著者
村井 秀夫 松尾 信一
出版者
信州大学農学部
雑誌
信州大学農学部紀要 (ISSN:05830621)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.p245-257, 1974-12

Nagano-ken (Shinano no kuni) was very famous for a horse breeding area in Japan. In January 1972, an old scroll of horse medicine was found from an old family, the Sasakos, at Komagane, Nagano-ken. The scroll was copied in 1710 from the original by Harimano-Kami Ansai in 1579. The basic feature of the scroll is founded on the traditional Chinese horse medicine and Buddhism. It has several sections. First; the summarized graph of the Chinese five natural elements such as fire, wood, earth, metal and water. Second; the anatomical charts of the five parenchymatous organs and six viscera, the pictures of a horse body, horse's face, Buddha's face, the five storied stone Pagoda (Stupa) and [ア] (sanskrit). These are divided respectively by the five colors (blue, red, white, black and yellow), and the parts of the same color of each picture are connected with a same color line. Third; explanatory notes and diagrams of interrelationships of seasons, the old calender, Buddhism, the body and diseases with the five natural elements. Fourth; two pictures of the horse body show points for acupuncture. Fifth; the aim of the arrangement of this scroll was to summarize concisely from the Ankishu (the name of Chinese horse medicne). Lastly; names of authorized scholars of this School, The founder was Memyo Bosa-tsu (Asvaghosa) in India. Successors; Sanzo priest in Tang (China), Funsen (a Japanese Buddhist priest) etc. , and the scroll was kept in the Ansai School. The scroll shows that one horse medicine in Japan was brought directly from China.
著者
小川 勇二郎 黒澤 正紀 平野 直人 森 良太
出版者
日本地球化学会
雑誌
日本地球化学会年会要旨集
巻号頁・発行日
vol.55, pp.303-303, 2008

