著者
浅野 公之
出版者
公益社団法人 日本地震工学会
雑誌
日本地震工学会論文集 (ISSN:18846246)
巻号頁・発行日
vol.19, no.5, pp.5_34-5_45, 2019 (Released:2019-09-27)
参考文献数
31

強震動予測において,震源パラメータの不確実性を考慮して予測結果のばらつきを提示することが強く意識されるようになってきた.本研究では,震源特性のばらつきに注目し,気仙沼沖で約15年の平均繰り返し間隔で発生するM6級のプレート境界地震を例に,直近4回の地震の強震動生成域(SMGA)を推定した.その結果,1973年,1986年,2002年の地震は1つのSMGA, 2015年の地震は2つのSMGAで観測強震記録の特徴を説明できた. 2015年のSMGA1及び1973年,1986年,2002年のSMGAはほぼ同一の大きさをもつSMGAの活動と考えられ,その応力降下量のばらつきは,最小値に対し約1.6倍の範囲に収まっていた.
著者
清水 孝昭
出版者
一般社団法人 日本魚類学会
雑誌
魚類学雑誌 (ISSN:00215090)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.36-40, 2014-04-25 (Released:2016-05-22)
参考文献数
61
著者
渡辺 謙仁 田邉 鉄
出版者
日本認知科学会
雑誌
認知科学 (ISSN:13417924)
巻号頁・発行日
vol.23, no.3, pp.255-269, 2016-09-01 (Released:2017-03-01)
参考文献数
47

The purpose of this paper is exploring potential for new learning through an ethno-graphic study in a nanosatellite-developing project generated from among “Nico-TECH:.”“Nico-TECH:”is a makers’community spreading like wildfire mainly medi-ated by NiconicoVideos. “Nico-TECH:”has no institutional organization. It is “ Social Media Satellite Development Project”(SOMESAT) which is the project for developing a nanosatellite on which “Hachune Miku”(Hatsune Miku) does performance in the space.  From the result of the ethnographic study, SOMESAT was able to be taken as a goal-oriented project, and also a zone of human development such as a distributed, mobile and multidirectional pulsation. Activities which realized such a human development were partially mediated by architecture of NiconicoVideos to stimulate emergence of contents and ideas, and by a boundary crossing body of Hatsune Miku’s character. This paper must show potential for new learning and give some kind of suggestions about school education in the future.

4 0 0 0 OA シャノン理論

著者
植松 友彦
出版者
一般社団法人 電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会 基礎・境界ソサイエティ Fundamentals Review (ISSN:18820875)
巻号頁・発行日
vol.1, no.1, pp.1_8-1_18, 2007-07-01 (Released:2011-03-01)
参考文献数
44
被引用文献数
2 2

シャノン理論とは,情報理論における各種の符号化問題に対して,符号化の限界について研究する分野である.シャノン理論の主要な研究分野は,情報源符号化,通信路符号化,乱数生成,予測,検定などであり,時代とともに広がってきている.小文では,通信路符号化定理を例として取り上げ,シャノン理論の研究対象がどのような問題であるかについて解説するとともに,符号理論との親密な関係を保ちながらシャノン理論がどのように発展してきたかについて概説する.
著者
河本 薫 細川 嘉則 河村 真一 野波 成 岡村 智仁 大西 道隆 津崎 賢治 小林 宏樹 三上 彩
出版者
日本情報経営学会
雑誌
日本情報経営学会誌 (ISSN:18822614)
巻号頁・発行日
vol.31, no.3, pp.32-40, 2011-07-15 (Released:2017-08-07)
参考文献数
3

In this paper, we focused on the process of creating information through data in a company. In most companies, such processes are conducted under business units. However, business units are lack in the motivation and the ability of innovating this process. For solving these problems, we proposed an in-company mission for empowering the function of creating information through data. Furthermore, we presented a guideline for establishing this mission in a company, including the positioning in an organization, the relationship with business units, and human resources suited for conducting above mission.
著者
古明地 樹 Tatsuki KOMEIJI コメイジ タツキ
出版者
総合研究大学院大学文化科学研究科 / 葉山町(神奈川県)
雑誌
総研大文化科学研究 = Sokendai review of cultural social studies (ISSN:1883096X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.47-64, 2019-03-31

