著者
伊藤 駒夫
出版者
岡山医学会
雑誌
岡山醫學會雜誌 (ISSN:00301558)
巻号頁・発行日
vol.40, no.3, pp.487-512, 1928-03-31 (Released:2009-03-31)
参考文献数
54

Das Wesen des Kältehämolysins ist noch nicht völlig aufgeklärt. Der Verfasser hat an 2 Fällen der paroxysmalen Hämolobinurie (die eine gehört nach Dungern und Hirschfeld der O-Blutgruppe, die andere der B-Gruppe an) verschiedene Versuche angestellt, von deren Resultaten die folgenden hier besonders hervor zu heben sind.Nachdem bei Ausführung des Donath-Landsteiner'schen Versuchs als Erythrozytensuspension ausser den eigenen Erythrozyten der Kranken je auch die der A-, B-, AB- und O-Blutgruppe, und als Hämolysin ausser dem nativen Krankenserum auch das in der Kälte vorher mit den roten Blutkörperchen der obigen verschiedenen Gruppen behandelte, sog. Restserum zur Anwendung gebracht worden waren, haben wir gefunden, dass das Autokältehämolysin jedes Kranken am stärksten auf das rote Körperchen der AB-Gruppe, weniger stark auf das der A-Gruppe, viel schwächer auf das der B-Gruppe und ganz schwach oder sogar kaum auf das der O-Gruppe hämolytisch wirkte.Die unnötig lang dauernde Wirkung der Kälte hemmte den Ausfall des D.-L.'schen Versuchs; das rote Blutkörperchen der AB-Gruppe war dabei am stärksten und das der O-Gruppe am schwächsten gegen die Kälte empfindlich.Die 3-malige Vorbehandlung des Serums mit den roten Blutzellen der AB-Gruppe übte keinen Einfluss auf den Ausfall der Wassermann'schen Reaktion des Serums aus.Das Komplement scheint manchmal durch die mehrmaligen Salvarsaninjektionen zum Verschwinden gebracht zu werden, weil danach die sonst positiv ausfallenden D.-L.'schen Versuchsresultate ohne Hinzufügen des Meerschweinchenserums ausblieben. Demzufolge mag es solche Fälle geben, die für klinisch geheilt gehalten werden, wenn auch dort noch das Kältehämolysin nachzuweisen ist.In der Lumbalflüssigkeit der Kranken konnten wir das Auto- wie auch Isolysin nachweisen und durch die subkutane Pituitrininjektion wurden sie sogar vermehrt, und zwar das letztere in erheblicherer Weise, gefunden.
著者
天沼 寧
出版者
大妻女子大学
雑誌
大妻国文 (ISSN:02870819)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.1-19, 1983-03

1 0 0 0 農林時報

著者
農林省大臣官房弘報課 編
出版者
日本農村調査会
巻号頁・発行日
vol.8, no.2, 1949-02
著者
朝鮮総督府 編
出版者
朝鮮総督府
巻号頁・発行日
vol.第1冊(民家), 1924
著者
岡本 和士 大野 良之
出版者
一般社団法人 日本老年医学会
雑誌
日本老年医学会雑誌 (ISSN:03009173)
巻号頁・発行日
vol.31, no.8, pp.604-609, 1994-08-25 (Released:2009-11-24)
参考文献数
9

痴呆の発症リスク要因を明らかにするため, 愛知県M町でコーホート内症例対照研究を実施した. 症例群は昭和54・55年に実施した高齢者総合健康調査の受診者のうち, 平成5年4月時点に痴呆と同定された19名である. 対照群は性・年齢 (±1年以内), 居住地域を対応させ症例1名に対し2名を上記総合健康調査受診者から無作為に選定した. オッズ比による検討の結果, 13~14年前の身体的精神的状況および生活習慣と, 痴呆発症との関連は以下のようであった.1. 痴呆発症リスク有意上昇要因は, 手指の使いにくさ, 入れ歯使用, 日頃話す機会が少ない, 暇な時間が多い, 友達が少ない,「29-17」の減算不可である.2. 痴呆発症リスク上昇傾向要因は片側手足麻痺あるいは首・肩こりの場合である.3. 痴呆発症リスク有意低下要因は運動習慣ありである.4. 喫煙習慣と睡眠薬常用は比較的大きなオッズ比であったが, 痴呆発症と有意に関連していない.5. 今回の分析で得られた7つの有意なリスク上昇要因 (「手指の使いにくさ」「入れ歯の使用」「日頃話す機会が少ない」「暇な時間が多い」「友達が少ない」『「29-17」の減算不可』「運動習慣なし」) の保有数が多くなるにつれて, 痴呆発症よリスクは明らかに上昇すると考えられた.
著者
小澤 薫
出版者
社会政策学会
雑誌
社会政策 (ISSN:18831850)
巻号頁・発行日
vol.4, no.3, pp.132-140, 2013-03-20

