著者
伊藤 悟 鵜川 義弘 福地 彩 秋本 弘章 堤 純 井田 仁康 大西 宏冶
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

本発表は、昨年と今年の日本地理学会春季学術大会において同じ題目のもとにシリーズで行った4件の発表に続くもので、その後のシステム整備の進展や、未発表の利用実践を話題にする。具体的には、システム整備の新たな進展としてパノラマ写真との連動機能を、利用実践としては小学生らのオリエンテーリングを報告する。
著者
王尾 和寿 村山 祐司 温井 達也 相澤 道代
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2014, 2014

近年、通学途中の児童と自動車の接触事故、震災や竜巻被害の発生などを契機として、通学路における児童の安全確保は喫緊の課題となっている。本研究では通学路の不安箇所を把握し改善につなげるため、地域に居住し地域を熟知している保護者の視点で不安箇所を抽出し、その属性を用いて空間的特性を明らかにした。データ取得については、地域の危険箇所や不安箇所に関するデータ収集を行うため、2012年10月および2013年12月に、茨城県つくば市内のN小学校区において、児童と保護者による通学路点検を実施した。集団登校に保護者が同行し、通学路の不安箇所を、交通、犯罪、災害の視点でチェックし、GISデータベースを作成した。次にカーネル密度推定により、不安箇所の分布特性を把握し、属性情報と共に分析を行った。 結果として2012年では108枚の不安箇所マップを回収し、393地点の不安箇所(交通不安244、犯罪不安86、災害不安63)を取得した。また2013年では111枚で382地点(交通不安226、犯罪不安101、災害不安55)の不安箇所を取得し、両年次共、交通不安の箇所数が最も多かった。2013年データに対してカーネル密度推定を適用した結果、交通不安、犯罪不安、災害不安、それぞれに不安地点密度の高い場所が異なっていた。交通不安は箇所数が最も多く、学校区全体に分布しているが、特に交通量の多い幹線道路を横断する地点で、密度の高まりが見られた。犯罪不安については、民家や人気が無い農道での不安感が高かった。災害不安については、周辺に民家が無く、災害発生時に避難する場所も無い地域での密度が高く、2012年調査と比較して不安感の高まりが見られた。また、道幅が狭く家屋が密集する地域での不安感も高く、塀や壁が崩れる恐れを指摘する声が多かった。さらに、児童の性別と保護者の不安感の関係を探るため、交通、犯罪、災害、それぞれの不安箇所について、男児のみが通学、女児のみが通学、男女が通学、の3タイプの割合を計算した結果、犯罪不安では女児のみが通学している保護者の割合が高く、災害不安では男児のみが通学している保護者の割合が高い傾向がみられた。
著者
上江洲 朝彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.67, 2007

<BR> 沖縄県は第二次大戦以降、長く軌道交通を持たずに都市交通ネットワークを道路を軸に展開してきた。これは島内に分布する米軍施設を結ぶように南北に幹線道路が整備され、それらを補完する形で東西の道路網が形成されてきたことに起因している。軌道よりも先に道路が整備されたことにより、沖縄の公共交通は路線バスが台頭し市民生活を支えるようになった。しかし、本土復帰を境に沖縄にも訪れたモータリゼーションの影響は、軌道交通を持たずかつ自動車による移動が前提となっていた沖縄社会に一気に浸透していった。結果、那覇市内を中心に慢性的な交通渋滞が発生し、バス交通の利便性は低下しそれが更なる自家用車利用を拡大させるという悪循環を招く結果となった。現在、沖縄県は全国的にみても渋滞による経済損失が大きい地域となっている。1)<BR> この深刻な都市交通問題を解消するために2003年8月に導入されたのが沖縄都市モノレール(以下、ゆいレール)である。ゆいレールは全長12.9kmで那覇空港から那覇市の北東部に位置する首里地区までの15駅を27分で走行する(図1参照)。一日の平均利用客数は31,350人(開業時)で観光客の利用者も多くみられるものの(12.0%)、通勤通学利用が全体の約30%を占めている。2)<BR> 図2は那覇市内における居住地と就業地の密度の変遷を示したものである。これをみると居住地は近隣市町村へ拡散傾向にあるが、就業地は県庁や市役所が立地する中心業務地区に限定的である。つまり、那覇市の就業者は年々通勤距離が拡大しており、拡大した都市圏において自家用車による移動がさらに卓越することが予想される。そこで更なるモータリゼーションの拡大を抑制するためにも今後、沖縄本島の交通計画上ゆいレールの果たす役割は大きい。特に、ゆいレールが沖縄の都市交通においてどのような機能を果たしているのかを精査することは地域研究の面からみても重要な課題といえる。ただその分析は都市交通が地域構造や生活行動と複雑に結びついているが故に困難を極め、精緻な考察にはある一定の軸を持って臨むことが有効であると本研究では考える。<BR> そこで本論ではモノレール沿線の土地利用変化の分析を中心にして研究を進める。ゆいレール開通以降の土地利用変化を駅勢圏の土地利用調査を元に分析する。加えて住宅地、事業所、行政ならびにモノレール利用者への聞き取り調査、通勤者へのアンケート調査を土地利用変化との関連において考察し、その結果を元に定性的に分析を行う。これにより沖縄が抱えている交通問題の特性と沖縄社会が車に依存するシステムの中で、モノレールがどのような形でモータリゼーションの抑制に寄与できるのかについて検討することが可能であると考える。<BR><BR>1) 国土交通省の調べによると、1km当たりの渋滞損失時間をみると沖縄県は、東京、大阪、神奈川、埼玉、愛知に次いで全国で6番目にその値が大きい地域である。<BR>2)平成16年度 沖縄都市モノレール整備効果等調査報告書より
著者
益田 理広
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.研究の背景と目的 地理学という分野に冠された「地理」なる語が,五経の第一である「易経」,詳しく言えば,古代に記された「周易」本文に対する孔子の注釈である「十翼」中の一篇「繋辭上傳」に由来することは,漢字文化圏において著されたいくつもの地理学史や事典にも明記された,周知の事実である.しかし,その「地理」はいかなる意味を持つのか,何故地理学の語源となり得たのか,といった概念上の問題については,余り深く注視されてはこなかった.確かに,「繋辭上傳」の本文には「仰以觀於天文,俯以察於地理」とあるのみで,そこからは「天文」と対置されていること,「俯」して「察」るという認識の対象となっていることが読み取られるばかりである.それ以上の分析は,「地」「理」の二字の意味を知るよりほかはないであろう.「土地ないしは台地のすじめであり,大地における様々な状態つまり「ありよう」を指したもの」(海野,2004:44)「地の理(地上の山川で生み出される大理石や瑪瑙の筋目のような形状)」(『人文地理学事典』,2013:66)といった定義はまさに字義に依っている.辻田(1971:52,55)も「易経でいう地理をただちに今日的意味で理解するのはやや早計」としながらも,「古典ギリシャ時代の造語であるゲオーグラフィアに相当する地理という文字」とする.また,海野は後世における「地理」の使用例から,客観的な地誌的記述と卜占的な風水的記述をあわせ持った,曖昧模糊たる概念とも述べている. それでは,この「地理」なる語は古代より明確に定義されぬままであったのであろうか.実際には,「地理」の語義は「周易」に施された無数の注釈において様々に論じられてきた.そしてその注釈によって「地理」を含む経典中の語が理解されていたのも明らかであり,漢字文化圏においてgeographyが「風土記」ではなく「地理学」と訳された要因もこうした注釈書に求められよう. 中国の研究においてはそれが強く意識されており,胡・江(1995)は「周易」の注釈者は三千を超えるとまで言い,「地理」についても孔頴達の「地有山川原隰,各有條理,故稱理也」という注に従いながら「大地とその上に存在する山河や動植物を支配する法則」を「地理」の語義としている.また,于(1990)や『中国古代地理学史』(1984)もやはり孔頴達に従っている.ただし,孔頴達の注は唐代に集成された古典的なものであり,「地理」に付された限定的な意味を示すものに過ぎない.仮にも現代の「地理学」の語源である「地理」概念を分析するのであれば,その学史的な淵源に遡る必要があろう.そしてその淵源は少なくとも合理的な朱子学的教養を備えた江戸時代の儒学者に求められる(辻田,1971).「地理学」なる語も,西洋地理書の翻訳も,皆このような文化的基礎の上でなされたものなのである.従って,現代に受け継がれた「地理学」の元来の概念範囲は,この朱子学を代表とする思弁的儒学である宋学における「地理」の語義を把握しない限りは分明たりえないであろう.以上より,本研究では,宋学における「地理」概念の闡明を目的として,宋代までに撰された「周易」注釈書の分析を行う. 2.研究方法 主として『景印 文淵閣四庫全書』(1983) 經部易類に収録されたテキストを対象とし,それらの典籍に見出される「地理」に関わる定義を分析する.また,上述のように「地理」は「天文」と対をなす語であるため,この「天文」の定義に関しても同様に分析する.なお,テキストは宋代のものを中心とし,その背景となる漢唐の注釈も対象とする. 3.研究結果 「天文」および「地理」なる語に対する古い注釈としては王充の論衡・自紀篇の「天有日月星辰謂之文,地有山川陵谷謂之理」および班固の漢書・郊祀志の「三光,天文也&hellip;山川,地理也」がある.周易注釈書としては上述の孔頴達の疏が最も古く,これは明らかに上記二者や韓康伯の系譜にあり,「天文地理」は天上地上の物体間の秩序を表すに過ぎない.ところが,宋に入ると,蘇軾は『東坡易傳』において,天文地理を「此與形象變化一也」と注し,陰陽が一氣であることであるという唯物論的な解釈を行い,朱熹は「天文則有晝夜上下,地理則有南北高深」と一種の時空間として定義するなど,概念の抽象化が進んでいく. 【文献】 于希賢 1990.『中国古代地理学史略』.河北科学技術出社.海野一隆 2003.『東洋地理学史研究・大陸編』 .清文堂. 胡欣・江小羣 1995.『中國地理學史』. 文津出版. 人文地理学会編 2013.『人文地理学事典』.丸善書店. 中国科学院自然科学史研究所地学史組 主編 1984.『中国古代地理学史』. 科学出版社. 辻田右左男 1971.『日本近世の地理学』.柳原書店.
著者
櫛引 素夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2017, 2017

