著者
真茅 孝志 佐野 茂 山下 大輔 杉原 学 戸畑 裕志 伊藤 由美子 加納 龍彦
出版者
日本医療機器学会
雑誌
医科器械学 (ISSN:0385440X)
巻号頁・発行日
vol.73, no.4, 2003-04-01

患者呼吸管理時におけるモニタとして,パルスオキシメータによる経皮的動脈血酸素飽和度の測定が広く認知され,現在では必須のものとなっている.測定時には,患者の指などの部位に専用のプローブを装着し測定を行うが,従来より,パルスオキシメータによる経皮的動脈血酸素飽和度の測定を行うにあたり,彼検者が指爪部にマニキュアを塗付している場合には,除光液によりこれを除去したうえで測定を行わなければならないとされている.これは,パルスオキシメータの測定原理が,動脈の容積変化を主に赤色光と赤外光の2波長の光により捉え,両者の吸光度比(R/IR)から動脈血酸素飽和度を求めるため,指爪部にマニキュァが塗布された状態では,測定に関わる光が吸収,反射などの影響を受け,それが動脈血酸素飽和度に反映される可能性が示唆されているためである.しかし,マニキュアの性状(光沢の強さ,色調など)により,本測定に与える影響は異なることが予測される.また,一般にパルスオキシメータ用プローブ部分に対し,外部から蛍光灯や無影灯などの光が入射すると,測定不能となったり測定誤差を及ぼしたりするが,このような外乱光の影響をマニキュアの性状により増強してしまう可能性も推測される.よって今回,戸畑らが作製した光電容積脈波計(医器学2001;Vol.71:475-476)を用い,各種マニキュアを指爪部に塗付した場合に,パルスオキシメータによる動脈血酸素飽和度測定が受ける影響を,外乱光の有無とともに,各社から販売されている各種プローブに対し検討を行ったので報告する.
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学論集. 人文科学系列 (ISSN:02879727)
巻号頁・発行日
no.54, pp.211-240, 2021-03-31

盆栽は日本文化を代表する芸術と考えられている。しかし,近代盆栽は純粋な日本文化を代表するものとは言えない。文化融合の産物であるからである。盆栽は中国由来であったが,江戸期に独特の発展を遂げた。江戸期に流行した「蛸作り」と「盆山」という二つの系譜をたどった。そして,幕末期に中国風の煎茶趣味の影響を受け,近代盆栽が誕生した。明治期に盆栽は政財界人の趣味として広がったが,日本の伝統文化として扱われなかった。しかし,明治後半期以降,国家意識の高まりとともに,伝統文化の見直しがあった。盆栽もその見直しに組み込まれた。盆栽は茶の湯や生け花の要素を取り込むことによって,伝統文化としての装いを整えていった。しかし,茶の湯や俳諧の借り物,あるいは流用感が否めなかった。そこで盆栽本来の特徴として,「盆栽は日本の風土に根ざした自然美を表現する固有の芸術である」とされ,国風化が唱えられた。明治期以降の近代盆栽は,文化融合の産物という特徴をもち続けながら,日本の伝統文化を代表するものとして捉えられていった。
著者
早野 龍五
出版者
一般社団法人 日本原子力学会
雑誌
日本原子力学会誌ATOMOΣ (ISSN:18822606)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.30-36, 2014

<p> 東京電力福島第一原発の事故により,福島県を中心とする地域の土壌は高濃度に汚染され,住民が内部被ばくと外部被ばくのリスクに曝された。特に,チェルノブイリ事故の経験に照らすと,平均的な内部被ばくは数mSvに達すると,当初予測された。しかし,実際に大規模なホールボディーカウンター測定を行ったところ,住民の平均的な体内放射性セシウム量は,冷戦時代よりも少ないことが明らかになってきた。福島における内部被ばく・外部被ばくの実測データを紹介し,今後を考える。</p>
著者
青山 忠正
出版者
佛教大学
雑誌
歴史学部論集 (ISSN:21854203)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.55-66, 2015-03-01