陸上のオフィオライト・スイーツには島弧のシグネチャーを持つものが含まれ、また現在の島弧前弧域にもオフィオリティックな岩石が現出することから、オフィオライトの多くは島弧で形成されたものと信じられている。ある条件下で島弧の前弧域がスプレッディングを起こし、そこに拡大軸ができていわゆる拡大海嶺的なまた島弧的なセッティングが生じる、とのモデルは多いが、その実体に関しては推測の域を出ない。SSZ ophiolite, forearc ophioliteなどとされるものは次のどれかに属するか、その組み合わせである。1)沈み込みが開始した部分のかつての大洋プレートのリムナント(つまり島弧のできる前の大洋プレート)、2)島弧がその火山フロントから裂けて発達するときに、前弧へ押しやられた古い島弧部分、3)島弧そのもの、特にその発達初期に活動を停止したもの、4)別の場所にあったものが、島弧の発達とともに前弧域にもたらされたもの、5)島弧とは全く無関係の大洋側のプレートが、沈み込み帯へトラップされたもの(オブダクションを含む)、6)拡大海嶺の沈み込みやロールバックによって前島弧その場所に、in situで噴出・エンプレイスしたもの。7)背弧のもの。これらにエンプレイスメントのプロセスやメカニズム、発達順序などを組み合わせると、さまざまなセッティングがありうる。たとえば、島弧の火山フロントからはかけ離れた場所にある例(タイタオ;Espinosa et al., 2005 Island Arc)や、拡大海嶺近傍から次の沈み込みが始まって、結果的に拡大軸に島弧のものが重なった例(オマーンなど)もあり、改変(あるいは改編)という用語は適当だろう。われわれは房総半島嶺岡帯の例について以下のような知見を得たので、伊豆島弧の発達史からのアナロジーを展開したい(Hirano et al., 2003 GSLondonSpecPub; Ogawa & Takahashi, 2004 Tectonophysics; Mori et al., 2008 GSASpecPap, submitted)。房総沖には世界的にもまれなTTT-type triple junction(房総三重点)が存在し、それに関連した島弧-島弧の衝突が生じていると考えられる。このセッティングは"trinity clastics"(オフィオリティック、島弧、大陸由来の三者混合の砕屑岩)(Mori et al., 2008 GSASpecPap, submitted)の存在から、中期中新世からのものであろう。それはまた、四国海盆の拡大末期における日本海の観音開き、南部フォッサマグナの火山活動、伊豆弧の衝突開始などに符号することから、日本列島が現在の形となった時期に一致する。嶺岡帯は、基本的には四万十帯の延長であろうが、そのオフィオリティックな岩石と付随する地層・岩石群は、西南日本の一般の四万十帯に現れるものとは、産状などが根本的に異なっている。玄武岩はtholeiiteを主とし(MORBを主とするが、IATもある。すなわちフラットなスパイダーグラムで特徴的ないわゆるMORBタイプが多いが、一部にNb-Taがネガティブなアノマリーを示す島弧的なものが含まれる)、またwithin plate (A)のドメインに入るalkali basalt(petit spotかもしれない)もある。玄武岩は枕状溶岩からなり白亜紀(80Ma)から中新世(20Ma)までにわたる。斑レイ岩の大半は島弧的であるがMORB的なものもあり、ほかの玄武岩質岩類とともに熱水変質、マイロナイト化、ブレッチャ化など、拡大軸やトランスフォーム(コアコンプレックス)などに類似する変形・変質を受けている。時代的変化としては、明らかに島弧的な岩石は40Maころから普通になり(トーナライト、安山岩、ボニニティック(28.6+/-5.1Ma)など)、最後は15Maころののフォッサマグナ・グリーンタフと共通の安山岩のパミスフォールで終了し、相前後して形成される付加体である中新世前期(23Ma)以降の保田・江見層群には伊豆島弧由来の火山岩が顕著となる。以上のような状況からは、嶺岡帯のオフィオリティックな岩石は白亜紀から古第三紀のある時期までの大洋プレート(Ogawa & Taniguchi, 1988 Modern Geology; 佐藤暢ほか, 1999地学雑らの「嶺岡プレート」)と、40Ma以降の島弧的な玄武岩ほかの混合したものである蓋然性が高い。また、結晶片岩ブロック(4個)の存在も見逃せない。現在の伊豆・マリアナ弧には、1)30Ma以前のトランスフォーム断層(四国・パレセベラベイスンの最初の境界)に沿う大町海山には片状アンチゴライト蛇紋岩に伴って角閃岩相の結晶片岩が産する(Ueda et al., 2004 Geology)。2)島弧最前縁には、蛇紋岩ダイアピルが多産し、ブルーシスト、チャート(白亜紀)などが産する(Maekawa et al., 1995 AGUGeophMonog)、3)母島海山には、蛇紋岩、斑レイ岩、玄武岩などいわゆるforearc ophioliteが産する(Ishiwatari et al., 2006 Island Arc)。以上のような現在の産状をすべて組み合わせると、嶺岡帯の岩石を説明可能かもしれない。今後、すべての岩石の徹底的なケミストリー(同位体を含む)、年代測定、産状の考察が必要である。
著者
タレク・ウディン モハメッド 濱田 秀則
出版者
公益社団法人 日本コンクリート工学会
雑誌
コンクリート工学 (ISSN:03871061)
巻号頁・発行日
vol.46, no.4, pp.23-26, 2008
被引用文献数
1

コンクリート中の鉄筋の腐食は, コンクリートの専門家 (研究者, 技術者) にとって, 鉄筋コンクリートの耐久性を阻害する主要因として共通の関心事項である。この問題に関しては古くから数多くの研究が実施されてきた。しかし, 実際の構造物において鉄筋の腐食がどのように進行するのかを正確に把握するための一手法として, 長期暴露試験の意義は大きく, 構造物の耐用年数を正確に評価するための基礎的かっ重要なデータを得ることができる。このような背景に鑑み, 本文においては, これまでに筆者らが実施してきた長期暴露試験より得られた, 中性化による鉄筋の腐食および塩化物イオンによる鉄筋の腐食に関するいくつかの貴重な結果を取りまとめるものである。これらの結果は, また短期間に実施する促進試験の結果と比較する意味でも貴重なものである。
著者
夢の花 [ユメ ノ ハナ]
出版者
龍南會
雑誌
龍南會雜誌
巻号頁・発行日
vol.148, pp.26-26, 1912-12-20
著者
上田 武志 岩崎 泰典 按田 正樹 箙 一之
出版者
公益社団法人日本船舶海洋工学会
雑誌
関西造船協会論文集 (ISSN:13467727)
巻号頁・発行日
no.243, pp.1-7, 2005-03-25