<b>1.はじめに<br></b> 2015年3月に整備新幹線の北陸新幹線・長野-金沢間が、2016年3月に北海道新幹線・新青森-新函館北斗間が開業した。 新幹線の開業は、交通体系の再編、都市機能の変化などを通じて、沿線にとどまらず、広範な地域の関係性に多大な変化を及ぼす。本研究においては、北陸新幹線開業に伴い、長野県北部と新潟県上越・中越地方を中心に構築された、県境を越えた地域間連携、そして、北海道新幹線開業による青森県と道南の交流の変化について、共通点と相違点を整理するとともに、課題や、地理学的立場からの地域貢献の可能性を検討する。<br><br><b>2</b><b>.信越地域の連携<br></b> 信越地域の一部は戦国時代、ともに上杉氏の統治下にあり、今も地域としての一体感が存在する。北陸新幹線開業を契機に2016年2月、「信越県境地域づくり交流会」が始まった。沿線の新潟県上越市にある市役所内シンクタンク・上越創造行政研究所、長野県飯山市が事務局を務める信越9市町村広域観光連携会議(信越自然郷)、さらに上越新幹線沿線の新潟県湯沢町に拠点を置く一般社団法人・雪国観光圏の3組織が核となり、2017年7月までに3回、地域資源を活用した観光や産業、文化の在り方に関するシンポジウムを開催するとともに、人的ネットワークの強化を図っている。<br> 3組織はいずれも、地方自治体が密接に関わりながらも、自治体が直接、前面に出る形ではなく、中間組織的な特性を生かして、行政や企業、NPO法人、大学、住民等を緩やかに結んでいる。さらに、飯山、上越妙高、越後湯沢という新幹線駅を拠点とする「圏域」が連携した結果、上越・北陸という2本の新幹線をつなぐ形で交流が進んできた。象徴的なのは、2017年7月19日に北越急行ほくほく線沿線の新潟県十日町市で開催された第3回交流会で、それまで主に、上越新幹線と北陸地方を結ぶ機能が注目されてきた北越急行が、上越新幹線沿線と北陸新幹線沿線を結ぶ「ローカル・トゥ・ローカル」の機能から再評価される契機となった。 <br><b><br>3.青函地域の変容<br></b> 青函地域は、信越地域に比べると、津軽海峡を挟んでエリアが広い上、交通手段が北海道新幹線、青函航路フェリー、そして函館市-大間町(青森県)間のフェリーに限られる。それでも、青函連絡船以来の青森市-函館市を軸とした「青函圏」の交流に、「青森県-道南」の枠組みによる「津軽海峡圏」の活動が加わり、さらに、函館・青森・弘前・八戸の4市による「青函圏観光都市会議」、弘前・函館商工会議所と地元地方銀行による「津軽海峡観光クラスター会議」が発足するなど、連携の枠組みが多層化しつつある。町づくり団体「津軽海峡マグロ女子会」などの活動も活発化している。<br> 信越地域と対照的な点は、県庁・道庁、特に青森県庁が交流を主導している点である。新幹線の開業地が、広大な北海道の南端に位置する事情などもあり、北海道新幹線開業に合わせたデスティネーションキャンペーン(DC)は、終点の北海道側ではなく、青森県側のイニシアティブで展開された。また、DCも、翌2017年に実施された「アフターDC」企画も、「北海道-青森県」ではなく「青森県・函館」のネーミングが用いられた。さらに、青森県庁が2012年度に設立した交流組織「青森県津軽海峡交流圏ラムダ作戦会議」に、2017年度から道南側の住民らがメンバーとして加わるなど、「青森県+道南」の枠組みが強化されつつあるように見える。 <br> 発表者の調査によれば、函館市側では、これまで交流パートナーとして強く意識されてきた青森市の存在感が相対的に低下して、弘前市や、東北新幹線沿線の各都市に関心が移り始めている。函館市側からみれば交流対象の多様化が進む半面、青森市側からは相対的に、狭義の「青函圏」が埋没している形である。<br><br><b>4.課題と可能性<br></b> 地域間の連携は、それ自体を目的化することなく、地域課題の解決やビジネスの進展、新たなコミュニティの形成、地域経営のノウハウの交換といった目的を実現する「手段」としての整理が欠かせない。信越地域の活動は、比較的小規模な組織の連携を基盤とするボトムアップ型である。一方、青函地域は自治体や経済界が主な主体となりつつ、住民レベルまで、多層的・多軸的な展開を見せている。それぞれ、当事者が課題や問題意識をどう整理し、どんな成果を挙げていくか、適切な指標を検討し、注視していく必要があろう。 <br> 信越・青函地域とも、人口減少と高齢化が著しいが、特に信越地域では、単純に観光客数などを指標としない、持続可能な地域づくりと経済活動を融合させた取り組みが模索されている。両地域の活動は、他の新幹線沿線や、今後、新幹線が開業するエリアにおける、地域づくりの将来像を占うモデルケースとなり得る。
著者
山田 晴通
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