本稿は,高齢者の所得保障と年金に関して,高齢者の生活実態と公的年金制度の動向,今後の方向性,課題について明らかにするものである。まず,多くの論者が活用する政府統計による高齢者の生活実態に関する著作,論文を取り上げ,さらに近年進められている最低生計費調査にも触れた。生活問題を検討するためには,収入と支出の両面で考える必要がある。次に制度上現れる低年金者,無年金者の問題,進む年金制度の「改定」によって現れる定年年齢と年金支給開始年齢の間にある「空白期間」について,雇用の現状を踏まえて検討した。その上で,公的年金のあり方とその財源について,社会保障の理念に立ち返り,進む社会保障制度改革の議論について,批判的にみた。そして,高齢者の所得保障として,年金だけでなく社会制度を体系的に捉えることの重要性と,単なる所得保障ではなく,国民の生活を保障する「生活保障」の視点が不可欠であることを指摘している。
著者
木村 武二 堂前 雅史
出版者
東京大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1990

1.雄マウスの性誘引因子:雄の包皮腺の分泌物中、分泌後に変化を受けて生成される有効物質の候補として50種以上の揮発性物質を同定し、また、その多くが排出尿に混入して排出されることが確認された。これによって、性誘引因子の化学的解析への展望が開かれた。2.休止期(明期)における雌マウスの性的反応:休止期における、雄の匂いへの反応には、他の雌個体の存在と、自身の交尾経験とが必要であり、活動期(暗期)とは反応性が異なることが明かとなった。3.雄マウスの父性行動:雄マウスの育児行動の発現には交尾経験が最重要であり、妊娠雌との同居や雌の出産を目撃することは、雌や新生児との直接的接触を妨げた条件下では効果を持たないことが明かとなった。4.生育環境がマウスの行動発達にもたらす影響:段階的に複雑化した環境に単独または複数のマウスを離乳時から入れ、諸行動の発達を比較した。その結果、環境の複雑化(豊富化)は、複数で生育したマウスにおいては探索行動の発達を促進したが、単独飼育群では豊富化の影響が見られないことが分かり、物的環境と社会環境との相互作用の重要性が明かとなった。5.ヤマネの冬眠開始機構:ヤマネの冬眠開始には低温の他に食物の不足が重要な要因である事が確認された。さらに、高温下でも、餌の制限によって低体温状態が誘起されるという、興味ある事実が明かとなった。6.野生齧歯類のコミュニケ-ション:アカネズミ及びヒメネズミは共に尿マ-キングをコミュニケ-ションに利用しているが、利用の仕方に種差があり、それには生態的な違いが反映されていることを示唆する結果が得られた。
著者
久保 和華
出版者
宮崎公立大学
雑誌
宮崎公立大学人文学部紀要 (ISSN:13403613)
巻号頁・発行日
vol.12, no.1, pp.91-97, 2005-03-22

現在日本の年金制度は賦課方式に近い財源方式を採用している.したがって少子高齢化の進展にともなって年金保険料,年金給付額が変化しその比率も変化するのは明らかである.しかし,公的年金制度の保険料負担と年金給付のバランスが世代によって大きく異なるとみなされている点により,現在の公的年金制度は世代間の不公平をもたらしていると指摘される.年金政策の中でも有効な選択肢であると考えられている支給開始年齢の引上げ政策が世代間格差へ与える影響を久保(2004)の一般化を通して考察する.
著者
西本 昌弘
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.75-90, 2007-03-30