"SEA-Arrow", developed by Kawasaki Shipbuilding Corporation, is an advanced new bow form for medium-speed ships such as LPG carriers. The bow end form of SEA-Arrow around the loaded draught is much sharper than that of conventional hull ships. With SEA-Arrow, bow waves are greatly reduced in loaded condition compared with conventional hull ships. Model tank test results show that SEA-Arrow can reduce the wave resistance to a half and the required main engine horsepower by 6-10%. On the other hand, the superiority of SEA-Arrow ships' propulsive performance in loaded condition cannot be verified in sea trial because actual ships' speed tests in sea trials are generally carried out in ballast condition except oil tankers. Therefore, the authors have analyzed, to confirm the high propulsive performance of SEA-Arrow ships, the voyage data of three SEA-Arrow ships and one conventional hull ship, which are sister ships of 59,200m3 LPG carriers. The results show that the propulsive performance of the SEA-Arrow ships is superior to that of the conventional hull ship and that its analyzed speed advantage agrees with the estimate from the model tank test results.
著者
何 享健
出版者
日経BP社
雑誌
日経ビジネス (ISSN:00290491)
巻号頁・発行日
no.1112, pp.38-40, 2001-10-15

問 美的集団は小さな郷鎮企業から出発し、今や売上高105億人民元(約1575億円)に達する中国有数の家電メーカーに成長しました。かつて、中国経済の主役は国有企業でしたが、近年は民営企業の躍進が目立ちます。美的の経営は、国有企業とはどのような点が違っていたのでしょうか。 答 国有企業との違いは、国家の支援を受けていないということです。
著者
山本 健兒
出版者
法政大学
雑誌
経済志林 (ISSN:00229741)
巻号頁・発行日
vol.69, no.4, pp.271-302, 2002-03-28
被引用文献数
3

The chief aim of this paper is a reexamination, within a Japanese context, of the "learning region" concept. Since the mid l990s, this concept has often been employed in the economic geography of the Western World, where it generally focuses upon industrial clusters of high-technology small and medium-sized enterprises (SMEs) under the pressure of economic globalization. However, the same concept can also be applied to the middle-tech and low-tech manufacturing industries in the l970s. A concrete instance is aptly provided by the Suwa-Okaya district of Nagano Prefecture in Japan. In this region, after World War II, precision machine industry was developed, followed in the l970s by micro-electronics industry for office instruments; together, both SMEs and larger corporations learned technologies and skills of NC (numerically controlled) machines with and from each other. The Precision Technology Research Institute of Nagano Prefecture played an important role for the establishment of the NC Technology Research Association, in which over fifty corporations took part; more than half of them were based in the Suwa-Okaya district. Through the activities of the association, participants could obtain knowledge of NC machines. At first, the skills accumulated in individual firms as tacit knowledge, which, in the course of association activities, was transformed to codified knowledge. With the collaboration of a machine manufacturer located outside the district, one of the participating SMEs contributed to innovations of NC lathe technology. In l982, due to diffusion and skill development among SMEs in Nagano Prefecture, the association was dissolved. But the same year saw the birth of its successor: a new association, which continues its activity today. The sustainability of the Suwa-Okaya district as an industrial cluster can, at least in part, be attributed to the network of local corporations.
著者
大槻 義彦
出版者
The Japan Society of Applied Physics
雑誌
応用物理 (ISSN:03698009)
巻号頁・発行日
vol.56, no.4, pp.438-441, 1987

昭和35年頃から,大学院修士課程の学生数は急激に増加した(およそ5倍以上).これに伴って,修士課程の硫究室は今や「サロン」と化し,「余計で余分な」学生生活の場となってしまった.院生は,わが国の学校制度の中で,最も優維で最後の学生生活を過ごす.しかも,大学の指導教宮・教員は,今になっても,修士課程に対し,甘い夢を拾て切れないでいる.
著者
好井 久雄 多山 賢二
出版者
Brewing Society of Japan
雑誌
日本醸造協会誌 = Journal of the Brewing Society of Japan (ISSN:09147314)
巻号頁・発行日
vol.100, no.5, pp.310-338, 2005-05-15