水岡不二雄一橋大学名誉教授は、一橋大学教授であった2011年夏に、Third Global Conference on Economic Geography 2011(韓国ソウル)において「The resignation obliterated: The Japan Association of Economic Geographers and Toshio Nohara, a prominent critical economic geographer」 と題した報告をされた。発表者=山田はこの集会に参加しておらず、この発表があったという事実も2015年春に初めて知った。この報告は、要旨がインターネット上で公開されている(Mizuoka, 2011)。 しかし、少なくともこの要旨を見る限りでは、水岡報告は、Wikipediaにおけるルールなど、事実関係についての誤解に基づいた、不適切な憶測を含むものであり、読み手に、山田個人についての社会的評価を含め、諸々の誤解を生じさせる虞れが大きいものである。 また、英文で綴られたこの要旨の内容は、Wikipedia日本語版において、2010年にごく短期間だけ編集を行なった「経済地<b>狸</b>学会」(強調は引用者)という利用者が、日本語で書き込んだ内容と酷似した箇所を含んでいる。この利用者は、当時、記事「経済地理学」のノートページに山田の編集を批判する、やはり誤った認識に基づくコメントを書き込んだ後、それに応答して問題点を指摘した山田の、問いかけを含むコメントには答えないまま、その後はいっさい活動していない。(2015年7月13日現在) もし、水岡教授が「経済地<b>狸</b>学会」を名乗った利用者と同一人物であるなら、なぜ、Wikipediaの中で起こった問題について、Wikipedia内での対話を拒み、適切なコミュニケーションを通した解決を図らず、山田からの指摘に応答もしないまま、Wikipedia外の、また、山田が参加するはずがない海外の集会において、山田が既にWikipediaにおいて指摘した問題点について何らの自己批判も反省もないまま、英語で発表をされたのか、真意をご説明いただきたい。このような発表の仕方は、山田との建設的な議論を求める真摯な姿勢を示すものではないように思われる。 逆に、もし、水岡教授が「経済地<b>狸</b>学会」を名乗った利用者と同一人物ではないのなら、水岡教授は、2011年のご自身の報告と、2010年時点の「経済地<b>狸</b>学会」の書き込みの類似性について、具体的な説明、あるいは、釈明をすべきである。著作権者である「経済地<b>狸</b>学会」が水岡教授を著作権侵害で訴える可能性が限りなくゼロに近いとしても、ネット上で別人の名義で公開されている記述と酷似した内容のコメントを、自らの名義で発表したことは、研究者としての倫理性に疑念を生じさせる遺憾な事態である。 &nbsp; 山田が、日本地理学会の場において公開状という形で水岡教授への質問を公にするのは、本学会が水岡教授と山田が共に所属する数少ない学会のひとつだからである。水岡教授は、従来から論争においては正々堂々と、婉曲な表現などは用いず、論難すべき対象に対しては厳しい直接的な言葉を用いられてきた方である。この公開状にも、真摯に対応され、建設的な議論が展開することを期待する。 <br>
著者
朝水 宗彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2016, 2016

はじめに<br><br>近年、中山間地域の復興策としてグリーン・ツーリズムや都市住民との交流事業が注目されている。しかし、せっかく定着した農村体験型の交流事業も高齢化が進んだ地域では労働力と後継者の不足が大きな問題になっている。そこで、外部から新たな知識や技能を持った人材を受け入れることにより、地域の活性化を図ろうとする事例も少なからずみられる。<br>&nbsp;<br><br>農村部への公的人材支援<br><br>都市部から農村部への移住はリタイア層を中心に少なからず見られたが、近年では年齢層の低下も見られる。農村部で活躍する都市出身の若者支援として「緑のふるさと協力隊」(1994年度)や「地域づくりインターン」(1996-97年度試行2000年度から運用)などが組織化された(図司2013,131)。 2003年には林野庁の「緑の雇用」により、新たに2268人が山村にて林業等の就労を開始した(The Forestry Agency 2013, 22)。<br><br>2008年には農林水産省の「田舎で働き隊」(現在は地域おこし協力隊に統合)と総務省の「集落支援員」、2009年には総務省の「地域おこし協力隊」が設立された。集落支援員のうち、2015年度の専任支援員は994人であり、増加傾向が続いている。他方、集落支援員のうち、兼任支援員は伸び悩んでいる(総務省n.d.a, web)。都市部からの若者を想定した地域おこし協力隊は2015年には2,625人参加しており、専任集落支援員より増加傾向がより強い(総務省n.d.b, web)。 <br><br>さらに、大学生が地域おこし協力隊として活躍する場合も見られる。たとえば、富士吉田市と慶應義塾大学は,2007 年に地域連携協定を締結した。2013年に市役所内に域学連携事業と地域おこし協力隊事業を取り扱う慶応義塾連携まちづくり室が設置された(高田他2015,123)<br><br><br>地域おこし協力隊の特徴<br><br> 上記の活動内容を詳しく考察するために、本研究では地域おこし協力隊の求人サイトを活用した。JOIN(移住・交流推進機構)は地域おこし協力隊の求人サイトを運営しており、分野別、地域別の検索や、キーワード検索も可能である(JOIN「地域おこし協力隊」http://www.iju-join.jp/chiikiokoshi/)。JOINの求人サイトによると、2016年7月7日現在、観光分野の地域おこし協力隊は145件(分野の重複を含む)募集中であった(全体は239件)。<br><br> 上記の145件の検索結果を地域別に見ると、北海道が23件で圧倒的に多く、長野県の11件がそれに続く。農村部への公的な人材支援策は元々少子高齢化に伴う地方における農林水産業の人材不足を補うために創められたが、地域おこし協力隊に関して言えば、一次産業の支援策よりは、観光産業などの地方で不足する人材の確保のために機能していると考えられる。<br>&nbsp;<br><br>参考文献<br><br>Forest Agency 2013. <i>Annual Report on Forest and Forestry in Japan 2012,</i> Tokyo: Forest Agency.<br><br>藤本 穣彦、田中 恭子、平石 純一2010. 中山間地域の担い手不在問題 :ボランティア・大学生の可能性. 総合政策論叢 19:67&ndash; 81. <br><br>総務省n.d.a.集落支援員http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/bunken_kaikaku/02gyosei08_03000070.html, 2016年7月26日閲覧.<br><br>総務省n.d.b.地域おこし協力隊http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_gyousei/c-gyousei/02gyosei08_03000066.html, 2016年7月26日閲覧.<br><br>髙田晋史,清野未恵子,中塚雅也2015. 大学と連携した地域サポート人材の管理体制の構築と課題. 農林業問題研究51(2):122&ndash;127. <br><br>図司直也2013. 農山村地域に向かう若者移住の広がりと持続性に関する一考察. 現代福祉研究13:127-145.<br>&nbsp;
著者
中野 義勝
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

