著者
前原 正美
出版者
中央大学経済研究所 ; 1971-
雑誌
中央大学経済研究所年報 = The annual of the Institute of Economic Research, Chuo University (ISSN:02859718)
巻号頁・発行日
no.50, pp.169-193, 2018

本論文の目的は,第1に石田三成の旗印「大一大万大吉」には《「愛」の政治思想》が示されており,したがってまたそこには《「愛」の理念》が示されていることを明らかにすること,第2に,三成の旗印「大一大万大吉」に示される《「愛」の政治思想》は《「大一」の政治思想》,《「大万」の政治思想》,《「大吉」の政治思想》という3つに分類して,その具体的内容が示されていること,第3に,三成の《「愛」の政治思想》は,老子の《「陰陽」の政治思想》,聖徳太子の《「和」の政治思想》を継承した《「積善」の政治思想》を発展させた政治思想であるが,そしてまた政治経済思想に関連づけていえば,J. S. ミルの功利主義思想と共通する内容が示されているのであるが,一言でいえば,三成は人間各人は「私」の心を乗り越えて「公」の心=他者や社会に対する「愛」の心を涵養しないかぎり,決して幸福にはなれないこと,いいかえれば人間各人は自分が幸福になるためには,「愛」の心に従って,他者や社会のために自らの生命を役立てて貢献する,という意味での「公共哲学」を有して生きることが極めて重要なことだと天下万民に示したこと,第4に,人生には,《相対的幸福》の視点と《絶対的幸福》の視点の2つの視点に立脚した《幸福の価値観》があるが,人間の幸福は「私」の心に従って,物質的利益(立身出世)の増大を図る生き方から「公」の心=「愛」の心に従って他者や社会の利益の増大を図る生き方への幸福の価値転換が不可欠なのであり,それゆえに三成は,敵と味方,主流派と非主流派といった対立の状況を乗り越えて調和的状態をつくりだすには,「大」=「天」=「神」の心,すなわち「公」の心=「愛」の心をもって天下万民が生きることの重要性を主張したこと,第5に,三成の使命は,秀次事件以後,秀頼の豊臣「家」と豊臣「政権」の構築にあったが,三成はその使命を合議制=連帯制による豊臣「政権」の構築によって武力社会から知力社会への政治的,社会的構造転換によって実現しようと企図したこと,それは同時に知的ネットワークの形成による合議制=連帯制=共同制という特質を帯びた豊臣「政権」に基礎づけられた国家構想であったこと,その実現によって秀頼の豊臣「政権」もまた安泰化となり,天下万民のための天下人の世の実現が達成されてゆくこと,を示してゆくことにある。
著者
木村 風雅 キムラ フウガ Kimura Fuga
出版者
同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)
雑誌
一神教世界 = The world of monotheistic religions (ISSN:21850380)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.78-95, 2018-03-31

ガザーリーは西欧でも中世からアルガゼルの名で知られ、多くの研究が蓄積されている。従来の研究では、ガザーリーを高踏的な思弁神学者あるいは哲学者と見做し、彼の宗教思想もアシュアリー派神学、あるいはイブン・シーナーなどの哲学者との比較を通じて分析されることが多かった。しかし、思弁神学的側面からのみ彼の信仰論を考えることは、晩年に思弁神学への批判を通じて独自の思想を展開した彼の全体像を理解するには不十分である。本稿では、従来のガザーリーの研究史を批判的に検討し、ガザーリー自身が思弁神学に対してどのような評価を行っていたのかを再検討しながら、思弁神学とは別の場所で信仰の成立を構想していた彼独自の信仰理論を検証する。その際、字義的には人間の気性や気質、天性を意味するフィトラの概念に着目し、彼がフィトラ概念を手掛かりに、実定宗教としてのイスラームを相対化する形で、唯一神信仰の新たなあり方を模索していたことを指摘する。Al-Ghazālī has been known as Algazel in Western Europe since the Middle Ages, and there is considerable research about him. In previous studies, he has been recognized as an intellectual speculative theologian or a philosopher, and his thoughts have often been compared with those of al-Asha'rīyah and Avicenna. However, it is not enough to research his faith theory only from a speculative theological perspective, especially because he developed his thoughts through his criticisms against conventional theology in his later years. In this paper, we examine critical historical studies about al-Ghazālī as a theologian. Re-examining his evaluation of the speculative theology(kalām), we research his original faith theory, which does not need the speculative theological methods. We then point out that he uses one of his key theological terms, fiṭrah, to seek primitively monotheistic faith from existing Islam.
著者
マツモト デビット・ 金野 潤 ハタ ステファニー・ 武内 政幸
出版者
武道学研究
雑誌
武道学研究 (ISSN:02879700)
巻号頁・発行日
vol.39, no.3, pp.1-7, 2007

