著者
北野 元生
出版者
佛教大学大学院
雑誌
佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇 (ISSN:18833985)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.115-131, 2016-03-01

西東三鬼の有名な俳句に「水枕ガバリと寒い海がある」がある。「ガバリ」は声喩語である。従来より、この句における「ガバリ」は水枕や水音など水にかかわる修飾語であると説明されてきた。しかし、「ガバリ」をこのような説明だけに任せておいてよいものかどうか、疑問は残る。そこで、歴史的にガバリという声喩語がいつ頃、どのような状況を説明するために成立したのかを検討することとした。その結果、この語「ガバリ」は中世の戦記物語に起源を有する、本来は水とは関係のない修飾語としての声喩語「カハ」を語根として、それから派生して発生してきたことが分かった。この「カハ」は時代を下るにしたがって、意味の変動を伴ったりあるいは伴わずに、その形態をいろいろ変えてきたようである。現在においても、「ガバリ」という語には、水にかかわりない確かなニュアンスが残存していると考えられるのである。ガバリ声喩語語根カハ歴史的変遷

6 0 0 0 OA 鉄道法規類抄

出版者
日本国有鉄道総裁室文書課
巻号頁・発行日
vol.第十八編 工事圖面(上), 1928

6 0 0 0 OA 大正昭和時代

著者
西亀正夫 著
出版者
厚生閣
巻号頁・発行日
1936
著者
中野 浩一
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
vol.41, no.5, pp.318-327, 1997-01-10 (Released:2017-09-27)

In Japan spreading of skiing is said to have originated from the ski instruction of Lerch, an Austrian officer, in Takada district since January 12 in 1911. But Nagai, a professor of gymnastics in Tokyo Higher Normal School, indicated that he had done it before Lerch. Staying in Sweden to search for Swedish gymnastics from 1907, Nagai had practised skiing for the study of the physical activity of the Japanese nation. From the end of December in 1910 fell on the 3rd ski season (1910-11) since his return to Japan in early 1909, he started an action to spread skiing in the prefecture of Akita, next to Yamagata, because he got a chance to go to snow area in winter for a course in gymnastics, and after returning to Tokyo, he wrote an article introducing Swedish winter sports in the newspaper "Jijishinpoh (時事新報)" and so on, and in the next ski season (1911-12) he gave ski instruction in the north-eastern section of Japan in the first half of January in 1912. But these activities amounted to no more than an introduction of skiing, and had little influence. On the other hand, at the end of December in 1910 was the same time Nagai started his action, Takada Division started a research for popularizing skiing before Lerch arrived at his post. They accomplished its study in this ski season (1910-11), and in the next ski season (1911-12), they started an action to extend their influence all over Japan, and almost succeeded in it after holding the opening ceremony of Esshin Skiing Club (越信スキ-倶楽部) on February 11 in 1912 fell on the next month Nagai visited the north-eastern section of Japan. Though Nagai used a skiing style with two poles, Lerch's one with one pole has consequently spread in the north-eastern section of Japan.

6 0 0 0 OA 官報

著者
大蔵省印刷局 [編]
出版者
日本マイクロ写真
巻号頁・発行日
vol.1889年07月17日, 1889-07-17

6 0 0 0 OA 色の知覚

著者
武内 徹二
出版者
一般社団法人 照明学会
雑誌
照明学会誌 (ISSN:00192341)
巻号頁・発行日
vol.81, no.6, pp.500-505, 1997-06-01 (Released:2011-07-19)
参考文献数
17
被引用文献数
1 1
出版者
衆議院事務局
巻号頁・発行日
vol.第22回, 1950
著者
植田 満美子 舟島 なをみ 中山 登志子
出版者
日本看護教育学学会
雑誌
看護教育学研究 (ISSN:09176314)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.23-36, 2018-03-31 (Released:2018-04-27)
参考文献数
58

