著者
小川 圭治
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.1973, no.23, pp.64-72, 1973-05-01 (Released:2009-07-23)
著者
滝沢 文雄
出版者
Japan Society for the Philosophy of Sport and Physical Education
雑誌
体育・スポーツ哲学研究 (ISSN:09155104)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.1-10, 2008 (Released:2010-04-30)
参考文献数
50
被引用文献数
2

In this paper, it is insisted that teachers should shift the general viewpoint of physical education to a new one; “education of the human body”. It is not sufficient for physical educator to train only physical body or sports. Physical education lacks an important viewpoint that focuses on the human body and its education for until now.Generally speaking, we concern healthy body in daily life and tend to turn our eyes to appearance of others. Instead, the body has an important function. In order to understand the function, we have to distinguish two phases of the body; the physical body and the human body. We should pay attention to the human body itself. The distinction allows us to clear the matter why children are able to move intentionally. Moreover, it does us to educate the human body of them. This consideration also notices the blind spot of the assertion of the mind-body oneness.The human body becomes wise by own logic. Namely, children can perform actively and realistically based on the human body that is able to get practical relation to others. Their communication ability is closely connected to the ability of human body. According to change of the human body, their way of life becomes adaptable to any situation. In short, the wise body let them be able to establish concrete relations with friends or other things.
著者
豊川 祥隆
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.40-51, 2017
著者
池見 陽 筒井 優介 平野 智子 岡村 心平 田中 秀男 佐藤 浩 河﨑 俊博 白坂 和美 有村 靖子 山本 誠司 越川 陽介 阪本 久実子
出版者
関西大学大学院心理学研究科心理臨床学専攻
雑誌
Psychologist : 関西大学臨床心理専門職大学院紀要
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-12, 2019-03

自分の生きざまを動物に喩えて、その動物は何をしているのかなどと形容しながらペアで話し合うワークを考案し、それを「アニクロ」(Crossing with Animals)と命名した。本論では、その理論背景として実存哲学、メタファー論やジェンドリン哲学を含む体験過程理論について論じたあと、その実践を3つの側面から検討した。それらは、アニクロ初体験者に対するアンケート結果について、産業メンタルヘルス研修でのアニクロの応用について、そしてゲシュタルトセラピーにおけるアニクロの実践についてである。アニクロは多用な実践が可能であるが、その基本原理はフォーカシングであり、本論は最後に、アニクロを通してみたフォーカシングの基礎理論を考察した。
著者
太田 紘史 山口 尚
出版者
応用哲学会
雑誌
Contemporary and Applied Philosophy (ISSN:18834329)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.1001-1017, 2009-07-27

Ned Block has dedicated himself to many topics of philosophy of mind in the past thirty years. We survey his contribution to the philosophical investigations of mind, consciousness and qualia by taking up principal papers contained in his Consciousness, Function, and Representation: Collected Papers, Volume 1 (2007, Cambridge, MA: MIT Press). The article is divided into five sections. In section 1, we explain what functionalism is and take up Block’s refutation of this position. In section 2 and 3, we introduce Block’s analysis of consciousness based on his anti-functionalism and consider how he applies this analysis to several new findings in contemporary scientific consciousness research. In section 3, we consider a series of his arguments against representationalism. In section 4, we formulate the harder problem of consciousness which Block regards as an obstacle to his position.
著者
井ノ口 哲也
出版者
中央大学文学部
雑誌
文学部紀要 哲学 (ISSN:05296803)
巻号頁・発行日
vol.57, pp.37-61, 2015-02-25
著者
小野 雄介
出版者
茨城大学大学院人文科学研究科
雑誌
茨城大学人文科学研究
巻号頁・発行日
vol.2, pp.19-41, 2011-02-28

キルケゴール『反復』の読解を通して、反復の意義を考える。 第1章では、時間論の観点から想起・期待・反復を比較し、反復が独特なものであることを示す。反復が『哲学的断片』で提示される時間的なものと永遠的なものの接点「瞬間」と深い関係を持つものであり、存在と生成の問題を結びつけるものであることを示す。 第2章ではキルケゴールのヨブ解釈について考える。特に試練と責任という点からヨブと若者の反復をみていく。反復とは、一般的なもの、倫理的なもので説明することのできない状況に陥った個人が、再び一般的なものとしての自己を受け取りなおすことであると示す。 さらに、キルケゴールが構想した、反復を中心とした新しい哲学についても考える。
著者
渡辺 茂
出版者
日本重症心身障害学会
雑誌
日本重症心身障害学会誌 (ISSN:13431439)
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.7-13, 2019 (Released:2021-07-28)
参考文献数
15

