier of foreign language education = 外国語教育のフロンティア (ISSN:24339636)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.209-221, 2021

教材研究本稿は、ウルドゥー語を学習する日本人学生を対象とした教材のうち、近代ウルドゥー文学のなかの、特に新体詩の基礎を築く上で大きく貢献したアルターフ・フサイン・ハーリー(Khwāja Alt̤āf Ḥusain Ḥālī, 1837-1914) と、南アジアのムスリムの自立を訴える詩でムスリムの政治・社会運動の思想的基盤を築き、パキスタンでは「大学者 'allāma」として尊敬を集めるムハンマド・イクバール(Muḥammad Iqbāl, 1877-1938)に関する紹介文である。ハーリーは詩作においてはガーリブ(Mirzā Asad Allāh Khān Ghālib, 1797-1869) の弟子であった。このため当初は恋愛やスーフィズムなどを主題とした伝統的なウルドゥー詩を書いていたが、イギリス植民地期の南アジアのムスリムの近代化運動「アリーガル運動」を牽引したサイイド・アフマド・ハーン(Saiyid Aḥmad Khān, 1817-98)に感化されると、ムスリムの近代化を文学面で支えた。詩集の序文でハーリーは恋愛など古典詩における伝統的な主題から、現実社会に目を向けた詩を作るべきであると主張し、この長い序文は『詩序論Muqaddima Shi'r o Shā'irī』 (1893 年) として別途刊行された。ウルドゥー文学史におけるハーリーの評価はその詩よりも、新体詩運動先導的役割にある。ハーリーの活動は、ウルドゥー文学史上重要な意味を持つばかりでなく、南アジアのムスリム、特にウルドゥー語話者の間での近代化の問題と深くかかわることから、理解しておく必要がある。ハーリーの作品としては、ムスリムの盛衰を描いた『ハーリーの六行詩Musaddas-e Ḥālī』の一部を紹介する。これはパキスタンのウルドゥー語教科書にも掲載されている。イクバールはパキスタンにおいて「イクバール学Iqbāliyāt, Iqbal Studies」として学問分野が確立して大学院での授業科目も設置されているほか、その詩想や思想を研究する機関が複数存在されている。また、彼のペルシア詩はイランでよく知られており、イクバールは「ラーホールのイクバールIqbāl Lāhorī」として知られている。青年期にヨーロッパに学んだイクバールは、西洋の文化を体験したことで、ムスリムが辿るべき道を示すべく、哲学的な内容を簡明な語彙で描出した。ここでは、各詩人の生涯の概要と作品の特徴を、文法的に理解しやすい詩句を例示しつつ解説している。分量はそれぞれ1 回の授業で読む程度のものとし、語彙や文体も中級の学生が理解できるよう簡明なものとなるように心がけた。これにより、中級レベルのウルドゥー語運用能力によって、近代ウルドゥー文学の基本的知識と教養である詩人 2 名について理解できることを目指す。
著者
工藤 せい子 五十嵐 靖彦
出版者
日本医学哲学・倫理学会
雑誌
医学哲学 医学倫理 (ISSN:02896427)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.75-84, 2006

The purpose of this study was to attempt to determine general ideas for addressing ethical issues in nursing practice. The author interviewed nurses who had experienced cases involving care and related ethical issues. The interview data were analyzed using qualitative research methods. The subjects of analysis were the following three cases: 1. A client who was transferred to the hospital for reoperation but died shortly before operation; 2. A client who was in and out of the hospital for more than 10years because of incurable illness; and 3. A client whose last wish was fulfilled in the form of a Christmas party. Analysis showed that ideas for addressing ethical issues converged into two categories. The first included ethical issues, including "role as the client's advocate," "coordination between the client's wishes and the doctor's policy," and "paternalism and maternalism". The other category included issues related to caring, including "learning from the client," "formation of a strong bond resulting from mutual relationship," "involvement as a team," and "departure from medical rules". There were, in addition, three keys to addressing ethical issues that did not fit into either category: "hope for peaceful settlement of affairs," "hope for successful communication," and "wish to be treated indulgently". These three keys are useful both in care for patients and addressing ethical issues.
著者
古賀 聖人
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.101-132, 2015-03

