著者
木原 圭翔
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学
巻号頁・発行日
vol.97, pp.24-43, 2017

<p>【要旨】<br>&emsp;リンダ・ウィリアムズが2000年に発表した「規律訓練と楽しみ――『サイコ』とポストモダン映画("Discipline and Fun: <i>Psycho</i> and Postmodern Cinema")」は、ミシェル・フーコーによる「規律訓練(discipline)」の概念を援用しながら『サイコ』(<i>Psycho</i>, 1960)における観客の身体反応の意義を考察した画期的な論考であり、同作品の研究に新たな一石を投じた。ウィリアムズによれば、公開当時の観客はヒッチコックが定めた「途中入場禁止」という独自のルールに自発的に従うことで物語に対する期待を高め、結果的にこの映画がもたらす恐怖を「楽しみ(fun)」として享受していた。<br>&emsp;しかし、『サイコ』の要である「シャワーシーン」に対しては、怒りや拒絶などといった否定的な反応も数多く証言されているように、その衝撃の度合いや効果の実態については、さらに綿密な検証を行っていく必要がある。本稿はこうした前提の下、シャワーシーンの衝撃を生み出した複数の要因のうち、従来そうした観点からは着目されてこなかったヒッチコックのテレビ番組『ヒッチコック劇場』(<i>Alfred Hitchcock Presents</i>, 1955-62)が果たした役割について論じていく。これにより、先行研究においては漠然と結びつけられていた『サイコ』と『ヒッチコック劇場』の関係を、<u>視聴者</u>/<u>観客</u>の視点からより厳密に捉え直すとともに、シャワーシーンの衝撃に大きく貢献した『サイコ』の宣伝手法(予告編、新聞広告)の意義をあらためて明確にすることが本稿の目的である。</p>
著者
外薗 幸一
出版者
鹿児島国際大学
雑誌
鹿兒島経大論集 (ISSN:02880741)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.49-91, 1988-05-20
著者
馬場 良二
出版者
熊本県立大学
雑誌
熊本県立大学大学院文学研究科論集 (ISSN:18829082)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.lxiii-lxxix, 2008-09

秋山正次『肥後の方言』(1979)には、熊本方言の語句リストがある。その148語のうち、『日葡辞書』にあったのは27語だった。これら27語に3語をくわえ、『日葡辞書』の記述を詳細に分析し、現代熊本方言での意味用法と比較した。秋山が肥後方言だと言っている27語のうちの20語を『日葡辞書』は九州方言だと言っていない。16世紀当時は全国共通であった語が、その後、方言的な意味、語義を発展させていったのかもしれない。もう一つ考えられることは、「X.、Ximo」の注記は九州の方言語彙の中でも、とくに必要な場合にだけ付された可能性である。もともと『日葡辞書』はイエズス会士たちの日本語学習のために作成されたものであり、当時の日本語の客観的な記録、記述を目的として編まれたものではない。「この語、あるいは、この語義は九州独特なもので、使うときには気をつけよ」という語学上の実践的な意味合いの記号なのかもしれない。
著者
村田 志保
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.205-219, 2009-12-23

接頭辞「お」は、日本語の敬語体系に属しており、尊敬語、謙譲語、美化語に関係している。しかし、接頭辞「お」の付いた形(「おかばん」「お菓子」「おやつ」など)自体は、尊敬語、謙譲語、美化語ともに変化はなく、みな同じ形である。そのため、日本語教育において、接頭辞「お」を扱う場合、同じ形をどう教えるかが、問題となってくる。本稿では、日本語教育において、接頭辞「お」をどのように扱うとより学習しやすくなるのかを踏まえながら、接頭辞「お」の持つ用法分類を検討した。先行研究より接頭辞「お」は、一般的な敬語分類において、「尊敬語」「謙譲語」「美化語」に関連していることがわかっているが、実際の現場においては、「美化語」ではなく、「丁寧語」という解釈もある。このような扱いについて、敬語の5分類にこだわらず、接頭辞「お」の用法として学習者に説明するという立場から、「おかばん」などの語を代表とする[敬意の「お」]、「お菓子」などの語を代表とする[丁寧の「お」]、「おやつ」などの語を代表とする[名詞化した「お」]という三つの用法に分類するという仮説を提案し、それらについての検証方法を考察した。
著者
清水 純子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
慶應義塾大学日吉紀要. 英語英米文学 (ISSN:09117180)
巻号頁・発行日
no.64, pp.35-54, 2014-03

