著者
佐山 展生 長島 輝幸 Nobuo Sayama Teruyuki Nagashima ユニゾン・キャピタル(株) 東京工業大学社会理工学研究科修士課程 Unison Capital Inc. Division of Decision Science and Technology Tokyo Institute of Technology
出版者
日本管理会計学会
雑誌
管理会計学 : 日本管理会計学会誌 : 経営管理のための総合雑誌 = The journal of management accounting, Japan : JAMA (ISSN:09187863)
巻号頁・発行日
vol.6, no.2, pp.75-91, 1998-03-31
被引用文献数
1

新規公開時に企業は,公募増資で資本市場から設備資金など必要な資金を調達し,業容拡大等企業の成長のための資金を使っているはずである.また企業が店頭公開し知名度や社会的信用が向上すれば,資金調達手段や顧客層が多様化し,優秀な人材も採用しやすくなる.このため,店頭公開によって企業は,豊富な資金や優秀な人材を獲得し,店頭公開前よりも収益性を向上させ更に企業を成長させていくことができるはずである.しかし,高成長を遂げた企業が店頭公開すると推測できようが,公開後にも高度な成長を続け,高収益性を維持するとは限らない.店頭公開すること自体が企業の収益性にどのような影響をもたらすかは,店頭公開を目指す企業および店頭公開した企業の将来の業績を予測する上で極めて重要なことである.そこで本研究では,わが国企業の店頭公開前後の収益性を,各種財務データを用いて分析し,店頭公開と企業の業績との関係を示す.そのため,1986年から1991年の間に店頭公開した321社について店頭公開前後の各5年間の財務データを調べ,店頭公開後の企業の収益性が公開前とどのように変化するかを比較する.その結果を分析し,店頭公開し資本市場から資金調達した後,企業の収益性はむしろ低下する傾向にあることを示す.また,この収益性の低下の理由は,主に有形固定資産への投資が増大し,多大な減価償却費にあること,この店頭公開後の収益性の低下傾向は,製造業の方が非製造業よりも著しいこと,しかしながら,キャッシュフローは,非製造業の方の低下の方が著しいことを財務比率の変化等によって説明する.Through Tentou-koukai, companies have access to significant liquidity from the capital market, which can be used for the company's growth. Because companies'-names will be more familiar in the market and their credibility will grow after Tentou-koukai, such companies should be able to enhance their growth and hire good human resources after Tentou-koukai. Therefore, such companies should be more profitable and grow after Tentou-koukai by taking advantage of increased liquidity from the capital market and good human resources. In fact, companies usually have been growing before Tentou-koukai. However, do companies continue the growth trend and sustain high profitability after Tentou-koukai? It is important to know the effects of Tentou-koukai with respect to companies considering Tentou-koukai and to analyze the results after Tentou-koukai. In this article, we will show the effect of Tentou-koukai towards companies'profitability by analyzing various financial data before and after Tentou-koukai. We investigated 321 companies that conducted Tentou-koukai from 1986 to 1991. We analyzed their financial data 5 years before and after Tentou-koukai and examined the difference in profitability. The data shows that profitability decreases after Tentou-koukai. The reason for the decrease in profitability is primarily high depreciation resulting from high post-Tentou-koukai investments in fixed assets. This tendency of decreasing profitability after Tentou-koukai is more significant for manufacturers compared with than non-manufacturers. However, decreasing cash flow is more significant for non-manufacturers.
出版者
日経BP社
雑誌
日経コンストラクション (ISSN:09153470)
巻号頁・発行日
no.410, pp.30-35, 2006-10-27

福岡県と大分県を結ぶ有明海沿岸道路の一部,福岡県内の区間で,プレキャスト製のアーチカルバートを七つ連結して高架橋とする工事が中盤に差しかかっている。7連のアーチカルバートを使う構造は日本初。当初に計画していた中空床版橋に比べて工費を33%削減した。
著者
段上 達雄
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.161, pp.353-401, 2011-03