柔道は名実共に世界の柔道に発展した。しかし,この柔道の国際化は競技における体重制の導入,さらにその細分化を進め,試合のルールにしても次第に微細な制約を設け,勝負の基準ブレークダウンした柔道のスポーツ化,競技化の傾向に拍車がかかり,今日では柔道の哲学や価値観モラル等の伝統的な考え方と相反することにもなっていると危惧を抱く議論も多い。中でも特に論議を呼んだのがカラー柔道着問題であった。<br>国際柔道連盟は試合をする選手の一方にブルーの柔道着を着用させることによって,審判や観客などが試合中の選手の動きや技の効果をより鮮明に見分けることが出来るように,国際大会においてブルー柔道着の導入を提案し,種々論議の結果,1997年に議決し,1998年 1月より実施した。<br>我々は10年近く前のこの議論のなかで,レトリックや討論に頼るのではなく,科学的にこの問題を分析することが重要と考え「柔道におけるリーダーシップと科学の重要性― カラー柔道衣問題― 」題し,本誌に発表した。<br>本研究は,国際大会においてブルー柔道着の導入後,柔道着の色によって試合の結果にバイアスがあるかどうかを社会心理学的に検討すべく,2001年,2003年,2005年の柔道世界選手権,そして,2004年アテネオリンピックという4つの大きな国際試合において,ブルーの柔道着を着ている選手の試合の勝率を分析した。<br>その結果,ブルーの柔道着を着ている男子の選手には勝率の高いバイアスが統計的に有意を得たが,女子にはなかった。さらに,このバイアスは試合の一回線から最後まで,そして2001年から2005年まで高くなった。
著者
藤野 陽平
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.119, pp.295-336, 2008-03

第2部 民俗宗教から観光研究まで投稿論文1. はじめに 台湾のキリスト教の略史と問題設定 (1) 日本における台湾のキリスト教研究とその問題点 (2) 台湾におけるキリスト教研究とその問題の所在 (3) 対象の選出と記述の方法 (4) 台湾における言語 (5) 台湾における宗教内のキリスト教の位置づけ2. 台湾基督長老教会(THE PRESBYTERIAN CHURCH IN TAIWAN) (1) 南部長老教会 (2) 北部長老教会 (3) その後の長老教会の歴史と政治的スタンス3. 台湾聖教会(荷里寧斯,ホーリネス,TAIWAN HOLINESS CHURCH)4. 真耶蘇教会(真イエス教会,True Jesus Church)5. 召会(教会集会所,小群,LITTLE FLOCK,地元にあって合一である立場に立つ教会)6. 分析8. おわりにA study of Christianity that is understood not only from doctrine or theory but also from a social context is needed today. Many studies are being conducted from this point of view as part of a project carried out by the Japanese Association for the Study of Religion and Society. However, most of these studies pertain to Japanese or Korean Christianity. From the East Asian study perspective, there is presently a need for studies on the Chinese people. Therefore, I take Christianity in Taiwan as an example. In 2005, there were some 903,451 Christians in Taiwan. Christianity is secondary to Daoism (about 7,600,000) and Buddhism (about 5,486,000). As of 2007, the population of Taiwan is 22,900,000; therefore, the percentage of Christianity is approximately 4%. The churches that have over 10,000 members are The Presbyterian Church in Taiwan (台灣基督長老教會222,381), Little Flock (召會99,374), True Jesus Church (真耶〓教会70,618), Bread of Life Christian Church in Taipei (台北靈糧堂33,132), Chinese Baptist Convention (中華基督教浸信會聯會26,205), Taiwan Lutheran Church (台灣信義會13,732), and Taiwan Holiness Church (台灣聖教會11,582). So I analyze Christianity in Taiwan, using the Presbyterian Church in Taiwan, Taiwan Holiness Church, True Jesus Church, and Little Flock as examples. I present Christianity for a conclusion that is being constructed in a relation between Taiwanese folk religion and Christianity under the trend of globalization. Moreover, I present a new perspective on the study of religion in Taiwan.
著者
菅原 浩
出版者
長岡造形大学
雑誌
長岡造形大学研究紀要 (ISSN:13499033)
巻号頁・発行日
no.5, pp.49-55, 2007

In the introductory philosophy class at Nagaoka Institute of Design, students are required to make philosophical experiments, one of which is a meditation of listening to the surrounding sounds very intently. Through it students can experinece various forms of nonordinary modes of experiencing the world. We can see the beginning steps ofphilosophical questions in those experineces. We also analyse them by applying the phenomenology of M. Merleau-Ponty and other theories.
著者
浦井 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.79-104, 2018 (Released:2018-09-30)

