著者
松田 和樹
出版者
東京大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2017-04-26

4-6月期は、修士課程における研究を更に発展させるとともに、フェミニズム/クィア理論によるリベラリズムに対する批判を検討した。この成果を5月31日のクィア・セミナー(東京大学駒場キャンパス)と、6月18日の日本女性学会(中京大学)にて報告し、そこで討議された内容を研究にフィードバックした(クィア・セミナーにおける研究報告は日本女性学会におけるものとほぼ同様のものであったため、業績欄には掲載していない)。7-9月期は、主にリベラリズムによるフェミニズム/クィア理論に対する批判を検討した。この期間に研究した成果と修士論文の研究内容の一部、そして博士課程での研究計画の一部を、9月初旬の東京法哲学研究会/関西法理学研究会合同研究合宿(同志社大学)にて報告した。10-12月期は、フェミニズム/クィア理論に、リベラルな正義基底性への内在的コミットメントを見出すことができるか否かを検討した。この研究成果の一部と修士論文の研究内容の一部とを、12月のジェンダー法学会(東北学院大学)にて報告した。また、交付申請書に書かれた研究実施計画よりも早くに研究を進展させることができたため、この時期に初年度新たに取り組んできた研究成果全体を一本の軸にまとめ治す作業を行い、これを通して2018年度の日本法哲学会(東京大学)にて報告するテーマと内容とを概ね決定し、分科会報告に応募した(発表確定済みであるが、次年度の研究報告書に記載する)。1-3月期は、次年度の作業を予備的に行いつつ、修士論文の研究成果と初年度の研究成果とを更に発展させた。ここでの研究成果の一部を、国家学会雑誌における論文に掲載する(掲載確定済み)。また次年度の研究計画をより詳細なものに練り上げていった。
著者
稲岡 大志
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.67-82, 2014-07-30 (Released:2015-07-24)
参考文献数
21

In this paper, we would present an overview of the recent studies on the role of diagram in mathematics. Traditionally, mathematicians and philosophers had thought that diagram should not be used in mathematical proofs, because relying on diagram would cause to various types of fallacies. But recently, some logicians and philosophers try to show that diagram has a legitimate place in proving mathematical theorems. We would review such trends of studies and provide some perspective from viewpoint of philosophy of mathematics.
著者
佐藤 方哉
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
no.100, pp.275-299, 1996-03

100集記念号
著者
山崎 晃男
出版者
大阪樟蔭女子大学
雑誌
大阪樟蔭女子大学人間科学研究紀要 (ISSN:13471287)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.221-232, 2009-01-31

音楽が感情を表現したり喚起したりするという考えは,時代や洋の東西を問わず,広く行き渡ったものである。実際,多くの哲学者や音楽理論家,科学者がそのような考えに対して,繰り返し支持を表明している。心理学においても,音楽と感情の関係について数多くの研究がなされている。本論文では,そうした音楽と感情の関係についての心理学的研究を以下の三つの研究領域に分類した上で,各々について概観している。ここで分類を行った三つの研究領域とは,音楽の感情的性格についての研究,音楽による感情喚起についての研究,音楽を通した感情的コミュニケーションの研究である。音楽の感情的性格についての研究とは,楽曲に対して聴取者が知覚する感情的な性格についての研究であり,一方,音楽による感情喚起についての研究とは,楽曲が聴取者に引き起こす感情的反応についての研究である。音楽を通した感情的コミュニケーションについての研究とは,演奏者から聴取者への感情的意図の伝達についての研究である。本論文では,これらについて概観した後,各研究領域が抱える研究上の課題について論じている。
著者
末武 康弘[訳] 木村 喜美代[訳] 酒井 茂樹[訳] 小田 友理恵[訳] 大迫 久美恵[訳] 宮尾 一憲[訳] 宮田 はる子[訳] 瀬戸 恵理[訳] 吉森 丹衣子[訳]
出版者
法政大学現代福祉学部現代福祉研究編集委員会
雑誌
現代福祉研究 = THE BULLETIN OF THE FACULTY OF SOCIAL POLICY AND ADMINISTRATION : Reviewing Research and Practice for Human and Social Well-being : GENDAIFUKUSHI KENKYU (ISSN:13463349)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.81-100, 2019-03-01

