著者
佐藤 公治
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
vol.117, pp.171-203, 2012-12-26

本論では,城戸幡太郎の心理学研究と心理学思想について,彼の心理学史研究の集大成である『心理学問題史』といくつかの著作の内容的検討から明らかにする。城戸は心理学の研究として自然科学的方法だけに依拠するのではなく,文化とその歴史的文脈の中に人間精神を 位置づけていくことの必要性を論じている。そして,文化の中で人間発達は実現すると同時に,人間には文化的創造者としての役割があることを「文化的個性化」の概念として定式化する。城戸は「文化的個性化」を実現していくためのものとして教育を位置づける。城戸の心理学研究の背景には哲学的人間学,特にカントの実用的人間学の思想がある。
著者
中畑 正志 内山 勝利
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

アリストテレスの哲学の基礎的語彙の多くは、「可能と現実」「実体」などのように、現在では哲学の基礎概念となっているばかりでなく日常用語にまで浸透している。そうした語彙をアリストテレスがどのような意図で提示し、またその後西欧においてどのように継承され受容されてきたのかを改めてたどり直すとともに、19世紀の西欧における支配的な解釈の影響下にある日本における受容と翻訳のあり方をその問題点を確認し、あらたな翻訳の可能性を検討した。
著者
一色 大悟
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部インド哲学仏教学研究室
雑誌
インド哲学仏教学研究 (ISSN:09197907)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.39-54, 2009-03-31

In early buddhist sūtra texts “asaṃskṛta” is a term used as a synonym for nirvāṇa, the ultimate purpose of buddhists. Disciples in Sarvāstivāda, one of the most influential buddhist sects in india, regarded asaṃskṛta as dharma, and in their abhidharma texts they classified three kinds of dharma, that is to say pratisaṃkhyānirodha, apratisaṃkhyānirodha and ākāśa, into asaṃskṛtadharma. According to the Vaibhāṣika orthodoxy these three asaṃskṛtadharmas are real-entities ( dravyasat ); on the other hand scholars of Sautrāntika / Dārṣṭāntika denied the real-entityness of them. This article deals with the controversy about real-entityness of asaṃskṛtadharmas appeared in abhidharma texts, in particular *Abhidharmamahāvibhāṣā (『阿毘達磨大毘婆沙論』, MV ), *Tattvasiddhi (『成實論』, TS ), Abhidharmakośabhāṣya ( AKBh ) and *Nyāyānusāriṇī (『阿毘達磨順正理論』, NA ). The argument for acknowledging the real-entityness of asaṃskṛtadharmas in TS, AKBh and NA is grounded on the possibility of cognizing intrinsic nature ( svabhāva ) of asaṃskṛtadharmas.And scholars who accepted this argument considered that the possibility can be reasoned from the possibility of cognizing results of activities of intrinsic nature. Saṅghabhadra, the author of NA, affirmed that ākāśa has an activity of receiving ākāṣadhātu and that apratisaṃkhyā-nirodha has an activity of constant obstruction to the arising of those factors whose nature is to arise ( 可生法, *utpattidharmaka ). On the other hand in TS, AKBh and NA pratisaṃkhyānirodha is considered as the dharma whose intrinsic nature and an activity can not be cognized by anybody except āryas. Then Vaibhāṣikas who appear in AKBk and Saṅghabhadra reinforced the argument of real-entityness of asaṃskṛtadharmas with finding out their characteristics which are inherent only in beings. According to NA non-beings are neither distinguishable, cognizable, nor describable, but pratisaṃkhyānirodha is not accepted as such a thing, so it is a being. And furthermore, it is not a being as a provisional designation ( prajñaptisat ) by any possibility, therefore it must be a real-entity. From the viewpoint of those who denied the real-entityness of three asaṃskṛtadharmas each of them is a non-being. In TS ākāśa has an active influence on spatial beings with its non-beingness, but pratisaṃkhyānirodha is a mere non-being. And according to AKBh a statement that pratisaṃkhyānirodha exists is only a negation ( pratiṣedhamātra ) and indicate non-beings. Saṅghabhadra considered this “existence” is not only existence as a real entity, but also existence as a provisional designation.
著者
セラーノ・ルアーノ デルフィナー
出版者
日本中東学会
雑誌
日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
巻号頁・発行日
no.27, pp.209-236, 2011-07-15