本論では、江戸時代中期の絵師、橘守国(延宝七(一六七九)年―寛延元(一七四八)年)画作『絵本通宝志』(享保十四(一七二九)年刊、以下『通宝志』)を、「太公望図」を中心に分析することにより、守国が行った作画方法を明らかにし、守国作品の位置づけを試みる。今回の分析から、守国の作図は画題が持つ複数の定型表現を取り合わせて行われていると推定できた。これは、守国が狩野派に学んだ知識を絵師の需要に即して変容させたものであると考えるものである。近世中期以降、町絵師が増加することで、粉本に対する需要が増していた。狩野探幽の弟子である鶴澤探山に学んだ橘守国は、その需要に応じるように大坂で多くの絵手本を作成した。それらの絵手本は浮世絵師を含む町絵師に大きな影響を及ぼしたことで知られる。本論で扱う守国画作の『通宝志』は、柏原屋より刊行された絵手本である。様々な画題を紹介し、人物図や和漢の故事画題に関しては解説を付す形式をとる。自序に従えば、守国は、作画の際に先例となる図様を粉本として用いるべきだと考えており、粉本として『通宝志』を手掛けたという。この主張は典型的な粉本主義と同種のものだと言える一方で、図様の中には先例から逸脱したものが少なくない。特に、巻五上にはその傾向が強く表れる。巻五上は、狩野永徳以来宝永年間まで狩野派が描き続けてきた賢聖障子(けんじょうのそうじ)という画題を掲載している。賢聖障子とは、三二人の漢人物を描いた紫宸殿を飾る画題であり、守国が狩野派の粉本を目にしていたと推測される。しかし、守国が描く賢聖の図は狩野派画の賢聖障子資料と同一の構図ではない。粉本主義の主張と、描いた作品の独自性という矛盾に対し、本論では「太公望図」を中心として分析を行った。その結果、太公望図には、舶載の漢籍などに由来する肖像画的な系統と、故事を絵画化した系統の二系統が存在することが判明した。また、守国の作画は両者を取り入れていることが判明した。これは賢聖障子の画題紹介をすると同時に、絵師の需要に即した図を守国が作画したものであると推測する。このことから、『通宝志』巻五上から見る守国作品は、絵画領域において狩野派という雅文化の知識を、庶民文化へと普及させる一翼を担ったと考えられ、知識が庶民文化へ伝達される近世中期的特徴と一致するものである。In the 18th century, books classified as e-dehon (絵手本) or gafu (画譜), which are illustration books for painters to use in their works, were published in Osaka (大坂). Although these were low-brow media as printed books, some painters who studied drawing from such highly regarded schools as Kanoh-ha (狩野派), the most popular school in the Edo period, made e-dehon and gafu. This characteristic coincides with the character of the 18th century, a period where high culture and low culture converged.Tachibana Morikuni (橘守国) was a painter who studied the methods of the Kanoh-ha school and made many e-dehon in this period. The e-dehon by Morikuni influenced many painters, and this study focuses particularly on the influence on ukiyoe-shi (浮世絵師). Meanwhile, the influences on Morikuni himself are rarely discussed. What knowledge and drawing theories did Morikuni learn from the Kanoh-ha? How did Morikuni use this knowledge and theory in his work? In an attempt to answer these questions, this paper analyzes an illustration of Taikobo (太公望) found in "E-hon Tsuhoushi (絵本通宝志)" Volume 5 by Morikuni.Volume 5 of "E-hon Tsuhoushi" introduces "Kenjo-no-soji (賢聖障子)", an illustration of 32 Chinese people set at the shishinden (紫宸殿), the hall where royal ceremonies were held. Taikobo is one of the Chinese people depicted in this illustration. The Kanoh-ha school considered tracing to be the most important aspect of painting, and Morikuni made the same assertion in "E-hon Tsuhoushi". Thus, one would expect that Morikuni would draw the illustrations to be the same as the original "Kenjo-no-soji" in "E-hon Tsuhoushi". However, the illustrations in "E-hon Tsuhoushi" are different from the original "Kenjo-no-soji" by Kanoh-ha. Based on an analysis of Taikobo, this paper infers that the illustration was made from two traditional Kanoh-ha illustrations. In other words, Morikuni did not deviate from his claim when he made the new Taikobo illustration.These illustrations were likely drawn in response to requests from purchasers such as machieshi (町絵師), painters who also painted for townspeople. The original illustration of kenjo-no-soji is too prestigious for machieshi to use. By adopting Kanoh-ha theory and drawing new illustrations in response to the demands of machieshi, Morikuni successfully made new illustrations that were more convenient for them.
著者
東口 篤司 逸見 博文 金澤 朋扇 斉藤 学
出版者
日本哺乳動物卵子学会
雑誌
Journal of mammalian ova research = 日本哺乳動物卵子学会誌 (ISSN:13417738)
巻号頁・発行日
vol.26, no.3, pp.134-138, 2009-10-01
参考文献数
14