サンゴ礁生態系は熱帯に起源を持つ生物多様性に富む生態系として、同様に熱帯に発達する生態系である熱帯降雨林生態系とともにその保全の重要性が認識されている。日本・米・仏・豪と言った先進国もサンゴ礁を擁しており、これらの国々からの多くの基礎科学的知見によって学際的に理解が進むと共に、応用科学的には遺伝子資源の探索が進められるなど自然資源的価値も注目されている。<br><br> しかしながらサンゴ礁生態系は、世界的な気候変動の影響を受けて、劣化の一途をたどる生態系の一つでもある。気候変動に伴う海水温の上昇と変動を引き起こす二酸化炭素の海洋への溶込みによる海洋酸性化は、温度とpHという生命活動にとって重要な因子の異常として海洋生物全般に及ぶものだが、現在の水温変動の勢いは1998年以降サンゴの褐虫藻との共生機構に壊滅的な白化被害を及ぼしつつある。国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)がこのほど公表した特別報告書の素案では、現在のままでは2040年に地球の気温上昇が1.5 ℃に達し、今まで以上に対策にコストをかけなければさらに大きなリスクを負うことになるとしており、サンゴの白化被害が免れ得ない自然災害となったことをも意味している。<br><br> また、サンゴの世界的分布の中心とされるコーラルトライアングルは多数の人口を擁する東南アジア諸国に位置し、経済格差から生じる破壊的漁業の横行を始めとする無秩序な海域利用の危機に曝され、日本では経済発展にともない拡大する都市機能として多くのサンゴ礁海域が埋め立てなどによって破壊され、農業の生産性向上にともなう圃場整備と酪農を含む営農における技術進歩と業態変化は海域への負荷を増加させてきた。本来、これらの地域のサンゴ礁は歴史的に人間活動と密接に関わり合っており、活動による負荷を緩衝する伝統智を以てその持続性を管理されてきたが、急激な社会変化がこれらを忘却させ、生じた歪みの適正な評価がなおざりにされてきた。<br><br> 一般に、安定な生態系は動的平衡状態にあるとされ、耐性や回復力と言った自己回復機能(レジリアンス)を持っている。同時に、生態系の構成・構造・機能は大きく変動し、画一的な定常状態や平衡点に達することが無い自然変動性を有しており、長期の観察による重要な進化的環境因子の把握が肝要となる。さらに、レジリアンスの臨界点あるいは閾値を超えると、異なる状態に移行してしまうレジームシフトを引き起こす。レジームシフトを引き起こすリスクや、生態系サービスの劣化に至るリスクを管理する「リスクマネジメント」にはこれらの視点を踏まえ、未確定な結果においても自然システムと社会システムの相互依存を念頭に持続可能性を模索する順応的管理が重要になる。<br> 進行する気候変動下では、サンゴの種や生息地による撹乱要因への感受性の違いを念頭に、群集の遷移を捉えるきめ細かなモニタリングを行い、被害の状況に応じた保護区の設定やサンゴの養殖などを組み合わせた保全利用計画を実施し、結果を常にフィードバックさせる順応的対応が求められている。このために多様性をそれぞれの部分として理解することは重要だが、「全体は部分の総和に勝る」ことを忘れずに、複雑に絡み合うネットワーク全体を意識することが肝要である。このような視点でサンゴ礁保全に取り組むことは、地球環境保全への取り組を身近にしてくれるのではないだろうか。
著者
寄藤 晶子 天野 香緒理 岡崎 綾香
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに<br>福岡県太宰府市にある太宰府天満宮は菅原道真を祀った神社であり、江戸時代から参拝の地として知られる。近年では、天神からの西鉄バス・電車が増便されたほか、中国からのクルーズ船観光がバスで移動する際のルートに組み込まれ、国内外から多くの観光客を集める。本研究では、こうした訪問者の変化に注目し、高度経済成長期以降の参道の土地利用の変化を、とくに店舗数や業種構成の変化とその背景を中心に明らかにする。<br>&nbsp;<br>2.研究の方法<br>「太宰府観光案内冊子」「ゼンリン住宅地図」「住宅案内図」をもとに、1973年・1982年・1992年・2014年の参道地図を作成した。また、太宰府観光案内所・参道各店舗で聞き取り調査と参与観察を行い、店舗数や業種の変化、業種転換の経緯などを明らかにした。<br>&nbsp;<br>3.参道の店舗数・業種構成の変化<br>店舗数は、1973年の52店舗から2014年の61店舗と9店舗増えた。背景には、土地面積の大きい店の分割や、民家の店舗化がある。業種構成をみると、飲食店の減少が目立つ。老舗の食堂では、実質的な食事の提供をやめ、梅が枝餅などの甘味のみの販売にシフトしていた。その背景には、後継者問題や経営者の高齢化により食事の提供が難しくなったことに加えて、観光客の滞在時間の短縮化傾向と、軽食を手に持っての「食べ歩き」行動の増加があるものとみられる。1973年に見られた民家、酒屋や新聞販売店、薬局などの生活品を扱う店舗はほとんど姿を消した。代わって土産・民芸店が目立ち、なかでもチェーン店の進出も顕著である。参道が地元住民の生活に密着していた場所としての意味合いを失い、「観光地」化していったといえる。その「観光地」化の内容も興味深い。1973年当時には、高級博多人形といった博多の民芸品を扱う店が複数あったが、現在では外国人観光客向けに「日本風」を強調した安価な手ぬぐいや扇子、お香などの和雑貨を多く取り扱うものへと変化した。学会当日は地図と合わせて示したい。
著者
布施 孝志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.225, 2007