Ⅰ.なぜネズミで研究するのか 共感は現在最も注目を集めている現象の一つである1)2)。他人の不幸に共感したり、逆に、不公平であることを嫌悪したり、他人を嫉妬したりするのは人間の自然な感情であり、いわば、人間の人間らしい面だとも考えられる。なぜ、この現象を動物で研究する必要があるのだろうか。18世紀の大生物学者であるルイ・ビュッフォンは「もし動物がいなければ、人間の本性はさらに一層不可解なものとなるだろう」と述べている。つまり、人間のことは動物と比較することによって理解が深まる。共感や嫉妬は人間の自分の気持ちを他者と比較することによって生じる情動である。人間で見られるそのような情動がネズミでも見られれば、その進化的起源が明らかになるばかりでなく、人間ではできない実験的研究が可能になり、その神経基盤の解明が可能になってくる3)4)。 Ⅱ.共感を単純化して考える 共感については哲学者、社会心理学者などが様々な定義、分類、理論を展開してきた。これを動物実験で研究するには、なるべく単純化することが必要である。前提としては、まず自分と他人のすくなくとも二人(動物では2個体)がいることである。つまり、共感は個体が複数いることによって成り立つ個体間現象なのである。共感については、相手の気持ちがわかるという認知的側面を強調する立場と、相手の情動によって自分も快感を感じたり、逆に不快を感じたりする情動的側面を強調する立場があるが、まずは他者の情動表出によって起きる情動反応と考えよう。どのような情動が起きるかについても様々な意見があるが、単純化すれば、快か不快か、ということに還元できる。そう考えれば共感は図1のように表すことができる。 幸せな人を見て自分も幸せになるのを「正の共感」としておこう。ヒトではごく普通に見られる現象で人間の基本的な共感と思われるこの正の共感は、動物では案外見つけにくい。逆に、他者の不快が自分の不快になることを「負の共感」とする。この正の共感、負の共感に共通する特徴は他者の状態と自己の状態が一致していることである(状態一致性といわれる)。この「同じ気持ちになる」二つの共感が狭い意味での共感と言われるものである。 しかし、自分の情動は他者の情動と一致するものばかりではない。他者の幸福がむしろ不快に感じられる場合も考えられる。いわゆる嫉妬などはこれに含まれる。これは狭い意味の共感としてあげたもの以上に人間の行動を支配している情動のようにも思われる。まことに人間の暗い側面のように思え、ヒトの発達した社会性が生み出した負の遺産のように見えるが、のちに述べるように動物にもその原始的なものが認められる。ということは、この情動もヒトの文化が独自に生み出したものではなく、なにか生物学的な意味のある情動だと考えられる。ここでは、この情動を「不公平嫌悪」としておこう。 さらに複雑なものに他者の不幸を快とする場合もあり、日本語での「他人の不幸は蜜の味」ということに相当する。日本語あるいは英語の単語でこの情動を表すことばはないが、ドイツ語ではシャーデンフロイデ(Schadenfreude)という単語がある。 さて、このように考えてくると共感とはまことに矛盾した情動だということになる。同じ他者の不幸があるときには悲しみに(負の共感)になり、別の場合には快感(シャーデンフロイデ)になる。他者の幸福も喜び(正の共感)になったり、不公平嫌悪になったりする。 Ⅲ.正の共感 「貧苦は共にできても、富貴は共にできない」というくらいで、他者の幸福を自分の幸福とするのは他者の不幸を悲しむより難しいことかもしれない。しかし、友人や家族の幸福を祝福し、一緒に喜ぶというのはヒトでは普通に見られる。しかし、幸福の共感の動物研究は例が少ない。ひとつには動物の快感の測定が難しいという問題がある。 中枢作用を持つ薬物の中には快感を起こすものがあり、それらの薬物の中には社会的促進があるものが知られている5)。薬物による快感の測定方法としては条件性場所選好(Conditioned Place Preference: CPP)がよく用いられる。環境の異なる区画(たとえば白い部屋と黒い部屋)からなる装置に動物を入れて自由に行き来させ、予めそれぞれの区画での滞在時間を測定しておく。