いわゆる破約攘夷論は、文久二年(一八六二)から三年にかけて最盛期を迎えた。しかし、その主唱者、長州毛利家の言動を見ても、それは一般に理解されているような、一方的な外国艦打ち払い論ではない。むしろ、現行の条約をいったん破棄してでも、日本側が主体的な性格を持つ条約に改めようとする意図を持っていた。孝明天皇においても、その点は同様である。その天皇は、慶応元年(一八六五)十月、条約を勅許するに至った。そこに至る経過を、下関戦争の国際的な背景などを踏まえ、言葉の意味を再吟味しながら考察する。
著者
佐古 曜一郎 本間 修二
出版者
人体科学会
雑誌
人体科学 (ISSN:09182489)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.75-82, 1997-05-30

The authors suggest the strong possibility that clairvoyance, where subjects can perceive letters or objects written on paper that is rolled up or folded and placed in their hand or ear, does indeed exist in the preceding report. In this report, the authors have sought to more strongly prove the existence of this type of clairvoyance and to investigate its characteristics and mechanism through various experiments carried out on six subjects. In a total of seventy-eight trials, the subjects were correct a remarkable 74.4% of the time, and these data could support the verification results in the preceding report. Moreover, the following interesting results have been obtained regarding clairvoyance. (1) The subjects were not greatly influenced by the difference between the two target samples (one was written by a word-processor and the other was written by hand). (2) The subjects could recognize colors, particularly "black," "red" and "blue." (3) The subjects could recognize plural target samples simultaneously. (4) The subjects failed to recognize target samples written with thermosensitive ink in four trials. (5) The subjects could perceive letters or objects written on both sides of the paper. (6) The subjects could recognize target samples without touching them. The authors hope that these test results will present significant data on the research of clairvoyance.
著者
川内 教彰
出版者
佛教大学仏教学部
雑誌
仏教学部論集 = Journal of School of Buddhism (ISSN:2185419X)
巻号頁・発行日
no.100, pp.15-36, 2016-03

「血の池地獄」の典拠である『血盆経』は、十世紀以降、中国で作られた「偽経」である。室町時代(十五世紀)には日本へも伝来し、亡母追善の善根功徳として書写されだし、近年まで広く受容されてきた経典である。本論の骨子は、本来、仏教的罪業ではない生理的出血によって「地神を穢す」ことが、なぜ罪業と見なされていったのかという点について、仏典に説く「女性劣機観」と、業報輪廻思想に基づく「女性罪業観」とを明確に区別し、「女性劣機観」が、「女性罪業観」へ変容していった点を明らかにすることによって、『血盆経』受容の思想的背景を見極めようとした点にある。女性と仏教をめぐる従来の研究では、九世紀後半以降、仏教の女性劣機観の影響を受けて、女性不浄観や女性罪業観が平安貴族社会に浸透していったとされていた。しかしながら、「五障」「三従」は、仏教的な罪業ではなく、女人禁制の霊場があるとしても、それは女性の往生や成仏を否定するものではない。従って、この時期に女性罪業観が浸透していたとは考えにくいのである。鎌倉時代、一切衆生を「罪悪生死の凡夫」と捉える法然教学が発展していくなかで、「五障」「三従」や「女人禁制」が、「女性劣機観」に組み込まれ、とくに「五障」「三従」は来世での堕獄につながる罪業(「順次生受業」)であるという「女性罪業観」へと変容していったことにより、室町時代には五障・三従を女性固有の罪業とする観念が広がりをみせ、社会通念となっていったといえよう。一方、出産や月の障りに伴う生理的出血(=血の穢れ)は、平安貴族社会において、神事や仏事の場でとくに「月の障り」が忌避されていくが、法然や日蓮などが明示しているように、仏教では穢れを忌むことはなく、ましてそれは罪業でもなかった。しかしながら、室町時代における女性罪業観の広がりの中で『血盆経』が伝来し、異本を含めたいくつかのバリエーションを生み出し、自身ではどうすることもできない生理的出血(月の障り)が仏教的罪業の故であると意味づけられた結果、「血の池地獄」という女性のみが堕ちる地獄が、熊野比丘尼の絵解きなどを通して広く浸透していくことになったのである。『血盆経』血の池地獄『無量寿経釈』『女人往生聞書』女人禁制
著者
玉井 建也
出版者
コンテンツ文化史学会
雑誌
コンテンツ文化史研究 (ISSN:1883874X)
巻号頁・発行日
no.1, pp.22-34, 2009-04