<BR><B>1. はじめに</B><BR> 現代に至るまで、東京において数多の都市開発が行われてきた。その対象も、規模を問わず多岐にわたる。これらの開発においては、多かれ少なかれ、地形改変がともなってきた。都市計画による開発の概要は、東京市史稿や区史等において垣間見ることができるが、その中には、地形改変に関する記述を見出すことはできない。更には、個々の小規模開発においては、広く知られていないものも多く存在する。<BR> 一方で、旧版地形図に代表される地図は、作成された時代の都市や地域の姿を雄弁に物語っている。これまでにも、地図を頼りに幾多の開発が行われ、現在の都市の姿があるといえる。その地図を時系列で示せば、都市の歴史を如実にあらわすことができる。<BR> 近年では、GISの技術を用いて、これら旧版地形図をアーカイブ化することにより、その有効活用が期待されているところである(国土交通省国土地理院, 2004)。その結果、時系列情報を統一座標系で管理することが可能となり、比較対照や定量的分析が容易となる。換言すれば、様々な断片的情報を集約し、表現・分析することが可能となるのである。<BR> 以上の背景の下、本研究は、東京都心部における、明治期以降の地形変化を抽出し、地形改変の変化を整理することにより、広く知られていない開発の歴史の発掘を試み、東京の姿を再認識することを目的とする。<BR><B>2. 旧版地形図のデジタルアーカイブ</B><BR> 本研究では、東京都心部における地形改変を網羅的に抽出するために、旧版地形図のデジタルアーカイブ化を行う。対象として、地形表現がなされている初期の大縮尺地形図として、五千分一東京図測量原図(1886、1887発行)に着目する(山口・師橋・清水, 1984)。更に、1909年以降発行されている、1万分1地形図のうち、1909年、1930年(関東大震災後)、1955年(第2次大戦後)、1983年(現図郭に変更後最初のもの)もあわせてデジタル化を行う。なお、対象範囲は、五千分一東京図測量原図にあわせ、東京都心部の7.5km四方とする。これらの地形図を幾何補正によりラスターデータとして整備した。更に、このラスター地形図より、標高点、等高線、水涯線をデジタイジングすることによりデジタル地形モデルを作成し、今後の分析を考慮し、5mグリッドのDEMを整備した。<BR><B>3. 地形変化の抽出・分類</B><BR> 前節で作成した五千分一東京図測量原図によるデジタル地形データと、現在の数値地図5mメッシュ(標高)との差分をとることにより、地形変化箇所の抽出を行う。差分結果のうち、標高値変化の大きな箇所に限定し、土地利用との変化をあわせてみることにより、252箇所を調査対象とした。なお、土地利用変化を追うために、デジタル化していない旧版地形図も、紙媒体のまま適宜参照した。抽出された地形変化箇所を、地形変化の形状、主な土地利用の変化から分類を行う。地形変化形状としては、盛土(盛土、及び崖の盛土)、切土(切土、及び崖の切土)、盛土と切土の両者に分類が可能である。土地利用の変化に関しては、鉄道建設、道路建設、宅地造成、公園等の整備に分類される。<BR><B>4. 地形改変の事例</B><BR> 分類結果より興味深い箇所を例示する。鉄道建設、道路建設の例では、後楽園付近における丸の内線や道路建設のための斜面掘削や九段坂における路面電車開通のための坂の緩勾配化がみられる。宅地造成においては、市ヶ谷台町において、監獄の移転に伴い、谷地が埋め立てられた例がみられる。その他、広く知られていない地形改変の痕跡を確認することができ、東京における都市開発と地形改変の関連性を認識することができた。<BR><B>5. おわりに</B><BR> 本研究では、デジタルアーカイブ化された旧版地形図とデジタル地形モデルを主に用いることにより、地形改変の歴史を追跡し、土木史における旧版地形図の意義を示した。今後は、インフラ整備による開発と、それ以外の開発との分類を行い、都市に与えるインパクトを議論していくことが課題である。<BR><B>文献</B><BR> 国土交通省国土地理院(2004)『基本測量長期計画』<BR> 山口恵一郎・師橋辰夫・清水靖夫(1984)『参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図」測量原図複製版(36面)解題』日本地図センター.
著者
清水 文健 東郷 正美 松田 時彦
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論
巻号頁・発行日
vol.53, no.8, pp.531-541, 1980
被引用文献数
1 6

In the high mountain area of the Japan Alps, there are many scarps invariably facing the ridge, namely uphill-facing scarps on tops and sides of ridges. Similar scarps found in Europe, United States and New Zealand have been ascribed to erosion, slow movement along deep-seated shear plane and tectonic movement. In the present paper the authors studied the formation mechanism of uphill-facing scarps on the slopes of Mt. Noguchigorodake and its vicinity mainly composed of granitic rocks.<br> The uphill-facing scarps of this area cut through the debris slopes and post-glacial deposits. The ridge-top is sandwiched in between the uphill-facing scarps on both sides. Each scarp on both sides of the ridge bears similarities in form, size, distribution and degree of dissection. From these facts the uphill-facing scarps on each side of the ridge are inferred to have been formed by the same mechanism in the same time (probably postglacial period).<br> Distribution of the uphill-facing scarps in this area is limited only around ridges. Most of these scarps are nearly parallel to the long axis of the ridge and are incompletely arranged en echelon. The total length of the scarps arranged en echelon is 2 km or less. These facts imply that their formation processes are not controlled by regional stress but strongly
著者
山下 清海 張 貴民 杜 国慶 小木 裕文
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理要旨集
巻号頁・発行日
vol.2011, pp.33, 2011