ついで薬物を投与してある区画(たとえば白い部屋)に閉じ込め、別の日には溶媒を投与して別の区画(たとえば黒い部屋)に閉じ込めるということを繰り返す。その後、動物を自由に動き回れるようにしてそれぞれの区画での滞在時間を再び測定する。投与薬物が何らかの快を引き起こしていれば、その投与と結びついた区画での滞在時間が増加するはずである。 マウスを使ったCPPでこの強化効果の社会的促進を検討する。1個体でなく2個体同時にメタアンフェタミン(ヒロポン)を投与する。つまり、仲間と一緒に覚せい剤を投与する。生理食塩水投与の日には2個体とも生理食塩水を投与される。この手続きを繰り返した結果、アンフェタミンの区画の滞在時間が1個体で実験した場合より増大することがわかった6)。つまり、他者と自己が同じ快の状態であると、薬物の強化効果は強くなるのである。 社会的促進の簡単な説明としては、薬物自体の効果と薬物を投与された個体の強化効果が加算された結果だというものがある。このことを解明するためにマウスを2群に分け、一方の群はヒロポン投与の経験をさせておく7)。他方の群は生理食塩水投与の経験をさせておく。ついで、ある種のCPPを行うが、被験体のマウスは薬物の投与を受けるのではなく、薬物を投与されたケージ・メイトと一緒に一方の区画に入れられ、翌日は生理食塩水を投与されたケージ・メイトと一緒に他方の区画に入れられる。つまり、薬物の強化効果を調べるのと同じ方法で薬物投与されたケージ・メイトの持つ強化効果を調べたのである。その結果、事前にヒロポンの経験をさせた群ではヒロポン投与個体の強化効果が認められるが、ヒロポンの経験がない群ではヒロポン投与個体の強化効果は認められなかった。このことはヒロポン強化効果の社会的促進は薬物投与の共通経験を介したものであることを示唆する。面白いことにモルヒネではこのような効果は観察されない。 Ⅳ.負の共感 同種の他個体の負の情動表出が嫌悪的なものであることはヒト以外の動物でも広く認められている。心拍などの自律反応でも他個体の情動反応で変化が生じることがわかっているが、行動指標でこの共感を明らかにした最初の研究はチャーチ8)のものである。彼はまずラットにレバー押しのオペラント条件づけを訓練した。反応が安定したところで、実験箱の隣で他のラットに電撃をかける。電撃をかけられたラットは痛覚反応を示す。するとレバーを押していたラットはレバー押しをやめてしまう。つまり反応が抑制されてしまう。この抑制は繰り返しによって消失する。わたしたちの実験室では同じような現象をハトのオペラント条件づけで確認した9)。 他者の嫌悪反応は自分の嫌悪的経験の信号であり、他者の嫌悪反応によって事前に逃避すれば、自分の嫌悪経験を避けられるかもしれない。これには個体発生的な経験(学習)で獲得されるものがある。先ほどのハトやラットの実験で、他個体に電撃がかかると、それに続いて自分にも電撃がかかるように条件づけをする。この場合、隣の個体の痛覚反応が条件刺激(CS)、自分の電撃が無条件刺激(UCS)になる。この後、ハトを再びオペラント箱に入れて隣で別のハトに電撃をかけると、オペラント反応は再び抑制される。これは、条件づけをしたのだから、当然のことである。別の個体には、このような条件づけをしないで、ただ電撃をうける経験だけをさせる。条件づけをしていないにもかかわらず、この同じ経験を持つ個体でも隣のハトの痛覚反応でオペラント反応が抑制されるようになる。すなわち、条件づけではなく共通経験が共感を促進したことになる。 他者の負の情動表出が嫌悪的であるということは道徳の起源であるとも考えられる。他者を傷つけることに負の情動が伴うことは、文化、時代による程度の差はあってもヒトに共通しており、そのことから、マーク・ハウザーはヒトが民族や時代を超えて共通の普遍文法を持つように、ヒトに共通する普遍道徳があるのではないかと考えた 10)。 (以降はPDFを参照ください)
著者
藤田 正勝
出版者
日本シェリング協会
雑誌
シェリング年報 (ISSN:09194622)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.4, 2009 (Released:2022-12-15)