アニメなどのコンテンツ作品のファンが作品の舞台となった場所を訪れる「聖地巡礼」を歴史的に考察した。アニメ『かみちゅ!』の舞台となった尾道をフィールドとして考察した。近世期では歌枕として認識されていた尾道であるが、次第に近代になるとそのような認識は薄れ、社寺参詣や眺望の良さが強く認識されるようになっていった。戦後以降は映画の街として栄え、訪れる観光客だけでなく、受け入れる地域社会もそれに対応していくようになった。近年はアニメやマンガの舞台としても取り上げられるようになり、特に『かみちゅ!』ファンが御袖天満宮を訪れ、アニメの絵を奉納する行為が数多く見られた。しかし、そのような行為はファンたち内部のみでの自己満足というべき循環作用であることを意識せねばならない。
著者
田中 角栄 柿山 浩一郎
出版者
日本デザイン学会
雑誌
日本デザイン学会研究発表大会概要集
巻号頁・発行日
vol.63, 2016

本研究は以上のような着眼点から、幼児座席の安全性を高めるとともに、視覚的な安心感を与えることができるシートベルトの構造とデザインについての提案を行い、その評価を行うことを研究の目的とし、幼児専用車に取り付けることで、体の保持・安定に大きな改善が見られ、外部から見た時の印象に大きな変化がみられると考える。評価実験では試作品と一般的にみられる送迎バスの大人用2点式のシートベルトを取り付けた幼児座席も用意し、視覚的な安心感の度合いを比較検討することで、試作品のデザインの改良を行い、装着時の時間や個別の動作を分析することで、幼児期の体格差に合わせた細かな構造の変更検討も行う。また、シートベルトを使うことによる施設の車両使用者の意見を聞くことで、使用時の運行時間への影響などについても分析が出来ると考える。以上により、新たな改良点を模索し、次の展開を得ることができると予想する。
著者
桑田 真臣 千原 良友 鳥本 一匡 影林 頼明 中井 靖 三馬 省二
出版者
社団法人日本泌尿器科学会
雑誌
日本泌尿器科學會雜誌 (ISSN:00215287)
巻号頁・発行日
vol.100, no.6, pp.632-634, 2009-09-20
被引用文献数
1

思春期尿道異物の2例を経験したので報告する.症例1は12歳,男子.肉眼的血尿,および尿道痛を主訴に当科を受診した.KUB,および尿道膀胱鏡で前立腺部尿道に全長7.5cmの伸展させた状態の安全ピンが認められた.患者は否定したが,安全ピンは自己挿入されたと推察された.症例2は14歳,男子.全長5cmの円柱状の金属を自慰目的で自己挿入した.KUBで異物は膀胱内に認められた.2例とも内視鏡的に異物を摘出し得た.2例の家庭環境の共通点として,母子家庭であることがあげられる.症例1の父親は,患者が5歳のときに患者を助けようとして患者の目の前で交通事故死した.症例2では,両親が離婚していた.幼児期における父親との離別が精神状態に不安定性を与え,結果的に尿道への異物自己挿入の原因となった可能性が考えられる.泌尿器科医にとって尿道膀胱異物はまれではないが,15歳以下の報告は極めてまれである.尿道異物自己挿入の原因としては自慰目的がもっとも多いが,思春期の症例では精神神経疾患の初期症状であるものや,精神状態が不安定であるものが散見される.膀胱尿道異物患者,とくに思春期の患者においては,異物自己挿入にいたった背景や精神状態を慎重に評価し,精神医学的検索や治療の必要性を的確に判断することが泌尿器科医に求められると考える.
著者
Isam Hamza R.
出版者
三田史学会
雑誌
史学 (ISSN:03869334)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.127-139, 2006-06

