著者
筒井 清次郎 伊藤 文浩
出版者
愛知教育大学大学院・静岡大学大学院教育学研究科 共同教科開発学専攻
雑誌
教科開発学論集 (ISSN:21877327)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.129-138, 2014-03-31

本研究は、フィードバック頻度と注意の向け方が運動習得にどのように影響するかを調べるために、スポーツ課題であるサッカーの的当て課題を用いて、経験者と初心者を対象とし比較した。その結果、以下のことが明らかになった。1)練習試行において、経験者は注意の向け方に関わらず、1日目から3日目にかけて平均得点が向上した。External Focus(身体外部への注意)群の初心者は3日目に平均得点が向上したが、Internal Focus(身体への注意)群の初心者は3日間で平均得点が向上しなかった。2)保持テストにおいて、経験者と初心者の両方でExternal Focus群はInternal Focus群よりも平均得点が高かった。3)練習試行においても、保持テストにおいても、フィードバック頻度の違いはみられなかった。
著者
高階 絵里加
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.13-32, 2011-03

現在,自然科学の分野においては,可視的な身体的特徴にもとづく人間の分類に大きな疑問が投げかけられている。いっぽうで,一般社会においては,とりわけ肌の色の違いをもとにした「白色・黄色・黒色」の三分類がひとつの典型的な人種カテゴライズの方法として根強く定着している。本小論では,視覚的伝統における人種の三区分の一つの例として,<東方三博士の礼拝〉の図像をとりあげる。〈東方三博士の礼拝〉は,西洋美術の中で最も数多く絵画や彫刻に制作され,親しまれている図像のひとつであるが,造形美術において「肌の色による人間の三分類」が典型的にあらわれる例でもある。その背景には「異邦人を含む全人類を包括する普遍的宗教としてのユダヤ=キリスト教」の思想が存在し,とくに肌の色の描き分けによって三人の博土が人類の三つの民族を表すという美術上の表現は十四世紀から十五世紀にかけてまず北ヨーロッパにおいて,ついでイタリアや他の国々で定着する。とくに十五世紀には三人の中の一人が黒人主として描かれる例が増えはじめ,西洋社会において一般にネガティブな価値を与えられてきた「黒い肌」が<東方三博士>においては<高貴な異邦人>の象徴となっている点は興味深い。ここから近代的「人種」概念以前の時代の異邦人表現としての<東方三博士の礼拝>図像の特徴を考える。
著者
北村 嘉恵
出版者
日本台湾学会
雑誌
日本台湾学会報
巻号頁・発行日
vol.6, pp.107-130, 2004-05

台湾先住民児童を対象とする初等教育機関・蕃童教育所は警務局の管轄下におかれ、その教員を担ったのは駐在所の巡査であった。本稿の課題は、教育所の教員を担った警察官の具体像を検討し、そこに教育実践上どのような問題があったのかを検討することにある。主な資料は、警察関係の統計、官庁出版物、雑誌、部内簿冊等である。 総督府が教育所教員としてどのような人材を配したかを通観すれば、限られた人員と予算のもとで、総督府が教育所教員のために講じた措置はごく限定的なものであったことが歴然としている。このことは、先住民政策において教育所教員の問題が低い位置しか占めていなかったこと、ひいては、為政者にとって先住民教育が切迫した政策課題とはなりえなかったことをよく示している。しかも、先住民教育が先住民政策の「要」であるといった掛け声とは裏腹に、教育所の生徒たちは劣悪な教育状況下での学習を余儀なくされたのである。
著者
熊田 千尋
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 = THE BULLETIN OF THE INSTITUTE OF JAPANESE CULTURE KYOTO SANGYO UNIVERSITY (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.148-102, 2020-03-31

「本能寺の変」が発生した当時、変の原因について、主な公家や織田信長の家臣たちは、信長の四国政策変更によるものとみていた。これが「四国説」の始まりである。 本稿では、変の原因について四国説に求める先行研究の成果と2014 年に公表された『石谷家文書』から新たに判明した史実を結びつけることにより、明智光秀の謀叛実行に至る過程をより明確にした。『石谷家文書』よって、織田信長と長宗我部元親との国分条件に係る交渉過程において、天正9 年(1581)冬、安土において長宗我部元親を巡って、長宗我部元親を悪様に罵る讒言者と近衛前久・明智光秀との間で争論が行われていたことが明らかとなった(また、本能寺の変後に近衛前久が、織田側から光秀との共謀を疑われたが、その理由は、この争論で長宗我部元親を擁護したためであった)。 信長は讒言者の意見を重視して、一方的に東四国から元親を排除する措置に出た。この讒言者について、本稿において、信長の側近で堺代官の松井友閑であることを明らかにした。すなわち、光秀は松井友閑に外交面で敗北したのである。ただ、信長は、元親が土佐一国の国分条件を受け入れるなら断交はしないとし、光秀はその説得交渉の使者を派遣した。しかし、その後信長は元親の返答を確認しないまま、三男信孝に四国出兵を命じ、一方的に元親を敵対視する措置に出た。この命令は光秀を通した元親への説得中に出されたので、光秀の交渉は無視されたことになった。この二度にわたる信長の一方的な四国政策の変更により、光秀の謀叛の動機が形成されたと考えられる。 謀叛実行のきっかけは、天正10 年(1582)5 月に羽柴秀吉からの援軍要請により、信長が毛利攻めの親征を決め、光秀がその先陣を命令され、加えて、徳川家康らを接待するため、信長が毛利攻めの途中京都の本能寺に殆ど無防備の状態で立ち寄ったことにあった。本能寺の変は、光秀がこの舞い込んだ一瞬のチャンスを活かし、信長を襲撃したものである。
著者
小長谷 有紀 Yuki Konagaya
出版者
河出書房新社
巻号頁・発行日
1997-12-15
著者
三尾 稔 福内 千絵 木下 彰子 中谷 純江 Minoru Mio Chie Fukuuchi Akiko Kinoshita Sumie Nakatani
出版者
国立民族学博物館
巻号頁・発行日
2011-09-22

会期・会場: 2011年9月22日-11月29日 国立民族学博物館 編集 財団法人 千里文化財団
著者
三上 直之
出版者
岩波書店
雑誌
科学 (ISSN:00227625)
巻号頁・発行日
vol.90, no.12, pp.1087-1093, 2020-12