1.はじめに<BR> 中国では,多くの海外出稼ぎ者や移住者を送出した地域を「僑郷」(華僑の故郷という意味)とよんでいる。報告者らは,すでに在日華人の代表的な僑郷の一つである福建省北部の福清市で調査研究を行った(山下ほか 2010)。<BR> 今回の一連の発表(1)~(3)では,現地調査に基づいて,僑郷としての青田県の変容とその背景について考察する。現地調査は,2009年12月および2010年8月において,青田県華僑弁公室,青田県帰国華僑聯合会,青田華僑歴史陳列館,郷・鎮の華人関係団体などを訪問し,聞き取り調査,土地利用調査,資料収集などを実施した。<BR> 本発表(1)では,とくに在日華人の伝統的な僑郷としての青田県の地域的特色について考察するとともに,今日に至るまでの僑郷としての変容をグローバルな視点から概観する。<BR> 研究対象地域の青田県は,浙江省南部の主要都市,温州市の西に隣接する県の一つで,1963年に温州市から麗水市に管轄が変わったが,歴史的にも経済的にも隣接する温州市の影響を強く受け,温州都市圏に属しているといえる。青田県の中心部である鶴城鎮は温州市の中心部から約50km離れており,高速道路を使えば車で1時間あまりである。青田県は,面積2484km2,人口49.9万(2009年末)で,そのうち83.4%は農業人口という農村地域である(青田県人民政府公式HP)。<BR> 本研究の研究対象地域として青田県を選定した理由としては,青田県が在日華人の伝統的な僑郷であったこと,中国の改革開放後,青田県から海外(とくにヨーロッパ)へ移り住む「新華僑」が急増していること,海外在住の青田県出身華人との結びつきにより,青田県の都市部・農村部が大きく変容していることがあげられる。<BR><BR>2.青田県からヨーロッパ,日本への出国<BR> 青田県出身者の出国は,青田県特産の青田石の彫刻を,海外で売り歩くことから始まった。清朝末期には,すでに陸路シベリアを経由して,ロシア,イタリア,ドイツなどに渡った青田県出身者が,青田石を販売していた。第1次世界大戦中の1917年,イギリスやフランスは不足する軍事労働力を補うために中国人(参戦華工という)を中国で募集し,多くの青田県出身者もこれに応じ,終戦後,多数が現地に残留した。ヨーロッパの伝統的な華人社会においては,浙江省出身者が多いが,その中でも青田県出身の割合は大きく,改革開放後の青田県出身の「新華僑」の増加の基礎は,同県出身の「老華僑」が築いたものといえる。<BR> 一方,日本への渡航をみると,光緒年間(1875~1908)には,出国者はヨーロッパより日本に多く渡っている。初期には日本でも青田石を販売していたが,しだいに工場などで単純労働に従事するようになった。日本の青田県出身者は東京に多く,関東大震災(1923年)および直後の混乱時の日本人による虐殺により,青田県出身者170人が犠牲となった。<BR> ちなみに福岡ソフトバンクホークス球団会長の王貞治の父,王仕福は,1901年,青田県仁庄鎮で生まれ,1921年に来日した。1923年,関東大震災に遭遇し,一旦帰国したが,1924年に再来日した。<BR><BR>3.改革開放後の新華僑の動向と僑郷の変容<BR> 今日の青田県は,都市部においても農村部においても,僑郷としての特色が,人びとの生活様式にも景観にも明瞭に反映されている。<BR> 青田県の中心部,鶴城鎮には外国語学校のポスターが各所に貼られている。ポスターに書かれている学校で教えられている外国語は,イタリア語,スペイン語,ドイツ語,英語,ポルトガル語であり,この順番は出国先の人気や出国者の多さを示している。また,最近ではワインを飲んだり,西洋料理を食する習慣が浸透し,ワイン専門店や西洋料理店・カフェなどの開業が続いており,ヨーロッパ在住者が多い僑郷としての特色が強まっている。<BR> 農村部においても,イタリアやスペインから帰国した者や,出国の準備をしている者が多く,帰国者や在外華人の留守家族などによる住宅の建設が各地で見られる。<BR><BR>〔文献〕<BR> 山下清海 2010. 『池袋チャイナタウン-都内最大の新華僑街の実像に迫る-』洋泉社.<BR>山下清海・小木裕文・松村公明・張貴民・杜国慶 2010. 福建省福清出身の在日新華僑とその僑郷.地理空間 3(1):1-23.<BR>
著者
岡田 俊裕
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.70, no.4, pp.193-215, 1997-04-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
129
被引用文献数
2

小川琢治は中国への並々ならぬ関心を終生持ち続けた.その契機は『台湾諸島誌』 (1896) の執筆にあり,その際重用した中国の古地誌・史料への興味が歴史地理研究へと向かわせた.彼は,儒家によって異端邪教視された史料を重用し,中国の地理的知識の拡大過程および古代の東アジア世界と地中海世界との地域交流などを考究した.以後,歴史地理学ないし地理学史研究が京都(帝国)大学における地理学研究の伝統となった.また彼は,情況に対応した中国経営論を展開した.その視点は植民地経営者のものであったが,研究者としての見識も示した.しかし,反日・抗日運動が活発化した蘆溝橋事件以後は一変し,中国との連携志向を失った.このような論策の背景には,自らが先鞭をつけた戦争地理学研究があった.それは当初政治学の分科ゲオポリティクとは区別されたが, 1930年代にはゲオポリティクを政治地理学の分科と規定し,同じ政治地理学の分科である戦争地理学がゲオポリティク的要素を含むことを理論づけた.それを踏まえて中国経営論も変容したと考えられる.
著者
清水 克志
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2018, 2018

<b>1.はじめに</b><br><br> 日本におけるキャベツ生産は,明治前期の導入以降,寒冷地である北海道や東北地方で先行し,大正期から昭和戦前期にかけて西南日本へと拡大していった.前者は,キャベツの原産地と風土が類似していたため,春播き秋穫りの作型での栽培が可能であったのに対し,後者は,冬穫りや春穫りの作型の確立とそれに適した国産品種の育成を待たねばならなかったからである.実際に関東地方以西では,アメリカ原産のサクセッション種が導入されて以降,同種をもとにした国産品種が各地で育成され,キャベツ産地が形成された.<br><br> 本報告では,大正期以降に西南日本において形成されたキャベツ産地の事例として,広島県呉近郊の広村(現,呉市広地区)を取り上げ,篤農家による品種改良と産地形成の過程を復原するとともに,当時の日本におけるキャベツの普及に果たした役割を明らかにすることを目的とする.<br><br><b>2.広島県におけるキャベツ生産の推移</b><br><br><b> </b>広島県におけるキャベツの作付面積は,1908(明治41)年には僅か2.2haに過ぎなかったが,大正期を通じて漸増し,昭和戦前期に入ると1929年には100ha,1938(昭和13)年には200haへと急増した.作付面積の道府県別順位も1909年の29位から,1938年には17位まで上昇していることから,広島県は,大正期以降に顕著となる西南日本におけるキャベツ生産地域の一つと位置づけることができる.<br><br> 明治末の時点でややまとまった形でのキャベツ生産は,広島市とその近郊(安佐郡)に限られていた.ところが,大正期には呉市の東郊にあたる賀茂郡の台頭が著しく,昭和期に入る頃には,賀茂郡が広島市や阿佐郡を凌駕していった.1928年を例にとれば,広村におけるキャベツの作付面積(30.7ha)は,賀茂郡全体の95%,広島県全体の33%を占めており,広村におけるキャベツ生産は,広島県内でも際立った存在となっていった.<br><br><b>3.賀茂郡広村における広甘藍の産地形成</b><br><br> 賀茂郡広村(1941年に呉市に編入)は,呉市街地の東方約5kmに位置する(図1).同村は黒瀬川の河口部にあたることから,三角州が発達し,江戸時代を通じて複数の「新開」が開かれた.新開地の地味が野菜栽培に適していたことに加え,呉の軍都化の進展よって,サトイモやネギなどの生産を中心に,近郊野菜産地としての性格を強めていった.<br><br> 1904(明治37)年頃に,玉木伊之吉(1886-1957)がサクセッション種を取り寄せて自家採種を繰り返し,広村での栽培に適した系統を選抜し,「広甘藍」と名付けた.玉木は呉市場で取引されるキャベツをみて,鎮守府での需要に着目し,広村でも栽培可能な系統の選抜を試みたのである.<br><br> キャベツに対する需要は明治末期には,呉鎮守府に限られていたが,大正期に入った頃から一般需要も創出され始めたことを受け,玉木は,1914(大正3)年には450名からなる広村園芸出荷組合を設立し,安定した生産基盤を確立していった.広甘藍の販路は,呉市場にととまらず,昭和期に入る頃には大阪・神戸市場,1932(昭和7)年以降は,東京市場にまで拡大した.<br><br><b>4.大都市市場における「広甘藍」</b><br><br> 第二次世界大戦以前の日本の園芸業について,総覧した『日本園芸発達史』には,「大正より昭和年代に至り最も華々しく活躍した」輸送園芸産地が列挙されている.このうちキャベツ産地は,岩手,長野,広島の3つのみであることから,広甘藍は,戦前期の西南日本を代表する輸送園芸キャベツであったと位置づけることができる.<br><br> 1935(昭和10)年頃の東京市場でのキャベツ入荷をみると,寒冷地の岩手や長野からの入荷が終了する12月以降,東京近在からの入荷が始まる6月までの間には,明確な端境期が存在した.その端境期を埋めるべく,岩手物の後を受けて東京市場へ出荷する産地が,泉州(大阪府南部),沖縄,広島,愛知などであった.当時すでに一年を通してキャベツに対する需要が存在していたことに対応するため,東京市場側では,西南暖地のキャベツ産地の形成を促したが,そのような動向を受け,広甘藍の産地では東京市場へと販路を拡大させていったとみられる.広甘藍は東京市場での取扱量こそ僅少ながら,その平均価格は一年間で最も高い水準にあったことから,高価格での有利販売を狙っていたことがうかがわれる.
著者
若林 芳樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2007, pp.20, 2007