はじめに一 日本の「アジア主義」の出始め : 「アジア主義」の初期的動機 1 中華秩序からの脱出 2 鎖国時代とその思想 3 西洋の脅威と『新論』二 近代日本とアジア的性質 1 「脱亜」 2 アジアとの「連帯」 3 日清戦争三 二〇世紀前半の「アジア主義」 1 日露戦争前後 2 過激な思想四 第二次大戦以後 1 「謝罪したる者あるを聞かず」おわりに研究動向
著者
舞田 敏彦
出版者
日本教育社会学会
雑誌
教育社会学研究 (ISSN:03873145)
巻号頁・発行日
vol.82, pp.165-184, 2008
被引用文献数
1

<p>Children's academic achievements differ by social class. Today, many researchers investigate schools that effectively reduce these differences. They have pointed out that in schools that are successful in this endeavor, there are many practices aimed at raising the academic achievements of children from lower classes. In this paper, I attempt to clarify the effects of these practices from the viewpoint of added value. This study aims to compare the actual achievement levels of children of each region with those estimated based on their socio-economic conditions and to clarify the educational conditions in the regions in which the actual levels are higher than expectations.<BR><BR>For my method, I analyzed the data of academic achievement tests. I clarified children's achievement levels in 49 cities and wards in the Tokyo metropolitan area and in school districts in Adachi Ward (73 primary school districts, 38 junior high school districts). I examined the relations between the achievement levels and the socio-economic conditions of each region. Using this data, I estimated achievement levels using regression analysis. Regions were then divided into types by comparing the expected levels and actual ones. I named regions whose achievement levels were higher than expected "Effort types." The opposites are named, "Problem types." I then investigated the differences of educational conditions between these two types. It was found that in Effort types, the numbers of children per school, class and teacher are relatively small. School size, class size and teacher's burden are small in these regions. In Problem types, they are relatively large. These differences are significant in the data from school districts in Adachi Ward.<BR><BR>Based on the findings, I concluded as follows:<BR><BR>1. The influence of social background on children's academic achievement can be reduced by the improvement of educational conditions such as reducing class size, which is the task of educational administrations.<BR><BR>2. The improvement of educational conditions is less effective for raising the absolute level of academic achievement. It is effective for the reduction of the social determinants of children's academic abilities.<BR><BR>3. Evaluations of schools from the viewpoint of added value are needed.</p>
著者
深水 昭吉
出版者
筑波大学
雑誌
筑波フォーラム (ISSN:03851850)
巻号頁・発行日
no.67, pp.73-77, 2004-06

トム・クルーズ主演「The Last Sammurai」に出演した渡辺謙さんが、2004年のアカデミー賞の助演男優賞にノミネートされたことは記憶に新しいことです。残念ながら受賞は逃しましたが、その存在感を世界に大きくアピールしました。 ...
著者
村山 瑞穂
出版者
愛知県立大学
雑誌
紀要. 言語・文学編 (ISSN:02868083)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.97-114, 2007

