著者
吉田 公平 三浦 秀一
出版者
東洋大学
雑誌
特定領域研究
巻号頁・発行日
2001

中国近世期の宋代に朱子によって集大成された朱子学(性理学)はその後の思想界に大きな影響を与えた。科挙の基本教学になったことの為に、単に学術思想界ばかりではなく、広く中国の指導者階層の思考様式を方向づけることになった。李氏朝鮮朝では朱子学一尊体制のもとに科挙制度を採用したので中国以上に朱子学が信奉された。日本では科挙制度は実施されなかったものの、性善説を基本とする社会哲学として熱心に読まれた。近世期以降の東アジア漢字文化圏で大きな影響力を持った朱子学を学ぶ際に基本教典として学習されたのが『四書集注』である。朱子が『四書集注』の構想を持つのは四十代の事であるが陸象山との論争を経て『大学章句』『中庸章句』の序文を書き上げてひとまずの完成を見る。しかし、『四書集注』が刊行されて広く普及するのは朱子の没後である。元代にも『四書集注』の末疏が出版されたが、科挙制度が本格的に実施された明代以降にこそ受験用テキストとして数多く出版された。他方、臨床倫理学のテキストとして『四書集注』を読むものの中から朱子学に批判的な解釈を披瀝するものが登場する。その代表者が王陽明である。日本においては江戸時代初期に朱子学が本格的に学ばれるが中国輸入本朝鮮渡り本だけでは読者の需要に応えることができないために、木版印刷の波に乗って『四書集注』が刊行された。特に江戸時代後半には雄藩のみならず地方の小藩が『四書集注』を刊行している。読書する人が武士階層以外に大量に誕生して読者人口が増えたことが出版を促した要因である。中国・台湾・日本における『四書集注』の書誌・研究史をほぼ掌握できたことは大きな収穫であった。何故にこれほどまでに印刷され読まれたのか。文教政策という視点だけではなく、『四書集注』そのものの内容を解析することにより、『四書集注』を促したもものを明らかにした。ロングセラーを可能にした要因は『四書集注』の世界が、性善説を人間観の基本にした自力主義・自力救済論・自己実現論であること、それを基軸にして、人と共に幸福に暮らせる社会を建設することを目指した社会哲学であったことが、読者を魅了したのである。江戸時代は戦乱の時代が終わり明日をいかに生きるかを真剣に問いだした。そのために朱子学が着目されたのである。武官でありながら文官を兼ねた武士階層ばかりではなく、新しい読者層となった庶民階層も応分の社会的責任を担いながら、人間らしく生きることを求めたときに、『四書集注』が熱読されたのである。

1 0 0 0 OA 宗教哲学

著者
波多野精一 著
出版者
岩波書店
巻号頁・発行日
1944
著者
井上 彰 後藤 玲子 DUMOUCHEL PAUL
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2015-04-01

平成29年度は、平成28年度の研究、すなわち、「平常時」から(部分的にせよ)かけ離れたカタストロフィ後の世界において、分配的正義を支える価値や理念がいかなる身分を有するのかについて精査し、そのうえでカタストロフィ後の世界に適用可能な価値の構成や適用順序について明らかにする研究をふまえて、わが国を含む様々な国や地域の不平等や不正義の問題への応答を試みた。具体的には、政治哲学パート(井上彰が担当)では、これまでの復興にかかわる分配的正義をめぐる原理的議論を分析哲学の手法を用いて批判的に吟味し、経済哲学パート(後藤玲子が担当)では、復興にかかわるような格差を生む分配メカニズムについての考察を、経済学や社会的選択理論の知見をふまえるかたちで進め、社会哲学パート(Paul Dumouchelが担当)では、カタストロフィ後の経済社会のあり方、ありうべき姿について社会思想史やロボット哲学・倫理学の観点から検討した。その研究成果の一部として、研究代表者の井上が主催するかたちで、2018年1月19日に、Questioning Methods, Theory, and Practice in History and Politicsと題するシンポジウム(Strategic Partnership Program: The Australian National University and the University of Tokyo, Australian National University-University of Tokyo Joint Research Seminar)を東京大学駒場キャンパス(東京大学大学院総合文化研究科グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター)にて開催し、政治や歴史をめぐる方法論的反省とその刷新可能性について分野横断的に議論した。
著者
稲垣 久和
出版者
東京基督教大学
雑誌
キリストと世界 : 東京基督教大学紀要 (ISSN:09169881)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-19, 2012-03