福岡県と大分県にはジンガとジガンと呼ばれる祭祀者、そしてジガン座と呼ばれる宮座が存在する。本稿では、その分布と内容について具体的事例をあげながら、その意味について考察する。ジガンは大分県杵築市(国東半島東部)と中津市(山国川流域)、福岡県京築地域(福岡県旧豊前国東部)に広がり、ジンガは福岡県筑豊地域と旧筑後国東部地域に分布し、大分県別府市に飛び地のように存在する。また、宮座呼称は福岡県旧筑前国地域に分布する。ジガンは神元・地官・神願・地願・氏神・仕官・侍官・次官、ジンガは神家・神和・神課・神裸などと表記し、定まったものはない。本来、ジガンは専門職としての神職とは違う地付きの祭祀者を意味し、ジンガは神と関わりのある家としての意味性が強く出ているものと考えられる。また、宮柱と呼ばれる一社一家の特別な祭祀者とジガンとの関係をもつ所もあり、北部九州の神社祭祀組織は単純ではない。このジガンやジンガによる祭祀組織は本来は株座であり、当屋制度をとる所が多い。また、その家筋は土地の草分けとか本家筋と呼ばれることが多く、神社の勧請に関わった家だとか、中世までその家筋が遡れるという伝承をもつ所もある。しかし、特権的祭祀集団であった株座は、近代になると地域全体の家が参画する村座へと変貌をとげた所が多い。このジガンやジンガ等の祭祀組織が行ってきた祭りの中には、杵築市の白鬚田原神社の「どぶろく祭り」や、国東市や豊前市等の「山人」「山人走り」の神霊を運ぶ神事などのように特色ある祭祀が存在する。In Fukuoka Prefecture and Oita Prefecture, people known as jinga and jigan, and miya-za called jigan-za perform religious services. This article focuses on specific examples to study the distribution, the contents, and the meaning of such services. Jigan is seen in Kitsuki City ( eastern part of Kunisaki Peninsula) and Nakatsu City (area of Yamakuni River) in Oita Prefecture, and the Keichiku area in Fukuoka Prefecture ( eastern part of former Buzen-no-kuni in Fukuoka Prefecture) , and jinga spreads in the Chikuho area and the eastern area of former Chikugo-no-kuni in Fukuoka Prefecture, and also in Beppu City in Oita Prefecture like an enclave. The miya-za is seen in the area of former Chikuzen-no-kuni in Fukuoka Prefecture. Jigan and jinga have various and unfixed forms of notation with kanji characters. Originally, jigan means a native person assuming religious services different from a Shinto priest as a specialist, and jinga has a stronger relationship with a god as a house. There is also a place called miyabashira with a relationship between a special person from one house assuming religious services in one shrine and jigan. Thus, organizations for religious services in a shrine in northern Kyushu are not simple. The organizations for religious services assumed by jigan and jinga are originally Kabu-za, and many of them adopt the to-ya system. The family lines of them are often called a pioneer of the region or a head family line, and there are also some legends that some families were involved with kanjo ( transfer of a divided divine spirit to other shrine) , or some family lines date back to the Middle Ages. Kabu-za was a privileged group assuming religious services. However, most of them were transformed into mura-za ( where all houses of the region were members) in the modern period. Among the festivals conducted by such organizations for religious services of jigan, jinga, etc., there are unique festivals such as the" Doburoku Festival" of Shirahige Tawara Shrine in Kitsuki City, and rituals to carry the divine spirit of" Sanjin" and" Sanjin Hashiri" in Kunisaki City and Buzen City.
著者
森山 聡之 中山 比佐雄 平野 宗夫
出版者
水文・水資源学会
雑誌
水文・水資源学会研究発表会要旨集
巻号頁・発行日
vol.26, 2013

平成24年7月に九州北部を襲った豪雨は、福岡県と大分県それに熊本県に大きな被害をもたらした。本研究は、国土交通省が試験運用を行ってるXRAINによる観測データを用いて、この豪雨の解析を試みた。その結果、XRAINはレーダ辺縁部では豪雨による減衰が顕著に観測された。しかし、レーダの中央部付近ではほとんど影響が見られないため、大分県側にもXバンドMPレーダを配置し、減衰を防ぐ事が望ましいと考えられる。
著者
甲斐 彩香 川田 菜穂子
出版者
一般社団法人 日本家政学会
雑誌
一般社団法人日本家政学会研究発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.66, 2014

<b>目的</b> 住宅金融における市場化や規制緩和,ライフコースの多様化や雇用の不安定化といった社会経済状況のもと,家計における住居費負担や住宅ローンの利用がどのように変化しているのかを明らかにすることを目的とする. <br><b>方法</b> 家計における住居費負担について,総務省が実施する全国消費実態調査や家計調査等の公刊統計を用いて,その動向を明らかにする.また,著者らが福岡県と大分県を対象に実施した住宅ローン利用世帯へのヒアリング調査をもとに,住宅ローン利用の実態とそのリスクについて検討する.<br><b>結果</b> 近年,住宅ローンを利用した住宅取得が拡大している.また1990年代以降,可処分所得に占める住居費の割合は徐々に増加しており,家計における住居費負担が高まっている.住宅ローン利用世帯の事例分析からは,多くの世帯が,低金利であることを理由に変動金利型の住宅ローンを選択していること,頭金なしの住宅取得を経験していること,住宅取得後に所得の低下を経験していることなどが明らかになった.また,完済年齢が高齢期におよぶが,繰り上げ返済が計画的に実施されていない事例が多いことも明らかになった.住宅ローン利用のリスクは拡大している。
著者
岡田 泰介
出版者
高千穂大学高千穂学会
雑誌
高千穂論叢 = THE TAKACHIHO RONSO (ISSN:03887340)
巻号頁・発行日
vol.51, no.4, pp.41-66, 2017-02-25
著者
北岡 和代
出版者
医学書院
雑誌
精神看護 (ISSN:13432761)
巻号頁・発行日
vol.16, no.5, pp.66-75, 2013-09
著者
江川 美紀夫
出版者
亜細亜大学
雑誌
亜細亜大学国際関係紀要 (ISSN:09173935)
巻号頁・発行日
vol.15, no.2, pp.81-105, 2006-03
著者
福岡 義隆 丸本 美紀
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集
巻号頁・発行日
vol.2015, 2015