特集 : 西脇与作君・樽井正義君退職記念寄稿論文
著者
白﨑 愛里 並木 崇浩 山根 倫也 小野 真由子
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床センター
雑誌
関西大学心理臨床センター紀要
巻号頁・発行日
vol.12, pp.93-103, 2021-03-15

本稿は、Schmid(2001)の"Acknowledgement: The art of responding. Dialogical and Ethical Perspectives on the Challenge of Unconditional Relationships in Therapy and Beyond" の紹介とそれに基づく考察である。Schmidは無条件の肯定的関心を、対話や出会いの哲学、社会倫理の視点に基づいて「承認」として再提起した。承認とは、他者の、具体的で、特徴的な、独自のあり方に開かれることを意味する。他者とは、同一化もコントロールもできない、私とは本質的に異なる存在である。それゆえ他者を知ること(knowledge)はできない。他者の他者性を破壊せず関係を結ぶには、ただ共感し、承認すること(acknowledge)である。また理解し得ない謎を含んだ、無限の他者こそが、自己の限界を克服する。他者に出会うには、何よりもまず、他者が真に「向こう側に立っている」と理解する必要がある。反対側に立たずして出会いはない。この隔たりが、他者を、自立的な価値ある個人として尊重する。Schmidの言う承認に基づくセラピーでは、セラピストは、自身の内的照合枠を脇に置くどころか、クライエントの影響を受けて自己を問いただしながら応答することになる。これはセラピー関係の中にTh自身を投入し、Th自身が変化することであり、まさに勇気が問われる在り方といえる。またSchmidは、「(承認が重要なのは)承認が実現傾向を育てるから、というだけではない。これこそがパーソン・センタードという在り方の表れなのだ」と述べ、パーソン・センタード・アプローチの本質にも迫っている。
著者
中田 行重 今林 優希 岡田 和典 川崎 智絵
出版者
関西大学臨床心理専門職大学院 心理臨床センター
雑誌
関西大学心理臨床センター紀要
巻号頁・発行日
vol.6, pp.79-88, 2015-03-15

Person‒Centered Therapy(以後PCT と略す)において非指示性(Nondirectiveness)は重要であるが、同じPCT の内部においても、その重要さに関する考え方に違いがある。ここでは2 人の論客Cain, D. J. とGrant, B. との間で起こった論争を紹介する。まずCain が、クライエント(以後Cl と略す)の中には心理的成長の上でセラピスト(以後Th と略す)の非指示性が促進的でない場合にまで非指示性に拘るのはパーソン・センタードとは言えない、と論じる。それに対してGrant が、非指示性には道具的なそれと、原理的なそれとがあり、道具的非指示性がCain のようにCl の成長促進の道具として非指示性を活用するものであるのに対し、原理的非指示性はCl を尊重しているかどうかが焦点であり、原理的な方こそ、Client‒Centered Therapy(以後CCT と略す)の中心的な意義である、と主張する。それに対しCain は、Grant の言う原理的非指示性におけるCl への尊重という考え方は、Th という、いわば外側からの仮説に過ぎず、それが本当にCl にとって良いものかどうかは分からない、と批判する。これらの議論は、Cl の成長になるようにTh が対応を変えて対応すべきという主張と、Cl の成長をTh が判断するのではなく今のCl をそのまま尊重すべきという主張のぶつかり合いであり、CCT/PCT の本質を問うものである。両者の議論からは、こうした問いがPCT の今後も続く哲学的な大きな課題であろうことが示唆される。
著者
井門 冨二夫
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論叢 (ISSN:02873702)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.1-20, 2001-01

この小論の目的は、グローバリゼーションが本格化した二〇世紀の、またその地球化の状況が、コンピューターの発明・展開をうけて大局的にはモダーニイテイ(換言すれば工業生産を主とする科学技術展開の時代)からポスト・モダーニイテイ ...