Schellings Philosophie wurde bereits am Anfang der Meiji Āra z. B. von Amane Nishi in Japan bekannt gemacht, aber der, wer sich zuerst mit der Philosophie Schellings auseinandersetzte, war Kitaro Nishida, Das Interesse für Schellings Philosophie wurde danach schnell grösser. Bemerkenswert ist, dass die Forschungen der Schüler Nischidas umgekehrt Einfluss auf ihn und seinen Nachfolger an der Universität Kyoto, Hajime Tanabe, ausübten. Dieser fing davon beeinflusst an, mit der Philosophie Hegels zu ringen und an ihr und zugleich an Nishidas Philosophie mit Hilfe des Schellingschen Begriffs,,Natur in Gott Kritik zu üben. Nishida warf andererseits von dieser Kritik angeregt erneut seinen Blick auf Schelling. Diese Geschichte zeigt, dass die Philosophie Schellings in der Entwicklung der japanischen Philosophie eine entscheidende Rolle spielte.

1 0 0 0 OA 徳と技術知

著者
野村 光義
出版者
東京都立大学哲学会
雑誌
哲学誌 (ISSN:02895056)
巻号頁・発行日
no.44, pp.15-29, 2002-03-20
著者
土場 学
出版者
数理社会学会
雑誌
理論と方法 (ISSN:09131442)
巻号頁・発行日
vol.15, no.1, pp.117-134, 2000-06-30 (Released:2016-09-30)
参考文献数
39

ハーバーマスは、『認識と関心』において、理論と実践の統一的な研究プログラムとして批判的社会学(批判的社会理論)を構想した。そこにおいてハーバーマスは、認識を導く関心というアイデアをもとに、技術的認識関心に導かれる科学、実践的認識関心に導かれる解釈学、そして解放的認識関心に導かれる批判的社会学という認識類型の認識人間学的な正当化を試みた。しかしこの構想は、ハーバーマスの学問的営為のなかで、認識論からコミュニケーション論へというコミュニケーション論的転回によって放棄されることになった。そしてそれと同時に、理論と実践の統一という要請も断念されることになった。この構想の綻びは、ヘーゲル-マルクスの歴史哲学を継承した「人類主体」という実体概念を認識の最終審級に置く主体哲学に淵源する。しかしながら、こうした主体哲学を放棄するならば、アイデンティティ(自立性)を確立する政治的過程としての「承認をめぐる闘争」にその立脚点を据え直すことによって、理論と実践の統一という要請を断念することなく新たな批判的社会学を構想しえるはずであり、実際今日の批判的研究はかつてのモダニズム/ポストモダニズムという対立軸を越えてこうした構想に収斂しつつある。
著者
檜垣 立哉
出版者
埼玉大学
雑誌
奨励研究(A)
巻号頁・発行日
1996

〈無意識〉という概念は、とりわけ近代的思想から現代的思考への転換の在りようを検討する場面で、根幹的なものとして位置づけられる概念であり、さらには現代におけるいわゆる構造主義やポストモダンの思想を総覧する場面では、表面的な応用・適用を越えたその哲学的内実の検討は看過しえない研究主題たりうるものと想われる。こうした考えを背景に、本研究では、基本的に次の二つのラインに従って研究を遂行した。一つは〈無意識〉という概念を、その概念装置そのものの創始者であるフロイトに精確に辿り返りながら、その概念の孕む哲学的内実を研ぎすまし、先ずはそこから〈現実的なもの〉という独自な概念を〈無意識〉の核として採り出したジャック・ラカンの思考を整理し、それが切り開く射程に関し考察を加えた。このなかで〈無意識〉という概念が〈抑圧〉を越えた〈排除〉と言う仕方で、記号的構造=象徴的なもの・知覚的錯綜=想像的なもの、という概念装置に奥深く連関する様を採り出しながら、〈無意識〉と〈主体〉〈言語〉の相関に関して、一定の考察を展開した。この成果は、「現実的なものの位置」(埼玉大学紀要)で既に発表済みである。第二には、ガタリと共に、一種の反精神分析という視点からフロイト以降の精神分析の運動を批判的に摂取し、別種のかたちで〈無意識〉に関する唯物論的・機械論的観点を提示し、ラカンとは異なったかたちで〈無意識〉の理論を拡張させるドゥルーズの議論の分析を、とりわけフロイトの理論においても根幹となるタナトス概念と〈器官なき身体〉の概念の関係などを中心に考察を進展させつつある。この点に関しては、いずれ近いうちに紀要・雑誌論文などでまとめる予定である。
著者
伊原木 大祐
出版者
北九州市立大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2016-04-01

本研究は、1960年代以後に優勢となるフランス現象学思想の一群(レヴィナス、アンリ、マリオン)を宗教哲学の高度な発展形態と捉えつつ、そこに表れた二元論的構成に着目することで、20世紀におけるフランス宗教哲学への新しい見方を提唱している。その結果、この思潮が形を変えながらショーペンハウアー哲学や20世紀のドイツ・ユダヤ思想にまで及んでいることを発見すると同時に、現代におけるマルキオン主義の政治的ラディカリズムを確認することができた。
著者
雨宮 俊彦
出版者
関西大学社会学部
雑誌
関西大学社会学部紀要 (ISSN:02876817)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2-3, pp.297-338, 2000-03-25

名づけの問題は,言語学,文化人類学,哲学,心理学など,おおくの分野の研究対象となってきたが,名づけをあつかう統合的や枠組みがないために,研究は断片的なものにとどまっている。本論文のシリーズでは,名づけの現象に認知科学的なみとうしを提供することをこころみる。今回は,言葉の意味について,ワードネットに具体化されているような古典的な見方と認知言語学的な見方を比較した。言葉の意味には, さまざまな側面がある。古典的な見方は,言葉の意味における,言葉と言葉の基本的な関係にかかわる静的で階層的な側面に焦点をあてるのにたいし,認知言語学の見方は,言葉と世界のインターフェースのよりダイナミックな側面に焦点をあてる。名づけは,おもに言葉の意味の,後者の側面と関連した現象であり,固定的で階層的な言葉の意味の体系のあちこちをつねに変化させていくちからである。