"Spy" is a person whose job involves secretly gathering and reporting information about another country, organization, group, or enemies without the consent of the information-holders. Espionage is a set of clandestine and constitutional activities carried out for government or commercial purposes. Yet, as a matter of course, spying is illegal and is punishable by law. Thus, espionage is almost always accompanied by danger; it is unavoidable that some risks will be run in this kind of work. In a word, spying is a mission that may jeopardize one's life. The duties of a spy are required most in wartime. During the 20th century, when many wars occurred, there was much demand for spying and espionage: the governments of many countries needed able spies, especially for military purposes.In the film world, spy films have always been quite popular because of their entertaining qualities: they contain thrilling action, suspense, and the seduction of beautiful women. Among countless spy films, the most popular is the 007 series, which premiered in 1964. 007 focuses on a British gentleman spy called James Bond. Although it is difficult to find female spy movies that can rank with the 007 series, the classic Mata Hari might just be a match for 007. It is said that beauty and charm are the merits of the female spy, while the man she seeks is at the center of power and holds confidential information. Through the so-called "honey trap"—the use of a seductive woman to tempt a man into passing highly classified information to her government or syndicate—female spies play an active role in the 1930s film world. Among several 1930s female spy films, this paper focuses on Dishonored and Mata Hari. I will examine the universal themes that these two movies encompass: the anxiety of excessive information management; concealment through the power of the government; and the importance of personal dignity, rights, and happiness.
著者
石田 聖子
出版者
日本笑い学会
雑誌
笑い学研究
巻号頁・発行日
no.16, pp.34-41, 2009-07-11

本稿では、二〇世紀イタリア文学界において逸早く笑い始め、後の笑い文学へ圧倒的な影響を及ぼした作家アルド・パラッツェスキによる未来派宣言「反苦悩」にて称揚される笑いの属性を特定することを目的とする。<神の死>後に、笑い/苦悩のパラドキシカルな関係性を指摘し、笑いの知性としての可能性までも見通すその笑い認識は、笑いに拠りながら二〇世紀文化表象を読み解く際の一視角となると考えられる。
著者
黒田 誠
出版者
和洋女子大学
雑誌
和洋女子大学紀要 = The journal of Wayo Women's University (ISSN:24326925)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.1-14, 2017-03-31

真下耕一監督のアニメ作品『Madlax』を対象に、仮構作品が鑑賞手順として要求する仮構世界受容の過程において前提とされる暗黙の了承事項が意図的に脱臼させられ、全方位的に仮構的意味構成軸を散乱させる表現が達成されている実態を検証する。これは独特の創作戦略を採用した演出における詳細記述の内実をユング心理学におけるプレローマ世界の発想と照らし合わせることにより、仮構的リアリティの本質に対する形而上的把握を図ることを目的とするものである。本稿はこの企図に基づき全26話中の第3話から第5話までの映像表現の概念化を図り、原型的多義性を反映したハイパーナチュラルな主題提示手法についての考察を進めたものである。
著者
真鍋 公希
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.25-45, 2018

<p>【要旨】</p><p> 円谷英二が特技監督を務めた『空の大怪獣ラドン』(1956 年、以下『ラドン』)は、公開当時から高く評価されている作品である。しかし、特撮映画に関する先行研究は『ゴジラ』(1954 年)ばかり注目してきたため、本作はほとんど分析されてこなかった。本稿では、トム・ガニングの「アトラクション」概念を補助線とし、本作の特異性と映画史的・文化史的意義を明らかにすることを試みる。「アトラクション」とは、物語を伝達する機能と対照的で、ショックや驚きなどの直接的刺激によって特徴づけられる性質だと紹介されてきた。しかし、『ラドン』における「アトラクション」的側面は、ショックによる直接的な態度よりもむしろ、特撮に注意を払う反省的な態度によって特徴づけられる。この態度はその後のオタク的な観客心理につながるものであり、この点で『ラドン』は、特撮映画をめぐる観客性の転換点に位置づけられる作品なのである。</p><p> これを示すために、第1 節では円谷の演出理念を検討する。円谷は特撮によって物語的な効果を引き出すことを第一に考えていたが、他方で特撮の痕跡が残ることを許容してもいた。ここに特撮が効果を逸脱し「アトラクション」として立ち現れる可能性を見ることができる。次に第2 節で、こうした円谷の演出理念が、『ラドン』ではどのように表出しているのかを考察する。円谷の演出理念は、ラドンが西海橋や福岡に現れる一連のシーンに色濃く反映しており、同時にこれらのシーンはテクスト全体の中でも自立的に機能している。最後に第3 節では、観客が『ラドン』の特撮に注意を払った反省的な態度で受容していたことを、当時広く普及していた「技術解説記事」を考察することで明らかにする。</p>
著者
石田 実洋
出版者
日本古文書学会
雑誌
古文書研究 (ISSN:03862429)
巻号頁・発行日
no.63, pp.76-83, 2007-06