薄い内膜では何故妊娠率が低いのか、そのメカニズムは不明である。本研究ではそのメカニズムを解明するために薄い内膜と正常の厚さの内膜のステロイドレセプター、Transforming growth factor α(TGFα)、酸化ストレスを比較検討した。対象は205症例、1,035自然周期で、妊娠率から排卵後5-7日目の子宮内膜が6cm以下を薄い内膜群(12例;妊娠率8.3%)、7cm以上を正常内膜群(193例;妊娠率51.3%)とした。薄い内膜群ではエストロゲンレセプター、プロゲステロンレセプター、内膜間質における酸化ストレスが有意に高く、TGFαが有意に低かった。これらの機能的異常が薄い内膜における低妊娠率のメカニズムと考えられた。

4 0 0 0 OA 鉄道法規類抄

出版者
帝国鉄道庁計理部
巻号頁・発行日
vol.計理之部 明治38年9月現行, 1907
著者
引網 宏彰 柴原 直利 村井 政史 永田 豊 井上 博喜 八木 清貴 藤本 誠 後藤 博三 嶋田 豊
出版者
一般社団法人 日本東洋医学会
雑誌
日本東洋医学雑誌 (ISSN:02874857)
巻号頁・発行日
vol.61, no.5, pp.699-707, 2010 (Released:2010-10-30)
参考文献数
6

リウマチ性多発筋痛症(PMR)に対して,漢方治療が奏効した5症例について報告する。さらに,これら5症例を含む当科でのPMR治療例10例について検討した。その結果,有効症例は6症例であった。そのうち,1例はステロイド剤の投与を拒否した症例であったが,他の5症例は筋痛症状や炎症反応の出現により,ステロイド剤の減量が困難な症例であった。また,1例を除いて,CRPは3.0 mg/dl以下であった。一方,無効症例では高度の炎症反応を示しており,ステロイド剤の投与が必要であった。有効症例には駆瘀血剤(疎経活血湯,桃核承気湯,桂枝茯苓丸,腸癰湯加芍薬,薏苡附子敗醤散,当帰芍薬散)が投与されていた。以上より,PMRでステロイド剤の減量が困難な症例や炎症反応が軽度である症例には,漢方薬は治療の選択肢の一つとなりうると考えられた。さらに駆瘀血剤の積極的な使用がPMRの治療に有用である可能性が示唆された。
著者
稲葉 浩幸
出版者
近畿大学
雑誌
商経学叢 (ISSN:04502825)
巻号頁・発行日
vol.50, no.2, pp.149-165, 2003-12-20

本稿では, ファイアマークの図案を分析し, その由来や意図を検証することを目的とする。ファイアマークとは火災保険契約の証として, 被保険者宅に取り付けられたプレートのことであり, わが国では1887年に設立された東京火災のファイアマークが最古のものである。ファイアマークの役割は, 消防組織が消火活動を行う際の目印また保険会社の広告・宣伝という実益的な機能がクローズアップされるが, そのデザインには「水」や「魔除け」といった図案が多用され, 防火の「お守り」としての側面も見られる。こうしたファイアマークの歴史的・文化的価値を評価し, わずかに現存するファイアマークを保存していく必要がある。
著者
三保 忠夫
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2006

古代の日本律令国家の時代から近世末期(近代の一部)までの文字資料を調査し、日本語の助数詞について検討してきた。7、8世紀の古文書・木簡等を中心とする資料、9〜19世紀の間の古文書類・古記録類・古辞書類等を中心とする資料を調査・研究した結果、ひとくちに「日本語の助数詞」と称されるものは、時代的な経緯により、性格上、「三層」構造となっていることが判明した。その第1は、「奈良時代の助数詞」であり、その第2は、「中古〜中世の助数詞」である。前者は、大陸渡来の文書行政の一環として導入され、「文書語」のひとつとして位置付けられる助数詞の体系である。後者は、それが日本社会に融け込み、日本的変容を遂げながらも、いわば「伝統的助数詞」として安定的な地位を獲得していった体系である。中世後半から近世にかけて、特に書記言語の世界において、その「伝統的助数詞」は、"典拠・故実"を有する「文書の作法・礼法」ともされた。だが、中世後半から近世にかけて、「第3の助数詞」が登場する。これは、禅宗文化や日明交易にともない、明国から(正確には元国から)入ってきた新しい助数詞の体系である。文房四宝の"筆・墨"の数量表現は、旧来の伝統的助数詞では「一管」「一挺」というが、これは「一枝」「一笏」という。江戸時代には、新時代的な言語(明国語)の体系と共に、こうした新しい助数詞が、文人・禅僧を中心とする文化人社会に行われていたのである。この「第3の助数詞」体系につき、従来、言及されることはなかった。この度、初めて明確になった知見であり、重要な研究成果であった。以上のような研究経過にともない、本研究では、個別的、具体的な種々相についての研究も行った。以後は、研究成果を速やかに公表し、各位の批判を得るよう努力する。末尾ながら、日本学術振興会より科学研究費補助金の交付を賜ったことにつき深く感謝申し上げたい。