本論文は、ムラービト朝時代(11世紀末から12世紀前半)のカーディーとカーディー以外の裁判官(行政官)の関係を検討する。この問題は、ムラービト朝のもとでカーディーとマーリク派法学者が支配王朝を支持するのとひきかえに、前例のないほどの有利な地位をえていたとする通説にかかわる。カーディー以外の裁判官に対して理論的にはカーディーの専権のもとにある権限を賦与することはなくならず、それはカーディーの黙認によるものではなかった。ここでは、大イブン・ルシュド(450/1048〜520/1126年、コルドバの大カーディー、哲学者・医者として著名なイブン・ルシュドの祖父)のジナー(姦通罪)にかかわる一連の法学テキストに焦点をあてる。イブン・ルシュドのテキストを綿密に検討しそのコンテキストを再構成するならばつぎのことが明らかになる。そのファトワーでは、大カーディー(カーディー・アルジャマーア)だけが姦通罪に関する判決を下すことができ、地方のカーディー以外の裁判官(行政官)にはその権限はないと述べる。ハッド(コーランまたはハディースで量刑が定められた身体刑)にかかわる法学理論の特殊性や法学意見の術を習得することは、大イブン・ルシュドが宗教上の処罰と行政上の処罰との違いを明らかにし、統治者に対して、カーディーがハッド刑を効果的に執行するようにしなければシャリーアを支配領域において執行することに基づく彼らの統治の正当性を危うくしかねないことを喚起する手段であったのである。また、ハッド刑の執行という問題についていえば、シーア派の法学者がハッド刑を執行する資格を認められた政治支配者が正当な統治者であるとしたのに対し、大イブン・ルシュドは政治支配者がハッド刑の執行をカーディーに委ねる体制が正当であるとした。
著者
對馬 達雄 今井 康雄 遠藤 孝夫 小玉 亮子 池田 全之 山名 淳
出版者
秋田大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、戦後ドイツを通底する課題である「過去の克服」という課題に、これまで等閑視されてきた精神史、文化史、広く人間形成の側面からその本質に迫ることを目的としている。本年度は、7名の分担者が交付申請書記載のそれぞれの研究テーマに則して、文献・資料の分析を進め、2回の全体研究会を通じて、共同研究としての統一性を保ちつつ研究を進めた。より具体的には、まず遠藤は、州憲法及び基本法の制定を通して、ナチズム克服の理念としてキリスト教の復権が行われたこと、小玉はナチズムにより解体の危機に瀕していた家族の再建に関する議論と施策が行われたこと、渡邊はナチ教義の注入手段と化していた歴史教育の再建において、ヴェーニガーの「政治的歴史教育」の理念が重要な役割を果たしたことを明らかにした。また、池田は20世紀ドイツを代表する哲学者ハイデガー、リット、ヤスパースの「過去」に対する思想的対応の相違を腑分けし、今井は「政治的成人性」の理念を中核とするアドルノの教育思想の特質を「過去の克服」との関連で明らかにし、對馬は反ナチ運動の復権を司法界において最初に宣明した「レーマー裁判」の意義を検事ブリッツ・バウアーの思想と行動に関連づけて明確にした。そして、山名は「追悼施設教育学」の成立経緯とその今日的意味を「記憶文化」と関連づけて明らかにした。これらの研究成果は、平成23年3月に上梓された對馬達雄編著『ドイツ過去の克服と人間形成』の各論文として収録された。
著者
金 官圭
出版者
三田哲學會
雑誌
哲学 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.110, pp.199-223, 2003-03

1. はじめに2. インターネットと政治コミュニケーション構造 1) ブロードキャスト(broadcast)構造 2) インターネットのネットキャスト(netcast)構造2. 電子民主主義と政治過程の変化 1) 遠隔民主主義・ポピュリズム(Teledemocracy・Populism) 2) サイバー民主主義・共同体主義(Cyberdemocracy・Communitarianism) 3) 電子民主主義化・強化された多元主義(Electronic Democratization・Accelerated Pluralism)3. 終わりに : 電子民主主義の現実的様相特集コミュニケーション課程の諸相論文
著者
中村 夕衣
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.75, no.1, pp.1-12[含 英語文要旨], 2008-03

本稿では、『アメリカン・マインドの閉塞』の著者として知られるアラン・ブルームの大学論について考察する。これまでブルームの大学論は、保守主義の立場から展開される西欧中心主義的な議論、あるいは過去の大学文化を取り戻そうとする懐古主義的な議論と見なされ、批判されることが多かった。本稿では、そうした諸批判を検討しつつ、ブルームの大学論がポストモダンを経た現在でも意義深いものであることを明らかにする。彼の描く大学の歴史は、中世に起源をもつとされる通説とは異なり、近代、とくに啓蒙主義以降の「哲学」との関連で展開されている。近代に誕生した「大学」は、啓蒙主義の企ての限界が露呈するなかで解体を余儀なくされた。啓蒙主義の限界がどこにあり、またその後の大学はどのような歩みを経て現代に辿り着いたのか。独自の哲学史観のうえで展開されるブルームの大学論を読み解き、「哲学の場としての大学」の可能性を模索する。
著者
木村 晶子
出版者
北海道哲学会
雑誌
哲学年報 (ISSN:1344929X)
巻号頁・発行日
no.46, pp.15-20, 1999
著者
山田 貴裕
出版者
京都大学哲学論叢刊行会
雑誌
哲学論叢 (ISSN:0914143X)
巻号頁・発行日
vol.37, no.別冊, pp.S61-S72, 2010