1.はじめに<br> 日本では福井(1933),関口(1959)の区分をはじめ,鈴木(1962)や吉野(1980)らによる種々の気候区分図が考案されているが,各種の気候図にみる瀬戸内気候の範囲は微妙に異なっている。瀬戸内沿岸はGISによる環境容量図などでも特異な位置づけにある。しかし,瀬戸内気候についての定量的な評価はいまだされてない。本研究では福井英一郎(1966)による地中海気候発達度の計算法に倣って瀬戸内気候の発達度を算出することを試みた。一方,ローマやギリシャなどの高度な文明を生んだ地中海気候のように,奈良や京都の古代文明が瀬戸内気候のたまものかどうかを再認識するために,奈良と京都の瀬戸内気候度を求めることを試みた。局地気候災害的には旱魃の奈良の方が洪水の京都よりも瀬戸内気候度が高いと予想される(丸本,2014)が,そのことを確証付けてみたい。本研究の真の目的は福井気候学の哲学を再考・再興することにもある。<br>2.&nbsp; 研究方法<br> 福井英一郎編著『日本・世界の気候図』(1985)のうち,年平均散乱比図,年降水量図,年合計流出高図,郡別干害率図の4図における瀬戸内気候区の範囲(瀬戸内海沿岸線に平行に走る等値線など)を重ね合わせてみた。次に,『The Climate of Japan』(Ed.E. Fukui, 1977)に掲載されている気候区分図(関口武による図,1959,ソーンスウエイト法による気候区分図,1957)と対照させ,瀬戸内気候区の範囲を特定してみた。それらの定性的な分布をより定量的に評価するための福井(1966)の地中海発達度における三角関数を適応させてみた。瀬戸内沿岸では夏季の降水量に対して8月降水量がかなり少ないという特性から考えて,本研究では地中海気候発達度のtan&theta;を6-8月降水量R<sub>s</sub>に対する8月降水量R<sub>8</sub>の比で表わした。対象地域については,福井,岐阜,名古屋,津,和歌山,奈良,大阪,彦根,京都,神戸,岡山,広島,米子,松江,下関,高松,松山,徳島,高知,福岡,大分の21地点を選び,各地方気象台における各月降水量の1954~2014年平均値を使用した。m=瀬戸内気候度,&nbsp;<br> 3. 研究結果<br>関口の気候区分図では奈良盆地が瀬戸内気候区内,京都盆地は区外となっている。4つの気候要素の等値線は第2図のとおり瀬戸内気候区分内に収まっている。<br>&nbsp;瀬戸内海沿岸の主要都市の瀬戸内気候度mについては,値が大きい順に松山92.3,広島91.6,大阪・岡山・神戸・下関で90.0であった。奈良のmは87.3,京都は86.4であり,瀬戸内気候度は,奈良盆地が京都盆地よりも大きく,すなわち奈良の方がやや夏乾燥であることが示された。
著者
立石 健 井手尾 寛 岸岡 正伸
出版者
日本水産工学会
雑誌
水産工学 (ISSN:09167617)
巻号頁・発行日
vol.33, no.3, pp.219-224, 1997-03-01
参考文献数
11
被引用文献数
1