<BR>1.はじめに<BR> 2005年に日本地理学会地理教育専門委員会が発表した世界地理認識調査(以下,学会調査と略称)は,マスコミをはじめとして大きな反響を呼び,地理教育の重要性を社会にアピールするのに一定の役割を果たしたことは間違いない.しかしながら,これまでその結果についての詳しい検討はなされていない.この調査で対象になった世界の国々の位置認知は,地理教育だけでなく空間認知研究の対象としても過去の研究の蓄積があるが,それらの成果をふまえて結果を吟味することは,地理教育の課題や対策を考えるのにも役立つと考えられる.そこで本研究は,空間認知研究の立場から,(1)位置認知の正答率を規定する要因として高校での地理の履修がどの程度重要なのか,(2)誤答の傾向や原因は空間認知の一般的性質によってどのように説明できるか,について世界地理認識調査の結果を精査した.<BR>2. 用いたデータと国の位置認知の傾向<BR> 学会調査と同じ質問紙を用いて筆者も独自に法政大学経済学部の地理学の受講者256名(大部分が1~2次年生)を対象にして,2005年4月の授業中に実施した.具体的には,地図上に番号で示された30カ所のうち,名称が示された10カ国がどれに当たるかを選んでもらうという課題である.これと併せて,高校での地理の履修,地理に関わりの深い事項への関心,地図利用度,性別などについても質問した.<BR> 国別の正答率を集計したところ,全体的に学会調査の結果よりやや低いものの,相関係数は0.988とかなり高いことから,解答パターンはきわめて類似していることがわかる.<BR>3.国の位置認知に影響する要因<BR> 国の位置認知については,地理教育分野やSaarinen (1973)をはじめとする空間認知分野での数多くの研究例があり,その一般的な傾向も知られている.それらの知見と学会調査の結果は概ね整合しており,アフリカやアジアの国々に対する知識の乏しさが表れている.<BR> 学会調査では,位置認知の正答率に影響する要因として高校での地理の履修が指摘されており,筆者の調査結果でも,全体的に地理履修者の方が正答率もやや高い傾向はあるものの,5%水準で有意差が認められたのはギリシャだけであった.また,解答者ごとの正答数を求め,地理の履修の有無による平均値の差の検定(t検定)を行ったが,5%水準で有意差はみられなかった.このことから,高校での地理の履修が国の位置の認知に決定的な影響を与えているとはいいきれない.そこで,地理に関係の深い「旅行」,「鉄道などの乗り物」,「登山」,「地図」に対する興味の有無を尋ねた結果と正答率との関係を調べた結果,半数以上の国について統計的に有意差がみられたのは,地図に対する関心の有無であった.ただし,地図に関心があると答えた70人のうち,53%の学生は高校で地理を履修していなかった.このことは,地図・地理に興味や関心を抱く生徒の多くが高校で地理を履修する機会を逸していることを示唆する.<BR>4.誤答の傾向からみた空間的知識の性質<BR> 誤答の傾向を検討するために,国ごとに最も多い誤答例を集計すると,ウクライナ,ギリシャ,ケニアを除いて,いずれも正答の国に隣接する国の位置を解答していた.つまり,誤答した解答者でも,およその国の位置は理解しているといえる.これは,空間的知識が階層的に組織されているという従前の空間認知研究の知見によって概ね説明できる.<BR>5.おわりに<BR> 筆者の調査から得られた結果は,学会調査の結果と概ね一致するものの,正答率を規定する要因については,学会調査とはやや異なる解釈となった.また,誤答にみられる傾向は,空間認知研究の知見によってある程度説明できる.これは空間認知研究,の成果を地理教育の評価や改善に応用できる可能性を示唆している.
著者
今井 理雄
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2012, 2012

東日本大震災は鉄道インフラに多大な痕跡を残したが,その復旧にあたっては,ルート選定,資金面をはじめ,様々な課題が指摘されている.被災した全ての鉄道路線において全面復旧が予定されるが,不通時の輸送体系や利用者の逸走,復旧後の持続可能性などに不安要素も残される.被災路線は概ね,過疎高齢化の進む地域にあり,輸送需要の下支えとなってきた高校生をはじめとする通学利用が減少傾向にある.仮に鉄道を復旧したとしても,不通時に逸走した利用者が回帰するとは限らず,維持には相当の困難を伴う.しかしながら多くの地域は鉄道の復旧を望んでおり,早い段階で鉄道復旧を果たした地域の事例は,その後の展開に影響を与えるものと思われる.茨城県ひたちなか市に路線を有するひたちなか海浜鉄道湊線は,市が主導する第三セクター事業者であり,被災によって運休を余儀なくされた鉄道のひとつである.最大の被害は,沿線の溜池決壊による軌道敷流出であり,洞門ひび割れ,軌道湾曲,駅ホーム崩落など,被害総額は約3億円弱に及ぶ.被災後,3月19日から代行バスによる輸送を開始するとともに,4月以降は沿線高校の授業開始とともに運行ダイヤを修正(増便)し,集中的な工事の結果,鉄道は6月下旬から順次復旧し,7月23日には全線復旧した.ひたちなか海浜鉄道においては,2009年8月~11月に実施したアンケート調査,乗降調査などをもとに,土`谷(2010)が旅客流動,鉄道存続についての市民,利用者の意向を明らかにしており,さらに豊田(2010a;2010b)が,第三セクター化の過程と沿線住民の意向,鉄道存続に向けた市民活動などについて分析している.また土`谷(2011)では,市民アンケートなどをもとに鉄道サービスの評価を検討している.以上のような知見をもとに,本研究では被災鉄道復旧の課題について,当鉄道を事例に,その一端を明らかにすることを目的とする.本研究では鉄道不通にともなう旅客流動の変化を明らかにするため,代行バス運行時(6月22日金曜日)および鉄道全線復旧後(11月8日火曜日)において,終日全便全旅客を対象としたOD調査を実施した.両調査とも基本的に,乗車時に調査票を配付し,降車時に回収,利用券種の分類を行った.さらに2009年10月末実施のOD調査のデータと比較することで,一連の旅客流動の変化を明らかにする.
著者
佐藤 将
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2013, 2013