『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany's)と聞いてまず思い浮かべるのは、オードリー・ベップバーン(Audrey Hepburn)主演、ブレイク・エドワーズ(Blake Edwards)監督め1961年公開のハリウッド映画だろう。しかし、これがアメリカ文学史でも特異な位置を占めるトルーマン・カポーティ(Truman Capote)の同タイトルの小説に基づくことを知る人はそれほど多くはなく、しかも、原作を読んだ誰もが、小説と映画との違いに少なからぬ当惑を感じるに違いない。例えば映画のオープニング・シーン。ヘンリー・マンシーニーの名曲「ムーン・リバー」のメロディーに乗せて、人気のない早朝のニューヨーク五番街が映し出されると、そこに一台のイエロー・キャブが走り来て、ティファニー宝石店の前に止まる。降り立った女性は、髪を高く結い上げ、黒のロングドレスに身を固めたヘップバーン演じるヒロインのホリー。彼女は、ティファニーのショー・ウインドウを覗き込みながら、おもむろに紙袋から取り出したデーニッシュをかじり、テイクアウトの紙コップ入りコーヒーをすする。タイトルを文字通り映像化してみた印象的なこのシーンは、実は原作には全く描かれていない。文学作品の忠実な映画化など期待すべきものではなく、映画は原作の一解釈であり、独立した作品として扱うべきだが、両者の違いに何らかの意味づけをしてみたくなるのもごく自然な衝動だろう。カポーティは、第二次世界大戦後、早熟な天才作家として彗星のごとく登場し、アメリカ南部を舞台に孤独な少年の自己探求の葛藤を幻想的に描く『遠い声、遠い部屋』(Other Voices,Other Rooms,1948)をはじめとする小説や短篇によって、キャサリン・アン・ポーター(Katherine Anne Porter)やカーソン・マッカラーズ(Carson McCullers)に並ぶ南部ゴシック作家の一人に数えられる。しかし後年は、夢想的な作風をがらりと変え、カンザスの片田舎で起きた一家惨殺事件を綿密に取材したルポタージュ風のノンフィクション・ノヴェル、『冷血』(In Cold Blood,1965)によってセンセーションを巻き起こした。ニューヨークの風俗をリアルに描きつつ、そこにファンタジーの要素を織り交ぜた『ティファニーで朝食を』(1958)は、カポーティ文学の二つの異なる作風の中間に位置するともいえる。終戦後、自らの体験に基づく戦争小説によって戦争の不条理や軍隊機構の抑圧性を告発して脚光を浴びたノーマン・メイラー(Norman Mailer)ら社会派作家とは対照的に、カポーティは一貫して社会性より芸術性を重視する審美主義作家と自らを定義してきた。しかし、時間が停止したような退廃的な南部の暗闇の世界からニューヨークの明るい昼の世界へと舞台を移した軽快なコメディ、『ティファニーで朝食を』は、実社会の断面を描き、思いのほか政治的な作品になっていると指摘される。なかでも、出版当時、賛否両論だった作品の政治性をいち早く見抜き、評価したのはイーハブ・H・ハッサン(Ihab H. Hassan)である。ハッサンは、冷戦下の体制順応の時代にあって、「飼いならされることがないゆえに安住の地を見出せない自由への愛("wild and homeless love of freedom")」を具現する新しいヒロインとして小説の主人公ホリー・ゴーライトリーの登場を歓迎している。小説『ティファニーで朝食を』についてハッサンが評価するカポーティの冷戦期アメリカへの批評は、しかしながらその映画化においては全くといっていいほど切れ味が削がれてしまっている。「ハリウッドは戦後期の政治と国民的アイデンティティの将来を決定づける決戦場であった」(May,358)といわれるように、当時のハリウッドを発信地とする大衆映画はアメリカの文化的価値を全世界へと送り出したが、それらが発するメッセージは当然のことながらきわめて体制擁護的なものであった。本論では、『ティファニーで朝食を』の映画化において原作がいかに改変されたかを、ジェンダー、階級、民族、セクシュアリティを切り口に分析することにより、当時の冷戦期アメリカを支配していた文化イデオロギーを浮き上がらせると同時に、それに対抗するカポーティの批評精神を明らかにする。また、きわめて巧妙に仕上げられた原作改変の隙間に走る亀裂を指摘することで、最終的にはその改変を支えるアメリカの文化イデオロギーが映画を完壁には支配しきれていないことを示唆したい。