アサリは、山口県瀬戸内海側の重要な水産物の一つで、昭和62年頃までは一時期を除き、5000トン以上の安定した漁獲量があった。最高は昭和58年で8557トン(海面漁業の)10.0%、21.1億円)を示したが、近年の資源の枯渇から漁獲量は激減し、平成6年には965トン(同4.4%、5.9億円)まで低下した。一方、山口県ではアサリ資源が安定していた時期から、増殖場造成事業、漁業保全事業、資源管理事業等を実施してきたが、アサリ資源の維持増大にはまだ効果が見られず、昭和60年前後から全国的に続いているアサリの漁獲量減少は山口県でも同様である。アサリ資源減少の原因究明と対策が全国的に講じられているが資源減少を加速している要因の一つに、山口県では県外からのアサリ移植量の減少も考えられる。以前は主生産地であった熊本、福岡、大分の九州3県が軒並み資源減少したことにより、山口県への搬入が激減したうえ、種苗の質もかなり低下している。当県が必要とする移植長量(資源安定時十数億個、現在数億個)の大部分を人工種苗で補完しようという考えはないが、アサリ資源の回復を図る事業の一つとして、平成6年から5年間の県単独事業の「アサリ放流技術開発研究事業」に入った。まだ2年間実施したところで、放流技術の開発までは進んでいないが、種苗の量産や中間育成については、若干の知見が得られたのでここで報告する。
著者
清川 紘二 桜井 国俊 Kiyokawa Kouji Sakurai Kunitoshi 法政大学沖縄文化研究所 沖縄大学人文学部
出版者
沖縄大学人文学部
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 = Journal of the Faculty of Humanities and Social Sciences (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
no.15, pp.61-68, 2013-03-15

本稿はアジア・太平洋戦争下で行われた日本政府・朝鮮総督府による朝鮮人被強制連行者、徐正福氏の2度(2006 年12 月、2007 年4 月)にわたるインタビューからの抜粋である。農民であった徐さんは1944年6月に慶尚北道達城郡嘉昌面の自宅で拉致され、沖縄県宮古島に連行された。宮古に上陸後は、軍夫として艦船からの荷物の揚陸作業を行った。徐さんは3000 人の強制連行者のうち唯一の日本語のできる朝鮮人であったため、軍夫長と言う重要な役職につき、軍隊と軍夫との通訳等も行った。宮古における軍夫の使役の状況、米軍爆撃の様子、日本軍人による差別、朝鮮人慰安婦のエピソード等についての詳細な口述は、沖縄における朝鮮人軍夫の状況をよく伝えている。徐さんの語りは、2006 年6月沖縄大学で講演した被強制連行者、姜任昌氏(慶尚北道英陽郡出身)による阿嘉島からの報告とともに、朝鮮人強制連行史における宮古島の空白のページを埋める貴重な証言である。
著者
下野 寿子
出版者
北九州市立大学国際教育交流センター
雑誌
北九州市立大学国際論集 (ISSN:13481851)
巻号頁・発行日
no.14, pp.97-116, 2016-03

本稿は、近年の訪日ブームが日本の地域社会にどのような影響を与えるのかについて、福岡の状況ならびに熊本県を中心に考察し、地域社会が新たな段階の国際化に挑戦する上での課題を指摘する。初めに日本政府の観光立国戦略の経緯と訪日ブームの状況ならびにブームを牽引する要因について、ビザ発給要件の緩和と免税対象範囲拡大を中心に紹介する。次に、九州での訪日ブームの実態について、福岡一極集中型の構造を指摘しながら紹介する。・・
著者
早川 博文 高橋 弘
出版者
日本衛生動物学会
雑誌
衛生動物 (ISSN:04247086)
巻号頁・発行日
vol.28, no.4, pp.389-392, 1977

福岡と大分の県境に位置する英彦山で, 1948年, 宮本正一教授によって採集された標本について, 新種Haematopota hikosanensisヒコサンゴマフアブを記載した。本種はH. toyamaensis Watanabe, Kamimura and Takahasiに酷似するが, 明瞭な額の中央斑およびほぼ円形の側斑, 背縁が真直ぐな触角基節, 小楯板上の灰色斑, および腹部背面の各節は縁帯を欠き, 全体が暗褐色であることにより, 容易に区別される。
著者
園田 尚弘
出版者
長崎大学教養部
雑誌
長崎大学教養部創立30周年記念論文集(Bull. Faculty of Liberal Arts)
巻号頁・発行日
vol.35, pp.147-156, 1995-03-27

ベンヤミンとヘッセルにとって二つの首都、パリとベルリンは生活のうえでも、作品のうえでも、決定的に重要な都市であった。ベンヤミンは未完の『パサージュ論』でパリととりくんだ。この作品は成立史的にみても、形式の面からみてもかれの作品を包括するものであった。ベンヤミンの作品の形式は神話的思惟と関係する敷居論とみなすことができる。『パサージュ論』の全体構想にも、遊歩者という個別のテーマにも敷居論の性質がみうけられる。ヘッセルは『ベルリン散歩』のなかでかれの遊歩論を展開している。ベルリンは遊歩に不適な都市であるが、ヘッセルは人間愛からこの術を学ばねばならないと主張する。偉大な「敷居学者」と評された著者の作品には、敷居に対する感覚が浸透している。