1.研究目的と分析方法<br>これまで都心部での地価の高さから郊外部に住居を構える子育て世帯が多かったが,バブル経済の崩壊以降は都心近郊に居住する子育て世帯が多くなり,居住選択の多様化がみられるようになった.このように住宅すごろくが変化する中でこれまでの進学・就職時点での居住地選択の研究に加え,子どもを出産した時点での居住地選択を把握する必要もでてきた.報告者はこれまで出生順位ごとの子どもの出産時点での居住地分析から子育て世帯のライフコースごとの居住地動向の把握に努めたが,全体での把握に過ぎず,さらに属性を分解して分析を進める必要が出てきた. そこで本発表では首都圏の対象は特別区に通勤・通学するする人の割合が常住人口の1.5パーセント以上である市町村とこの基準に適合した市町村によって囲まれている市町村とし,その上で0歳児全体を分母とした子どもを出産した時点での核家族世帯数を出生順位別かつ子育て世帯を専業主婦世帯と共働き世帯に分けて市区町村ごとに分析し,居住地選択の地域差について検討した.<br>2.分析結果<br>第1子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では都心中心部で低い一方,特別区周辺の市区において高いことがわかった(図1).共働き世帯では都心中心部で高く,さらに中央線,南武線,東急東横線沿線地域においても高いことがわかった(図2).第2子出産時点の居住地分布について専業主婦世帯では第1子の専業主婦世帯で高かった地域に隣接した地域において高く,共働き世帯では都内および郊外周縁部において高いことがわかった.<br>3.まとめ<br>分析結果を踏まえて出生順位ごとの居住地選択選好の特徴を考察する.第1子出産直後の専業主婦世帯は久喜市,茅ケ崎市と都心から距離がある地域でも高いことから子育て環境を重視した居住地選択をしているといえる.一方,共働き世帯は都心または都心アクセスの容易な沿線が高いことから,交通の利便性,都心への近さを重視した居住地選択をしているといえる.第2子出産直後の専業主婦世帯は第1子と比較して居住地選択が類似あるいは隣接地であることから第1子を出産直後から居住またはより良い住宅環境を求め,近隣から引っ越してきた世帯が多い地域であるといえる.共働き世帯は都心,郊外周縁部ともに職住近接を要因とした居住地選択をしているといえる. このように専業主婦世帯と共働き世帯にわけて居住地選択を見ることで子育て世帯の地域ごとの特徴をつかむことができた.
著者
田上 善夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2010, pp.100, 2010

I 大規模な気温変化<br> 小春日和や寒の戻りなど季節外れの暖かさや寒さは、比較的広域に継続的に現れ、さらに局地的要因が加わって、地点により冬にも夏日となることさえある。こうした異常昇温や異常降温の発生には、大規模な暖気の北上や寒気の南下のもとでの、フェーンや冷気湖のような局地的現象の影響が考えられる。<br> この時ならぬ暖かさや寒さは、異常に大きな平年偏差として示されるが、平年値として日最高気温や日最低気温、あるいは日平均気温が用いられることが多い。これらによる場合、日単位以下の変化は明らかでなく、また極値の起時は異なるため、総観気候学的解析に適合しないことがある。ここではとくに局地的要因の影響解明のために、時別値の平年値にもとづいての解析を試みる。<br><br>II 時別の平年偏差<br> 気温資料には気象庁のアメダスを基本とし、また日本列島付近の総観気候場の解析には京大生存圏研のMSMデータを用いる。平年値としてアメダスの場合、現在は1979-2000年の平均が用いられている。ここでは対象期間を、アメダス再統計の1996年から2004年とし、この9年間の平均を求めて仮に「平年値」として用いることにする。この期間中の観測で、非正常値が1回以下のアメダス801地点を対象とする。なお2月29日は除き、対象時刻は78,840(9×365×24)である。<br><br>III 異常昇温・降温の出現<br> 地点ごとに平年偏差が、異常昇温は+10℃以上、異常降温は-10℃未満として、期間中の出現数を集計する。異常昇温の出現の多い地点は、北海道東部、三陸、北信越、山陰などに分布する(図1)。また異常降温の出現の多い地点は、北海道東部、東北から中部の内陸部、中国と九州の内陸部に分布する。この異常昇温の出現の多い地点は、日最高気温の平年偏差にもとづいてみた場合と類似するが、北海道東部でより顕著となっている。<br> 各時刻について気温平年偏差の全国平均値を求め、+5℃以上を広域異常昇温、-5℃未満を広域異常降温とする。広域異常昇温の出現の延べ時間数は、1998年、2002年、2004年にとくに多い。また広域異常降温は1996年、2001年、2002年にとくに多い。<br> 月別に集計すると、両者の出現は寒候期に多く、暖候期には少ないが、およそ春と秋に集中する(図2)。ただし両者の出現には差異があり、9月から3月には広域異常昇温の出現がより多く、4月から8月のみ、広域異常降温の出現がより多くなる。またとくに2月には広域異常降温の出現が圧倒的に多く、とくに4月には広域異常降温の出現が多くなっている。<br> なお広域異常昇温の出現がとくに多かった1998年4月や,また広域異常降温の出現のとくに多かった1996年4月などでは、全国平均の気温平年偏差の変動には、7日程度の周期がみられる。<br><br>IV 異常昇温と異常降温の発生<br> 顕著な異常昇温期間として、2004年2月19-23日の変化を示す。この間には高気圧が日本列島付近を東進した後、低気圧が日本海を通過した。昇温の中心域は、およそ西から東に移動していく。とくに中部地方内陸部では、日中の昇温が夜間も維持され、東海地方では日中に昇温が相対的に小さい一方、北陸地方では日中に昇温がとくに大きくなる(図3)。この間におよそ南風が吹走するが、南北での差は日中には大きく、夜間は小さい。<br> 顕著な異常降温の期間として、2004年4月23-27日には、降温は東日本側で大きく、とくに北海道東部から東北地方の三陸では顕著な降温がみられる。この間には低気圧が東北日本を横断した後、弱い冬型の気圧配置となった。降温の中心域はオホーツク海方面から東北南部方面に移動して行く。また平年偏差は、日中にとくに低くなっている。<br> このように時別値からみた場合、異常高温は局地的にはとくに山地風下側に日中に現れやすいが、それには日射による加熱や海風浸入の遮断が要因として大きいと考えられる。また異常降温は局地的には山地風上側に日中に表れやすいが、上層の強い寒気に加えて、下層に侵入した冷気が風上側に滞留することが、要因として大きいと考えられる。