平成16年の味噌の研究業績を見ると, その約三分の一が「味噌の機能性」に関わる研究であることに注目される。つまり,「味噌の良さ」の見直し的研究成果がかなり多く報告されている。これらを前向きの研究開発として発展させ, 精力的に研究開発が進められれば一層素晴らしい果実を期待できよう。味噛の品質やその性状は, 時代とともに変わり得るものであろう。新しい時代やニーズに適応した味噌の改良・改善が積極的に行われ, 高付加価値を有する新しいタイプの味噌の出現が待たれる。本年の一層の研究開発の進展と業界の発展を期待したい。<BR>原料処理に際し副生する, 廃棄物を再利用し収率を上げると同時に, 環境汚染を防こうとの考えがある。新規の製造法としては食酢を電気分解し刺激臭の少ない食酢が得られた。以前は混合菌での発酵が主であったが, 近年は菌名の分かった菌を使用するようになった。良い例がアセトバクターとグルコノバクターを同時混合して製酢を試み, 両菌周辺の酸化能の高い遺伝子をクローニングし, その酵素の存在を確認した。昨年はバルサミコ酢の分析が行なわれたが, 食酢の機能性の報告が少なかった。
著者
高橋 清
出版者
太成学院大学
雑誌
太成学院大学紀要 (ISSN:13490966)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.97-102, 2012-03

本研究は2010年8月28日〜9月26日まで開催された,関西学生バスケットボールリーグ戦4部Bリーグの上位4チームの対戦した6試合を対象とし,オフェンスの攻撃形態が試合にどのような影響を及ぼすのかを,ファースト・ブレイク,セット・オフェンスについてそれぞれ比較し,分析を試みたものである。その結果,対象4チームにおいてファースト・ブレイクの試行回数が多く,成功の割合が高い数値を示し準成功率が低い数値を示した場合,試合の勝敗に影響を及ぼすことが認められた。セット・オフェンスにおいては,攻撃形態を5種類の動作に分類し集計した結果,各チームの特徴がみられた。太成学院大学は「drive」からディフェンスを崩すし,そのプレイにインサイドプレイヤーが「合わせ」というコンビネーションプレイが多かった。この結果は,太成学院大学の競技レベルを把握できるとともに,今後の練習プログラムの設定やコーチングに役立つと考えられる。
著者
渡辺 言夫
出版者
杏林医学会
雑誌
杏林医学会雑誌 (ISSN:03685829)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.127-132, 1980

痘瘡が世界から撲滅され, 種痘の定期接種がなくなった今, 最も副反応の多いワクチンは百日咳ワクチンとなった。副反応のため一時中止されていたが, 百日咳が流行したため再開された。副反応を恐れて2歳から開始することになったが, 乳児の重症百日咳も多いために安全なワクチンを求める声が高まり, 改良百日咳コンポーネントワクチン(改良百日咳ワクチン)が生まれた。われわれは現行ワクチンと改良百日咳ワクチンの副反応を比較し, 改良百日咳ワクチンが非常にすぐれていることを確認した。特に母親が最も心配し, 熱性痙攣の原因となる発熱が約1/10に減少したことが注目され, 抗体上昇も十分であることから, 定期接種に採用されるべきワクチンと考える。
著者
伊ヶ崎 泰枝
出版者
広島大学フランス文学研究会
雑誌
広島大学フランス文学研究 (ISSN:02873567)
巻号頁・発行日
no.34, pp.50-64, 2015

Femme de théâtre, Simone Jollivet s'est liée d'amitié avec Simone de Beauvoir et Jean-Paul Sartre – d'une amitié qui dura jusqu'à la fin de leur vie. Libertine depuis sa jeunesse, Simone Jollivet « avait l'éclat d'une héroïne de roman ».Dans les années 1930, Beauvoir entreprend de créer des personnages qui prennent modèle sur des femmes comme Zaza, Mme Morel et Jollivet. Dans les chapitres inédits de L'Invitée, le personnage d'Élisabeth Labroux, lycéenne prétentieuse qui adore Nietzsche, emprunte ainsi certains traits de caractère de Simone Jollivet.À partir du deuxième volume des Mémoires, La Force de l'âge, Beauvoir dépeint, à travers le personnage de Camille, la vie prodigieuse de cette femme : son ambition littéraire, l'échec de sa carrière théâtrale, son ralliement au nazisme et sa dépendance à l'égard de l'alcool. Comparés aux descriptions nébuleuses de Cosima et d'Anny dans les romans de Sartre, Une défaite et La Nausée, autres héroïnes que Simone Jollivet a inspirées, les charmes de Camille sont détaillés en des termes concrets qui caractérisent son excentricité et sa vulgarité. Les écritures des deux écrivains composent ainsi de multiples facettes complémentaires.Si Beauvoir rend compte avec précision des tentatives romanesques chez Simone Jollivet – Le Lierre, Les Histoires démoniaques et L'Amour par intérêt, œuvres d'« inventions infantiles » qui n'ont pas vu le jour –, c'est qu'il s'agit de donner un exemple de ces activités créatrices souvent problématiques chez les femmes : l'un des thèmes cruciaux de la romancière et essayiste. Beauvoir s'intéresse également à la chair de Jollivet détériorée par l'alcool : la destruction du corps féminin est un autre thème fréquent chez l'auteur. Enfin, l'opportunisme dont a fait preuve Jollivet aspirant à la renommé sous l'Occupation, en tant que maîtresse de Charles Dullin, revêt des éléments historiques importants. L'exploration du vide et de la faiblesse originelle de Simone Jollivet génère ainsi le personnage le plus pittoresque des Mémoires.
著者
中川 正弘
出版者
広島大学フランス文学研究会
雑誌
広島大学フランス文学研究 (ISSN:02873567)
巻号頁・発行日
no.34, pp.65-85, 2015