本稿は、Thinking Beyond Patterns: Body, Language, and Situation. (Gendlin, 1991) の日本語訳を試みるものである。原著については、The Presence of Feeling in Thought. (Ouden & Moen, 1991, New York: Peter Lang) の中に収録されていたジェンドリン執筆の同タイトルの章が抜粋され、The International Focusing Instituteより本の形で頒布されている。今回の訳出のテキストとして用いたのは、このThe International Focusing Instituteから頒布されている版である。心理臨床家としても哲学者としても名高いジェンドリン(1926~2017)は、2017年5月1日に90歳で亡くなったが、その哲学的な業績は多くの人に注目されながらも、まだ十分な解明が行われていない。私たちが訳出を試みる Thinking Beyond Patterns: Body, Language, and Situation. は、彼の哲学における初期の主著 Experiencing and the Creation of Meaning. (Gendllin, 1962/1997) と後期の代表作 A Process Model. (Gendlin, 1997/2018, この2冊はいずれもEvanston: Northwestern University Pressより新装版が出版されている) の中間に執筆された、これらに並ぶ重要な著作であり、特に彼が開発した理論構築法TAE (thinking at the edge) の哲学的な基礎を形成していると考えられるものである。A、Bのセクションと全11チャプター、計131頁(pp.21~151)からなる原著のうち、本稿ではセクションAのチャプターA-1の中の1~7節(pp.21~32)を訳出した。翻訳の作業は、法政大学大学院人間社会研究科末武研究室の博士後期課程ゼミの中で行った。初訳の担当を決め、その訳文をゼミにおいて全員で検討した。今回の初訳の担当者は、木村喜美代(1節、2節、3節)、酒井茂樹(4節)、小田友理恵(5節、6節)、大迫久美恵(7節)である。
著者
上尾 真道
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.73-100, 2013-03-25

本論は,20世紀の思想史および精神分析運動史の中で極めて異例の影響力を誇った,ジャック・ラカンの60年代の理論的取り組みの背景を,その起点としてのアルチュセールとの出会いから検討することを目標とする。はじめに確認できるのは,所属していた組織から63年に「破門」されたラカンと,マルクス主義哲学の革新を準備していたアルチュセールとの間には,技術的,自然発生的イデオロギーの「外部」において,自らの携わる学問を科学として救出するという課題が共有されていたことである。アルチュセールはこのとき,ラカンの精神分析を評して「精神分析は科学である」と述べることになるのだが,反対に,ラカンがそこで深めたのは,むしろ精神分析と科学のあいだに既に共有されている出発点としての主体性の問題であった。では,この基礎のもと,ラカンが立て直す実践は,どのような「理論の実践」によってイデオロギーから守られることになるだろうか。ラカンとアルチュセールの共通の学生であったジャック・アラン・ミレールによる論理学を応用した主体理論の定式化は,アルチュセールの批判が示唆するように,実践への接続が明白ではない。問題は,真なる理論の記述ではなく,実践のうちでイデオロギーと切断とを対置することである。理論の実践もまた,ひとつの作業平面の内部で排除されている極限へ向かう,切断のための緊張をたたえていなければならず,その点においてラカンとアルチュセールには改めて共通のものを見出せるであろう。ラカンは,こうした極限にある原因の位置に,真理の身分を持つ対象を位置づけ,知に関する実践が目指す地点を指し示すのである。
著者
栗田 英彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.89, no.3, pp.471-494, 2015-12-30