人間が生きること,それも「善く生きること」は哲学の出発点にあった。そのために,今日では道徳,倫理だけでなく,政治,経済,教育,福祉が関わる。これら全体が関わるところに現代人の「幸福な生活」が可能になる。21世紀の文明の変転期には,枢軸時代の大思想を再解釈していく必要性が出てきている。キリスト教と同時に,東アジアの伝統と対話しつつ儒教の「天と良心」,仏教の「慈悲と四諦(=苦集滅道)」の認識を深めて欲望をコントロールしつつ,他者と地球環境を配慮(ケア)するような「ケアの倫理」の確立に向かいたい。倫理を発想するスタイルとしては,「正義の倫理」は孤立した抽象的個人の見地に立ち,普遍的原理を結論するだが「ケアの倫理」は,具体的状況における対人関係を前提として,奉仕と同情に基づいた判断をする。 学問は内容が学際的であればあるほど哲学的な認識論と存在論が明らかにされなければ,ただの総花式の寄せ集めになってしまう。経済,政治,法律,道徳,倫理。宗教まで扱わねばならない今日の福祉学には,ますますその傾向が強くなっている。では今日の福祉学の背景となる哲学とは何か。われわれは公共哲学に基づいた福祉。すなわち公共福祉を提起したい。 キリスト教の果たすべき社会的責任とは,十字架の贖罪愛を通した common grace から来る。アリストテレス的な「友愛」をさらに上から"引っ張る"アガペーの隣人愛をもって,キリスト者は「よきサマリア人」としてのケアの倫理を社会に実践する主体となるべきだ。これは NPO 等の中間集団で発揮され市民社会の原動力となる。賀川豊彦の協同組合運動も現代の市場経済のゆがみを是正しようとした。そして彼の行動はキリストの十字架の贖罪愛から来ているのであり,すべての現代の希望もまたここから出てくるのである。
著者
前田 高弘
出版者
日本科学哲学会
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.67-81, 1999

注意されたいのは,私はスワンプマンがある種の生物学的機能や心的特性(ないしそれに似た何か)をもつことを否定してはいないということだ.スワンプマンが通常の照明の下で赤いリンゴを目の前にしたとき,彼はあなたが同様の条件下でもつ経験と同じ経験をもつという直観は,内在主義というより,物理的スーパーヴィニエンスに基づく自然主義に由来するものであるように思われる.だが他方で,心的特性を進化論的な観点によって捉えようとする外在主義も同様の自然主義によって動機づけられており,本稿は,この自然主義の内部における対立を調停する試みであると言える.この試みによって,外在主義者たちがスワンプマンに悩まされなくなれば幸いである.だが,たとえそうならなくても,スワンプマンを自然法則に関する形而上学的問題の中に位置づけることによって,志向性や感覚質に関する哲学的議論の場そのものからはスワンプマンに別れを告げることができれば私は満足である.そこではドッペルゲンガーだけで十分だろう.
著者
福山 佑樹 森田 裕介 松野 夢斗 浅見 智子
出版者
日本教育工学会
雑誌
日本教育工学会論文誌 (ISSN:13498290)
巻号頁・発行日
vol.41, no.Suppl., pp.177-180, 2018-03-01 (Released:2018-03-01)
参考文献数
9

反転授業の予習に用いるデジタル教材として,デジタルゲームを用いた場合の特性を検証するための試行を行った.実践の結果,ゲームを用いた予習教材は一定数の学習者にとって「エンタメとして楽しめる」ものであったが,応用問題や科学哲学的な問題の理解を深めるためには対面授業でのディスカッションを組み合わせることが重要になること,反転授業形式にすることでゲーム教材の「授業中に必要以上に時間がかかりやすい」という欠点を乗り越え,振り返りを充実化することで学習効果を高める特性がある可能性が示唆された.
著者
加藤 篤子
雑誌
人文 (ISSN:18817920)
巻号頁・発行日
no.8, pp.43-63, 2010-03-28

本論考ではハイデッガーのDenken、つまり「存在を思索する思考」に対するハンナ・アーレントの批判的観点を、哲学的範囲で考察してみたい。アーレントは周知のように生涯にわたり大哲学者ハイデッガーの哲学的弟子であり続けた。事実、ハイデッガーの80 歳(1969 年)に寄せた文では、アーレントは、ハイデッガーの思考に称賛と敬意を捧げている。存在の思索こそをハイデッガーの生来の住処とみなし、20 世紀の精神的相貌を決定するに与ったのはハイデッガーの哲学ではなくて、その純粋な思考活動であるとする。したがってそこではアーレントの批判的観点は明らかではない。 しかしアーレントの没後、70 年代後半に刊行された『精神の生活』の「思考」の巻において、ハイデッガーの思考に対するアーレントの批判的観点が明確に浮上する。『精神の生活』はカントの批判哲学の新たな解釈なのだが、それに依拠してアーレントはハイデッガーの思考における「意味と真理の混同」を問題視する。そこに基本的仮象と誤謬があるとする。アーレントによればその根拠は精神と身体を持つ人間の逆説的な存在にある。
著者
藤田 晋吾
出版者
筑波大学
雑誌
哲学・思想論集 (ISSN:02867648)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.233-248, 2001