Pour le titre du septième chapitre de ce livre, Barthes a choisi les deux mots sans article : « Écriture et révolution ». Et à la suite, pour le huitième, il en a combiné un mot-clé, le récurrent « écriture » avec un autre mot focalisé, « silence ». À propos de ces deux juxtapositions, on a la même impression de banalité. Cependant on pourrait se demander pourquoi Barthes n'a pas repris le style sans article, « Écriture et silence », mais a opté pour le style avec article, « L'écriture et le silence ». Le style qui ne se répète pas, nous semble-t-il, est paradoxal, puisque la répétition est à la base du « style ». L'indécision de Barthes nous montre un de ses aspects, sa facette pensive.Il en est ainsi de ses présentations doublées avec deux termes différents, comme « l'existence d'un troisième terme, terme neutre ou terme-zéro » et autres. Barthes se sert souvent du conjonctif « ou », non pour la séléction des objets, mais pour celle des termes possibles qui se référencient à l'unique image-objet. Les traducteurs japonais les ont traités à tort comme des objets juxtaposés.D'autre part, des syntaxes anormales, avec échange du rôle qualitatif pour un nom et un adjectif, sont fréquentes chez notre auteur : quand il écrit « l'instrument formel », on pourrait comparer cette syntaxe avec une autre, absente mais potentielle, « la forme instrumentale ». Mais peut-être, n'importe guère la différence entre la syntaxe que Barthes a choisie et celle habituellement sous-jacente. Les deux formations réversibles nous font sentir l'image-objet qu'aucune des deux ne peut pas représenter exactement. C'est la meilleure, voire unique façon d'appréhender l'objet réel qui n'existe pas dans les signes.Ce chapitre montre la combinaison de « l'écriture » et du « degré zéro » comme « l'écriture au degré zéro », une seule fois, excepté l'introduction écrite sûrement après tous les arguments substantiels. Cette syntaxe devrait être comparée au titre de ce livre, « Le degré zéro de l'écriture ». De même, ces deux syntaxes laissent en suspens une interrogation logique : laquelle est plus désirée et essentielle ? Les lecteurs japonais se sentent d'autant plus confus que l'arrangement syntaxique japonais est à l'opposé du français.補遺 p.S-1~p.S-22
著者
田地 志帆
出版者
広島大学フランス文学研究会
雑誌
広島大学フランス文学研究 (ISSN:02873567)
巻号頁・発行日
no.34, pp.29-39, 2015