田辺元(一八八五―一九六二)は、一九四四年夏の救済の体験を転機に、宗教哲学を中心とする思索を展開した。田辺は自身の宗教的救済を語る一方で、自分のことを無宗教者と表現する。本稿は、田辺が提示した「無宗教者の宗教的救済」という一見矛盾した見解に注目し、とりわけそれが「なぜ起こり得るか」について明らかにした。田辺が宗教的救済と呼ぶものは、特定の神や仏による救済ではなく、「絶対無即愛」という田辺独自の絶対者理解による救済である。その救済の内容は、個人が理性の二律背反に直面し、自身の無力を自覚することによって可能となる知と行為の性質の変化である。このような救済は、特定の神や仏に対する信仰を持っていなくとも起こり得るとされ、田辺は人から人へと「絶対無即愛」のはたらきが伝播すること(絶対媒介)によって可能となるとした。本稿では、田辺の絶対媒介についての見解が孕む問題点を指摘しつつ、「無宗教者の宗教的救済」の根本的契機を、社会における当為の二律背反に見出した。
著者
唐澤 太輔
出版者
特定非営利活動法人 頸城野郷土資料室
雑誌
頸城野郷土資料室学術研究部研究紀要 (ISSN:24321087)
巻号頁・発行日
vol.2, no.8, pp.1-20, 2017 (Released:2019-04-20)

本稿では、博物学者・民俗学者として知られる南方熊楠(1867~1941 年)が表した深遠な「曼陀羅」の解釈を行い、そこに見られる近代科学的あるいはロゴス的思考を越えた新たな知の可能性を探る。この「曼陀羅」の存在とそれに関する熊楠の言説は、研究者たちによって以前から知られてはいたが、その考察はほとんどされてこなかった。その原因の一つは、熊楠がこの「曼陀羅」内で言及している「名」と「印」が一体いかなるものなのかが明確ではなかったからである。これらの語は、熊楠によってあまりにも唐突に語られ、またあまりにも説明が複雑に入り組んでおり(熊楠自身の混乱さえ見られる)、完全に理解することは難しく、長い間、本格的な研究は「保留」状態にあった感が否めない。 熊楠自身による「名」と「印」の解釈は、実際どのようなものであったのか。また、それは仏教における概念とどの程度合致するものなのか。本稿では、土宜法龍宛書簡以外の熊楠による書簡や著作にも目を向け、この「名」と「印」を知るための言葉を示していく。そして、そこから熊楠が人類に共通する「世界」認識の構造をどのように考えていたかを見出していく。そして最後に、非因果的連関作用としての「縁」について、熊楠がどのような言説を行っていたかを概観する。本稿は、今の研究者たちによる数少ない熊楠の「名」と「印」に関する論の解釈に一つの結論を与えると同時に、今後の文化人類学や民俗学のみならず哲学や宗教学において、知の巨人・南方熊楠が果たした思想的役割を広く議論していくための「土台」を提供することを目指すものである。
著者
伊原木 大祐
出版者
北九州市立大学基盤教育センター
雑誌
基盤教育センター紀要 (ISSN:18836739)
巻号頁・発行日
no.32, pp.1-18, 2019-03

本論文は、エルンスト・ブロッホの宗教哲学をそのユダヤ性に関連づけながら再構成する目的で書かれている。ブロッホ哲学に内在するメシアニズム論の枠組みを理解するためには、初期の著述を精査することが欠かせない。主としてショーレムのブロッホ観に依拠しつつも、ブーバー思想との類似点および相違点を確かめる中で、無神論を志向したブロッホ哲学のユダヤ性がどこにあるのかを明らかにしている。
著者
奥谷 浩一
出版者
札幌学院大学総合研究所
雑誌
札幌学院大学人文学会紀要 (ISSN:09163166)
巻号頁・発行日
no.96, pp.77-99, 2014-10

アクセル・ホネットはいわゆるフランクフルト学派の第三世代にぞくすると評されるドイツの哲学者・社会学者である。その彼が『物化』を公刊した。この著作の意図は、マルクスによって創始されルカーチによって継承された物象化論に今一度アクチュアリティを与えようとするところにあるが、それはかなり特異な「物化」論でもある。その大きな特徴は、ルカーチの理論の読み換えを行い、彼独自の「承認」という概念を用いてこれを「物化」論に適用し、「物化」を「承認の忘却」として理解することである。しかし、こうした特異な「物化」論は、マルクスとルカーチによって定式化された物象化論から資本主義的商品交換社会という視点を排除し、本来社会的次元で生ずるはずの個々人どうしの「相互承認」の概念内容をも変更して、個人と環境世界との間の、しかも認知以前の「承認」へと拡大するとともに、個人的・人間学的な次元で読み換えようとするものであり、きわめて問題の多いものである。そしてそれは、その強引と思える読み換えと鍵となる概念内容の拡大によって、本来の物象化論がもつ社会批判としての意義を解消しかねないように思われる。本論文では、こうした観点から、マルクスとルカーチの物象化論に立ち帰ってまずその基本的思想を確認し、この準備作業から見えてくる、ホネットの「物化」と「承認」の理論がもつ問題点を分析する。論文