本論文では、哲学者・井上哲次郎によって構想された将来の宗教-「倫理的宗教」-と、それに対する改革派宗教者らの批判から、「修養」と呼ばれる宗教性を帯びたカテゴリーが生まれてきたことを論じる。明治三〇年代における教育からの宗教の排除と倫理教育への宗教の必要性という矛盾した要求のなかで、井上も宗教者らも新しい宗教のあり方を模索していた。それゆえ、宗教者たちは倫理的宗教論の抽象性を批判しつつ、その諸聖賢などの理想の人格や内観や坐禅といった具体的な実践をそこに結びつけることで、より実践的な倫理的宗教、すなわち「修養」を生み出した。さまざまな論者によって「修養」概念は用いられ、倫理と宗教、宗教と宗教の境界を超えて展開する超宗教的なカテゴリーとして、戦前日本で幅広い影響を与えることになったのである。
著者
大前 元伸
出版者
『年報 地域文化研究』編集委員会
雑誌
年報地域文化研究 (ISSN:13439103)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-21, 2014-03-31

Le présent article veut traiter du « discours » comme question centrale chez Jean-François Lyotard, en examinant notamment son oeuvre Discours, figure. Notre discussion commencera par clarifier la problématique générale de Discours, figure. Suivant une hypothèse selon laquelle Lyotard vise à décrire l’ « extériorité » de la langue, nous analyserons l’interprétation lyotardienne des théories de Freud qui, selon le philosophe, porte sur la relation entre le linguistique et le non-linguistique, permettant au philosophe d’introduire dans sa discussion la pulsion forclose qu’est la figure et le désir qu’est son expression. L’impossibilité de verbaliser la figure conduit Lyotard à analyser la fonction du désir. Il reconnaît dans le discours le désir à l’oeuvre, qui a les deux aspects contradictoires : régulation discursive et destruction figurale. Grâce à l’interprétation originale de la pulsion de mort, cette contradiction est considérée comme conflit entre le réglage et le déréglage de l’énergie, ce qui lui permet de déclarer que le discours tend à se détruire tout en se stabilisant. Cet argument nous amène à nous poser la question radicale de savoir si la philosophie lyotardienne n’est plus vraie vu que sa critique du discours s’applique au sien. Toutefois, elle consiste à affirmer que le discours ne représente pas une vérité, mais il est un lieu où advient ce qui est à penser. En commentant d’autres ouvrages tels qu’Économie libidinale et Le différend, nous montrerons que Lyotard a pour objectif la déconstruction de l’opposition extériorité-intériorité du discours et que cette problématique persiste pendant tout son parcours philosophique. Ainsi la pensée de Lyotard se manifeste-t-elle comme une quête sans cesse de problèmes plutôt que de la solution.
著者
土屋 貴志
出版者
日本生命倫理学会
雑誌
生命倫理 (ISSN:13434063)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, pp.125-129, 1994-10-20 (Released:2017-04-27)

オーストラリアの哲学者ピーター・シンガーは選好功利主義に立って、重い障害をもつ新生児の安楽死を擁護するが、この主張はドイツ語圏の人々に、ナチスの「安楽死」の苦い記憶を想起させることになった。シンガーを招いたシンポジウムは障害者を中心とする広汎な抗議行動のために軒並み中止に追い込まれ、ドイツのマスコミはシンガーを「ファシスト」呼ばわりした。攻撃はさらに生命倫理学や応用倫理学、果ては分析哲学全般にまで飛び火し、これらの分野の研究者は学問的生命すら危ぶまれている。日本国内にも、バイオエシックスを弱者を切り捨て生命操作を押し進めるためのイデオロギーとみなす見方が一部にある。「シンガー事件」は、バイオエシックスの本質と意義を再考し、今後の日本の生命倫理学のあり方を考える上で、看過できない重大な問題を提起している。
著者
高橋 泰城
出版者
The Philosophy of Science Society, Japan
雑誌
科学哲学 (ISSN:02893428)
巻号頁・発行日
vol.46, no.2, pp.17-30, 2013-12-20 (Released:2014-06-28)
参考文献数
14
被引用文献数
1

One of the recent promising theoretical approaches to accounts of the violation of rationality (or generalize the concept of rationality) in human decision making is quantum decision theory. In this expository review article, I introduce 1) problems of rationality in quantum decision theory and 2) relationships between psychophysics, theoretical neuroscience including neuroeconomics, and quantum decision theory.