Dans le chef-d'œuvre de Marivaux, Le Jeu de l'amour et du hasard, Monsieur Orgon est le père généreux de Silvia, l'héroïne de cette comédie. Bienveillant, il laisse sa fille libre de choisir et lui permet de se travestir. Mais ce n'est pas dans le seul but qu'elle fasse un mariage heureux, c'est aussi pour se divertir du stratagème qu'elle a monté. En espérant qu'il arrivera quelque chose d'imprévu et d'amusant, il accepte cette intrigue identique à celle de Dorante, le prétendant de Silvia. Cependant, il faut éviter la mésalliance qui rabaisserait son niveau social ; il devient donc le metteur en scène de cette comédie. Par son comportement, ses suggestions ou encouragements, il manipule les actions et les amours des quatre personnages afin de mener l'affaire vers un heureux dénouement.Mario également, quand il taquine Silvia pour lui faire remarquer son affection pour Dorante, a une influence sur la psychologie de sa sœur, ce qui la pousse à agir en conséquence. Et M. Orgon et Mario sont les seuls à comprendre la situation des quatre travestissements. Ils partagent entre eux ce secret et en jouissent. Mais, Marivaux a placé M. Orgon à un niveau supérieur par rapport à Mario. Ce dernier le rôle que lui a attribué son père et reste l'un des acteurs d'une comédie interne à la pièce. Collaborateur du metteur en scène, Mario intervient entre les protagonistes et les aiguillonne pour que l'intrigue imaginée par son père se déroule selon le plan prévu.En dehors du scénario ou de la mise en scène, la réalisation d'une comédie idéale repose sur le jeux des acteurs. Cependant les acteurs ne suivent pas toujours l'idée du dramaturge. Se rapprocher de l'idéal demande une double direction : l'une menée de l'extérieure, par le réalisateur, et l'autre de l'intérieure par un acteur doué. Ici M. Orgon adopte des traits de l'impromptu pour en tirer un jeu plus naturel et plus vif. En laissant une liberté limité aux protagonistes, il les conduit selon son canevas en collaboration avec le meilleur acteur, Mario.En conclusion, on peut se demander si Marivaux n'a pas, de la sorte, pensé qu'il fallait coopérer avec des acteurs compétents pour faire de sa pièce une comédie idéale, vivace comme l'impromptu.
著者
杉山 毅
出版者
広島大学フランス文学研究会
雑誌
広島大学フランス文学研究 (ISSN:02873567)
巻号頁・発行日
no.34, pp.1-15, 2015

Ce printemps 2015, j'ai appris incidemment que Raymond JEAN était décédé le 3 avril 2012 dans le Vaucluse, à Gargas, à l'âge de 86 ans.Grand universitaire, il a d'abord été assistant à l'Université de Rennes, puis à celle de Philadelphie , en Pennsylvanie. Il a aussi passsé deux annnés respectivement au Viêt-Nam et au Maroc avant de devenir professeur de littérature française moderne et contemporaine à l'Université d'Aix-Marseille. Écrivain fécond, Raymond JEAN est également considéré comme un spécialiste des études poétiques ; il a publié des essais notamment sur Nerval, Lautréamont, Apollinaire, Éluard et René Char.Bien que toujours proche du parti communiste, il était avant tout "compagnon dedoute", comme il le disait dans son livre intitulé La Terre est bleue.De nombreux pays, dont le Japon en 1983, l'avait invité en tant que missionnaire culturel et je l'avais accueilli même à Hiroshima à l'occasion de sa conférence sur le nouveau roman, qui était en vogue à cette époque.En ce qui concerne le romancier Raymond JEAN, il y aurait beaucoup à dire. Auteur de plus d'une dizaine de romans, Les Ruines de New York, Le Village, La conférence, La fontaine obscure et L'or et la soie, entre autres. Son œuvre littéraire, marquée de la technique romanesque du nouveau roman, pourrait se classer en deux catégories: engagée ou dégagée.Un fantasme de Bella B. et autres récits, couronné par le prix Goncourt de la nouvelle, marque le début de sa création d'ouvrages fantastiques,teintés d'érotisme mais avant tout ludiques selon lui. Il en a été ainsi jusqu'à la fin de sa vie comme en témoigne son dernier ouvrage : Légère et court vêtue ou Lubies en Luberon.Au regard de son histoire personelle et de sa création romanesque, qu'il soit permis, à un fidèle lecteur de son œuvre, de rendre très tardivement, d'un pays de l'Extrême-Orient, un sincère hommage à ce regretté professeur et écrivain qui aimait profondément la Provence, son pays natal.
著者
阿部 宣男 稲垣 照美 木村 尚美 松井 隆文 安久 正紘
出版者
Japan Society of Kansei Engineering
雑誌
感性工学研究論文集 (ISSN:13461958)
巻号頁・発行日
vol.3, no.2, pp.41-50, 2003
被引用文献数
2 5

The fantastic light of firefly, which keeps fascinating the heart of Japanese from ancient time, and the ecosystem, are taken up as one of cure fields being benefit from the nature. In this study, from the viewpoints of semantic differentials and engineering, we focused on the light of firefly, and we examined whether they cause the human spirit any effects or not. It was possible to find for welfare utilizations that there is the high possibility that a sufficient cure effect exists in the light emission pattern of firefly and the ecosystem. This research is the first basic trial turned to the creation of cure space for hospices and welfare facilities, which utilize the firefly and the mini ecosystem artificially modeled in an enclosure.