はじめに たんなるアナロジーの域を出ないが、マルクスの『資本論』に対するスラッファの『商品による商品の生産』の関係は、ホワイトヘッド=ラッセルの『数学原理』に対するウィトゲンシュタインの『論理哲学論婚』になぞらえることができる。 ...
出版者
日経BP社 ; 2002-
雑誌
日経ビジネスassocie (ISSN:13472844)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.85-87, 2015-03

パソコン市場の黎明期、必ずしも技術力で他社を圧倒していたわけではなく、逆に他社の後塵を拝することが多かった米マイクロソフトを、ビル・ゲイツはどうやって世界最大手のソフトウエア会社に押し上げたのか。その軌跡を追う。0歳誕生1955年安定名門の御曹司…
著者
田中 夏子
出版者
法政大学サステイナビリティ研究所
雑誌
サステイナビリティ研究 (ISSN:2185260X)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.97-110, 2014-03

本稿は、ディーセントワークの観点から着目される自主管理型の非営利事業組織の「仕事」の概念とその構造について考察することを目的としている。特に生協活動を背景として1980年代以降、食・ケア・子育て等の再生産領域で事業展開してきたワーカーズ・コレクティブ(= W.Co)に焦点を当て、W.Coが自らの活動を表現する際に用いる「コミュニティワーク」という概念の意義およびその複合性を検討した。ここでいう「コミュニティワーク」とは、「家事・育児・共育、介護、地域での社会活動等のアンペイドワークを、人々が生きていくために必要な労働」であり、しかし賃労働と異なる仕事の哲学をもって事業化する取り組みを指す。筆者は W.Co のコミュニティワーク論を辿り、その独自性を以下三つの複合性の中に見出せると仮定した。第一は報酬に対する考え方である。W.Co では経済的対価を「分配金」と位置づけ、労賃保障を重視した収入構造をとらないが、他方で労働者としての権利保障をはかろうとの意図が存在する。第二は人間が深く傷つく現代労働に対し、一貫して「オルタナティヴな働き方」の看板を掲げており、結果としてディーセントワークが重視されている点である。第三は事業を通じて、市場や公共の欠落を「補完」する側面を持つと同時に、公共や民間事業者を規制する機能を持つとしている点、つまり市場と公共の「補完」や「残余」ではなく、両者の有り方に改善を求める提案型の事業となっている点である。The purpose of this article is to examine the structure of concept of "community work" of self-governed and not-for-profit enterprises. Especially focusing on the workers' collective which has developed in the reproductive fields, such as food and care (for child, aged and others), I will analyze the making process of the concept of "community work", introduced by the workers' collective for the explanation of the uniqueness of its activities. Through this analysis, I would like to show you the complexity of its meaning as well as of its significance. The first complexity exists in the concept of wages. In the case of workers' collective, its works are to be created for the response of needs. Therefore the economic consideration is to be provided as distribution ("bunpaikin" in Japanese), which doesn't necessarily mean full payment for their work. But at the same time workers' collective puts the target of effort to achieve the minimum wage or more. The second complexity exists in the respects of decent work. The core members of workers' collective say that the way of their work is not equal to the ordinary dependent work. But at the same time, they always examine themselves if they fall into the defects of dependent work. The third complexity exists in the role or function of the community works in the welfare system. Community work, on one hand, has its role so that the various needs in community can be satisfied in the accurate way, which will be difficult to be realized by the government, or public agencies. This role is so-called "residue". But on the other hand community work has the function of intervention to modify or improve the contents and even the way of thinking of the welfare service provided by the public agencies of private sectors.
出版者
日経BP社 ; 2002-
雑誌
日経ビジネスassocie (ISSN:13472844)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.82-84, 2015-03

消費者を虜にする商品を次々と生み出す一方で、IBMといった巨大なライバルに戦いを挑む。ジョブズの歩みには、人々を魅了し、注目を集める"何か"が備わっている。結局、「ジョブズ流」とは何だったのか。彼の生涯を貫いたポリシーをひもとく。
出版者
日経BP社 ; 2002-
雑誌
日経ビジネスassocie (ISSN:13472844)
巻号頁・発行日
vol.14, no.4, pp.78-81, 2015-03

マッキントッシュ、iPod、iPhone。ジョブズが世に送り出したものは、単なるヒット商品という枠を超え、新しいライフスタイルを生み出すインパクトを持っている。優秀なエンジニアでもプログラマーでもなかったジョブズは、どうやってイノベーションを成し遂げた…
著者
花形 恵梨子
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.201-134, 2015-03

特集 : 西脇与作君・樽井正義君退職記念寄稿論文Rawls's political liberalism claims that under the condition of reasonable pluralism coercive laws are legitimate only if they are justifiable to all reasonable citizens. This requirement of public justification is fulfilled when laws are justified by public reason. And the content of public reason is given by political conceptions of justice which can be the focus of an overlapping consensus of reasonable comprehensive doctrines. This paper clarifies why political liberalism sets this requirement of public justification and highlights the characteristic features of political liberalism as a kind of liberalism by first, comparing political liberalism to comprehensive liberalism and second, by comparing political liberalism to perfectionist liberalism.