本研究の目的は、潜在看護師の離職から再就職に至る経験を表す概念を創出し、その特徴を明らかにすることである。研究方法論には看護概念創出法を用い、1年以上の離職期間を経て再就職した看護職者18名への半構造化面接によりデータを収集した。分析の結果、潜在看護師の離職から再就職に至る経験を表す17概念が創出された。それらの概念とは【看護職放棄による自適生活実現と新たな興味探索】【新たな地位への一時的満足と看護職放棄への後悔】【看護職帰還勧奨への追従と却下】【就労条件適合施設探索と探索難渋】【看護職帰還に向けた就労条件設定と現実への迎合による条件緩和】等である。考察の結果は、再就職に至った潜在看護師の経験が、「自由な時間を持つことを通して再就職に向けた活力を得る」「離職後の地位に傾倒したり職業を問い直したりしながら、看護職を価値づけ再就職に至る」「再就職への契機を獲得する」「再就職の準備過程において多様な問題に直面するものの、それらを解決し再就職に至る」「再就職の実現に向け、現実と折り合いをつけながらの継続的な準備を必要とする」の5つの特徴を持つことを示唆した。現在、潜在看護師を対象とする研修の多くは、再就職への不安解消を目的とした看護技術の確認を中心に実施されている。本研究は、再就職実現のために必要とする準備や予測される問題の解決に向けた知識の提供もまた重要であることを示唆した。
著者
廣田 吉崇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.185-236, 2012-03

明治維新によって日本の伝統的芸能が大きな打撃を受け、茶の湯も衰退を余儀なくされたことはしばしば指摘される。しかし、上層階級を中心とする「貴紳の茶の湯」の世界では、ひとあし早く茶の湯が復興し始めていた。この茶の湯の復興を先導したのは、旧大名、近世からの豪商にくわえて、新たに台頭した維新の功臣、財閥関係者らの、「近代数寄者」とよばれる人々である。 本稿では、『幟仁親王日記』および『東久世通禧日記』をもとに、明治前期の茶の湯をめぐる状況を概観する。この結果、明治十年(一八七七)を過ぎたころから、旧大名、旧公家、維新の功臣らの上層階級を中心に茶の湯が流行しはじめたと考えられる。それを象徴するできごとは、明治十年八月二十一日の脇坂安斐による明治天皇への献茶である。この時期にはじめて茶の湯にふれた東久世通禧は、急速に茶の湯に傾倒し、さかんに技芸を稽古し、茶会を催すようになる。このような茶の湯の交際の広まりが、明治維新以前から茶の湯に親しんでいた有栖川宮幟仁親王を巻き込んでいこうとする現象がみられた。 興味深いことは、明治前期の「貴紳の茶の湯」の世界において、家元は積極的には登場しないことである。おそらく、家元を中心とする「流儀の茶の湯」の衰退が深刻であり、家元の存在基盤が脆弱であったためと考えられる。 家元が広く庶民層に技芸を教え広めることにより苦境を克服するのは、大正期以降のことと考えられる。こうした状況の変化をみて、いったんは茶の世界から離れていた中小の流派の後継者たちは、茶の世界に復帰する。明治期に茶の文化を維持した近代数寄者の一部は、のちに家系中心の家元システムが整備されるなかで、"家元を預かった"人物として位置付けられることになる。
著者
山内 寛行
出版者
一般社団法人電子情報通信学会
雑誌
電子情報通信学会技術研究報告. ICD, 集積回路 (ISSN:09135685)
巻号頁・発行日
vol.105, no.1, pp.29-34, 2005-04-07

本論文では、デジタル家電向けシステムLSI用の混載メモリを、実例に基づき分類し、それぞれの現状と将来展望を簡単に述べる。その後、システムLSIの構造改革に向けたシステム設計者のメモリハングリーの要求に応えるための現状の取組みとその将来展望をSRAMと混載DRAMに焦点を当てて述べる。
著者
塚原 東吾
出版者
科学技術社会論学会
雑誌
科学技術社会論研究 (ISSN:13475843)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.27-39, 2018

<p> 日本のSTSは,公害問題についての宇井純や原田正純,もしくは反原発運動の高木仁三郎らの系譜を受け継ぐという想定があるが,これはある種の思い込みに終わっているのかもしれない.実際,日本のSTS は今や体制や制度への批判ではなく,科学技術と社会の界面をスムースに接合させる機能を自ら担っている.そのため本稿では,日本のSTSで"科学批判"と呼ばれる潮流の衰退が進んでいる現状について,まずはおおまかな図式を示してみる.</p><p> またこの変容を考えるため金森修の所論を,戦後日本の科学批判の歴史にそって検討する.さらに日本でSTSの出現に至った2 つの重要な潮流,すなわち一つ目は廣重徹に濫觴を持ち中山茂が本格展開した思潮(この流れは80 年代に吉岡斉を生み出す)と同時に,村上陽一郎のパラダイムがある種の転換(「村上ターン」)を迎えたことが,戦後科学論の分岐点として,STSを制度化の背景になっていたことを論じる.</p>