- 著者
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荒木 一視
- 出版者
- The Association of Japanese Geographers
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- pp.100002, 2015 (Released:2015-10-05)
報告者は日本の近代化を担った工業労働者に対する食料供給はどのようにして担われたのかという観点から研究を進めてきた。その過程で,米の海外植民地依存が都市労働者の食料供給を支えたことが浮かび上がってきた。特に朝鮮からの米移入の重要性は際立っている。その反面,朝鮮の農民への食料供給はどのようにして担われてきたのかという関心は決して高くなかった。 戦間期の東アジアを巡る主要な食料貿易としては①朝鮮から日本(内地)への米,②台湾からの米,③同様に台湾からの砂糖,④満洲からの大豆等がよく知られており,それらに関する先行研究も多い。実際,1932年には①が約108万トン,②が約51万トン,③が約80万トン,④が46万トンなどとなっている。戦間期を通じて米需要全体の1~2割程度がこれら植民地から供給され,内地の食料需要を支えた。これに対して,朝鮮農民の食料需要がどのようにして支えられたのかに着目したとき,22万トン(1932年)もの輸入量がある満洲から朝鮮向けの粟貿易が重要な役割を果たしているのではないかと考えた。戦後,十分な議論がなされたとはいえない満洲から朝鮮に送られた粟に焦点を当てて,そのフードチェーンの解明に取り組んだ。(本報告は戦間期の統計に基づいた研究であり,朝鮮や台湾は当時の植民地の呼称として使用した。同様に満洲や奉天(瀋陽)などの標記についても,もととなる統計に従って,そのまま使用した。) 戦間期の朝鮮・満洲間の貿易は「満洲国」建国以前の1932年までのそれ以降に大きく分けることができる。それ以前の1920年代を中心とした時期は,満洲から朝鮮への輸入が卓越する時期,それ以後は逆に満洲向けの輸出が卓越する時期である。前者の時期には粟,柞蚕生糸,豆粕,木炭,石炭などの輸入品,後者の時期には,金属,薬剤,車両,木材,衣類などの輸出品が主力であったが,期間を通じて最大の貿易額を維持したのが粟で,輸入額1千万円を超える品目は移輸出入を通じて他にはない。 この時期の満洲の主要な貿易港は,大連,営口,安東(丹東)の3港であり,大連は最大の貿易量を誇り,営口は主として中国との貿易,安東は朝鮮との貿易を担った。安東と鴨緑江を挟んで向かい合うのが朝鮮側の新義州で,ここが朝鮮側の対満洲貿易の主要貿易港となった。なお,貿易港とはいうものの貿易量の大半は鴨緑江橋梁を利用した鉄道によるものである。1911年の同橋梁の完成により京義線(京城・新義州)と安奉線(安東・奉天)が連結され。貿易の中軸を担うようになった。 『新義州税関貿易概覧』による1926(昭和1)年と1939(昭和14)年の食料貿易状況は以下の通りである。1926年の輸出では魚類,果実,1939年では米,りんご,1926年の輸入では粟,1939年では粟,黍,コウリャン,蕎麦,大豆,小豆が主用品として取り上げられている。 まず輸出品であるが,1926年の魚類はシェア5割の釜山を最大の産地とし,仕向先は大連と奉天でほぼ5割を占め,それに安東や撫順が続く。果実では黄海道のリンゴ産地,和歌山県のミカン産地から安東向けが中心である。1939年の米は平安北道各地から安東,奉天,ハルピンさらに天津に仕向けられている。リンゴは黄海道や平安南道から安東,奉天,ハルピン,新京向けが中心となる。いずれも主要な農業産地や有力漁港から満洲の大都市向けに輸出されている。 次に輸入品であるが,両年を通じて粟は四平街や奉天など京奉(新京・奉天)線沿線各地を中心として,ハルピンや通遼,白城子など満洲各地から集荷され,朝鮮各地に仕向けられている。平安北道が4割近くのシェアを持つものの,仕向先は平安南道,黄海道,京畿道,忠清北道・南道,全羅北道・南道,慶尚北道・南道,江原道,咸鏡北道・南道と全道に及ぶ。その一方,当時大人口を擁した京城や,仁川,釜山,平壌などの入荷量は決して多くない。これは輸出品が主として大都市に仕向けられていたのとは対照的である。例えば,魚類の場合,連京線(大連・新京)沿線の9駅を含む合計15駅が仕向先となっているのに対し,粟の場合は京義線の27駅を始めとして,朝鮮全土に広がる幹線・支線を合わせて33の鉄道路線の合計154駅が仕向先としてリストアップされている。これは仕向先が新義州や平壌に集中する蕎麦などとも異なり,産地と都市の消費地を連結するチェーンというよりも,産地と農村の消費地を連結するチェーンと見なすことができる。当時の朝鮮からの米移出を支えた背景に,大量の満洲粟の輸入と朝鮮全土の農村部への供給があったことを指摘できる。