薬子の変については、藤原薬子・仲成の役割を重視してきた旧説に対して、近年では平城上皇の主体性を評価する見方が定着しつつある。これに伴い、「薬子の変」ではなく、「平城太上天皇の変」と呼称すべきであるとの意見も強くなってきた。しかし、平城上皇の主体性を強調することと、薬子・仲成の動きを重視することとは、必ずしも矛盾するものではない。私は前稿において、皇位継承に関する桓武の遺勅が存在した可能性を指摘し、平城上皇による神野親王廃太子計画について考察を加えた。私見によると、薬子の変もこの桓武の遺勅を前提とする神野廃太子計画と一連の動きのなかで理解することができると思われる。そこで研究史を振り返りながら、平城・嵯峨両派官人の動向に再検討を加え、薬子の変にいたる原因と背景について考察した。本稿の結論は以下の通りである。桓武天皇は死去のさいに、安殿・神野・大伴の三親王が各一〇ヶ年ずつ統治すべきことを遺勅したが、平城はこれを破って、第三子の高岳親王を皇位につけようとし、神野親王の廃太子を計画した。薬子の変の遠因は神野廃太子計画にも通じるこの皇位継承問題であり、平城の即位前後から平城派と嵯峨派の両派官人の対立ははじまっていたとみられる。神野の廃太子に失敗した平城は、三年ほどの治世で譲位した。これは嵯峨が一〇ヶ年統治したのち平城が数年間復位して、高岳への皇位継承をより確実にしようとの意図からであった。しかし、嵯峨が平城のこの提案を拒絶したため、平城は譲位したことを後悔しはじめ、嵯峨側との対立をさらに深めていった。薬子の変の直前には、平城派の官人が衛府や要衝国の国司に任じ、かつて北陸道観察使であった藤原仲成らが越前方面などで平城派の勢力拡大に努めていた。このため嵯峨側は弘仁元年(八一〇)九月、平城派官人の衛府や国司の任を解き、彼らを辺遠国に左遷するとともに、自派の官人で衛府と要衝国を固めた。また伊勢・近江・美濃三国の国府と故関に遣使して鎮固し、平城側の蜂起を未然に防ぐことに成功した。薬子の変では越前・近江・伊勢方面に勢力を扶植した仲成の活動が突出しており、平城の藩邸の旧臣の多くは平城に同調しなかった。変における平城上皇の主体性は否定できないが、薬子らの父種継の復権・顕彰が図られた事実や、薬子・仲成の係累が乱後も長く許されなかった事実を勘案すると、薬子・仲成がやはり中心的な役割を果たしていたことを認めない訳にはゆかない。平城上皇や薬子・仲成にとって、王都・王統に関する桓武の構想は否定すべきものであり、それゆえその遺命を無視して、高岳立太子を実現し、平城遷都を計画したのである。薬子の変は桓武の構想を肯定するか否定するかの戦いであったといえる。
著者
大平 俊男
出版者
Japan Society for Atmospheric Environment
雑誌
大気汚染研究 (ISSN:21863687)
巻号頁・発行日
vol.12, no.7, pp.425-430, 1977

In an attemt to clarify air pollution conditions in the atmosphere over the southern Kanto area, the Tokyo Metropolitan Research Institute for Environmental Protection, using an aircraft, made a survey of the concentration of NO<SUB>x</SUB>, SO<SUB>2</SUB>, TSP, CH<SUB>4</SUB>, non CH<SUB>4</SUB>·HC and CO in the layer between the altitudes of 700 and 1, 800 meter in October, 1974. The results are as follows:<BR>(1) The average concentrations of NO and NO<SUB>2</SUB> were 0.24 pphm and 0.92 pphm respectively, the latter being about 1/3 to 1/5 of that on the ground.<BR>(2) No SO<SUB>2</SUB> was detected in most of the days, except on October 18 when its average concentration was 1.4 ppb, being approximately 1/10 of the ground concentration.<BR>(3) TSP average concentration measured by light scattering method was 1.6μg/m<SUP>3</SUP> over Takyo and 11μg/m<SUP>3</SUP> in the upper air of Sagami Bay. These were around 1/60 to 1/10 of the ground level concentsation in Tokyo. SO<SUB>4</SUB><SUP>--</SUP> and NO<SUB>3</SUB><SUP>-</SUP> concentration in the dust by high volume sampler were from not detectable value to 29 μg/m<SUP>3</SUP> and from 1 to 23 μg/m<SUP>3</SUP> respectively, both being a little lower than the surface values in Tokyo, but the differences did not seem to be great compared with other pollutants.<BR>(4) The concentration of CH<SUB>4</SUB> was about the same as that of surface level, ranging from 1.5 to 1.7 ppmC, while that of nonCH<SUB>4</SUB>·HC was mostly between 0.2 and 0.4 ppmC, being about 1/2 of the ground concentrations.<BR>(5) CO value was mostly 0.4 through 0.8 ppm, about 1/5 of the ground concentration.<BR>Recently, Dr. T. Kitagawa made a hypothesis that photochemical smog was produced by aircraft exhaust gas accumulated in an inversion layer, not by autmobile and factory exhaust gas. This hypothesis, however, not only raises doubt in several points, but also can not be supported at least in the light of the conditions of air pollutants in the layer between 700 and 1, 800 meter above the ground, especially of the measurements of precusors of photochemical smog such as NO<SUB>x</SUB> and nonCH<SUB>4</SUB>·HC.