- 著者
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太田 孝
- 出版者
- 人文地理学会
- 雑誌
- 人文地理学会大会 研究発表要旨
- 巻号頁・発行日
- vol.2011, pp.22-22, 2011
(はじめに) 「修学旅行」という言葉は,ほとんどの日本人の心に思い出として残っている言葉であり,長年にわたって学校教育の中で大きな役割をになってきた。白幡1)は,昭和の日本人の「旅行」を「昭和が生んだ庶民の新文化」とする。この「庶民の新文化」がどのように形成され,日本人の特徴としての「団体型周遊旅行」という旅行行動が生まれてきたのかを明らかにすることが本稿の目的である。その際,特に着目したのが修学旅行である。 修学旅行は,日本の特徴的な文化の一つとして定着しており,日本人の旅行を考える上で,決して欠かすことのできないテーマである。昭和時代には国家体制と社会環境の影響を受けながらも,太平洋戦時下を除き息長く継続されてきている。「なんとか子どもたちを修学旅行にいかせたい」。それは父兄のそしてムラ・マチの大人たちの,戦前・戦後を通じての熱い思いであった。昭和戦前期また戦後の荒廃下でも,わが国の地域社会において,都市と農村や生活の格差を越えて幅広い層にわたって組織的に「旅行」を経験し,「外の世界」に触れたのは子どもたちであり,修学旅行にはひとりでも多くの生徒の参加がめざされていた。自分たちが「日頃行動できる範囲=日常生活圏」から離れ,見聞きしたことを家族やムラ・マチの人々に話す。この子どもたちの体験と情報は地域社会に大きな影響を及ぼしたと考えられる。このような問題意識を持ったとき,戦後における日本のツーリズムの画期性を考察するには,その土壌が出来上がる前段の,戦前における人々の「旅行行動の意識形成」の過程をとらえて論じる必要があることに気がつく。本稿のめざすところは,日本人の旅行行動の意識形成を明らかにすることであるが,それに影響を与える大きな役割をになった一つが,幅広い層にわたって誰もが経験した修学旅行であったと考えられる。日本人の旅のスタイルの特徴を形づくってきた淵源のひとつは修学旅行にあるのではないか。このような仮説と問題意識のもとに,戦前において「参宮旅行」と称して全国から修学旅行が訪れた「伊勢」をフィールドとして,筆者が発見した資料(1929~1940年の間に全国から伊勢神宮を修学旅行で訪れた学校の顧客カード3,379校分・予約カード657校分ほかが内宮前の土産物店に存在した)をもとに考察した。(得られた知見) まず第1に,「伊勢修学旅行の栞」による旅行目的と行程の詳細分析から,目的である皇国史観・天皇制教化としての「参宮」を建前としながらも,子どもたちにたくさんのものを見せ,体験させたいという「送り出し側(学校・父兄・地域)」の思いが修学旅行に色濃く反映していることが実証された。その結果としての,短時間での盛りだくさんな見学箇所と時間の取り方や駆け足旅行という特徴は,子どもたちに,『旅行とはこういうものだ』という観念を植えつけ,団体型周遊旅行の基礎を作り上げるとともに,『見るということに対するどん欲さ』を身につけさせた。第2に,夜行も厭わない長時間の移動と,食事・宿泊も一緒という実施形態により,団体型の行動や旅行に慣れていった。この形態が戦後の団体臨時列車,引き回し臨時列車,修学旅行専用列車,バスによる団体旅行等の旅行形態と,それを歓迎する(好む)旅行行動の意識形成につながった。第3に,現代の日本の団体旅行の誘致手法は,江戸時代の伊勢御師の檀家管理手法や講による団体組成方式にルーツがあり,その思想を受け継いだ伊勢の旅館や土産物店の修学旅行誘致・獲得策が,戦後の旅行業の団体営業型のモデルになった。ツーリズムは需要側と供給側の相互作用によって醸成されていくものである。この供給側の需要側に対する活動が日本人の団体型旅行行動意識形成の重要な部分を担ってきたことが検証された。第4に,旅行における『本音と建て前』の旅行行動の意識を明らかにした。すでに江戸時代から存在したものであるが,特に満州事変以降の戦時体制下において,子どもたちの修学旅行を実現するためにその考え方が強く現れている点を指摘した。この『本音と建て前の旅行文化』は,戦時体制下という事情とともに,日本人の余暇観・労働観が旅行行動の意識の根底にあるものである。このように,従来の研究ではとらえられていなかった,戦前の修学旅行が旅行の形態と旅行行動に関する意識形成に与えた影響を明らかにした。そして第5に,この影響は,「都市と農村」や「生活面での格差の階層」を越えた幅広い層の子どもたち本人と,その日常生活圏の人びとに対するものであったことも,戦後の日本のツーリズム形成の要因として見逃すことはできない。1)白幡洋三郎『旅行のススメ 昭和が生んだ庶民の「新文化」』1996.中公新書